<歪んだ支配願望が極点にまで達する危うさを必然化して>
1 「嫌がらせの電話」という卑小な日常を繋ぐ青年
ファーストシーン。
厳冬の東京の未明。
新聞を抱えた青年が、白い息を吐きながら走っている。
一軒の家の前で立ち止まる青年。
いつも吠えられている犬が、今朝もまた、青年に向かって攻撃してきた。
小石を投げ、新聞を素早く入れた後の青年のモノローグ。
「鈴木勇、×二つ」
青年の名は、吉岡。
紀州から上京後、新聞配達をしながら、一応、早稲田を目指して予備校に通っているが、熱心には見えない。
そんな吉岡の「秘密の快楽」 ―― それは、不快な経験を蒙った配達先に×印をつけ、「×三つ」になると、「嫌がらせの電話」をかけ、何某かの暴力的攻勢を加えていくこと。
例えば、「鈴木勇、×二つ」の家。
早くも切れた吉岡は、犬殺しの「通告」をするのだ。
「お宅ね。ワンワン、吠える犬飼ってるでしょ。お宅は、×印が2つなんだよ。犬、今いますか?後であの犬見舞ってやって下さいよ。頭殴り付けたら死んじゃったよ。お前んちの玄関の軒先にぶら下げてあるからな。よく見とけよな、間抜け野郎!」
また、新聞台を3カ月溜めて払わない男を脅した後に、快感の笑顔で「俺は右翼だ」と呟くのだ。
金魚を買って来る度に、それを殺す少年は、「南無妙法蓮華経」と唱える新興宗教を信仰する母に、暴力を振るう家庭だった。
その新興宗教に誘われた吉岡の「判定」は、「クソ、貧乏人め。×二つ」。
「やっぱり、どこにでも不幸はあるもんだわね。でも、それが世の中だから負けちゃだめよ」
吉岡(左) |
吉岡の「判定結果」は、表札を奪うことで、×印一つ追加。
更に、彼の「判定」ノートには、「偽善者」という理由がメモされていた。
「お前んちに爆弾仕掛けて、一家4人、皆殺しにしてやるよ!」
配達の途中で、牛乳を飲むのを常態化していた、そんな卑小な日常を繋ぐ青年がそこにいた。
2 「最低男」と「醜いかさぶたのマリア様」
「どういう具合に生きていってたらいいのか分らないな」
そんなことを呟くのは、新聞販売店で吉岡と共同部屋に住みこむ、30過ぎの男の紺野。
四国でパチンコ屋を止めて上京し、新聞販売店にあって、借金尽くしのギャンブル好きで、且つ、呑んだくれの、ホラばかり吹きまくる典型的なダメ男。
当然、露骨な差別主義者の吉岡にとって、「早く死んだら」と見下す程の「最低男」。
「所詮、人生なんていうのはな、負け続けなのよ」
紺野(左)と吉岡(右) |
そんな「最低男」にも、惚れ抜いている女がいた。
その女の名は、紺野のネーミングによれば、「醜いかさぶたのマリア様」。
娼婦である。
立ちションし、近所の子供たちに石を投げられる女。
ビルの8階から飛び降り自殺し、九死に一生を得たが、脚に障害を持ち、立ちションするしかない醜悪さを晒す女は、社会の最下層で生きていて、当然、近所でも差別のターゲットになっている。
「醜いかさぶたのマリア様」というネーミングの由来は、恐らく、同じ娼婦だった「マグダラのマリア」をイメージしているのだろう。
石を投げられても怒りもしない穏和さが、この「醜いかさぶたのマリア様」にはある。
その辺りが、紺野が惚れ抜く理由であると思われる。
イエスの死と復活を見届けた証人であるとされる「マグダラのマリア」こそ、「汚れ多き聖女」という訳か。
「マグダラのマリアの浄化」/ホセ・デ・リベーラ(イメージ画像・ウィキ) |
先の常套句を吐いたのも、本物の「敗者」に対する優しさを欠落させた「仲間」に放った一言だった。
ムエタイのデビュー戦で負けた新聞配達員のガウンまでプレゼントし、若き「敗者」を十全に介護するものの、三沢基地への自衛隊入りが決まって、5000円の餞別をもらい、販売店を辞めていく折りにも、紺野が彼を最寄りの駅まで見送りに行ったエピソードは、紺野の人柄を自ずから語るものでもあった。
そんな紺野が、惚れ抜くマリアと所帯を持つために、強盗まで働いて金を掻き集めようとしたのだ。
時折しも、「嫌がらせの電話」をかける対象に×印を書き込む吉岡の地図は、完璧な形態を作り上げていった。
右翼を装う吉岡の「嫌がらせの電話」も、抑制が効かなくなりつつあった。
「今、国防愛国隊に入っています」
「右翼の方ですか?」
「勿論、右翼です」
そう言った後、例の脅し文句にエスカレートさせていく。
「火を点けてやるから、皆、皆死んじゃえ。このバカやロー!」
抑制が効かなくなつた吉岡は、露わにしてきた暴力性をマリアに噴き上げていった。
以下の稿で、再現してみよう。
3 悪態の限りを尽くす若者、号泣する女
「どういう具合に生きて行ったらいいのか、分らないなあ」
これは、紺野の強盗逮捕の後の、吉岡のモノローグ。
いつしか、紺野の常套語が、吉岡の心象風景を代弁するようになっていた。
「最低男」の真情を垣間見た吉岡は、マリアのアパートを訪ね、怒りをぶちまけていく。
「あんたが駆け落ち唆(そそのか)すからだよ。」
マリアは紺野の犯罪について知らなかったが、吉岡に反駁することもなく、畳に伏すように一言呟いた。
「子供・・・」
「子供?紺野さんの子か?育てる気だったのか?」
そこに、「間」が生まれた。
終始うな垂れて、腹を擦(さす)るマリア。
しかし、吉岡は悪態の限りを尽くすのだ。
「そんな顔して、そんな足して、誰が相手にしてくれるんだよ。人並みに幸せにできるとでも思ってんのかよ。傲慢だよ・・・ウジ虫みたいに生きてきやがってよ!それを売り物にしているだけだろ!傲慢だよ!最低だよ!化け物だよ!そんな恰好で生きているくらいなら、さっさと死ねばいいんだよ!キチガイ!汚らしいよ!見苦しいよ!死ね!」
涙を浮かべながら、顔を吉岡に向けるマリア。
一時(いっとき)の「間」。
突然、マリアはガスのホースを咥(くわ)え、自殺を図ったのである。
それを止めることなく、見ている吉岡。
高を括っているようだった。
「やめろよ!死ぬなら一人で死ねよ」
中々死ねない女に、吉岡は突き飛ばして帰ろうとした。
その直後だった。
女が吉岡に向かっていったのだ。
女を殴る吉岡。
嗚咽する女。
洞窟のマグダラのマリア/ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル(イメージ画像・ウィキ) |
号泣するのだ。
その異様な姿を見て、吉岡は黙って静かに帰って行った。
4 慟哭する若者、捨てたドレスを身につけ、小躍りする女
吉岡の心は、完全に抑制が効かなくなっていた。
「嫌がらせの電話」をかける対象には、感情関係を持ち得ない相手が選択されているのだ。
まず、東京駅に電話し、爆弾を仕掛けたと脅した。
更に、街のガスタンクへの爆破予告に繋がっていく。
以下、その会話の内容。
「目的は金ですか?」
「金なら腐るほど持っているよ!」
「それでしたら、一体、何が目的なんですか?」
「バカ野郎!」
「落ち着いて下さい。あなたが興奮すると、沢山の人が死ぬでしょう」
「俺の知ったことじゃないね。この町が吹っ飛んで、何人の人が死のうと、住んでいる奴が悪いんだよ。何で俺が責任持たなきゃならないんだよ」
「何で、この町なんですか?」
「うすらバカ、トンマ、何故もヘチマもあるかよ!」
「だけど、何かが腹立たしいからと言って、ガスタンクを爆破する人なんかいませんよ」
「それは皆、甘いからだよ!デレデレ曖昧に生きているからだよ!今日、12時きっかりに爆破するぞ。やるったら、やるんだよ!本当だぞ!本当にやるぞ・・・」
最後は、涙交じりの小声になっていた。
嗚咽の中で、電話を切る吉岡。
部屋に帰って来た若者は、近所の家のいつもの夫婦喧嘩の叫びが響く中で、壁に凭(もた)れ、最後は布団にうつ伏せて慟哭するのだ。
印象深い映像のカメラは、若者の慟哭の構図からゆくりとパンして、壁にかかってある「完成形の地図」を大きく映し出していく。
ラストシーン
騒がしい町の喧騒を溶かす朝靄がクリアになって、ファストシーンに円環的に繋がる、新聞を抱えた青年の走りをフォローしていく。
青年の走りには、ファストシーンで開かれていった「悪意」とは、どことなく切れていて、そこには、慟哭の重い時間の中で生み出した何かが加わっているようだった。
青年の視界に捕捉されたのは、ゴミ置き場から誰かが捨てたドレスを身につけ、小躍りしているようなマリアの姿形。
走りを止め、眼を見遣る青年に近付いてくるマリアを避け、逃げるように走りを繋ぐ青年。
ラストカットは、不自由な足を引き摺りながら歩行を繋ぐマリアのロングショットだった。
5 「自己像」確保に努める若者の防衛戦略の歪み
これは、現実の認知を拒絶する「自己像」が、抑制の効かぬ程に肥大化して極点に達したとき、遂に自己を相対化し得た若者の屈折した自我の、その曲折的な時間を精緻に、且つ、内面深く描き切った青春映画である。
青春映画というのは、多くの青春に特有な孤独感や疎外感を感受するネガティブな側面と、現実に根を下ろさない幻想の杜を彷徨(さまよ)う浮遊感が溶融するときの、危うくも、解放の出口を見つけにくい迷走を、そこだけを特定的に切り取った映像であるからだ。
では、現実とは何か。
紀州から上京して来た母子家庭育ちの、貧しく孤独な青年が、自分が置かれた経済的環境や、能力的、心理的理由から大学進学も儘(まま)ならず、意に反して、社会の底辺に屯(たむ)する人々をも包括する交叉を通して、そこで経験した不快なる時間の総体である。
では、青年の「自己像」とは何か。
社会の底辺に屯(たむ)する人々をも包括する交叉は、自分が後にステップアップする以前の仮の時間であり、この助走の後に待機するであろう、自己の能力に見合った社会的生活が十全に保証された、言って見れば、非支配階級である者たちとは無縁な階層の秩序に守られた、近未来に繋がるイメージの総体である。
ここに、現実と自己像の乖離が生まれる。
この乖離を解消するために、青年は何を遂行したか。
前述したように、不快な経験を蒙った配達先に×印をつけ、「×三つ」になると、「嫌がらせの電話」をかけ、何某かの暴力的攻勢を加えていく一連の行為である。
それは、その行為によって得られる快楽が自己を肥大させることで、辛うじて、「自己像」を守り切っていく防衛戦略であると言っていい。
青年は「自己像」を守ることによってのみ、このような不埒な犯罪を繋ぐ青春を特化し、現実と「自己像」の矛盾の心理的解消を具現したのである。
自己を肥大させた青年は、「俺は右翼だ」、「国防愛国隊に入っています」などと大法螺(おおぼら)を吹くような、極めて稚拙だが、そこに拠り所を求めることなくして成り立たない、必死の「自己像」確保に努めるのだ。
柳町光男監督 |
6 歪んだ支配願望が極点にまで達する危うさを必然化して
そんな青春の心象風景を、端的に伝える二つのシーンがある。
一つは、バラック建ての長屋での折檻事件に立ち会ったシーン。
家の前に堆(うずたか)く積まれた廃品が目立つ、バラック建ての長屋。
そこに、新聞配達する青年が、いつものように走り抜けていく。
すると、廃屋のような家屋から、小学生とも思しき少年が飛び出て来て、それを父親らしき男が追い、繰り返し殴り付けるのだ。
「父ちゃん、盗ってないよ!」
どうやら少年は、父親の金を盗んで追い駆けられていたらしい。
そのとき、殴り付けられた少年の視界に青年が捕捉され、青年を鋭く睨みつけたのである。
その夜、青年は自分を睨みつけた少年に対する反感から、いつものように×印をつけていく。
しかし青年は、この×印を消しゴムで消し去ったのである。
それは、自分と同じ境遇に置かれたと信じる幼い対象人格に、青年が情感を投入した行為の、例外的証明であったと言えるだろう。
少年の孤独と疎外感、更に、権威ばかりを押し付けるだけの、最下層に蠢(うごめ)く大人を見る尖った眼差しが、青年の眼差しと同質のものであると把握したに違いなかった。
二つ目は、青年が仮の住み処(か)であり、「嫌がらせの電話」の対象と化す町を遠望するシーン。
何処(いずこ)かの家から、美しい旋律の讃美歌が聞こえてきた。
立ち止まった青年の視界には、ガスタンクが聳(そび)える町の風景が遠望できたのである。
そこに、子供たちが興じるサッカーのボールが飛び込んできた。
「おーい、新聞屋!」
そう言われて、怒りの心情を封印していた青年は、そのボールを思い切り蹴り上げ、子供たちの遥か彼方にまで飛ばしたのである。
この、何気ないシーンに注目したい。
子供にまで蔑まれる自分の仕事への否定的イメージが膨らむ心理の内に、そんな青年が遠望する町に対する復讐の念が溶融し、彼は例の「嫌がらせの電話」を頻繁にかけることで、町を支配する思いを募らせる心象風景が露わになっていくのである。
後に、青年が配達区域の地図を作っていく作業が本格化するということは、尖った情念を煮え滾(たぎ)らせる彼の、歪んだ支配願望の観念が、いつしか極点にまで達する危うさを必然化してしまうのだ。
それが、実質的なラストシーンに直結したのである。
稿を変えて言及していく。
7 自己を相対化する決定的な身体表現としての青年の慟哭
実質的なラストシーン。
ガスタンク(イメージ画像・ウィキ) |
それまで何某かの感情関係を持っていた特定他者への攻撃性が、一気に反社会的行為にまで突き進んでいくほどに、青年の肥大し切った自己像に歯止めが効かなくなってしまったのだ。
感情関係を媒介しない反社会的行為を惹起させたのは、そんな青年の歪んだ自我の攻撃性の極点であったが、その背景に横臥(おうが)していたのは、彼が最も見下していた「最下層の人格」である、紺野とマリアとのネガティブな感情関係の様態であったと言える。
愛する女のために強盗まで犯し、逮捕された紺野の、それ以外にない末路を予兆させる暴走を視認したとき、青年はそこで初めて30過ぎの男が、その人生を賭けようとした「愛情物語」のイメージを感受したのである。
それは、「負け犬人生」を肯定し、社会規範を踏み躙(にじ)る振舞いを連射させていた男の内側に、なお必死に生きようとする思いを肯定的に把握したことを意味するだろう。
だから、青年は女を責め立てていく。
男の子を孕んだ女もまた、男の「愛情物語」を受容した。
怒りの矛先(ほこさき)を失った青年は、遂に封印を解くに至る。
何某かの感情関係を持つ、対象人格への「直接的攻撃性」を収拾し切れなかったのだ。
それ故、女に対する青年の攻撃性は極点にまで達する。
女に死を求めるほどに、青年の差別意識は尖り切っているのだ。
足に障害があるとは言え、公衆の面前で立ちションし、金のためには、どんな男にでも体を売る女の人生の有りようを、青年が容易に受容できる訳がないのである。
それでも、自殺し切れない女の壮絶な人生を目の当たりにして、このような女に惚れ、自分の人生を棒に振るような男の「負け犬人生」が、恰も、「最後の人生」の輝きであるかのような壮絶な転落の様態に、青年の歪んだ自我が身震いしたのは間違いないだろう。
そんな屈折した自我に、社会の最下層の象徴の如き男と女の、その対極にある世界への憎悪がリンクすることで、既に自己像を肥大化し尽くした青年は、今や、感情関係を持ち得ない「社会体制」への暴力性を身体化するまでに、内側で蓄えた憎悪の稜線が伸び切ってしまったのである。
しかし所詮、それは無い物強請(ねだ)りだった。
激しく憎悪を振り撒き尽した青年には、もう「社会体制」を相手に「戦争」を継続する気力を失ってしまったのだ。
青年の慟哭こそ、自分の振舞いを相対化する決定的な身体表現だった。
「もはや、戦いはこれまで」という軟着点に届き得た青年の自我は、決定的な変容を容易に身体化するとは考えられないが、それでも、自己を相対化する視座を持ち得た魂の振れ方は、このような青春の迷走の森を彷徨する者の、それ以外にない到達点だったかも知れないのだ。
「社会体制」を相手に「戦争」を継続する気力を持ち得ないと括った、本作の青年が逢着した観念とは、「社会体制」と戦争するに足る自我を立ち上げられない、自己の卑小な存在性それ自身の認知だった。
思うに、青春とは自己を相対化し得る辺りにまで、己が自我を確立していく運動の総体である。
相対化するということは、自己を客観化することであり、善かれ悪しかれ、当該社会に呼吸を繋ぐ成人の自我の社会性のレベルにまで届き得ることである。
本作の青年は、その尖り切った自己の卑小な存在性を内側に見たとき、もう攻撃性を身体化する振舞いの前に、嗚咽を漏らすしか術がなくなってしまったのだ。
暗鬱極まる映像であったが、この実質的なラストシーンの挿入によって、本作は決定的な局面で、映像の完成度を底上げし得たのである。
稀に見る秀作という外にない。
(2011年4月)
0 件のコメント:
コメントを投稿