2010年8月31日火曜日

コックと泥棒、その妻と愛人('89)      ピーター・グリーナウェイ


<「暴食」の問題に還元される、「悪」のイメージとしての究極の「黒」の破滅性>



1  おぞましきカニバリズムの饗宴のうちに大団円を迎えるリベンジ劇



本作は、「舞台」の幕の開閉によって、登場人物への過度な感情移入を抑制することで、観る者を限りなく客観的観劇者である姿勢の維持を求めている。

「異化効果」の演劇的手法の導入である。

更に、妻を暴行する男をフォローする場面転換の際、「レストランホールの赤」→「厨房の緑」→「駐車場の青」という風に変化する色彩の様式美の強調や、その色彩に関与して、例えば、「トイレの白」の中に身を置くとで衣裳も白に変色するという絵柄を見れば判然とするように、物語の「リアリズム」は最初から捨てられているのだ。

本作はどこまでも、象徴化され、記号的意味を付与された「泥棒」のボスであるアルバートを中枢に、各登場人物の交叉の力動感によって勝負を賭けた映像。

では、その内実は何か。

ここに、ラストシーン近くにおける、二人の登場人物の重要な会話がある。

雇われシェフのリチャードと、「泥棒」の妻ジョージナである。


―― ここで、このシーンに至るまでの簡単な経緯を書いておこう。

フランス料理店“ル・オランデーズ"のオーナーとなった「泥棒」のボスであるアルバートは、毎晩、店にやって来て、下品な子分たちの前でグルメ通を気取り、マナー違反の乱暴を繰り返していた。


「泥棒」の妻ジョージナとマイケル
結婚後、こんな夫のDVを受けていた妻は、ある晩、読書家の客の一人であるマイケルに惹かれ、共に「一目惚れ」した二人は、店内で逢引するようになり、雇われシェフのリチャードの協力もあって、逢う度にセックスに励むのだった。

しかし、鈍感な夫に気付かれた二人に不幸が襲う。

二人を庇ったことで、口にボタンを詰めて車椅子生活にさせられた少年を病院に見舞うジョージナの留守中、「革命かぶれ」と罵られたマイケルは、同様に、本のページをたらふく口に詰め込まれて窒息死されたのだ。

夫の受難を知ったジョージナは、唯一の愛情対象を喪失した憤怒の感情を抑え切れず、リチャードに夫への復讐を相談するのである。

以下、そのときの会話。

「メニューの値段はどうやって決めるの?」

このジョージナの問いに、リチャードは淡々と答えていく。

「黒い物は高くする。ブドウ、オリーブ、黒スグリ。人は死を思い起こす物を好む。黒い物を食べるのは、死を食べることと同じだ。胸を張って言うんだ。“死よ、お前を食うぞ”と・・・死と誕生。終わりと始まり。黒は最も高価な食べ物に相応しい色でしょう。虚栄も高価な食べ物だ。ダイエット・フードは割増し・・・」

その直後、ジョージナは信じ難きことをリチャードに要求した。

「彼を料理して」

惨殺されたマイケル
「彼」とは、死体となったマイケルのこと。

「料理して」とは、カニバリズムのことだ。

「ダメだ」

リチャードは、当然の如く反応する。

ジョージナは、リチャードの勘違いを解くために、自分ではなく、夫に食べさせることを話したのだ。

勘違いしていたリチャードは納得して、承諾する。

この直後の映像は、おぞましきカニバリズムの饗宴の中で、ピストルで脅されながら、アルバートが震えながらマイケルのペニスを食べさせられ、ジョージナに射殺されるラストシーンとなり、リベンジ劇の大団円を迎えるという具合。

以上の物語の狂宴のプロットの中で、私が注目したのは、先のリチャードの話である。

2では、その辺りについて言及したい。



2  「暴食」の問題に還元される、「悪」のイメージとしての究極の「黒」の破滅性



「人は死を思い起こす物を好む」

このリチャードの言葉は重要である。

彼は人の死を思い起こすから、「黒い物は高くする」というのだ。

死をイメージする「黒」は、同時に人の欲望の極点に繋がり、そこには「傲慢」・「嫉妬」・「怒り」・「怠惰」・「貪欲」・「暴食」・「色欲」という、「七つの大罪」に収斂される「悪」のイメージが張り付いている。

更に、「傲慢」の中には「虚飾」が含まれていることを想起するとき、まさに「七つの大罪」に収斂される「悪」を象徴する人格こそ、「泥棒」のボスであるアルバートということである。

「俺は、黄金の心と財産の持ち主だ」

この言葉は、ファーストシーンにおいて、安食堂の主人へのリンチの際に吐き出したもの。

全裸にされた安食堂の主人は、犬にまとわりつかれて、まるでその構図は、「餌にされる男」の凄惨さをイメージするものだった。

ジョージナと泥棒
そんな男の「大罪」は、「怒り」・「怠惰」・「貪欲」・「色欲」は言うに及ばず、「傲慢」・「嫉妬」に関して、限度を超える振舞いを身体化するのだ。

とりわけ、未だ妻との浮気が察知されない時点で、婦人科医のマイケルに、妻ジョージナが3度の流産する話をしたときの怒りは凄まじく、妻を追い駆け回して暴行する男の虚栄を晒すシーンとして印象深かった。

前述したように、このときの場面転換は、「レストランホールの赤」→「厨房の緑」→「駐車場の青」という、見事な色彩の変化を見せる演劇的構成になっていて、映像の様式美の極致と言っていい。

このときの場面において、一貫してブラックスーツを纏(まと)う夫のアルバートは勿論のこと、妻のジョージナも黒いドレスを身に纏っていた。

因みにジョージナが、その色だけは容易に変色することのない「黒」の衣装を身に纏うのは、ラストシーンでのカニバリズムの喪服の場面であったことを考えれば、どちらも「七つの大罪」を収斂する「悪」のイメージを体現していたとも言えるだろう。

但し、ここでの「色欲」は「愛情と無縁な暴力的支配におけるセックス」という解釈が成立するならば、アルバートの場合は明らかに、「大罪」に値する「禁じられた欲望」という風に把握することも可能である。

興味深いのは、「悪」のイメージを体現していたアルバートが、自らの「美食」と情愛対象の「色欲」を奪われる「恐怖」から、雇われシェフと妻だけは殺せなかったということだ。

例えば、事件後、逃げていた妻に招待され、「閉じ込めて、殺してやる」と言っただけで、未練がましく、この男は「戻って来い」と誘うのである。

それは、この男が如何に「全身欲望家」であったかということの証左であった。

ともあれ、そんな男の対極にいるのが、マイケルと言っていい。

ジョージナ
彼とジョージナの「色欲」は、「愛情に支えられたセックス」であるが故に、「大罪」に値する「禁じられた欲望」と解釈されないのであろうか。

「あなたの愛人に精力剤は無用だったようだ」

このリチャードの言葉は、そのことを裏付ける証左とも言えるが、それにも拘らず、彼が死に至ったのは、「愛情に支えられたセックス」であるとは言え、過剰な「色欲」に走ったペナルティとも考えられなくもない。

そして何より重要なのは、「暴食」の問題である。

本作で、最も「貪欲」で「傲慢」なる男アルバートの過剰で下品な饒舌は、殆どと言っていいくらい「暴食」の問題に還元されるのである。

幾つか、彼の言葉を拾ってみよう。

「美食もセックスも同じ快楽だ」

「オッパイは凄い飲み物なんだ」

「もっと水を飲んで、腎臓を食べるんだ。そうすれば、ガキが産める」

最後の言葉は、前述したように、婦人科医のマイケルに、妻ジョージナが3度の流産する話をしたときの場面である。

その後、ブルーに彩られた駐車場まで妻を追い駆け回して、暴行を働く例の場面だ。

更に、「我を許し給え。我が諸々の罪を消したまえ」とボーイソプラノで聖歌を歌い続けることで、明らかに「イノセント」を象徴しながらも、口にボタンを詰めて車椅子生活にさせられた少年や、本のページを口に詰め込まれて窒息死されたマイケルもまた、「暴食」の問題に還元される拷問か、或いは死であった。

そして、究極の「黒」を彩るラストシーンのカニバリズム。

それは、「悪」のイメージを体現する「黒」が、その本来の「破壊性」を極める場面であり、ナイマンの荘厳な音楽と不気味に調和するグロテスクな物語の、演劇的宇宙を終焉させる最もシンボリックな表現爆発であった。

「黒い物を食べるのは、死を食べることと同じだ」

このリチャードの言葉通り、最後のシーンで、「暴食」という人間の根源的問題に象徴される、「七つの大罪」に収斂される「悪」のイメージを体現し切ったアルバートは、人肉の恐怖に晒されるのだ。

しかし、それは、究極の「黒」を纏(まと)う者の、それ以外にない究極の終着点だった。



3  「異化効果」の挿入によっても相対化されない演劇的宇宙の挑発性



人間の根源的営為である「食」の問題に一切を収斂させる物語構成において、「黒」を纏(まと)う人格の象徴であるアルバートは、その「食」を支配する悪徳として描かれている。

「食」を支配するこの男は、その本来の価値にも届かない「美食」家を誇示し、自らがオーナーである高級フランス料理店のレストランの中で、「食」の帝王として君臨するのである。

「食」を支配する男の暴走を執拗に描くことの一連のシークエンスを観る限り、現代社会の中で、「食」の暴走の過剰さを指弾しているようにも推測することが可能だ。

ピーター・グリーナウェイ監督
それは、「七つの大罪」の中で、「本来的生存」から最も遊離した「美食」を占有する者たちへの指弾である。

当然の如く、「本来的生存」から最も遊離した「美食」の保証は恒久的ではない。

「美食」の恒久的保証が壊れる社会が到来したとき、そこに人間の根源的営為である「食」の極点には、カニバリズムが待機しているかも知れないというブラック・ユーモアが提示されて、本作は閉じていった。

作り手のピーター・グリーナウェイが、「現代資本主義の爛れ」の様態を、このようにラジカルで、視覚刺激による映像構成によって指弾する意図を持っていたか否かについては、観る者の判断の分れるところだろう。

少なくとも、一度観たら忘れないような、極端にグロテスクで、且つ、荘厳なBGMとの睦みのうちに構築された演劇的宇宙は、「異化効果」の手法の挿入によっても簡単に相対化されない挑発性を存分に含んでいた。

それは、「映画の嘘」の自在性をフル稼働させたピーター・グリーナウェイの、その抜きん出た映像作家としての超絶的個性であると言う外にないのだろうか。

(2010年9月)

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