<ミニマムに嘲笑して自己完結する「緩やかな風刺」のメンタリティ>
1 類型的なモダニズムの醜悪さと、スローライフ感覚へのトリビュートという、二項対立の単純な物語構成
この映画は、二つのシーンによって説明できる作品である。
その一つは、冒頭のゴミ箱を漁る野良犬、飼い犬たちのシークエンス。
散々ゴミ箱を漁った後、その犬の群れがシフトした先に、一軒の時代離れしたモダンな邸宅があった。
群れから離れた一匹の飼い犬は、その邸宅の門戸の下を掻い潜り、幾何学的模様の庭園の曲線的ルートを走って行って、豪華な玄関に辿り着く。
そこに待っていたのは、邸宅に住む社長夫人。
清掃中の彼女は如何にも汚らしい物を触る仕草で、外で遊んで来た愛犬を摘み上げ、屋内に連れて行った。
他の犬の群れは、閉ざされた門戸の外で屯(たむろ)していたが、自分の飼い主の家屋ではないからか、退散するのみ。
この邸宅こそ、本作の主人公であるユロ伯父さんの実妹の家。
ユロの妹が社長夫人なのだ。
この何気ないシークエンスでは、モダニズムの極致とも言える、オール電化邸宅に住む者の「清潔感」への圧倒的な拘りを示すものだった。
もう一つは、この邸宅に住む者たちのその生活風景の内実を示すシークエンス。
以下の通りである。
件の社長夫人が、夫を驚かせるために、センサーで開閉するガレージを作って自慢げに夫の帰宅を待っていた。
帰宅した夫に、夫人はいの一番に誇ってみせた。
「ここを通ると作動するの。鍵はいらないでしょ。お気に召して?」
その夫から新車をプレゼントされ、二人でその新車に乗ってガレージに収納されていく。
ところが、社長宅の愛犬が横切ったことで、件のセンサーが作動してしまったのである。
夫婦が新車ごと、ガレージの中に閉じ込められてしまったのだ。
二人は慌てて愛犬を呼び寄せ、センサーの作動を試みるが、肝心の愛犬は離れて行ってしまう始末。
そこでお手伝いさんを大声で呼び寄せ、センサーの作動スポットに立つことを要求するが、そのお手伝いさんの反応もまた愉快なもの。
「無理です。私、電気が怖いんですもの」
「何も危険はない。歩けば電源が入るんだ」と社長。
「電源が?そんな、感電しますわ」
「眼を閉じて勇気を出せ。前へ進めさあ、早く」
社長である邸宅の主人に、そう指示されたお手伝いさんが、眼を瞑りながら、ゆっくりと歩行することで、ようやくガレージの扉が開いたという顛末だった。
以上の二つのシークエンスで、表現されたのは、極端な清潔志向とモダニズムとの睦みである。
清潔とは、「異物」への拒否感である。
本作では、このモダニズムの豪邸に住む者たちの視線が捕捉する「異物」と、そして「異物」の典型的な象徴として描かれた主人公ユロが振舞う、その「異物」の日常風景を二項対立的に描かれていた。
そこには、近代化を極限的に進めていけば、このような生活風景に逢着するというアイロニーが存分に内包されていたのである。
しばしば、スラップスティック的アイロニーがフル稼働する本作を語るには、以上のエピソードで充分だろう。
そして、このエピソードは、「醜悪なモダニズム」を占有する社長夫婦の極端な生活風景が、近隣地域に住む人々との間に、必ずしも、物理的・心理的次元での「共有関係」を具現していないことを如実に説明する描写として圧巻だった。
そのことは翻って言えば、社長の会社でドジを繰り返し、田舎の支店に転任されるに至る、スローライフ基調のユロの日常風景を最も際立たせるシークエンスでもあったと言える。
魚の噴水がひと際目立つ曲線上の庭園の道に象徴される、「醜悪なモダニズム」への痛烈なアイロニーとして、誰がどこの階を歩いているのか、街路から仰ぎ見て一目瞭然の、下町の芸術細工のようなペントハウスに住み、主に自転車と徒歩のみで、自由気ままな生活を謳歌する、独身失業中のユロの日常風景への執拗なフォローは、二項対立の際立つ構図を発信するのである。
ただ正直に書けば、「ユーモア」と「エスプリ」に満ちた逸品ではあったが、あまりに類型的なモダニズムの醜悪さと、スローライフ感覚へのトリビュートという、二項対立の単純な物語構成によって2時間も引っ張られるのはしんどく、些かタイムオーバー気味だったのは事実。
フィルムが長尺だから良いというものではないのだ。
とりわけ、コメディの場合は。
2 ミニマムに嘲笑して自己完結する「緩やかな風刺」のメンタリティ
「モダン・タイムズ」のチャップリン映画と同様に、「何でもあり」のコメディの自在性を利用することで、本来、その極端な類型性による瑕疵をサイレントムービーの手法を駆使し、極めて個性的でセンス溢れる筆致で描き出した。
従って、「現代文明」のその極端な類型化への批判を封じ込められたが、逆に文明批判のスタンスが「緩やかな風刺」となり、まさに狙い通りの健康的なコメディの構築に成就したのかも知れない。
更に、そこに詰められた表現技法のトラップと見事に嵌り過ぎることで、見方によっては、他に類例のない映像世界を構築し得たと言えるだろうか。
その結果、幾何学模様の庭園に象徴される、モダニズムの極致と化した近代家屋の尖りの様式は、観る者の受容感覚から完全に逸脱し、無駄に充ちた非合理の、その非現実性を、却ってシュールさにも届かない醜悪なオブジェとして、スローライフ基調の映像から置き去りにさせてしまって、映像総体の内に負の効果しか持ち得ない何かでしかなくなった。
本作の「緩やかな風刺」が「ユーモア」と分れるところは、後者には「肯定的批判」というインプリケーションが内包されているからである。
本作で描かれたような「醜悪なモダニズム」に対する批判的方略は、当然の如く、「ユーモア」では処理できない。
かと言って、鋭角的な批判を浴びせ倒すことも叶わない。
コメディだからだ。
しかも、スラップスティック的アイロニーが横溢するシークエンスが拾われる作品でもあった。
コメディアは所詮、「緩やかな風刺」のメンタリティによって、特定化された対象にミニマムな嘲笑を添える範疇を超えられるものではないのである。
それでいいのだ。
だから本作を、真顔で文明批判するに足るスタンスを特段に強調するには及ばない。
大体、私たちの日常性の内にQOLの価値観を保証した文明の推進力となった、多様なイノベーションを無価値とし、それを反故にして、且つ、確信的に廃棄する覚悟を持つ現代人が、果たして、どれほど継続力を持って生活を繋いでいるというのか。
かつて話題になった、中野孝次の「清貧の思想」(草思社)のように、「清貧」をベースにした生活を具現するのは、あまりにハイコストであり、言ってみれば、「質素」な生活という名の「金持ちの道楽ゲーム」以外ではないのだ。
生活をミニマムに簡素化して、「心の豊かさ」を感受する生活を選択し得る「生き方」を趣味にできる余裕があるなら、「勝手にどうぞやってくれ」としか言いようがない。
ジャック・タチ監督 |
私たちは、ノスタルジーを心のゲームとして処理できない限り、いつまでも特定的に切り取られた過去の心地良い断片を美化した時間と比較することで、「現代文明の荒廃」、「過剰な文明の暴走」などという欺瞞的な言辞を安直に吐き出す愚昧さを、いつまでも延長させるだけだろう。
「映画の嘘」の中で仮構された、「心温まるコメディ」の心地良さに一時(いっとき)身を預けるだけで、それでもう、ゲームオーバーとすればいいのである。
それよりも、ジャック・タチが本作で放出した様々なアイディアは、まさに一級のコメディラインの芳醇さの内に味わえる何かであった。
それだけの映画であって、それ以上でも、それ以下でもないだろう。
(2010年8月)
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