<「ファンタジー」に包んだ、「イスラム教の本来的な『寛容』の精神」という主題提起>
1 トルコ移民の老人の包括力に抱かれるユダヤ人少年
13歳のユダヤ人少年であるモイーズ(以下、「モモ」)は、「筆下ろし」の願望を実現するために、貯金箱を壊して、パリのブルー通りの向かい側にある、トルコ移民の老人の食料品店へ両替に行った。
食料品店主の名は、イブラヒム。
高年齢の老人である。
そのイブラヒムには、クレプトマニア(病的な窃盗癖)化しつつあるモモの行為は全て筒抜け。
それでも、イブラヒムは何も注意することをしない。
ともあれ、両替した35フランを持って、モモは若い娼婦を買うことに成功し、「筆下ろし」の願望を実現するに至った。
「これで大人ね」
そう言われ、安堵する少年。
「今度は、お土産を持って来てね」
娼婦の御ねだりに反応した少年は、直ちに、ぬいぐるみの人形を届けに行った。
笑みを返される。
モモとコーランの花 |
ウキウキ気分のモモと、不機嫌な父の帰宅の不均衡感の構図が、そこに切り取られていた。
「金を使ったら、レシートをもらっておけ」
父子関係の殺伐さを象徴する説教である。
誕生日を忘れ、トルコ移民の老人の食料品店で盗んだケーキで、自分でローソクを点けて祝うモモ。
「君がくすねた分を取り返さなくちゃな」
このイブラヒムの一言から、物語が開かれていく。
「弁償するよ」とモモ。
「弁償しなくていい。だが、盗み続けるならウチの店でやってくれ。パンも毎日買わんでいい。余ったパンは火で炙ればうまい」
全てお見通しだったイブラヒムの言葉には、それが信じられる程に、どこか温もりがあった。
食品を無償で渡す「約束」を、本気で実践するイブラヒム。
お陰で、モモは大助かり。
ボージョレ・ヌーボーを飲み、御機嫌な父。
しかし、「ポポルは良い子だった」と父。
「いつも、その話だ」とモモ。
ポポルとは、モモの兄の名のことで、父子を捨てて、家を出た母の連れ子ということになる。
そんな父に対して、イブラヒムから学んだ「笑うことの幸福感」を表現して見せても、「歯列矯正が必要だ」と言われるばかりで逆効果になる始末。
「ポポルは良い子だった」という父の心の壁が、モモの前に常に立ち塞がってしまうのだ。
「ポポルは、ママに笑い方を教わったはずだ」
イブラヒムに辛い思いを打ち明けるモモに、トルコ移民の老人は言い切った。
「ポポルよりも、君の方が100倍良い」
そんな言葉に勇気づけられる程、今や、モモはイブラヒムを「本当の父」と慕うようになっていった。
2 トルコ移民の老人の残した最大の遺産
書置きを置いて、解雇されたモモの父が家出したのは、モモが、イブラヒム老人の包括力に大きく抱かれつつある頃だった。
「世話になれ。さよなら」
そんなメモと、有りっ丈の金と、父の知人の住所のリストのみが残されていた。
現在の少年にとって、唯一の肉親である者に遺棄された悲哀からの解放を、実感的に求めるかのように、少年は金銭関係とは無縁な「純愛」の世界に、束の間耽溺するが、あえなく失恋に終わる。
「彼女への愛は、永遠に君のものだ」
失意に沈むモモに、イブラヒムは、ここでも慈父となるのだ。
しかし、モモの心を傷付ける事態には軟着点が見えない。
父の鉄道自殺である。
自殺遺児の心の辛さの根源には、遺棄された遺児の自我が否定されるネガティブな感情が横臥(おうが)するのだ。
「パパは、僕を捨てて死んだ」
そんな辛さの認知を拒絶するかのように、モモは父の蔵書を次々に売り払い、そこで得た金で、ブルー通りの娼婦たちを買いまくっていく。
それ以外に流れようのないモモの自堕落の日々に、インパクトの連鎖が途切れることがないのだ。
モモを捨てた実母が、唐突に出現したのである。
「あなたはモイーズ?」
「違う。モハメッドだ」
突然の母の訪問を拒絶する少年。
そのとき知った信じ難い事実。
ポポルという兄の存在は、単に父の虚構の物語だったということ。
父は、できの悪いモモを相対化するために、虚構の物語を作ったのか。
それとも、自分が喪ったものの大きさをモモに認知させるために、敢えて虚構の物語を作ったのか。
或いは、「自我関与効果」(自分が関わる対象に特別な関心を寄せる心理)の心理学をなぞって、自己の能力の優秀さを誇示するために虚構の物語を作ったのか。
一切は謎である。
しかし、この衝撃は、モモの決意を固めさせる行為に導くに至るのだ。
「僕を養子にして」
イブラヒムの店を訪ねたモモは、モイーズという名を捨てる決意を固めさせたのである。
「明日でもいいよ」
モモの真剣な申し出に、それを待っていたかのように、イブラヒムは二つ返事で引き受けた。
しかし、養子の申請に、「あなたはフランス人じゃないから難しい」と言われ、散々苦労するが、最終的に二人の思いは叶った。
ところが、遂に到達した故郷の地で惹起した悲劇。
それは、慣れない運転でのイブラヒムの事故死という現実。
またしても血縁を喪ったモモだったが、イブラヒムの教育による自立を遂げつつあった少年には、悲劇にめげない強さが備わっていた。
それこそが、イブラヒムの残した最大の遺産であったのだ。
ラストシーン。
青年になったモモは、かつての自分と同じく、非行に走る少年に対して、「アラブ人じゃないよ、モモ」と言って、お釣りを渡すのだった。
因みに、トルコ語を母語とするトルコ国民は、言語で規定されているという一点によって、アラビア語を話すアラブ人ではないという含みが、そこにある。
「イスラム教徒=アラブ人」という括りの誤謬を越えるほど、イスラム教徒の包括力の大きさが、ラストシーンの内に含意されていたのである。
3 「内面の宗教」の深い広がりを有する小宇宙への導き ―― 或いは、「世俗と乖離しない善き教育者」の自己完結点
「コールド・リーディング」という胡散臭い言葉がある。
相手に対する僅かな情報のみで、その心を読む話術のことで、多くの場合、良い意味で使われることがない。
詐術のテクニックとされ、超能力者や占い師が引き合いに出されるからだ。
些か誇張含みで言えば、この概念を、単に「人の心を読む能力」という風に限定的に解釈し、それが深い人生経験に基づいて形成されていて、人格の拠って立つ宗教的な精神基盤によって補完された人生訓の供給源になっていたとする。
そんな人生訓を、本作の少年との会話の中から挙げれば、以下の例などは、その一つ。
「靴がボロボロだな。買いに行こう」
「お金ないよ」
「プレゼントだ。今ある両足を大事にしないとな。足が痛むような靴は替えればいい。足は取り替えができん」
このような人生訓をを放つ老人が、人好きのする独特の雰囲気を持ち、且つ、肯定的人生観に根差した特有の性格傾向がリンクすることによって、目立たないが、一人の「世俗と乖離しない善き教育者」という人格像を立ち上げていく。
肯定的人生観の例も、少年との会話の中から挙げておこう。
「お金持ちは幸せだから、ニコニコ笑うのさ」
「そうじゃない。笑うから幸せになれるんだ」
「嘘だ」
「笑ってみろ」
「世俗と乖離しない善き教育者」は、そう言って、少年に物を渡し、笑わせるのだ。
以降、学校の先生からも、ブルー通りの娼婦からもOKサインが出たばかりか、ついでに、ガールフレンドまでゲットするに至るという具合。
「笑いの威力」の成功に驚く少年は、子供扱いだった自分を相手にしてくれた黒人娼婦に、「笑えば、何でも手に入るだろ?」と得意満面だった。
また、「世俗と乖離しない善き教育者」が、故郷のトルコへの旅を決めたのはいいが、赤いスポーツカーをキャッシュで買ったものの、「いざ、出発」というときに及んで、「運転できん」という言う始末で、少年の助けを得て、訓練所で運転免許を手に入れるという「超楽天主義」を発揮するのだ。
「人間の心は籠の鳥と同じだ。踊れば、心は歌う。そして天まで昇る」
これは、「世俗と乖離しない善き教育者」の拠って立つ宗教的な精神基盤に、濃密に関与するもの。
同時にそれは、「イスラムは内面の宗教だ」と言う、件の老人の生き方に通底するメンタリティーの発露であると言っていい。
トルコのスーフィーダンス(セマー=旋舞)・ブログより |
思うに、既にその生き方において、このトルコ系の老人が、貧しく薄倖な少年の、「絶対的な教育者」と成り得る十全な条件が揃っていたのである。
深い人生経験に基づいた「コールド・リーディング」の能力を得て、自我の形成基盤が脆弱な少年を、「悪」の道に侵入することを防ぐに足る人格教育の具現の可能性が、そこに殆ど約束されていたと言っていい。
「世俗と乖離しない善き教育者」は、平気で万引きする、そんな少年の自我の脆弱性の内に、「悪」の道に侵入する危険性を変容させ、「心の有りよう」を重視する「内面の宗教」の、深い広がりを有する小宇宙に導いたのである。
4 「ファンタジー」に包(くる)んだ、「イスラム教の本来的な『寛容』の精神」という主題提起
少年とのトルコへの旅で、少年の自立への希望を確認した老人は、遺言と遺書を残して、旅立っていった。
「旅は終わりだ。私は良く生きた。・・・妻がいた。ずっと前に死んだよ。だが、今でも愛してる。故郷に戻れた。食料品店は繁盛した。ブルー通りは魅力的だ。たとえ裏通りでも・・・それにお前がいる・・・私は死なない。旅立つだけさ。無限の世界に」
この遺言に次いで、「世俗と乖離しない善き教育者」は、養子となった少年に遺書を残すに至る。
「息子のモモは、私を父親に選んでくれた。私は人生で学んだことを息子に伝えた。モモよ、お前もコーランの教えを知るだろう。そこに、全てがある」
前述したように、「人生で学んだことを息子に伝えた」内実は、どこまでも、「心の有りよう」を重視する 「内面の宗教」の、深い広がりを有する小宇宙以外ではない。
少年に対する、「世俗と乖離しない善き教育者」の教えの自己完結点が、そこにあった。
「イスラムは内面の宗教だ」と言う「世俗と乖離しない善き教育者」の言葉の中に、一切が凝縮されていたのだ。
言ってみれば、本作は、このような境遇に拉致された少年への人格教育を成就させるには、どのような「教育者」による、どのような教育が最も相応しいかということを提示した、一種の「ファンタジー」である。
しかし、ファンタジーという幻想の枠内で、本作は、現代社会の「病理」について、今、多くの映像作家が提示する最も可視的なテーマへの、あまりに単純だが、それ以外に物言いし得ない語り口の内に、理屈っぽい説教を回避するようにして訴えていくのである。
そして、決して看過し難い、もう一点の重要性について。
スーフィーに属する件の老人と、両親に遺棄されたユダヤ人少年という、二人の濃密な交流を通して、本作は、醜悪な暴力に流されていく、現代世界の〈状況〉下にあって、「寛容」の精神の「復元」を訴えて止まないのだ。
従って、このような訴えを映像化するには、「ファンタジー」という表現技法が最も相応しいと括った作品だったということか。
更に言えば、本作の基幹メッセージが、イスラム教の本来的な「寛容」の精神を説くことに比重が置かれていたのは、「イスラム教=コーラン=原理主義=『殉教』のテロリズムの宗教」というラベリングの否定にあったに違いない。
但し、残念ながら、映画の完成度は高くない。
ユダヤ人少年とトルコの老人との絡みが、人生訓を特定的に切り取った台詞の応酬で処理されてしまっていて、観る者に、その内面的交叉が深化していくプロセスを、殆ど伝え切っていないからだ。
即ち、作り手の提示したいテーマに絡んだ物言いだけが、特段に目立ってしまっていて、それが映像構築のレベルを浅薄なものにさせてしまったのである。
(2011年4月)
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