2011年2月24日木曜日

ウィスキー('04)      フアン・パブロ・レベージャ


<偽夫婦」の絶対記号が剥がれるとき>



1  オフビート感漂う人間ドラマの挑発的な問題提示



南米で二番目に面積が小さい共和国である、ウルグアイのとある町で、父親から譲り受けた零細工場を経営している男がいる。

かなりの中古車で通勤して来るこの男を待って、一人の中年女性が工場入り口のシャッターの前で立っている。

まだ闇に包まれた黎明の町に出発するために、灯りの点灯していない、いつものカフェで軽い朝食を済ました後、工場に向かう男の車が到着する。

男は件の中年女性と、「おはよう」という挨拶を交わすや、重いシャッターを一気に開け、彼女を工場内に通した後、再びシャッターを閉める。

機械の電源を入れ、工場内の灯りを点ける。

件の中年女性が男にお茶を入れる頃に、二人の若い女性従業員がタイムカードを押して出勤して来る。

「失礼します」と中年女性。
「入りなさい」と男。

お茶をテーブルに置いた女に、「すまんな」と一言。

その間、事務的な会話を一つ挟んだだけの二人。

こうして、工場の機械が作動し、いつものように女性従業員の仕事が開かれていく。

これが、この零細工場の一日のルーティンワークの風景の一端である。

マルタ
そして、このような日常性に特段の違和感を持つことなく、淡々と、日々の呼吸を繋ぐ女と男がいる。

女の名はマルタ。

中小の靴下製造工場に勤める、未婚の中年女性。

男の名はハコボ。

この工場の経営者である。

因みに、「反復」→「継続」→「馴致」→「安定」という循環を持つサイクルを、私は「日常性のサイクル」と呼んでいる。

殆ど、この「安定」のステージまで日常性を固めていたこの二人に、突然、非日常の事態が侵入してきた。

永く介護していたハコボの母親が逝去して間もないが、この母の墓石の建立式に、ハコボの弟であるエルマンが、ポルトガル語圏の隣国であるブラジルから訪ねて来ることになったのである。

同様の靴下製造工場を経営していて、事業は成功しているらしい。

そんなエルマンと20年ぶりに会うことになったハコボは、母親を永く介護していた関係からか、中年の域に入っても未婚の状態だった。

「偽夫婦」のハコボの笑み
家族を持つ弟への虚栄心が手伝ったのか、ハコボはマルタに「偽夫婦」の役割を演じてもらうことになった。

全ては、ここから開かれていく。

物語の登場人物は、以上の3人。

殆ど台詞のない90分強の、オフビート感漂う人間ドラマの中枢は、この3人の「三角関係」的な交叉と、そこで生まれた微妙な確執を描いていくもの。

以下、惜しくも、2006年に自殺した、フアン・パブロ・レベージャ監督のインタビューがあるので、それを引用する。

「私たちは、観客としても全部、答えを与えられてしまった映画は、好きではないんですね。私どもはあくまでも火種をみなさんに差し上げる。火種から炎を起こすか、または火種をそのままにして火を消してしまうかは見ている側に委ねるという気持ちで作りました。ですから、これが描きたかったんだ、こう理解してくださいという対象のものはございません」(東京国際映画祭@JANJAN 「ウィスキー」の映画監督は語る)

同じインタビューで「あまり、観客にいろいろな情報を与えすぎるタイプの映画は2人とも嫌いです」と言い切る監督の、真骨頂とも言える作品が、「コメディ」というカテゴリーに入れられた、この「ウィスキー」であった。

本作の3人の主要登場人物の心理の振れ方を、観る者に一切委ねた作り手の、些か挑発的な問題提示に対して、「人生論的映画評論」の視座によって、私の主観的な「解釈」を、殆ど独断的に書き連ねていきたい。



2  化粧を厚くする相貌変容を随伴した女の心情変容



「偽夫婦」を演じることを快く受容したマルタには、遊びのセンスを持ち得ないハコボへの密かな想いの中で、この心地良き役割を、「千載一遇の好機」という意識のうちに変換させていた。

だから彼女は、「偽夫婦」のリハーサルを自ら求め、「擬似微笑」でしかない「ウィスキー」というイメージで説明される記念写真に収まることに、彼女なりの心地良さを見い出していた。

しかしハコボは、そんなマルタの心理の綾を全く読解できない。

美容室で髪をセットして、すっかり外見的イメージを変容させたマルタの、「偽夫婦」への思いの深さが理解できないのは当然のことだった。

彼はただ、普段の日常性と切れた分だけ馴染めない、一つの鬱陶しい役割を早々と済ませて、本来の日常性に復元することのみを考えているに過ぎないからだ。

単に「真面目人間」と言うより、杓子定規なルーティンワークからの逸脱を、殊の外、敬遠するタイプの男というイメージが強い。

ところが、ハコボの弟であるエルマンは、永く住み馴れた風土の違いからか、寡黙で朴訥な兄貴とは、似ても似つかない陽気さと遊びのセンスに溢れていた。

そんな男が、マルタの心にストレートに侵入し、柔和な会話が交わされる。

この3人の関係は、ウルグアイの海岸保養地として著名なピリアポリスに旅行することで、いよいよ非日常の求心力が高まっていく。


遊びのセンスの溢れた男を相手に、ピリアポリスのホテルでハイパーホッケーに興じても、ムキになって、弟との「直接対決」を辞さない行為に表れているように、遊びのセンスを持ち得ない男との落差を目の当たりにしたとき、ハイパーホッケーを楽しむマルタの心情世界が漣(さざなみ)を立てつつ、やがて眼に見える変化となって騒ぎ出していくのである。

マルタにとって、エルマンと過ごす自然の語らいの時間は、恐らく、彼女がかつて経験したことがない甘美で、蠱惑(こわく)的な世界に満ちていた。

エルマンの前で、化粧を厚くするマルタがそこにいる。

しかし、ハコボにとってマルタの存在は、なお「偽夫婦」という役割のうちに封印された人格でしかないのだ。


二人の男たちは、それまでと同じような振舞いを延長させるだけだったが、マルタだけは、それまでの日常性と切れた、心地良き非日常の求心力の中で、明らかに心情変容を見せていくのである。

この心情変容は、相貌変容を随伴した。

エルマン(左)
最も肝心な描写を提示することがない本作の中で、マルタの心情変容を顕在化させる描写を、少なくとも3つのシーンにおいて観る者に提示見せた。

この3つのシーンの謎解きが、映像の中で、明らかに心情変容を顕在化したマルタの振幅をフォローする描写として重要であると思われるので、以下、それに言及したい。



3  「偽夫婦」の絶対記号が剥がれるとき



マルタの心情変容を顕在化させる、一つ目のシーン。

ピリアポリスのホテルでのこと。

マルタが、エルマンの部屋に忍んで訪ねるシーンである。

周りを見回した後、エルマンの部屋をノックするマルタ。

エルマンがドアを開けたとき、一瞬、驚きの表情をしたようにも見えるが、そのまま彼女を自然に部屋に招き入れた。

家族に電話中のエルマンは、自分の座っているベッドの傍らに座るように、マルタに示唆したのである。

エルマンの隣に、促されてゆっくりと腰を下ろすマルタ。

短いが、この一連の動作には不自然さがない。

親しい者同士の範疇にある関係の様態が、そこに垣間見えるのだ。

このシーンには重要な伏線があった。

温水プールでの、「結婚指輪紛失」のエピソードである。

映像は、このシークエンスのラストカットで指輪のアップを提示した後、場面を一転させている。

明らかに、この温水プールの中での、二人の関係の柔和なクロスの加速化が、まるで恋人同士のように、相互に水をかけ合うシーンの提示のうちに想像できるのだ。

「おばさんじゃない」というエルマンの一言は、マルタの心に火を点ける決定力の一つになったと言っていい。

私はこの時点で、マルタはエルマンに「偽夫婦」の暴露をしたと考えている。

即ち、この時点で、マルタはハコボとの約束を破っているのである。

しかしそれは、その結婚指輪に刻まれた内実を、偶然知ったエルマンがマルタに問うことで、仕方なく暴露に及んだとも考えられなくもない。

これは見当外れな想像かも知れないが、しかし、一夜を共にする二人のシーンの布石は、この温水プールでの交叉以外に考えられないのである。

その夜のディナーで、まるでマルタに向かって愛を告白するかのような歌を歌う、エルマンを見つめるマルタの存在は、明らかに、「偽夫婦」を突き抜けた心理の先に待機する異性感情の振幅を垣間見せているのだ。

このときもまた、ハコボには、そんなマルタの心情変容を正確に読み取れていない。

だが、気にはしている。

しかし、この男はそれ以上先に進めない。

進もうとする感情があるだろうが、進めないのだ。

時代の移ろいに合わせるレベルで言えば、日常性を更新させる営為に対して、まるで関心を持ち得ない類の自我を形成してきているからだろう。

しかし、マルタは違っていた。

彼女は、時代の移ろいに合わせるレベルにおいて、特段の違和感を持つことがない「普通さ」の中で生きている女性である。

このことは、ピリアポリスのホテルで暇を持て余す感情を露わにしたとき、ウィンドウショッピングに眼を奪われ、そこで見つけた水着を、「見てるだけ」と店員に言いつつも、次の場面では、それを着用して温水プールに入るマルタの姿形が、眩いばかりに映し出されていたことでも了解できる。

そのプールにエルマンが入って来て、そこで、例の「結婚指輪紛失」のエピソードに至るのだ。

このエピソードが、二人の関係の最近接の度合いを示すのは、前述したように、そこにこそ「人生の楽しみ」が存在すると言わんばかりの、マルタの燥(はしゃ)ぎ振りに見て取れるだろう。

マルタとエルマン
明朗快活で、人好きのするエルマンと最近接したことで、マルタの内側から何かが崩され、そこで崩された分か、それ以上の何かが、彼女の内側で分娩されてしまったのである。

そこで崩されたもの ―― それは、「動かないこと」に対する日常性への親和的なモチベーションであり、そして、崩された分の欠損を補填をするかのように、マルタの内側で分娩されたものは「退屈」という観念である。

マルタの内側に「退屈」という観念を惹起させた対象人格が、日常性への親和的なモチベーションを頑として崩さないハコボであることは間違いないだろう。


だからマルタは、ハコボの外出を確認した後、エルマンの部屋を訪ねるという行動に打って出たのである。

エルマン
そして、エルマンもマルタを迎え入れた。

この訪問で重要なのは、「義姉」であったはずのマルタが、もう「義弟」という記号が剥がされていたに違いない、単に「妻子持ち」である男の部屋を夜中に訪問したことである。

更に言えば、マルタがエルマンから、部屋の入口に置かれた二つの椅子に座ることを勧められないで、自分の座っているベッドの傍らに座るように示唆された行為である。

それは、既にエルマンにとって、彼女が「兄の妻」でないという事実を認知していない限り、常識的に有り得ない行為なのだ。

私は、マルタとエルマンの関係に、このとき男女関係が生まれたと読んでいるが、仮にその事実がなくても、少なくとも、この日の一連の行為が、マルタの心情変容の中で、「新しい世界」に踏み出すに足るだけの、しかし絶対閾(感覚を惹起させるのに必要な最低限の刺激エネルギー)を遥かに超えるに違いない、由々しき刺激情報のシャワーを被浴したことだけは間違いないだろうと考えている。

象徴的に言えば、温水プールのシークエンスのラストカットにおいて、「偽夫婦」の絶対記号である結婚指輪を、プールサイドの傍らに置いたという行為自身が、既に、マルタの心情変容を決定付けていたのである。

エルマンの部屋への訪問となる布石として、温水プールのシークエンスの重要性が了解されるだろう。



4  マルタの心情変容を顕在化させた三つのシーンを読み解いて



マルタの心情変容を顕在化させた、二つ目のシーン。

それは、空港での「別離」のシーンである。

そこで漂う空気の変化が、マルタの心情変容を顕在化させたシーンとして無視できないのは、明らかなマルタの積極性である。

ところが、それまで見せていた、流暢で自然な饒舌がエルマンから消えていたことと反比例するかのように、そこでは、一方的にマルタが〈状況〉を支配する積極性を見せていた。

「飛行機の中で読んでね」

そう言って、メモを渡すマルタ。

メモに書かれていた内容は、多くの人たちの意見と異なるだろうが、私は以下の内容を含むメッセージであったと考えている。

「昨夜は楽しかった。また、お会いしたいわ」

マルタの心理は、そこまで振れてしまったのだろう。

更に、畳みかけるように、マルタは言葉を繋ぐ。

本作の中で、最も決定的な言葉が、勝負を賭けた中年女性の口から投入されたのである。

「旅するなら、ブラジルだわ」

このマルタのアクティブな言葉に、エルマンは何と反応したか。

「いい考えだ。ブラジルは美しい国だ」

そう言って、相手の情感温度に合わせるかの如く、エルマンは狡猾にも、以下の防衛的言語を添えたのである。

「僕は留守がちだけど・・・」

このときの、マルタの表情を、観る者は決して見逃してはならない。

明らかに、アップで映されたマルタの表情には、あからさまな失望の念が炙り出されていたのだ。

それだけだった。

その後、マルタの浮足立っていた感情は急速に低下していく。

「偽夫婦」の絶対記号であった結婚指輪を返還するマルタから、それを受け取るハコボには、特段の感情を込めた言葉が添えられることが全くなかった。

この男は、一貫して変わらないのだ。

そんな不器用な男が、マルタにカジノで得た大金を謝礼として渡すとき、恰も、このような振舞いによってしか感情表現できない男の不器用さが際立つばかりだった。

タクシーを呼んでもらって、ハコボの自宅から、一人で帰るマルタの車内の表情には、この数日間に及ぶ非日常の時間が分娩した心情変容を彼女なりに捕捉し、当惑し、そして、それまでもそうであったような日常性に復元することの困難さのイメージを見せていた。

彼女が大事そうに腕に抱えるハコボからの贈り物に象徴される、工場での二人の安定的な関係性も、なお彼女の自我のうちに共存されていて、それが彼女の心を悩ませている印象を与える描写だった。

そして、その印象深い表情が、マルタが本作で見せた最後の相貌の様態となった。

―― 最後に、マルタの心情変容を顕在化させた、三つ目のシーン。

「マルタの不在」・幻想と化した日常風景
「マルタの不在」である。

この「マルタの不在」を、言葉の正確な意味での「不在」として捉えられないハコボがいて、そのハコボの普通の願望を突き抜けていく、マルタの人生の跳躍のイメージが、そのシークエンスに滲み出ていたと見るのは、恐らく間違っていないだろう。

ほぼ確信を込めて言えば、マルタは二度とハコボの前に現われないだろう。

彼女は、この数日間の決定的な体験を通して、それまでのフラットな日常性に絶縁宣言を下し、新たな人生の旅立ちに向かって、彼女なりのペースで自己投入していったのである。

そう考えない限り、この「マルタの不在」の意味を説明できないのだ。

これは、ハッピーエンドに軟着する物語の拒絶を、大いにイメージさせる括りであると言っていい。

3人の登場人物の中で、マルタだけが決定的に変ったのだ。

そういう映画を、この作り手は暗に提示して見せた、と私は読んでいる。

それ以外の柔和な軟着点を予測する多くの観客たちを視野に入れた、作り手の仕掛けたトラップは、実は「変わりにくい日常性」が、ほんの一突きの「非日常の侵入」によって、決定的に変化して見せる心理の劇的な振幅を、一人の決して美しくない中年女性の人格像のうちに提示して見せた、と私は把握しているのである

そういう映画だった。

フアン・パブロ・レベージャ監督(右)
繰り返すが、私は、本作のフアン・パブロ・レベージャ監督が、観る者に知的な芳香を漂わすトラップを仕掛けてきたと捉えている。

フアン・パブロ・レベージャ監督は、恐らく、このうような「マルタの決定的変容」という物語のラインを秘めていたにも拘らず、それを、「私どもはあくまでも火種をみなさんに差し上げる」というメッセージによって、そこだけは狡猾なゲームのうちに潜入してしまったと思えるのだ。

ところで、なぜ、本作を観る多くの人々は、この物語を「予定調和のハッピーエンド」という判断を安直に下してしまったのだろう。

恐らく、多くの人が、本作が「コメディ」というカテゴリーに先入観を持ち、マルタとハコボの「予定調和のハッピーエンド」を「期待」する心理が働いていたとしか思えないのだ。

こんな映画があっていい、と思わせる映画だった。

そんな映画を作ったフアン・パブロ・レベージャ監督が、32歳の若さで自殺してしまうニュースには驚かされたが、それもまた、近未来の自己像を充分に予測し得ない本作の作り手らしい人生であったとしか、語るべき言葉がないほどに、人の心の奥底にまで這い入っていくことの難しさを思い知らされるのである。

(2010年3月)

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