2011年4月18日月曜日

昼顔('67)      ルイス ・ブニュエル


<予約された生き方を強いられてきた女の、不幸なる人生の理不尽な流れ方>



1  「昼顔」という非日常の異界の世界で希釈させた罪責感



冒頭のマゾヒスティックな「悪夢」のシーンによって開かれた映像は、本作のテーマ性を包括するものだった。

「不感症さえ治れば、君は完璧だよ」とピエール。夫である。
「言わないで。どうせ治らないわよ」とセブリーヌ。妻である。
「勝手にしろ」
「許して・・・」

夫であるピエールの命令で、馬車の二人の馭者〈ぎょしゃ)に降ろされ、森に連れて行かれるセブリーヌ。

両手を縛られ、木に吊るされたまま、上半身裸にされた状態で、二人の馭者に鞭打たれるのだ。

「好きにしろ」

ピエールはそう言って、馭者に妻を陵辱させるのである。

ここで目覚めたセブリーヌは、ピエールから聞かれて、「悪夢」について正直に語った。

「また、その夢か」とピエール。

夫婦にとって、セブリーヌの「悪夢」は特段に珍しいものではないらしい。

しかし、その日もまた、「ごめんなさい」と言って、愛する夫の体を受け付けないセブリーヌ。

襲ってくる忌まわしき過去の記憶。

セブリーヌは、少女期に粗暴な男からレイプされた被虐待の過去があるのだ。

カトリック教会での聖体拝領を拒否した少女時代。

自己否定感情から、自分自身が生きていることへの罪の意識が、彼女の自我を閉じ込めているようであった。


そんなセブリーヌが、意を決して、噂で聞き知った娼館の重い扉を抉(こ)じ開けたのだ。(画像)

2時から5時まで働くが故に、「昼顔」という源氏名で、売春の世界に踏み込んでいくセブリーヌ。

この飛躍的な選択は、〈性=悪〉という観念が彼女の内側に横臥(おうが)しているが故に、優しい夫に〈性〉を開けない現実に対してペナルティを受けるすることで、内なる罪責感を処理しようとしたもの。

それ故、感情関係のない男とのセックスによって、激しい欲情が渦巻く身体の疼きに反応するかのように、夫との関係の中で排除されていた〈性〉を処理するに至るが、これは〈性=悪〉という罪責感をスル―し得たからである。

まもなく、「昼顔」という非日常の異界の世界で、罪責感のない快楽を得たセブリーヌは、自ら夫のベッドに潜り込む。

「毎晩、一緒にこうして眠りたい」と夫。
「もう少し待って」と妻。
「気にするな。無理しなくていいよ」
「違うわ。段々、一緒に寝たくなってきたの。もう怖くないわ。あなたに益々近付く気がするの。日毎に愛が深まるわ」

しかし、セブリーヌの甘い臆測は呆気なく自壊していった。



2  肥大する妄想の世界に捕われた果ての悲劇



恐ろしく野卑で、エゴイズムの塊のような一人のチンピラが、セブリーヌの美貌の虜になったとき、殆ど予約された悲劇の幕が開いたと言っていい。

そのチンピラの名は、マルセル。

セブリーヌもまた、マルセルの激しい情欲に搦(から)め捕られたからである。

セブリーヌとマルセル

それが狂気の愛であると感受しつつも、既に少女期に〈性〉のボーダーラインが侵害されているセブリーヌには、それを壊した男の粗暴さにこそ吸引されてしまうのである。

「僕らには越えられない壁があるようだ。君は遠い存在だ」

マルセルの出現で揺動する女の心を見透かすように、旅行に出ても、夫のピエールから、こんなことを言われてしまうのだ。


“うまく言えない。私も自分がよく分らないの。あなたへの愛は、快楽を超越しているわ”

これは、女のモノローグ。

しかし、旅から戻って、マルセルとの愛を確かめたことで、束の間の安寧を得たセブリーヌに、事情を知らないピエールは安堵感を吐露するのである。

「君は変った。とても明るくなったよ」
「爽やかな気分」
「こんな君は初めてだ」
「近いうちに良い知らせが聞けるかな?」
「何のこと?」
「子供を作りたいと言ってくれ」

しかし、反応できないセブリーヌ。 

まもなく、娼館を訪ねて来た男がいる。

「人生は女だけさ」

ユッソン
そんなことを平気で言う、シニカルなユッソンである。

元々、この男の間接的な紹介もあって、セブリーヌの娼館通いが開かれたのだが、それを知っていて娼館を訪ねて来たユッソンに対し、彼女は今まで以上に嫌悪感を露わにした。

それでなくとも、自分の心の奥底に眠る、澱んだ感情まで見透かされているような不快感を覚えていたセブリーヌにとって、ユッソンの存在は「破壊性」を隠し持つ脅威の人格だったのだ。

「悪いことだと知っていても止められないの。いつかきっと罰を受けるわ。私の性(さが)なのよ。さあ、抱いて」

これは、唐突に娼館にやって来たユッソンに対する、セブリーヌの自棄的な反応。

「止めておこう。僕が惹かれたのは貞淑な君だ。だが、すっかり変わって失望したよ。興味が失せたよ」

これが、ユッソンの答え。

本心だろう。

そのユッソンは、セブリーヌに対して、友人でもあるピエールに内緒にするという約束をして帰って行った。

ユッソンの出現で悩むセブリーヌは、ここでも肥大する妄想の世界に捕われるのだ。

今度は、ユッソンを決闘で撃ち、木に縛られたセブリーヌを救うピエールという妄想の世界である。


罪責感を感じたのか、セブリーヌは娼館から去って行った。

あってはならない事件が出来たのは、それからまもない頃である。

娼館から姿を消したセブリーヌの居所を突き止めたマルセルは、執拗に自分の女になることを強要するが、セブリーヌの「裏切り」を察知したことで、本来の粗暴性が露わになって、ピエールの帰宅を待ち構えるや、罪のない彼を狙撃してしまうのだ。

幸運にも命を取り留めたピエールだが、重篤の車椅子生活を余儀なくされてしまったのである。



3  映像が映し出した女の妄想のラストカット



「彼は全身麻痺で、君が献身的に介護している。彼は負い目を感じている。だから、君のことを話す。初めは苦しんでも、楽になれる」

これは、ピエールの身を案じ、セブリーヌの罪責感を見透かしているユッソンの言葉。

そう言って、セブリーヌの同意を確認したユッソンは、ピエールの部屋に入って行った。

一切を話したのである。

ユッソンが帰った後、セブリーヌは恐々とピエールの部屋に入り、車椅子に座っている彼を遠巻きに見ながら、彼の元に近付いていく。

「ピエール」

それが、セブリーヌの放った一言だった。

反応しないピエール。

アップで映されたピエールの眼から、一筋の涙が液状のラインを引いていた。

その表情を目視したセブリーヌは、思わず小さな笑みを洩らした。

印象的な映像のラストシーン。

冒頭のシーンで現出した馬車が、鈴を鳴らして走っている。

起き上がったピエールは、妻に言葉をかけた。

「何を考えている?」
「あなたのこと」
「飲もう」

そう言って、ピエールは矢庭に立ち上がり、ウィスキーをグラスに注いだ。

抱擁し合う二人。

馬車の鈴の音が大きくなってきた。

「馬車よ」

笑みを絶やさないセブリーヌは、窓ガラスを開け、外を眺めた。

近づいて来る馬車。

しかし、そこには二人の馭者しか乗っていなかった。

セブリーヌのトラウマは浄化されたのである。

それが、映像が映し出した彼女の妄想のラストカットだった。



4  児童虐待者の克服課題の厄介さ



ルイス・ブニュエル監督
本作は、シニカルな「ルイス・ブニュエル」が構築した映像であり、或いは、男に加虐的欲望を惹起させるようなタイプの女と決め付ける、気品と色気を併有する蠱惑(こわく)的な美女、「カトリーヌ・ドヌーブ」がヒロインを演じたという先入観を持つことなしに、ノーマルな作品を鑑賞する普通の視座で付き合えば、映像の中で説明された内実の総体を、当時の心理学的知見によって読解できる一篇である。

しかし、以上の先入観によって付き合えば、そこに穿(うが)った解釈や過剰なメタファーを受信することで、却って誤読する危うさを持つ一篇であるとも言えるだろう。

私は、前者の視座で本作を受容することによって、充分にヒロインの曲折的な内面の揺動が把握できる作品であると考えている。

それは、映像の中で度々インサートされる、ヒロインの妄想・幻想・悪夢の描写の意味を心理学的に把握するサポートになるだろう。

本作の中で、ヒロインの自我が負っているトラウマは、一貫して〈性愛〉と〈人間の尊厳〉に関わるテーマであった。

しかし、そんなヒロインのルーツに関わる描写の挿入は、僅か二か所でしかインサートされていないのだ。

それは、少女期に野卑な男にレイプされたであろう過去、それ故に、件の少女が聖体拝領を拒絶する描写の二つである。

このルーツに関する描写はリピートされることがないが故に、観る者は、ヒロインの少女時代との心理的文脈の繋がりを軽視しがちだが、しかし、この添え物の如き二つの描写の挿入によっても、既に充分な説明になっていると言える。

なぜなら、それは、自我の防衛機制によって封印したい忌まわしき記憶であるからだ。

忌まわしき記憶の描写のリピートは、ヒロインの内面に寄せて考えれば擯斥(ひんせき)したい何かでしかないだろう。

それ故、成人したヒロインは、穏和な人格像を印象付ける医師と結婚しても、その関係の中で排除されている〈性愛〉の欠落感によって、常に心身の均衡を危うくさせていた。

ここで考えてみよう。

性的虐待を含む児童虐待経験を持つ女性が、その虐待のトラウマばかりか、〈真の愛情〉と、欠損した〈人間の尊厳〉の獲得というテーマを同時に解決することの困難さ、厄介さの現実を無視してはならないということである。

因みに、児童虐待者の克服課題とは、第一にトラウマの解消であり、第二に〈真の愛情〉の獲得であり、そして第三に〈人間の尊厳〉の復元である。

しかし、愛する夫に対して、内深く抱え続けてきた心の闇を解放できないヒロインにとって、トラウマに端を発する負い目ばかりか、聖体拝霊を拒絶させざるを得ないような、「自分は不浄な女である」、「自分は生きる資格のない女である」などというネガティブな自己像による、〈人間の尊厳〉の欠損感覚、そして、なお拘泥する〈真の愛情〉関係の構築の問題を同時解決するのは、現状維持の生活の中では不可能だった。

何より、現状維持の生活の延長によっては、彼女の自我を充全に満たすことがなく、そこに決定的な欠落感が生まれていた。

〈性愛〉を排除した夫婦の関係の正常化は、絶えず、ヒロインの「夫に対する負い目」を累加させていくことで益々困難になっていったのである。

従って、彼女の中に封印された性的欲情は、感情関係の生じない娼館の中で処理される外になかったのだ。

確かにそれは、必ずしも夫婦関係の正常化のみを企図したものではなく、そこに封印された情欲の全面解放を求める彼女の、このような方略によってしか欲望を処理し得ない表現様態であったとも言える。

かくて、「昼顔」に変容した彼女は、封印した情欲の処理で得た快楽を手に入れるのだ。

しかし、そこで罪責感に苛まれる深刻な事態は出来しなかった。

そのことは、〈性愛〉を排除せざるを得ない、「夫に対する負い目」=「心理的負債」の「清算」という大義名分が張り付いていただけでなく、或いは、それ以上に感情関係の生じない「男」との〈性〉を、誰に気兼ねもなく処理できる気楽さが、一人の「女」の裸形の自我を解放させたことを意味するだろう。

然るに、そんな彼女の非武装性が、殆ど予約された悲劇を惹起させるのだ。

娼館の中で出会った野卑なチンピラの、理屈を超えた暴力的侵入を受けたことで、彼女の肉体と精神は、このようなトラウマを持つ多くの女性の例が示すように、このようなタイプの男に惹かれていく脆弱さを露呈したのである。

哀しいことに、性的虐待を受けた女と、その対極にいる、虐待的な男との関係は相互に惹かれ合う傾向を持ち易いのである。

従って、このような女の脆弱さは、まさに、そのような女をこそ征服したいと望む男の、理不尽なる攻撃的な欲求にとって好都合なのだ。

本作のヒロインは、この危険なトラップに嵌ってしまったのである。

そして、そこで開かれた危うさが、本作の悲哀を極めた物語の最終ステージにまで運ばれるに至ったのである。



5  予約された生き方を強いられてきた女の、不幸なる人生の理不尽な流れ方



野卑なチンピラの攻撃的な欲求が、理不尽な暴力に転嫁したとき、自分が最も愛する夫の肉体を半壊させる事件を媒介することで、初めて彼女は、自分の中に潜在する歪んだ欲情の稜線を伸ばすことの危うさを認知し、このような女性が本来的に求めていたであろう、安定的な愛情関係の構築をこそ求める心理に辿り着く。

要するに、不自由な夫を自らが献身的に介護することで、少女期以来の、「自分は不浄な女である」という意識による人間の尊厳の欠損感覚を復元させ、また、「第3者」(ユッソン)を介して夫への告白を果たすことで、トラウマに端を発する負い目を解消し、いつの日か、それらを包括し得る真の愛情関係の構築の問題を同時解決する可能性を得るという、予定調和の近未来イメージを紡ぎ出す心理である。

そんなヒロインの、幻想の浮遊する予定調和の近未来イメージの中にあって、〈性愛〉の欠落に起因する負い目と切れたヒロインは、自らが供給する愛情の継続性を確認することによって、少なくとも、夫に対する負い目の原因となった、一切のネガティブな感情を自己昇華させていくように見えるのだ。

それが、半壊した夫が、唐突に健常化する妄想を挿入したラストシーンの意味であり、且つ、冒頭のシーンで見られた、「夫に対する負い目」=「被虐の象徴」としての、馭者による陵辱の「悪夢」が反転して、誰も乗る者がいない馬車の構図に繋がったのである。

彼女の中でトラウマが浄化され、〈性愛〉という厄介なテーマを越えたであろう、自我の安寧と内面的調和の問題が主観的には遂行されたのだ。

穿った見方をしなければ、本作は、そういう厄介なトラウマを負ったヒロインの内面過程の振幅を描いた、極めてシンプルだが、芸術的完成度の高い映像作品として把握し得るであろう。

しかし残念ながら、彼女の予定調和のラストシーンは、どこまでも彼女の主観的願望による妄想に過ぎないのである。

なぜなら、それは、このようなトラウマ記憶を持つ者が、相当程度の高い確率で、その屈折した人生を頓挫させていく航跡をなぞっていく物語であるからだ。

このような過去を持つ哀しい性(さが)の延長線上に開いた、野卑な男との激しい憎愛という事態が惹起した悲劇もまた、彼女のトラウマが捕捉した、一種の必然的な現象であったと言える。

その結果、絶対にあってはならない悲劇を生み出し、その悲劇の最大の被害者である夫が、事件の顛末に関する情報を知ったとき、果たして、「最愛の妻」のイメージで固めていた対象人格を完全受容するだろうか。

そのことを考えるとき、彼女が手に入れようと切に望んだはずの〈真の愛情〉の獲得は、より困難になったと言わざるを得ないだろう。

哀しいかな、それが予約された生き方を強いられてきた女の、不幸なる人生の理不尽な流れ方であった。

彼女の残りの人生もまた、そこに新たな不幸を加えたイメージをなぞっていくしかないのだろう。

彼女の予定調和のラストシーンの悲哀こそ、彼女が負い続けてきた重い十字架なのである。

最後に一言。

本作を、その根柢において支配した男のこと。

「第3者」としてのユッソンである。

彼こそ、悪魔の記号であるメフィストフェレスではなかったか。

ラストシークエンスにおけるユッソンの果たした役割の行使、即ち、「君のことを話す。初めは苦しんでも、楽になれる」と言って、ヒロインの夫に告知した行為の狙いが、「僕が惹かれたのは貞淑な君だ」という彼の言葉を想起するまでもなく、「献身的で貞淑な妻」としてのヒロインへの欲情を惹起させることにあったと考えるのは自然であるだろう。

それが、「人生は女だけさ」と言い切る男の、極上の至福に叶ったトラップだったと言えないだろうか。

これは同時に、ユッソンの物語であったのか。

そんな風にも思われる、残酷な映像だった。


(2011年4月)

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