2010年8月31日火曜日

旅情('55)       デヴィッド・リーン


<「自己像」によって封印された情動系がバリアを穿って突き抜けていくとき>



1  「自己像」によって封印された情動系がバリアを穿って突き抜けていくとき



些か難しい表現によって、本作の主人公の心理の構造を把握してみた。

以下の通りである。

自己の「現在性」を受容するために仮構した「自己像」によって封印された情動系が、何某かの契機でバリアを穿って突き抜けていき、それが「自己像」を破壊するに足るエネルギーを持ち得たとき、そこに物語の空洞が束の間生まれるだろう。

そのプロセスの起動力となった〈状況〉を心理的・身体的触覚を媒介する中で、理性的自我によって物語の再構築を成就させていくとき、既に封印されていた情動系との緩やかな共存を認知するに至るだろう。

人間は物語を作って生きている。

物語を作り、それを補完的に調整しつつ継続させていくことによって、自己の「現在性」を受容していると言っていい。

自己の「現在性」を受容しなければ、「生きている」という実感を手に入れにくいからだ。

己が自我の拠って立つ安寧の基盤が確保できないからである。

そこで仮構した物語を導くに足る主体的個我に関わるイメージの中で、「これが自分である」という「自己像」が形成され、固有の「現在性」の加工・調整の経緯と共に、それが補完的に強化されていくだろう。

このようにして人間は、固有の「日常性」を構築していくのである。



2  仮構された「自己像」との共存する辺りにまで情動系が辿り着いて



本作の主人公のヒロインは、38歳の独身のキャリアウーマンである。

彼女の「自己像」は、恐らくこういうものだろう。

「結婚だけが全てではない。それよりも、社会的に自立している職業女性として、私は自分の人生の中で等身大の幸福を感受している」

これが、彼女の「現在性」である。

その「現在性」を受容してきた固有の人生の時間の中で、彼女の「現在性」のうちに、しばしば空洞感が生じるに至った。

その空洞感を限りなく希釈化し、「現在性」を自壊させない程度において、それに潤いを与え、再生産させていくために、自らに格好のインセンティブを与えていく。

これが、彼女のベニス旅行の本質であるだろう。

映像のファーストシーン。

それは、列車内で16ミリカメラを持って、少女のように燥(はしゃ)ぎ、「水の都」ベニスへの旅行を愉悦する女性を存分にフォローするものだった。

ベニスのホテルに定泊した彼女が、非日常の解放感を愉悦する一方、時として孤独な表情を垣間見せることがあった。

其処彼処(そこかしこ)に、アベックが囲繞する光景を目の当たりにしたときの寂しさの感情である。

孤独感と言ってもいい。

それこそが、彼女の空洞感を説明するに足る中枢の感情である。

その辺りに、彼女が自分の「現在性」を受容するために封印してきた情動系が集合しているだろう。

そんな彼女に、突然、特定の男性が最近接して来た。

イタリア人らしく、彼女に関心を寄せるや、ストレートに自分の感情を表出する相手の対応に防衛的になりながらも、彼女は抗えない水流のように惹かれていく。

しかし彼女には、長期に及ぶ独身生活のうちに形成された虚栄心が塒(とぐろ)を巻いていた。

オープン・カフェのテーブルで寛ぐ彼女の所に男が来たとき、既に先約があるように見せる彼女の振舞いは、「もてない女の寂しさ」を見透かされる恐怖感に充ちていた。

それは、その時点で彼女が、特定の男性を充分に意識している事実を証明するものであったと言えるだろう。

現に彼女は、男が構える骨董店があるサンマルコ広場に足を運び、再訪しようとしたのだ。

しかし会えなかった。

今度は、男の方が女を訪ねて来た。

女は必要以上に身構える。

男はそのとき、一人旅をする女の「勇気」について、「アメリカ人は発展家が多い」と言ってしまったのだ。

当然、気位の高い女は深く傷つく。

その直後の、二人の会話。

「なぜ、そんな難しく。愛は考えるものではない。敢えて言うと、あなたに親しみを持った」
「妹のようにね」
「妹など欲しくない。強がりばかりを。本当は寂しがり屋だ。素直なあなたは素敵だ・・・二人は出会い、愛を感じた。素敵なことだ。どこが悪い?」

女には自分の本音を吐き出せない辛さがあり、それを認知するが故に、激しい感情的反発の後、男の優しさに涙を見せるのだ。

女の過去にこのような経験が皆無だったとは思えないが、それでも、女の心を刺激的に反応させる何かを男は持っていた。

それが、女の情動系を最初は恐々と緩やかに、「行きずりの恋」の限定された時間の只中であるが故に、一気に解放させていく。

その時点で、女はなお自分の「現在性」を受容する「自己像」を破壊していないだろう。

なぜなら、それは女の特化された、非日常の時間の中で手に入れた、「特別な経験的何か」であるという、即興的な物語で処理していたかも知れないからだ。

しかし、限定された時間の只中で、男への感情が高まっていくに連れ、女の「自己像」が揺れていき、仮構された物語に亀裂が生じるのだ。

結婚について真剣に考えるところまでいかないだろうが、それを願望する「潜在的肯定感」が突出してくることで「自己像」の破綻が生じていく。

しかし現実は厳しかった。

男に妻子があることを知ることで、解放させてしまった情動系を、女は理性的自我によって、目立たない辺りにまで封印することを心理的に余儀なくされたのである。

「あなたといる間、幸せだった。私が発つしか道がない。2人の間はどうにもならない」

「空腹だったら、眼の前にあるものを食べればいい」と言い切った男に、女はそう語ったのだ。

女の「自己像」は元の状態に丸ごと復元した訳ではないが、それでも男の誠実な対応を受容することで、男との至福の時間を愉悦する余裕を生み出した後、帰国の途に就いた。

限定的な至福の時間を愉悦した経験が、女の日常を繋ぐアメリカ生活の中に、少なからぬ潤いを与えていくに違いない。

女の情動系は、仮構された「自己像」との共存を可能にする辺りにまで辿り着いたのである。

前述したように、理性的自我によって物語の再構築を成就させていくとき、既に封印されていた情動系との緩やかな共存を認知するに至るだろう。

(2010年9月)

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