2011年4月16日土曜日

さらば愛しき大地('82)    柳町光男


<自己を肥大させて生きた男の約束された崩壊現象>



1  決定的に変わり切れない人生を繋ぐ不器用さの、あられもない姿



鹿島臨海工業地帯のコンビナートの硬質な風景から、夜間の人工灯が洩れる異様な風景の中をクレジットタイトルが刻まれて、それを、地の底から染み出るような横田年昭の異界の音楽が、際限なく重く、隠し込んだ闇の奥に潜り込んでいく。

そこから開かれた映像のファーストシーンは、もっと異様だった。

一人の男が喚き、叫んでいる。

家の中の柱に縛られた男の叫びは、この男の人格崩壊を描く本作のダークサイドを、その異常なシーンの内に収斂されていた。

「そんなに僻(ひが)むでねえ」

叔父の一言に、男の叫びが再び点火され、吠えまくるのだ。

「叔父さんには分んねえよ!ここの親は、この家の跡取り息子よりも、次男坊の方が可愛いんだとよ。俺は明彦みてえに、この家ば捨てねえぞ。この家のために働いてきたんだぞ!一生懸命やって来たのによぉ。犠牲になって、働いて来たんだぞぉ」

男の名は、幸雄。

砂利運搬のダンプのドライバーとして、オーバーワーク気味に生計を立てている。

稲作や養豚という、実家の農家の収入では、3世代家族を養い切れないからだ。

その故もあって、次男の明彦は東京で働いているが、その性格は兄と似つかぬほど穏和で、家族思いの青年である。

この日の幸雄の暴発は、どうやら一家の日常風景らしく、他の家族も声を荒げることもなく、淡々と壊された食器などの片づけをするばかりだった。

幸雄の暴発の原因も、叔父が言うように、次男に対する僻みやすい性格が露呈されたもの。

幸雄の母の話だと、幸雄は晩飯のおかずが気に入らなくて、全て東京の弟の所に贈ったことが原因であると決め付けて、その不満で暴れ捲っていたらしい。

何より、泥酔の男が実家の柱に縛られて怒鳴り散らしている、このファーストシーンが、人格を破綻させていく本作の主人公の生き方を象徴していると言っていい。

これは、農村共同体の崩壊を時代の背景にして、その共同体に縛られている男が、「愛しき大地」から離れられないで、ダンプのドライバーとして身過ぎ世過ぎを繋ぎながらも、その人格障害的な性格の狭隘さと不器用さによって、社会に適応できずに、人格破綻していく物語の根幹を象徴するものでもある。

では、ファーストシーンにシンボライズされた、「縛られた男」の人格総体を縛るものは何か。

それは何より、ダンプ一つで砂利運搬の仕事を独立させるに至る経緯の中で、二人の愛児を喪失した悲哀に端を発する夫婦の関係破綻と、愛人との二重生活による過剰なる経済的負担の心理圧であった。

そして、そんな男の人格総体を縛ったものの極点にあったのは、その経済的負担の過重のネックとなっていたアルコールへの依存であり、そこからの脱皮の目的で手を出した、覚醒剤という「禁断の薬」だったと言えるだろう。

「禁断の薬」の身体注入の常態化によって、社会的自立を継続できない苛立ちが増幅するばかりの日々を、自棄的に累加させた果てに潜り込んだ内面風景の澱みは、遂には、一切のストレスの捌け口と化した、「禁断の薬」それ自身による、陰惨を極めた自縄自縛の負の連鎖だった。

ウジ虫の湧き出る悪夢をピークアウトに、人格破綻の崩れを止められず、自我の安寧の精神的基盤であり、今や、それ以外にしか存在しない女を殺害するというブラックアウトに至る男の自壊の物語は、「この家のために働いて来たんだぞ!」と喚き叫ぶに足る、なお農業に拘泥する、点景のような一つの家族の崩壊を惹起させていくのである。

家族崩壊を惹起させた男の心象風景が捕捉したのは、豚舎から豚まで逃げ出すラストシーンのブラックジョークに象徴される、高度成長期の「時代の風景」としての産業構造の劇的な変容を、ただ為す術なく遣り過ごすだけの人々に囲繞され、自分もまた、劇的な変容を遂げていく崩壊過程の共同体社会の流れの中で、決定的に変わり切れない人生を繋ぐ不器用さの、あられもない姿だった。

それは、度々現出する、分りやすい弦月でもなく、常に満月に至らず、次第に欠けていくばかりの月の絵柄の内に仮託された、痛切で決定的な欠落感である。

加えて言えば、「甲斐性」と「男の観念」という情感体系に拘泥する心理的風景にリンクするだろう、「禁断の薬」である覚醒剤によって人格崩壊を加速化させる男は、地元に戻って、真面目に砂利運搬の仕事の自立経営を繋ぐ弟とあまりに乖離し、幼少期から母親の愛情を占有していたと決め付ける、その弟に頼る愛人への愛憎が暴れるだけで、とうとう働く気力すら見せられず、長閑(のどか)な農村風景を窓から茫然と見入る姿こそ、この男を最後まで縛りつけていた、「愛しき大地」そのものだったと言うことだろう。

横田年昭
そんな男の凄惨な人格崩壊の風景を、横田年昭のフルートと、アラブ諸国で用いる撥弦楽器であるウードやリュート、インドの代表的な太鼓であるタブラによる、本作の印象的なBGMは、まるで「魔境」に搦め捕られて、六道輪廻の「地獄道」を彷徨(さまよ)うような、脱出困難な状況の中で呻き、苦吟し、騒ぎ、遂に暴走する、あまりにネガティブな人生の振れ方を見事に代弁していた。



2  腐れ縁の男と女の危うい生活風景



都市社会の快楽装置の只中に囲繞されている者が、他者の不幸に無関心になりやすいのは、隣人の不幸が我が家の不幸になりやすかった共同体社会の構造性と無縁でいられるからであって、恐らく、それ以外の何ものでもないであろう。

ところが、共同体社会の崩壊過程の渦中にあって、砂利運搬のダンプのドライバーとなった男の不幸は、相対的に「他人事」で済まされていく。

それでも「故郷」を捨てられない人々のメンタリティの根柢には、「御時世」で生きる国民性が横臥(おうが)しているから、どこか中途半端な生活風景を露わにしていく以外になかったのだろう。

鹿島臨海工業地帯・鹿嶋市HP
鹿島臨海工業地帯 ―― それは、この国の「生活革命」とも言える、高度経済成長期の中枢の担い手の一つとして立ち上げた鹿嶋市の新興工業都市であり、同時に住友金属工業の企業城下町でもある。

本作で描かれた農村共同体の内実は、まさに、件の新興工業都市を立ち上げた時代の、大きな変容を遂げつつある社会的背景の中で、それでもなお崩壊し切れないで、塒(とぐろ)を巻く人々が、第一次産業との縁を切れずに、雄大な農村風景を立ち上げていた。

だから、なお隣人の不幸が、我が家の不幸に直結する可能性を残していたのである。

しかし、ダンプ一つで砂利運搬の仕事を独立させた主人公の不幸は、「古き良き農村」との心理的関係を保持しつつも、男がそれまで依拠していた共同体の被る不幸と直結しなくなった事態とリンクすることで極まったのだ。

男が、次男への保護に振れていた母親からの愛情投入の微(かす)かな断片を拾うことができたとしても、既に自分が見捨てた妻は他の男と不倫し、無気力な父もまた、優秀な次男の結婚式への参列を希望するのみで、それ以上の情感投入は削られていたのである。

もう、男の不幸を心から嘆き、心配する人格は、度々、意味のない励ましを加えても弾かれるだけの愛人以外に存在しないのだ。

なぜなら、男を愛するその女だけが、男の不幸と自分の不幸が重なってしまうからである。

そんな女を、男は追い出した。

女は飲み屋の女給になって、世俗に塗(まみ)れた他の男たちの格好のターゲットにされた。

男たちに使嗾(しそう)されて、女は苦手なカラオケのステージの中枢に立たされて、下品な酔客から駄目出しされながらも、必死に歌った。

曲名は、「ひとり上手」。

その場に居合わせた男は、追い出した女の下手糞な歌を聴くのだ。

「私を置いてゆかないで」

このとき、男の眼から一筋の涙が零れた。

居た堪れなくなった男は、逃げるように飲み屋から飛び出て行った。

そんな女と腐れ縁の関係を感受した男は、再び、二人の子を儲けていた女との同棲を開いていく。

しかし、母親に遺棄され続け、孤独を極める女への絶対依存を深めつつあった男の自堕落さは、この同棲を通しても変容しなかった。

危うい生活風景がそこに露わになって、浮遊する虚構の時間を広げていくばかりだった。

男は、自分にとって最も必要としながらも、「労働」を強いてくるプレッシャーに耐え切れず、「禁断の薬」が分娩する狂気によって、男の自我の安寧の心理的基盤であった女を、この世から抹殺してしまうのだ。

男は金のことを言われると、親友にでも「うるせえな」と食ってかかる程に、「甲斐性」についての拘泥が強かったからである。

以下、その苛酷なる運命の時間に至る、男と女の危うい生活風景を再現してみよう。



3  跪き、悪態をつき、果てていく女と、ストレスを累加させ、幻聴に捕捉され、自壊する男



「もうこのままじゃ、飢え死にだよ!」と女。
「上等だよ」と男。
「どうしてイジけるの?」
「堕ちるところもまで堕ちて、俺は本望だよ」
「そんなこと、言わないでよ。私ももう嫌だ。もう我慢できない、こんな生活」

女は家を出て行こうとして、自分の荷物を整理した。

「まり子さ、積んで行け。青森のお袋さの所へ行け」
「行けるものなら、行きたいよ」
「やっぱり、行きたいんじゃねえか。俺は全部知ってるんだぞ、お前の男のことは」

まり子とは、二人の一粒種。

「青森のお袋」とは、若い男と駆け落ちした女の母のことで、その棲み家だけは知るに至っていた。

このとき、心外なことを言われた女は言い訳もせず、静かに男の前に跪(ひざまず)いた。

「もう一度、働いて下さい。男らしいあんたを見たい。ダンプを自由に乗り回すあんたと見たい。もう一度、働いて下さい」

女は、男の前に頭を下げた。

男は、青々とした稲穂が揺れる窓外の風景を眺め入っていた。

「邪魔だ、一人にしてくれ」
「やだよ。私はやだよ」

そう言って、女は衣服を脱ぎ、男の体にしがみ付いた。

「格好つけんでねえよ。そんな体、触りたくもねえや」

男はそう言って、女を振り払った。

「おめえは、お袋と同じだ。こうなったのは皆、おめえのせいだ。こうなった一番の原因はおめえだ!」

鹿島の田園風景(イメージ画像・ブログより
男は再び、季節の風に揺れる、窓外の田園風景を眺め入っていた。

何でも人のせいにする、「人格障害」であると思われる男は、一貫して全ての失敗原因を他人のせいにするのだ。

「居たけりゃ、居ろ。出て行きたきゃ、出てけ」

女は脱ぎかけたスカートを履き直し、台所に戻った。

そこに、男との間にできた愛児がいて、泣いていた。

子供は、両親の不和による激しい暴力的な喧嘩の怖さを、人一倍感受してしまうのである。

「ママ、ちょっと忙しいからね、良い子だから、あっちへ行ってて」

子供を外に出した女は、台所でジャガイモの皮を剥き始めた。

食事の支度をすることで、日常性を繋ごうとしているのである。

そのときだった。

窓外の田園風景を眺め入っていた男に、被害妄想に起因するストレス状態の累加によって、激しい幻聴が出来したのである。

包丁でジャガイモの皮を剥く音が、男には異常な硬質音に聞こえ、次第に高なってきたのだ。

その間、男に後ろ姿を見せる女は、独言を吐いていた。

「私は悪いよ、確かに。シャブ打ってるの、止めさせなかったんだから。私だって止めさせたかった。でも、あんたが可哀想で、そのうち何とか立ち直ってくれると思って。私が悪い。でも、あんたの方がもっと悪い。あんたがしっかりしてくれてたら、こんなとこまで堕ち込むことはなかった。男らしくやってくれたら。一体、何のために背中に入れ墨入れたの?死んだ子供たちが笑ってるよ。しっかりしろって。皆の迷惑をかけて、皆の責任にして、大きい顔して、よく生きてられるよ。感心するよ。人間じゃないよ。動物だ。獣だ。死んじめえ!もう、顔なんか見たくねえ!」

愚痴交じりの攻撃的な女の長広舌が尖り切ったとき、女の独言は、一瞬止まった。

以前から用意していた、防衛用の刺身包丁を取り出した男は、一歩ずつ女の元に近付き、それで突き刺したからである。

このときもまた、男は、女の愚痴に最悪の反応をしてしまったのだ。



4  自己を肥大させて生きた男の約束された崩壊現象



柳町光男監督
男が最後まで守ろうとしたもの ―― それは、常に上から俯瞰する気分でいられる、今や、役に立てることもない大型ダンプ一台であった。

それは、男が自己を肥大させて生きる観念の世界から抜け切れなかったことの証左でもあった。

観念の世界から抜け切れなかった男が、事件を起こして拘置されたとき、男を縛っていた心理圧から解放され、初めて観念の世界を自己の等身大のサイズに寄せていくことに安堵したのである。

主人公への感情移入を厳として防ぐような、観る者に感動を意識させないで映画を作る時代が、この国に存在したことが今更のように懐かしくなる程の、徹底したリアリズムの映像がここにあった。

これほど救いのない物語を、最後まで破綻させずに描き切った映像の完成度の高さは、作り手の強い問題意識と、精緻で無駄のない映像構成力に因っているだろう。

一人の男の人格崩壊を描き切った映像の圧倒的なリアリズムは、「時代の風景」の劇的な変容とリンクさせつつ、最後まで感傷に溺れることのない物語を構築し切っていたからである。

(2011年4月)

1 件のコメント:

  1. 順子の最後の独言は、現実の独言と幸雄の幻聴がグラデーションしてるか、またはすべて幻聴かのどちらかだよ。ここ肝心ですよ。

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