<「愛と情緒」の「表現的直接主義」の爛れ方>
1 「児童虐待」というテーマを出(だ)しにした、「勘違い俳優による、勘違い映画」
「毒だらけの今の世の中、毒に満ちた映画を作っても仕方がない。毒を浄化する作品を作りたかった。観た後で結果的に癒されるが、ただ癒されるのではない。もう1歩前に進むための宿題を与えるような映画にできたと思う」(「JANJAN 奥田瑛二さん帰国会見 2006/09/09」より)
「僕の映画のテーマは一貫して“真実の愛”。現代社会に足りないのは愛と情緒です。緒形さんで男のハードボイルド、内面の心に迫る映画を撮りたかった」(「産経新聞 ENAK 20068月11日」より)
これは、奥田瑛二の言葉。
映画人、ミュージッシャン、文化人に留まらず、数多の日本人の共通言語と化しているかの如きこの類の感覚的把握に、今更驚くに当らない。
でも、「毒だらけの今の世の中」とは、一体何を指しているのか。
それは、この国の、いつの時代の、どのような社会現象と比較して言ってるのか。
全く不分明だが、このような感覚的把握を言語化する連中には、どうやらその辺の歴史的検証能力が決定的に不足しているようだから、私は未だにきちんとした統計に基づいた分析的言辞を寡聞にして聞いたことがない。
そもそも、この国で今、DV(ドメスティックバイオレンス)が本当に増えているのか。
私の知り得た情報による限り、ここ5年間でDVが激増しているという統計があるが、それは「言葉の暴力」など、今までDVと看做されていなかった事例までDVに含めるようになった事実の結果なのである。
即ち、DVの定義を緩和したことで、DVに象徴される「毒だらけの今の世の中」という印象を、人々が感覚的に抱くようになったとも言えるのだ。
だから感覚的把握なのだ。
要するに、私権の拡大的定着と人権感覚の飛躍的拡大、更にそれをフォローするメディアによる集中的攻勢こそが、その時代が分娩した「異常な事件」を「異常な事態」として声高に捕捉することで、「毒だらけの今の世の中」という「負の時代イメージ」を殆ど無自覚に作り出してしまうのである。
私たちは、それぞれの時代に見合った感覚のうちに「時代イメージ」を繋いでいくので、だからいつの時代でも、「今の世の中が一番悪い」という「負の時代イメージ」を、「良いとこどりの郷愁」によって幻想された「古き良き昔」によって相対化されることで、より肥大化されたアナウンス効果のうちに共有するに至るのだ。
閑話休題。
殆ど耳に胼胝(たこ)ができるくらい聞き飽きた、奇麗事の横綱級の表現だが、まさか「愛と情緒が足りない」という言葉を、奥田瑛二から聞かされるとは正直驚いた。
「岡田ジャパン」の「嗚咽の連帯」 |
近年の邦画に顕著な、情緒の洪水のような連射を目の当たりにしても、彼は、「千畳敷にもう一間」のような過剰性を求めて止まないのか。
なるほど、そんな人物が作った本作は、このような感覚的把握を裏付ける「超ド級の凡作」に仕上がっていた。
緒方拳のような名優を主役にすれば、観る者の感動を存分に意識させる映画を作ることなど容易なことだろう。
その思惑は、モントリオール世界映画祭でグランプリ、国際批評家連盟賞、エキュメニック賞の3冠を受賞することで成就したと思ったかどうか知らないが、少なくとも、この成功を契機に、「勘違い俳優による、勘違い映画」の連射が予想されることだけは間違いないか。
己が能力の産物としての不良品の商品価値の値踏みにしくじった末、借金漬けの負の連鎖をなぞるというお決まりのパターンに嵌るか否かは本人の勝手だから、私にはどうでもいいこと。
思うに、この俳優が過去のキャリアの中で蓄積した映像表現のエキスが、この程度のものであるということは、充分に検証できた。
さて、本作の内容について言えば、信じ難いほど冗長な作品だった。
その一言に尽きる。
映像の力を信じていないか、それとも、彼の尊敬する黒澤や熊井啓のように、自分の言いたいことを120%出さないと気が済まないという表現作家であるか、それも定かではないが、少なくとも、そう思わざるを得ない「品質」だから、130分を超える冗漫な作品になったのだろう。
大体、「毒だらけの今の世の中、毒に満ちた映画を作っても仕方がない。毒を浄化する作品を作りたかった」という言葉によって、既に奥田瑛二が、本作をリアリズムで勝負する覚悟を持たないことは判然とする。
要するに、「児童虐待」というテーマを出(だ)しにした、「愛と情緒」満載の映画を作りたかっただげの話。
従って、30パーセント程度の出現率の低さから、それを否定する意見がある事実を認知してもなお、「児童虐待」の暗部の側面を露呈し得る現象である、「チェーン現象」の深奥に肉薄する気が初めからないということ。
奥田瑛二がどれほど勉強したか判然としないが、ここでは、「児童虐待」の問題について、簡単に言及してみよう。
虐待児童が成人したとき、我が子に虐待を加えやすい由々しき現象 ―― これを「チェーン現象」と言う。
即ち、「虐待の連鎖」である。
立場が脆弱な被虐待児は、親の心身両面に及ぶ暴力に屈服し、自己憎悪と劣等感に充ちた自我を形成することで、思春期に自傷行為や反社会的、且つ不徳的行為に走りやすく、その自己破壊的行動の延長線上において自殺に至るケースもあると言われる。
成人した虐待児童が女性である場合、多くの場合、依存的な対象人格の男性を安易に求めた挙句、その不均衡感から結婚生活が破綻しやすいという報告もあるが、時として、自堕落で衝動的な男性と同棲し、経済的破綻が常態化するケースも散見されるらしい。
総じて自我が脆弱な彼らは、道徳規範と愛情形成が未発達であるが故に、我が子へのネグレクト(育児放棄)や身体的・心理的虐待を日常化させてしまうである。
集団への適応も困難になるから、欲求不満の捌け口を我が子にダイレクトに向かってしまうのだ。
まさに、本作の母子のケースこそ、この「チェーン現象」の典型例であった。
では、実母からのネグレクトや身体的・心理的虐待の日常化によって、「ガキ」、「痛い」という言葉を肉感的に身体化してしまった、本作の「被虐待児」を「救済」し得る手立ては、果たしてどこまで可能だったか。
因みに、平成12年に制定された「児童虐待防止法」によって、裁判所の許可状を得れば、児童相談所は「臨検・捜索」(強制捜査)が可能になったが、専門職員の人数が不十分なので、一般の行政職員で対処せざるを得ない現状が存在することを考えれば、「目立った虐待事件」が出来しない限り、警察の介入は困難である。
ところが、その警察もまた「民事不介入」の原則によって、児童虐待への対応は不可能に近いという由々しき現実があるのだ。
その意味で、本作で描かれた、「誘拐」という名の「救済」が成立する余地が残っていたのである。
だからと言って、本作の主人公の安田松太郎がスーパーアクションの大立ち回りで、天使の羽を持つ被虐待児を「救済」する「英雄活劇譚」を立ち上げざるを得なかったとは到底思えないが、作り手の奥田瑛二は、その辺りの事情の間隙を縫って、「老人による幼女救出」=「贖罪と愛と癒し」の物語を臆面もなく立ち上げてしまったのである。
2 「愛と情緒」の「表現的直接主義」の爛れ方
以下、本作への感懐に触れていく。
前述したように、奥田瑛二には、「児童虐待」の問題を、真っ向勝負のリアリズムで描いていくという意志も覚悟もなかったということ。
恐らく、奥田瑛二は、緒方拳のための「英雄活劇譚」を作りたかっただけなのだ。
と言うより、本作のモチーフが、そこに起動点を持っているから、ストーリーの均衡感を壊しても、安田松太郎の「贖罪の旅」に内面的重量感を付与するため、物語に「児童虐待」の問題から逸脱した変種の「英雄活劇譚」のエピソードを張り付けてしまったのである。
それもまた、「緒方拳演じる安田松太郎」の「英雄活劇譚」への、執拗な拘泥によって引っ張り切った作り手の基幹モチーフであったに違いない。
だから、信じ難いほど冗長で説明的な作品になってしまった。
その典型的な例を、幾つか拾い上げてみたい。
その1。
前述したように、旅で知り合った訳ありの帰国子女である、バックパッカーの若者が拳銃自殺した後、主人公の安田松太郎が嗚咽するシーン。
いや、正確に言えば、嗚咽するだけに留まって欲しかったのに、言わずもがなの叫びが吐き出されたのだ。
以下の通り。
「バカ者が!これから何十年も人生があって、色んな可能性があった。なぜ、笑って死ねる!俺は信じない・・・」
この台詞が、被虐待児である5歳の幼女幸の傍らで、肩を震わせて、「無声慟哭」の雰囲気を漂わせて嗚咽するのである。
要するに、「緒方拳演じる安田松太郎」の「贖罪と愛と癒し」の旅の内に、内面的重量感を付与したかっただけのシークエンスだ。
無言の内面演技だけで、観る者の心に訴える表現力を有する緒方拳に、こんなテレビドラマ的な台詞を言わせる「映像作家」の底の浅さが露呈されたこのカットに、憤怒に近い感情が湧き起こってきたほどのベタな構図であった。
その2。
更に、映像構築力の貧困ぶりを露わにしたシーンがあった。
「緒方拳演じる安田松太郎」が警察に自首する前に、舗道の中枢で、今度はさすがに嗚咽するだけに留まったが、そのこってりとしたシークエンスの執拗さ。
「泣いちゃダメ」と励ます(?)少女に抱かれ、それを行き交う人々が止まって見て、しかもそのシーンの最後は、ロングショットで捕捉した末、感動譚の構図を決定付けようとするばかりの狡猾さ。
このシーンに勝負を賭けた作り手の、その映像構築力の目を覆う惨状ぶりは、ハンカチ持参の観客の格好のニーズに応えるべく、「緒方拳演じる安田松太郎」のスーパーアクション満載の、あまりに非現実的な「英雄活劇譚」の末の情感系の炸裂の内に閉じていくことで、ラストシーンにおける、「天使の羽を持つ幼女との幻想の再会」の決定的な布石のシークエンスに止めを刺すに至る。
これが、「傘がない」という、「愛と情緒」の「表現的直接主義」の歌声に乗せられて閉じていくのだ。
「傘がない」の有名な歌詞は、以下の通り。
都会では自殺する若者が増えている
今朝きた新聞の片隅に書いていた
だけども問題は今日の雨
傘がない
行かなくちゃ
君に逢いに行かなくちゃ
君の街に行かなくちゃ
雨に濡れ
冷たい雨が今日は心に浸みる
君の事以外は考えられなくなる
それはいい事だろ?
まさに、「愛と情緒」の「表現的直接主義」の歌詞ではないか。
UAが歌う「傘がない」 |
しかし、このくらいならまだ我慢できた。
それまで散々、見せつけられた描写だからだ。
その3.
「緒方拳演じる安田松太郎」が「英雄活劇譚」のヒーローと化して、刑事との電話の遣り取りをするシーン。
こんな会話である。
「私のしていることは、分っています」
「だったら、今すぐ止めなさい。犯罪に巻き込んで、子供の心に傷を残したいんですか」
「私は償わなければいけないんです。今、止める訳にはいかないんです」
「巡礼ならば、一人でやればいい」
「あの子は地獄にいたんだ!母親も周りにいる大人も、誰ひとり優しい言葉をかけてやらず、あの子はゴミみたいな部屋の隅で耳を塞いでいたんだ。あのまま放っておけば良かったのか!警察なら、ちゃんと調べろ!誰が本当の犯罪者か!」
贖罪の旅をする男が、その贖罪の観念に張り付けた、「愛と癒し」の「付加価値」を誇るかのように叫んで見せる正義の一撃。
これには驚かされた。
と言うより、俳優としてのキャリアの末に掴んだ内実が、こんな黒澤張りの英雄気取りの「表現的直接主義」に収斂されてしまうのだ。
そして茫然とさせられたのは、何と言っても、その後の刑事二人の会話。
「何だか分らなくなっちゃって。本当に誘拐なんですかね。この事件」
奥田瑛二監督 |
「誘拐は誘拐だ。・・・あの羽、あの子の付けている羽。あれ、付けて逃げてる二人を見たとき、このままそっとしてやりたいと思ったよ。皆、行き詰っているんだな。母親の真由美も、水口も、安田のような存在が必要なんだよ。あの安田自身にもな」
ここまで言わせてしまったら、もうそれは、フラットなテレビドラマのカテゴリーに含まれると言っていい。
「表現的直接主義」の極致とも言うべき、この信じ難い描写を編集段階で削り切れない過剰さこそ邦画の真骨頂と言うなら、この国の映画表現のフィールドでは、もう「愛と情緒」を声高にアピールする作品以外の、「暗鬱で、救いなき映像のリアリズム」系の作品は、禁じ手表現のネガティブリストに指定され、水際作戦の狡猾なトラップの中で安楽死させられるだろう。
それは私にとって、「好みの問題」の一言で片づけられない、ある種の独善的な文化現象であると思うが故に、敢えて最も遠慮したい作品を本稿の内に抽出し、毒気極まる感懐を述べた次第である。
「緒方拳演じる安田松太郎」の「英雄活劇譚」に、内面的重量感を添えるために繋いだような、フラットなエピソードの挿入の連射がそこにあるだけで、映像が構築的ではなかったこと。
それが全てであった。
(2010年8月)
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