<「変ったバンド」による「変った音楽映画」、「変ったロードムービー」>
1 「イメージギャップによる不均衡感」と、様々に個性的な絵柄(構図)が醸し出す「間」
本作のコメディは、ウィットやユーモアというより滑稽感を基調としている。
このコメディの滑稽感を支えているのは、「イメージギャップによる不均衡感」と、殆ど台詞のない映像を、様々に個性的な絵柄(構図)が醸し出す「間」である。
シンプルなストーリーラインは最後まで貫流しているが、音楽を基盤にしたロードムービーのうちに特段の彩りを加えることもなく、淡々として筆致で進行するミニ・サクセスストーリーは閉じられていく。
ここで重要なのは、「イメージギャップによる不均衡感」が、幾分前のめりのスタンスで、ギャップの修復が観る者の受容能力の中で処理されてしまうと、単線形のイメージラインを確認するだけで読み切ってしまうだろうということである。
それをプロテクトするためなのか、作り手はそこに余分なスラップスティックを張り付けることで、物語の稜線を伸ばそうとしたように思われる。
具体的に言えばこうだ。
まるで「民族衣装」の如く、その土地の者(犬も含む)が皆そうであるような、旧ソ連の軍服を模した、全身ブラックスーツの衣装で包んだ鋭い尖りのリーゼントと、サングラスと先の尖った靴で身体表現する若者たちが、実は、シベリアの極寒の地でトラクターを運転し、農作業に勤(いそ)しむ真面目さを内包させつつ、その合間に、「ポルカ」などボヘミアをルーツとする民族音楽を大音響で演奏するバンドマンであるということ、且つ、そんな彼らの健気で殊勝な振舞いのパターンが受容されることで、その「イメージギャップによる不均衡感」が生み出する滑稽感には、読み切りコミックの中でも賞味期限があるだろうということである。
件の彼らが狡猾なマネージャーのウラジミールに唆されて、NY行きを決め、そこで一旗揚げようという企画に純粋にアクセスする。
一貫してウラジミールに従順な彼らは、命じられるままに、飛行機の中で英語学習に勤しみ、NYに着いてからも、NYのプロモーターから「今、流行ってるのはロックンロールだ」と言われたことで、音楽のジャンルをロックンロールに変更させられた挙句、ウラジミールに「教材」を与えられ、有無を言わさず、メキシコ行きを決められるのだ。
その際も、メンバー全員がしゃがみ込んだ状態で、「ロックンロールを知ってるか?」とウラジミールに聞かれ(彼もロックンロールを知らず、レコード店にまで出向く)、「これを読め」と一冊の本を渡されるだけ。
ロックンロールへの初めてのアクセスにも、例によって、彼らは熱心に摂取しようと努めるのである。
NYでのエピソードも愉快なもの。
「街中暴力だらけだ。NYでは皆が殺される。テレビで観た」
ウラジミールから25セントを受け取って、NYのバ―で静かに飲む面々もいれば、真顔でこんな言葉を結ぶメンバーもいるのだ。
彼らはどこまでも、「人を疑うこともしないような、些か教養不足で、音楽好きの純粋な青年たち」なのである。
2 「変ったバンド」による「変った音楽映画」、「変ったロードムービー」
最終目標はメキシコの結婚式での演奏と定め、中古のキャデラックを買って、いよいよロードムービーの長旅が開かれていく。
人員オーバーのため、キャデラックの上に冷凍の仲間の死体を載せ、後部には2人のメンバーが無理乗りするという無言の絵柄。
高速を走りつつ、途中立ち寄った最初の店では、覚えたばかりのロックンロールを演奏するレニングラード・カウボーイズの面々。
疎らな客。
冴えない演奏後、サックスに金を入れてもらうレニングラード・カウボーイズのメンバー。
ところが、僅かなその「報酬」で、マネージャーだけが密かに豪華な飲食を占有してしまうのだ。
生野菜オンリーの、腹をすかしたレニングラード・カウボーイズの面々は、ウラジミールからスーパーで買った玉葱を与えられ、それを食うばかり。
ロードムービーの長旅はまだ終わらない。
高速以外では、後続車に抜かれるほど、超安全運転のカウボーイズのドライバー。
そこに流れる、緩やかなBGMが心地良い。
どこの店でも人気のない、レニングラード・カウボーイズのロックンロール。
未だ、進化の途上なのだ。
それでも、ウラジミールは実入りの少なさを嘆く。
自分の酒代が心配なのである。
「お前らは病気みたいだから、人気がないんだ」
「だったら、食い物をくれ」
「原因は食べ物ではない。太陽と新鮮な空気」
そう言い放って、ウラジミールはメンバー二人にバイトをさせるのだ。
物乞いのバイトで得た金で、ビールに有り付き、満面笑みのロックンローラーがそこにいる。
フィンランド・ヘルシンキを拠点にする、「本物のレニングラード・カウボーイズ」がそうであるかは知る由もないが、本作における彼らはどこまでも従順なのである。
そして、漸く手に入れた臨時の仕事で、カントリー・ミュージックのバイトを演奏するレニングラード・カウボーイズ。
「なんて下手くそなんだ」
客から辛辣な言葉が捨てられた。
更に、中古のキャデラックのエンジンが盗まれていることも気付かず、その盗難光景を見て笑う面々。
彼らはやはり、「人を疑うこともしないような、些か教養不足で、音楽好きの純粋な青年たち」なのである。
しかしこの事態が、権力的に振舞うウラジミールと、カウボーイズの面々との力関係を変えていく。
ウラジミールと、カウボーイズの面々 |
「人を疑うこともしないような、些か教養不足で、音楽好きの純粋な青年たち」による、暴力的支配が映像に登場するに及んで、「イメージギャップによる不均衡感」がダッチロールしていく。
そこもまた、殆ど台詞のない映像を個性的な絵柄(構図)によって提示されるだけ。
だから、その空気感が絶妙の「間」を醸し出す。
ともあれ、捕縛したついでに金も奪った面々は、メンバーの食べ物を買いに行ったはずの男が、あろうことか、ド派手な服を買って来たばかりか、得意満面に身に付けて戻って来る始末。
その直後の映像は、件の男が他のメンバーの面々に殴られて、ウラジミールと並んで惨めに座っている絵柄が提示されるだけ。
「イメージギャップによる不均衡感」のダッチロールと、様々に個性的な絵柄(構図)が醸し出す「間」が、一貫して映像構成を特徴付けるのだ。
それこそが、コメディの滑稽感を支え切っているのである。
―― 以上、ざっとこんな調子だが、これを見ても分るように、無表情ながら、演奏によって表現される「動」の絵柄と、演奏以外のエピソードによって表現される「静」の絵柄が交叉し、メキシコの結婚式場という最終到達点に向かって、物語が淡々と繋がれていく。
だからこの映画は、レニングラード・カウボーイズの面々が身体表現する「イメージギャップによる不均衡感」と、「静」を表現する絵柄が巧みに「間」を取りながら、コメディラインの「笑い」をホッピング的に構成されていると言えるだろう。
しかし厄介なことに、この物語の文脈の渦中に、スラップスティックのナンセンスな連射によるエピソードが闖入してくるのだ。。
例えば、このようなエピソード。
レニングラード・カウボーイズを追い駆けて、蹴散らされても村から付いて来たイゴールは、あろうことか、旅先のとある美容師にリーゼントカットを求めるが、殆ど禿頭の彼には髪が短過ぎると断られるようなエピソード。
おまけに、マスターのカントリー・ミュージックを聞かされるオマケ付き。
またイゴールが、川で獲った魚をレニングラード・カウボーイズの面々に渡し損なうエピソードに留まらず、最後には、ドライヤーとウォッカだけで、例の凍結死体の息を吹き返すエピソードまで挿入させる、殆ど究極のスラップスティックのナンセンスぶり。
更に、ウラジミールが捨てたビールの空き缶が車内から大量に放出される絵柄(構図)もまた、スラップスティックのナンセンスの範疇で処理される等々、枚挙にいとまがないほど。
要するに作り手は、そこに余分なスラップスティックを張り付けることで、物語の空白に滑稽な贅肉を付けようとしたのである。
それは、絵柄(構図)だけの提示を超えて、却って物語の滑稽感を希釈化させてしまったと言えないか。
それでなくとも、「人を疑うこともしないような、些か教養不足な、音楽好きの純粋な青年たち」が、反体制的なイメージを持つロックンローラーに変身していくイメージギャップのエキスを、観る者が吸収することに慣れることで滑稽感が希釈されてしまっているのだ。
このアポリアを突破するには、ストーリーのペーソス濃度を深めることなどで映像を捕捉していくことになるが、しかしこの映画は、そこに「イゴールの追っ駆け」等のエピソードや様々な絵柄を用意することで、余分なスラップスティックの贅肉を加えたのである。
正直言って、その辺りが最後まで私には理解困難なところだった。
「音楽」と「ロードムービー」と「スラップスティック」の睦みの親和力のうちに、ペーソスの挿入は入りにくくなってしまうのだ。
だから私にとって、本作からえも言われぬ滑稽感を感じたのは、「ロードムービー」が開かれる頃まである。
作り手はペーソスを捨てて、スラップスティックを過剰に拾い上げてしまったのである。
アキ・カウリスマキ監督 |
そのようなことをつらつら考えるとき、この映画をトータルに把握することの困難さを思い知らされるのである。
結局、カウリスマキは、「『変ったバンド』による『変った音楽映画』、『変ったロードムービー』」を作り出したいだけで、映像総体に対する深読みによる知的アクセスを初めから蹴飛ばしているのだ。
ペーソスへの特段の思い入れもなく、かと言って、ナンセンスなスラップスティックで固める意志も持たず、単に彼のイメージの中で膨らんでいた、「音楽への拘泥」をテイストにした「面白い映画」を作り出したいだけなのだろう。
そう思うしかない作品だった。
だから私にとって、本作は決して悪い印象を抱かなかったものの、一部の熱狂的ファンのように、カリスマ的高みに奉って愉悦する類の映像ではなかったということである。
(2010年8月)
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