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    4 日前

2008年10月23日木曜日

無法松の一生('58)       稲垣 浩


<「分」の抑制力を突き抜けたとき>



序(1)  「分相応主義」について    



「無法松の一生」という圧倒的に感動的な映画を観終わった後、私の意識をしばらく支配した言葉がある。 「分相応」という言葉である。

いつまでも私の脳裏に焼きついていたこの言葉こそ、この印象深い映画のキーワードのような気がしたのである。そこから稿を起してみる。

「分相応」とは何だろうか。

それは字義的に言えば、能力や立場、地位に対する相応しさということだろうが、私はここで、敢えて「分相応主義」という概念を提示してみる。

散々考えた末に私が出した、それついての定義はこうだ。

それは、「特定他者、または特定他者像に対する相対的距離感によって、自らの行動の枠組みを定めること」である。即ち、「相手との距離感が自らの内に相手との価値観や意識構造、感情傾向の落差の感覚を作り出すことで、自己の表現的営為を相対的に縛ってしまう態度のこと」である。

因みに、私はこの概念を肯定的に把握していて、その「哲学」を「座右の銘」にしたいと思う今日この頃である。そこでの私なりの解釈を簡潔に要約すれば、以上の定義を能動的に捉え直して、「妬まず、恥じず、過剰に走らず」というフレーズに落ち着くであろう。当然、この意味合いを内包する問題意識によって、本稿の言及を進めていこうと考えている。



序(2)  「バランスの人生哲学」という「分相応主義」のイデオロギー 



閑話休題。

能力主義と平等主義の観念を、「分相応」のイデオロギーによって、バランス良く保持し続けてきた前近代社会の楔(くさび)が解けたとき、人々の「欲望自然主義」(人間の私的欲望を価値の優先順位の筆頭におくという意味)の流れが加速的に普遍化していった。今ではすっかり色褪せた「分相応」の観念が、かつてこの国の人々の間で、一種の「人生哲学」の美学であったことを、誰が確信的に認知しているのだろうか。

復元された高瀬舟
私の好きな小説の一つに、「高瀬舟」(森鴎外)という有名な短編がある。

苦痛に喘ぎ、死を望む弟の意志を図らずもサポートしたばかりに、弟殺しという重罪で高瀬舟に乗って流刑の地に向かう男の、あまりに潔い魂を描いた作品、それが「高瀬舟」だ。

流刑の地に向かうのに晴れ晴れとした表情を見せて、役所から受け取った僅か2百文(注1)の金の有り難さに感謝する喜助という男について、その役人は述懐する。

「庄兵衞は只漠然と、人の一生といふやうな事を思つて見た。人は身に病があると、此病がなかつたらと思ふ。其日(そのひ)其日の食がないと、食つて行かれたらと思ふ。萬一(まんいち)の時に備へる蓄(たくわえ)がないと、少しでも蓄があつたらと思ふ。蓄があつても、又其蓄がもつと多かつたらと思ふ。此の如くに先から先へと考へて見れば、人はどこまで往つて踏み止まることが出來るものやら分からない。それを今目の前で踏み止まつて見せてくれるのが此喜助だと、庄兵衞は氣が附いた」(インターネット図書館「青空文庫」より引用)

この喜助という男の精神の根底にあるものは、「分相応主義」のイデオロギーである。それは、そのまま放っておけば際限なく広がる欲望に、自我が堅固な防波堤を築くことである。それは「バランスの人生哲学」と言っていい。

しかし、「分相応」の観念を極端に無視すれば、その感情は恐らく屈折に向かう。例えば、自分の無能や努力の足りなさの責任を家庭環境や社会の問題に転嫁することで、確かにその自我は救われる。だが、いつまで経っても自分の能力の範疇を超えた冒険を止めない自我は、いつか必ずその屈折を重ね上げていくことで歪んでいくだろう。そんな感情が独善的な階級意識に結びついて、反社会的な人格に帰結したとき、その者が大いなる欺瞞の「革命家」として生き残ることもあるだろう。

では、「分相応」の観念に過剰に嵌(はま)った自我はどうなるか。

自己嫌悪と自虐の連鎖に自我が捕まらないようにするために、「下を見て慰めろ」などという観念に堕ちていくに違いない。それも一種の適応だろうが、その内側に貯えた負のイデオロギーが、いつしか自我を疲弊させないとも限らない。「分相応」の「人生哲学」を生き抜くのは、結構大変なことなのである。屈折もせず、卑屈にもならないで、この哲学を生き抜くには、ある程度の覚悟と相当の自制心を持ち得ないと困難なのだ。


日本銀行金融研究所 貨幣博物館(ウィキ)
(注1)「2百文」という金銭価値を、現代に当て嵌めてみよう。江戸幕府が定めた金一両の公定相場は4千文だから、「2百文」は0.05両ということになる。江戸時代の初期の米価から計算した金一両は、大体10万円、中~後期で3~5万円、幕末頃には3~4千円という換算が可能なので、「2百文」の価値は、時代が進むにつれ、それぞれ5千円、2千円弱、2百円という程度の貨幣価値に下がっていった訳だ。小説の時代が不分明なので、主人公の喜助が嬉々として受け取った、「2百文」の価値の大きさが判然としないが、いずれにせよ、高が知れている程度の金銭を受け取ってもなお、心から感謝して止まない男の価値観を要約すれば、「分相応」という一言に括れるるだろう。(「日本銀行金融研究所 貨幣博物館」HP参照)



1  「妬まず、恥じず、過剰に走らず」という「人生哲学」に近い流れ方をした男




この困難な「人生哲学」が美学とされた時代の稜線上にあって、自我を痛烈に切り裂かれ、もがきながらも、その「哲学」を走り抜けた男がいた。

男の名は富島松五郎(とみしままつごろう)。

「無法松の一生」という、壮年期に入って、必ずしもそのキャラクターに相応しくないかのようなタイトルの映画の主人公である。

因みに、原作は「富島松五郎伝」。

岩下俊作
作者は岩下俊作。福岡生まれの九州男児だ。

本作は戦前に直木賞候補となり、その題材の魅力によって、戦後に至るまで娯楽作の定番として繰り返し映画化されているが、三船敏郎主演の、この1958年の映画では、ヴェネツィア国際映画祭のグランプリを受賞したことで有名である。

そんな映画の、「格好いいヒーロー」の如き男として祭り上げられた富島松五郎の人生は、確かに起伏に富んでいたとも言えるだろうが、しかしこの「ヒーロー」は、勧善懲悪のスーパーマンを演じ抜いた、ある種の豪胆無類な主人公のイメージとは些か異なっていた。

とりわけ、本作で描かれた主人公の生きざまは、その深い内面描写に於いて群を抜くものがあり、それが、観る者の心を捉えて放さない映像的完成度の高さを決定付けた事実は否定し難いだろう。豪胆無類の男の内側に、切なく同居したピュアなまでのナイーブさ。まるでそれは、後々、この国の喜劇で語られゆく男たちのモデルの原型でもあるかのようだった。

そんな主人公の生きざまは、「車屋一代」を貫いた平板な人生だったと言えなくもない。

しかし彼の人生は、「分相応主義」で駆け抜けたが故に、その柵(しがらみ)の中で呻吟する者が否応なく吐き出すときの、哀しいまでの眩さに、何か惨いほど満ちていたように思えるのである。

映像で度々映された、あの人力車の車輪の空転に象徴されたように、その深奥に澱む苦悩の深さは、艱難(かんなん)なる「男の美学」を貫く者の、その絶望的な孤独感を漂わせるに充分な何かだった。

だが、男の「分相応主義」には、一欠片(ひとかけら)の卑屈さの翳(かげ)りも寄り付くことがなかったのだ。 

男の生きざまは、まさに、「妬まず、恥じず、過剰に走らず」という「人生哲学」に近い流れ方をしていったのである。

ここで言う、「過剰に走らず」とは、どこまでも「分」の障壁破壊に無駄な熱量を蕩尽することなく、その暴走を抑制する自我を貫徹するということだ。その意味で、男の物語は、その「人生訓」が偶発的に被浴した哀切を、限りなく人間的な文脈の中で表出したとも言えるだろう。

それ故に、男は必要以上に苦しんだのだ。必要以上に、自らの自我を切り裂いてしまったのだ。


アーカイヴライブラリーより
男はある意味で、最も世俗的な世界の、言って見れば、妖しき魔境と思(おぼ)しき辺りで捉われ、それに誘(いざな)われるかの如く存分に呑み込まれそうな幻惑と、必要以上に戦ってしまったのである。

それこそが、それ以外に反応する術のない生き方を作り上げた男の、不可避なる運命(さだめ)であったと言えるのかも知れないのだ。男には、「分相応主義」という生き方が最も似合っていたが故に。

「分相応主義」という生き方が殆ど奇跡的に招来した、底なし沼の陥穽からの決定的脱出の方法論。それを「殉教」と呼ぶには些か誇張があるが、少なくとも本作は、男が偶発的に被浴した哀切を、「殉教」のイメージに近い流れ方の中で、その深い内的葛藤を通して丁寧に描き出した、稀に見る秀作であったと言えるだろう。



2  微塵の卑屈さとも無縁な侠気の男



―― 物語の中で緊要な箇所を追いながら、作品批評をしていこう。


無教養だが、そんな男の侠気を示すエピソードが、映画の前半で紹介されている。

ロハで芝居を観に来た無法松が、「お前らが観るような芝居じゃない」と木戸番に追い返されたとき、男は啖呵を切った。

「俺は小倉の車引きぞ・・・小倉の車引きが小倉の芝居小屋で木戸を突かれたっちゅう話は聞いたことがないんでのう」

「木戸を突かれる」というのは、興行場での入場を拒まれるということで、これは小倉の車引きに許された暗黙の了解に反する振舞いだった。

これに怒った松五郎は、舎弟を連れて芝居小屋に入場券を買って入り、その枡席の真ん中に陣取って、あろうことか、その場で大量のニンニクを燻(いぶ)して館内に異臭を放ったのである。

その行為を注意した小屋の者と大立ち回りしたことで、地元の著名な親分が仲裁に入り、その親分に説諭されるシーンがある。 

「あんたの腹立ちはよう分る。しかし事件に何の関り合いもない大勢の見物衆に迷惑をかけた罪は、どうして償いをするつもりだ・・・・松五郎さん、あんたそれをどう思うとるかね」
「わしゃ気づかんじゃった・・・俺は、謝る!」

松五郎は正座して、親分の説教を粛然と聞いた後、そう言って土下座したのである。彼は理屈が分らない男ではないのだ。相手が誠意を持って話せば、襟を正して聞く耳を持つ男なのである。

「恐れ入った。こんなすっぱりした竹を割ったような男は見たことがない・・・」

松五郎の態度に親分は感服し、事件は一件落着した。

このエピソードは、松五郎という男が決して「無法松」と呼ばれるようなアウトローでないことを示している。同時に彼が、車引きという職業に誇りを持ち、それを軽侮する者に真っ向から挑んでいく侠気の男であることをも示している。彼の自我には、微塵の卑屈さも張り付くことがないのである。

更に彼が、身分の高い者にも、全く卑屈な態度で接しないメンタリティーの持ち主であることを示すエピソードがある。

小倉の駅で、大将閣下を車に乗せた時のこと。

「車屋、わしの行き先は分っとるのか」

その大将の居丈高な態度に、松五郎は平然と言い放ったのである。

「心配せんでも、お前の行き先は、ちゃんと聞いて知っちょるわい」

帝国軍人の最高位の者に「お前」呼ばわりする松五郎の精神世界を要約すれば、車引きという職業への蔑視感に対して、いつでもその誇りをもって立ち向かう心意気である。このエピソードは、彼が「分」を心得ていないということではない。現に親分の誠実な態度に正座する「分」を、彼は持っているのである。

それは当時、車引きという職業が既に明治半ばで最盛期を迎え(注2)、彼らなりの職人魂を堅持していた時代の気風を背景にしていたと言えるだろう。



(注2)「人力車台数の最初の統計は営業が始まった明治三年の閏十月にまとめられた『東京府下物産調査』である。これによると、府内の年間車両生産は大八車が一六九四台、人力車・自転車が合わせて二六六台になっている。

次いで、翌四年十二月の東京府文書『府下地坪人力車数調』には、人力車保有台数が一万八百二十台とされている。わずか一年の間に一万台以上も増加したとは、まさに爆発的だと言えるだろう。

同四年五月の『新聞雑誌』第一号は、東京市中の諸職人達の中で、最も繁昌しているのは洋服屋で、衰えたのは駕籠屋だと書いている。運賃が安くスピードも速い人力車には対抗できず、一万ほどあった駕籠も三分の一に減ってしまったという。大方の駕籠屋は人力車夫へと転向せざるを得なくなったのである。

翌五年の『新聞雑誌』第二十九号には『人力車繁昌』と題して『当府下人力車ノ盛ナル、実二街道モ塞ガル許ニテ・・…今一両年ヲ経バ、遂二徒歩テ往来スル者ナキニ至ルべシ』と、この激増ぶりを驚嘆している。

そして、『明治七年府県物産表』によると、東京府の年間生産数は荷車が六四六台、馬車四十七台、小車六二四台に対し人力車が五八五八台と、全体の八十%を超えている。製造開始から六年を経た明治九年になると、保有台数はなんと二万五千三十八台となり、その人気ぶりを示している」(「明治九年東京府管内統計表」)(明治大学大学院HP「日本近代文学小川武敏研究室のコーナー」より/筆者段落構成・画像は、トヨタ博物館の人力車)



3  生涯をかけた「純愛の旅」が開かれて



そんな松五郎の「分相応主義」の観念は、いよいよその本領を発揮するときがきた。吉岡夫人との出会いがそれである。

夫人に対する松五郎の、生涯をかけた「純愛の旅」が開かれたのである。

そのきっかけは、夫人の一人息子を助けたこと。その息子の名は、敏雄。

気の弱い夫人の息子の敏雄が友人たちから木登りを強要され、登った木から転落して怪我をした現場に、松五郎は立ち会った。

少年を抱えた松五郎が吉岡家を訪ねたところから、夫人との出会いがあり、その夫人が尊敬して止まない、夫の吉岡大尉との「分」を弁(わきま)えた交流が始まったのである。

その吉岡夫人と、初めて会ったときのこと。

夫人は松五郎に謝礼を渡そうとする。しかし松五郎はそれを固辞した。

「これは商売と違うんじゃけん・・・奥さん、わしらのこつ、つまらん者でも、たまには損得忘れて、人さまのために働くこともあるんじゃけん。まあ、今日んこつは、あっさり帰してやんねえ」

男はそう言って、足早に立ち去って行ったのである。

その男のことを夫人から聞き知った吉岡大尉は、「無法松」と呼ばれる男の噂を既に知っていて、彼を自宅に招くように促した。これを契機に、吉岡家と松五郎の関係が開かれていったのは言うまでもない。

豪放磊落でありながら、善良な人柄を滲ませる松五郎を気に入った吉岡大尉の前で、その松五郎が正座して追分を歌うシーンがある。

尊敬する大尉の前で、凛として正座する男。

その男の歌を、晩酌しながら聞き入る大尉。

やがて昼間の演習の疲れで横になりながらも、最後まで歌を聞こうとする大尉。

吉岡夫妻
この二人の男の構図は、決して垣根を越えずに、距離を大切にしつつ、それぞれの「分」の内に時間を愉悦することができる、ある種の理想的な関係図式を端的に示していて興味深い。


この関係の中に、吉岡夫人が侵入してきたとき、松五郎は「追分」を歌うのをピタリと止めた。

既に夫人への男の慕情が生まれていたことを印象的に示す描写だが、しかしこのカットの終りに吉岡大尉の急逝に繋がる発病のシーンがあり、一転して物語の展開が、未亡人となった夫人と、その息子敏雄を助ける松五郎の活躍譚に流れていくのである。

大尉の墓参の場で、夫人から敏雄の精神教育を懇願されたことで、松五郎の生活風景に大きな変化が訪れた。

その変化の端緒となったときの会話。

「まるで夢のようじゃ。旦那のような人が早く死んで、俺っちのような者が長く生きちょる」
「松五郎さん、もう言わんといて下さい。あたしも、もう亡くなった人のことは言わんつもりですけん。これらのあたしの命は、これです。これだけです・・・」

そう言って、夫人は傍らの敏雄の手を引いて、男の前に誘(いざな)った。

「そうですの。それでなきゃ・・・」
「ただ案じられるとは、これが父親ほどに強うないことです。体も心も父親ほどに強うないことです・・・」
「奥さん、ボンボンはまだちっちゃいんじゃけえ。これからの育てようで、どうとでもならい。案ずるには及ばんて」
「そうでしょうか。女の力で、この子を強うできますかしら」
「ええ、それはできますて。こいで、おいが多少学問でもある人間なら、こいだけお役に立てるんじゃが、車引きじゃのう。情けないこっちゃ」
「そんなことありませんが、あたしからお願いします。折があるとき、どうぞこの子を鍛えてやって下さい」
「えい。これが俺ができるもんなら、何でもやるけんど。どうもこれは、大役じゃのう」

夫人の切々とした頼みを拒めない松五郎の、もう一つの本当の物語がここから開かれていく。

気の弱い敏雄への松五郎の教育は、まるで我が子を愛する父親のそれに似ていた。凧の上げ方を教えたり、学校での独唱会を成功させるために付きっきりで手伝ったりした。

そして人前で平気で涙を見せる少年に、継母に苛められ、父の現場を訪ねて四里の道を歩いたという、自分の辛かった少年期の苦労話をした後で、「男の子は泣くな」などと言って、それだけが自分に可能な教育法と括った者の如く薫陶したのである。


中でも、運動会の飛び入りで長距離走に出て優勝する描写は、「男は最後まで頑張り抜く」という無言の教育を、少年敏雄の前で実践的に示したシーンとして印象深い。

男の子は大抵、このような強き父親をモデルにして、その物語をなぞっていこうとするものである。松五郎こそ、多感な少年期の短い季節の中に、本来的にあるべき父親像をほぼ完璧に演じ切った男だったのだ。

父を喪った息子の成長に安堵する母が、そこにいた。

運動会のあったその日のこと。

「この子が、あんな大きな声を出して夢中になったのは、あたしは初めて見ました。この子は今日、生まれて初めて、本当に血を沸かせて興奮したとです。何かこれから、新しい性質が伸びてきやせんかと楽しみな気がします。本当にありがとうございました」

ここまで褒められると、逆に照れてしまうのが男の純情でもある。男はそんなとき、いつもそそくさと退散してしまうのだ。

こんなこともあった。

敏雄の学校の学芸会のために、唱歌の練習を付きっ切りで指導する松五郎。

最初は照れていた敏雄だったが、松五郎の熱気の前で、その身を少しずつ乗り出してゆく。

そして吉岡家の居間で、大きな座卓の上に乗って、少年は「青葉の笛」を熱唱したのである。


一の谷の 軍破(いくさやぶ)れ

討たれし平家の 公達(きんだち)あわれ

暁寒き 須磨の嵐に

聞えしはこれか 青葉の笛

更(ふ)くる夜半に 門を敲(たた)き

わが師に託せし 言(こと)の葉あわれ

今わの際まで 持ちし箙(えびら)に

残れるは 花や今宵の歌


映像は途中から、学芸会の舞台で堂々と独唱する少年を映し出した後、それを客席から見守る母と松五郎の満足げな表情に繋がっていったのである。

それは、一人の少年の日々の、忘れ難い至福の思い出を刻む象徴的な描写となった。

しかし、思春期になった敏雄にとって、松五郎の存在が次第に煙たくなっていく。

他校との喧嘩の際には自分を守ってくれた松五郎だったが、その男に相変わらず「ボンボン」と呼ばれる恥ずかしさに、敏雄は耐え切れなくなっていた。

中学進学が決まって小倉を去る前日、夫人は松五郎を訪ねて、これまでにない頼みとは全く違った用件を切り出したのである。

「あの子のこと、これから“ボンボン”と呼ばんようにお願いしたいとですが。何だかお友だちに冷やかされて、決まりが悪いらしいんでね・・・」

これが、夫人の訪問の本来の目的だった。

松五郎は納得したように反応する。

「・・・じゃあ、若大将とでも呼ぶか」
「そんなこと言うたら、なお恥ずかしがります。まあ、吉岡さんとでも言うて下さい」

その信じられない夫人の言葉に、松五郎は動揺を隠せない。それは殆ど、言葉の暴力と言っていい程の衝撃だった。

「よ、吉岡さん?・・・丸っきり他人様のようじゃのう」

松五郎には反応すべき何ものもない。

その後、一人で、「吉岡さん・・・吉岡さん・・・」と呟いて、車を引く初老の男が映像に映し出されていた。

男の髪は白いもので覆われていて、その寂しい後姿が男の抑えた感情を炙り出していた。

アーカイヴライブラリーより
この残酷な物語の、最も残酷な展開が始まったのである。



4  「無法松」と呼ばれた男の最後の輝き  



敏雄が小倉から離れた後、松五郎は吉岡家と疎遠になった。

我が子のように可愛がっていた敏雄との別れは、松五郎を寂しい境遇に追いやった。

長く馴染んでいなかった酒を嗜むようになり、昔のような大立ち回りをする無法松は、もうそこにはいない。

飲み屋のポスターに描かれた和服女性の姿に婦人の面影を見て、狼狽する初老の男。

敏雄との関係で繋がっていた吉岡家に、今や訪ねて行く理由を持てず、男はひたすら待つだけの身を託(かこ)つようにも見えたのである。

しかし松五郎は、その心情をストレートに表したりしない。男の思いは、男の心の内にのみたっぷりと貯えられて、殆ど飽和点に達しつつあった。

飲み屋のポスターを自宅に貼って眺める、松五郎の寂しさを埋めるものは一つしかない。その寂しさが、束の間埋まったのである。

その年の夏祭りのある日、吉岡夫人が松五郎を訪ねて来た。

明日、先生を連れて小倉に帰省する敏雄のために、庭の手入れを依頼しに来たのである。

先生は夏祭りで催される小倉祇園太鼓を聴きに来たという。その太鼓を打つ者が小倉にはもういないことを婦人に語ったとき、松五郎は、密かに自分がその奏者になろうと考えたに違いない。先生を喜ばすことは敏雄を喜ばすことであり、延(ひ)いては敏雄の母を満足させることになる。男は夫人のためにこそ、祇園太鼓の奏者を買って出たのだ

男松五郎の人生の花道のような、小倉太鼓の“流れ打ち”。

祭りに集う人々の耳目を奪う演奏に陶酔するかのような、一世一代の男の晴れ舞台。


クライマックスは、祇園太鼓の“勇み駒”から“暴れ打ち”。映像に何度も登場する車輪の回転の描写は、このときばかりは眩い輝きを放っていた。

しかしそれは、「無法松」と呼ばれた男の最後の輝きだったのだ。



5  「分」で生きてきた男が、その「分」を越えたとき ―― 暴走した感情へのペナルティ



数日後、夏の花火が彩る宵に、松五郎は吉岡家を訪ねた。

それは、今までのような依頼によるそれではなく、自分の意志による訪問だった。

薄化粧した夫人をまじまじと見た松五郎は、「奥さん、今日はえろう美しい」と思わず本音を口に出した。

松五郎にしては珍しいこの艶っぽい言葉は、男の突然の訪問が意を決したものであることを充分に窺わせて、とても印象深い。

一貫して男の心を読めない夫人は、明日息子が小倉を離れる寂しさを、それよりももっと寂しさに苦しむ男に向かって静かに訴えたのである。

「もう、今年の夏はこれでお終いね、冬休みまで、また独りぽっち・・・早く敏雄が一人前になってくれなくては、そしていいお嫁さでも貰うて、あたしも楽をさせてもらわんとね・・・でも、子供は、そうした親の心配なんて、いっこう気にもしておらんらしいし、女親なんてつまらんもんですね・・・」

男は未亡人の話を聞きながら、必死に自らの寂しさを堪えている。

未亡人は、いつもと違う男の沈鬱な表情に気づいて、心配げに語りかけた。

「松五郎さん、あなた、どうかしたとですか?何かあったとですか?」

男はその表情を読み取られないようにして、込み上げてくるものを懸命に押し殺していた。

心配する夫人を振り切って座敷に上がり、吉岡大尉の遺影に向かって蹲(うずくま)るだけ。

「松五郎さん。言うて下さいませ。もしあたしたちにできることでしたら・・・」

心配する夫人は、男の心が依然として理解できない。

「奥さん、俺は寂しかったんじゃ・・・」
「どうしたとですと?」
「俺は帰ります。もう、お目にかかることはあるまい」

男は、これまでギリギリに抑えてきたものを遂に吐き出した。自分の方がもっと寂しいという気持ちを訴えたかったのだろう。自分が夫人の寂しさを受け止める対象として認知されていない寂しさ、それを訴えたかったのだ。

思いが通じない苦しさに、男は立ち上がろうとした。立ち上がろうとする自分を止めて欲しいという気持ちが、そこに少し繋がった。

「どうしてですと?言うて下さい。どうしてそんなこと・・・」

この瞬間しかなかった。

男は振り向きざま、夫人の優しい視線を確認しながら擦り寄っていく。

有りっ丈の思いの核心のところを吐き出そうとしたとき、夫人は反射的に後ずさりした。それが全てだった。

一瞬出しかけた手を引っ込めて、男は物語の終焉を感じ取ったのである。

「奥さん!俺の心は汚い!奥さんに済まない」

これが、映像に残した男の最後の言葉だった。

蹌踉(よろ)けるようにして吉岡家を飛び出した男は、未だポスターが貼ってある、暗く寂しい自宅の隅に倒れ込む。自らの叶わぬ欲望の卑しさと無念さに、頭を強く拳で何度も打ちつけた。

小倉祇園祭(ウィキ)
それは、暴走した感情へのペナルティのようだった。「分」で生きてきた男が、その「分」を越えたとき、そこに待っていた哀しい結末は、恐らく男にとっても予想されたものだったのである。



6  語らない映像が苛酷なまでに暗示したもの



それでも男は恋をした。

それが大いなる片思いであることを予感しつつも、男はその一方通行の恋を捨てられなかったのである。両者の間に横たわる「分」の距離は、あまりに隔たっていた。越えてはならない「分」の壁を越えようとしたとき、男の運命は極まったのだ。男の恋も極まったのである。

恋の快楽は「達成の快楽」である以上に、しばしば「想像の快楽」であり、「プロセスの快楽」でもある。男はこの「プロセスの快楽」の枠内に、自分の感情を押さえ込めなかった。押さえ込もうとしてもなお溢れる男の思いが、魔が差したかの如く、遂に「分」の抑制力を突き抜けてしまったからである。そこに男の悲劇の全てがあった。


まもなく冬が来て、敏雄がかつて通った小学校の、雪の積もった校庭の隅に、男の動かぬ体が横たわっていた。男が最も馴染み、懐かしい思い出が詰まった場所が、叶わぬ恋に生きた男の死に場所になったのである。

男が吉岡家を去ったあの夏の日から、この臨終の描写までの数ヶ月間、映像は何も語ってくれない。

そこで少し語ってくれたのは、古寂びた人力車を引く男の寂しい後姿であり、いつもの飲み屋で手酌で酒を飲む男の、物言わぬ侘しい姿のみ。最後まで吉岡夫人が男を訪ねることがなかった事実を、この語らない映像が苛酷なまでに暗示する。語らない映像の内奥に潜む残酷さが、そこにあった。

描かれない描写の中にこそ、映像の本質があったとも言えるのだ。

結局、最後まで「分」を越えさせなかった吉岡夫人と、その「分」を束の間越えようとして、遂に越え切れなかった松五郎との距離の絶対性。

これは、そんな絶対的な距離の内包する悲劇を刻んだ映像だったのだ。



7  一服の、しかし魂を揺さぶるような救いが用意されても



残酷な映像の残酷な展開の最後に、一服の、しかし魂を揺さぶるような救いが用意されていた。

松五郎の遺品から、封を切らずに束ねられていた吉岡家からの礼金袋と、吉岡母子名義の預金通帳が、宝物のように保管された状態で出てきたのである。松五郎が慕う親分がそれを手に取って、夫人に見せていく。

「見てやって下さい、奥さん。あの暮らしの中で、なんちゅう奴でしゅうか、松は。あなたと御子息の名前で、五百円余りも預けています」
「あたしたちは、松五郎さんに、何一つして上げなかったのに・・・」

それを知って嗚咽する吉岡夫人。それ以上、もう何も語れない。

「珍しゅう、気っ風のいい人じゃったなぁ・・・」と親分。

夫人は静かに立ち上がり、松五郎の遺体に寄り添って、そこでまた嗚咽を繋ぐ。映像は松五郎の遺体を最後まで映し出さない。夫人の嗚咽で全てを表現し切ったのだ。夫人の蹲(うずくま)る姿が映し出されて、映像は完結したのである。

それにも拘らず、二人の距離の絶対性は、恐らくこの描写によっても打ち破られることはなかったであろう。

映像の最後に提出された救いよりも、描かれなかった描写の残酷さの方が、私の記憶の残像に鮮烈な印象を残してしまうのだ。


*       *       *       *



8  「無償の愛」という名の滑稽さ 



やはりこれは、「純愛一直線」という単純な括りで片付けられる映画では決してない。

アーカイヴライブラリーより
吉岡夫人は、松五郎を最後まで異性の対象として見ることはなかった。男の親切に対して、夫人は一貫して、謝礼金という形でしか恩に報いることをしなかったのである。

その行為は、「分」を弁(わきま)えた夫人の礼節の証であって、それ以外の何ものでもなかった。

或いは、薄々男の感情を汲み取っていたかも知れないが、亡夫への貞節を守るという退路を確保することで、恐らく夫人は、確信的に男の感情の侵入を拒んだのである。

全く隙を見せなかった夫人の態度の堅固な壁を前にして、男は夫人の息子を鍛えるという通路を抉(こ)じ開けるのが精一杯だった。

その息子が去った後、男は心の空洞を埋めるのに、飲酒以外の処方を持たなかった。飲酒で心臓を患った父親を反面教師にして、暫く禁酒していたその男が飲酒に逃げる心の寂寥感は、あまりに哀切すぎる。それもまた、男が選択した人生の結果なのである。それ以外ではないのだ。

―― 映画を観た人の中に、「無償の愛」への感動を率直に語る人がいるが、私はいつも疑問に思う。「無償の愛」などというものの存在が、一体、人間の精神世界に於いて可能であるのか。

親切の代償によって得られる、何とも言えぬ心地良さ。

そんな快楽を手に入れるために人が動くのは、寧ろ自然ではないか。

感謝されて気持ち良くなることを密かに目的とする、親切や愛情の表出は、ある意味で最も人間的な行為であり、更にそれを隠す少しばかりの謙虚さもまた、人並みの人間であることの証明でもある。 精神的快楽という、眼に見えないが、明らかにそれを手に入れることを願った行為を称して、「無償の愛」などと括るのは滑稽なのである。

松五郎の親切は、夫人の感情と密かにクロスする快楽をも視野に入れた行動であることは明白である。

だから彼はより人間的であったのであり、愛すべき人柄でもあったのだ。

その快楽を強引に求めないいじらしさや、「分」を弁えた、ある意味で臆病心も含まれていたかも知れないストイシズムの葛藤の内にこそ、まさに松五郎という人間の圧倒的な求心力が表現されていたのである。



9  距離の哲学という枠組みの中で



松五郎の自我を根柢に於いて支配していた、「分相応」の「人生哲学」。それは距離の哲学でもあった。

稿の冒頭で、私はこの「人生哲学」を、「特定他者、または特定他者像に対する相対的距離感によって、自らの行動の枠組みを定めることである。

即ち 、相手との距離感が、自らの内に相手との価値観や意識構造、感情傾向の落差の感覚を作り出すことで、自己の表現的営為を相対的に縛ってしまう態度のことである」と一応定義付けてみた

ここで言う特定他者とは、松五郎にとって吉岡夫人を意味することは言うまでもない。

彼の後半生の生活風景は、夫人との相対的距離感によって、その枠組みが殆ど定められていたように思える。

しかし、夫人との価値観や意識構造の落差は決定的でありすぎた。

それ故に、その落差を埋めようと努力する余地すら、そこに見出せなかった。

双方向の交信の律動感を内包できない程の落差が、両者の「分」の関係構図の内に初めから固定化されていたから、男の思いが昂(たかぶ)るほど、その悲劇的結末が予約されてしまったのである。

恐らく、士族の血筋を繋いできたと思われる吉岡家と、小学校も出ていない無教養な松五郎との意識構造の落差は埋めようがない。

この一方通行の恋の内実は、そこに至るドラマの契機すら作れない丸ごと幻想の戯言(ざれごと)でしかなかったのだ。

それを痛切に感じていたからこそ、彼は「分相応」の「人生哲学」を駆け抜けようとしたのである。

だが、男の思いが遂に飽和点に達したとき、その人生は破綻を見せた。

それはあまりに無謀な突破であった。男は最も馴染み、懐かしい思い出が詰まった場所に誘(いざな)われて、そこに盛られた雪面の上に身を横たえたのである。

「妬まず、恥じず、過剰に走らず」というイメージに近い「人生哲学」を、本作の主人公が自己完結できたか否か、その評価は観る者によって分かれるだろう。

しかし、その種の「人生哲学」がなお健在であったから、男は必要以上に煩悶するに至ったのであり、必要以上に自らの「汚さ」を弾劾するに及んだのだ。

その結果、男が選択した流れ方のイメージは、そこまで本作と付き合ってきた人たちには充分に推測し得るものであったと言えるだろう。

小倉祇園太鼓・MAPPLE 観光ガイドより
繰り返すようだが、男はそれ以外にありえないような選択的な展開の苦渋なる括りを、自らの人生に於いて、恰もそこに誘(いざな)われる者の如く、或いは、流される者の如く身体化し切ってしまったのである。

恐らく、決定的なまでに隔たった、「分」の障壁の向こう側に険しく聳(そび)え立つかのような、魔境と思しき世界との偶発的なクロスさえなかったら、多分に愉快で、しばしば、状況逃避を拒む侠気を開いて見せる「車屋一代」の、まるで絵に書いたような人生を、男は自らのサイズを捨てることなく自己完結していったに違いない。



10  それ以外にないと思える流れ方で駆け抜けた、自分に見合った人生の軌跡



では、男は自らの人生に奇跡的に出来した「不幸」な人生の軌道を、唯、なぞってしまっただけなのか。

そうではあるまい。

男にとって、自らの人生に偶発的に出来した人生の甘美な芳香を彼なりに充分満喫したはずだし、また状況が許容しうる限り、そこで拾った蜜の味を存分に賞味したに違いないのである。

それは勿論、精神的快楽であり、私の言葉で言えば、「想像の快楽」=「プロセスの快楽」であるに違いないが、それでも男にとって、その時間は特別に意識する何かであり、他の何ものにも変えることなく占有したい時間でもあったのだ。

小倉駅南口前の小倉祇園太鼓銅像(ウィキ)
確かに、「分」の障壁を強行突破できずに男が戻って来た世俗の世界は、男の心に穿(うが)たれた空洞を埋めるには、あまりに決定力が不足する味気なさに満ちていた。当然過ぎることだ。そのことは、男の内側で、長い時間を要して発酵醸成してきたものの価値の大きさを検証することを意味するだろう。

然るに、その価値ある時間を決定的に手放したと感じた男は、自らの振舞いの一切を「汚い」と決め付けて、その心を多いに恥じ入り、行為の「過剰さ」を弾劾するに及んだのである。

「妬まず、恥じず、過剰に走らず」という「人生哲学」に、それなりに振れていった感のある男の心に埋め難い裂け目が生まれ、それが自己運動のように膨張してしまった先に垣間見えた、未知なる恐怖と不安の感情の澎湃の中で、男は決定的な選択を拾ってしまったのではないか。そう思われるのだ。

それが人間なのである。

それが、私たち人間の、自在性を保証しているかのようで、それがしばしば、中々自分の思うようにいかないその心の世界の、際立って厄介なるところなのだ。

男は自分に見合った人生の軌跡を、それ以外にないと思える流れ方で駆け抜けたのである。それでいいではないか。そう思わせるに充分な物語だった。

これは、あまりに苛酷な「分相応」の「人生哲学」を駆け抜けようとして、それが頓挫した男の魂の哀切極まる物語であった。相手を問わず特定他者を愛することを避けられない、人間という深き業の悲哀を見事に描き切った傑作、それが「無法松の一生」だった。

「分相応」の本来的な「人生哲学」とは、決して垣根を越えずに、距離を大切にしつつ、自分なりの宇宙を自分の裁量で、程ほどに楽しむことができる生き方であると私は考えている。

松五郎という快男児は、こんな生き方の近くでウロウロしていたが、宿命的に背負わされた距離の絶対性と、そこに淵源する負荷のあまりの大きさによって、程ほどに楽しむ人生の余裕を自らの内に作り出せなかったのであろう。その意味で、男は絶望的な人生のコース取りを選択してしまったのである。

そういう人生を選択した松五郎は、その人生を生き切って、果てていった。

それだけのことである。

それだけのことだが、そこに凝縮されている人生の一つの裸形の様態に、私はただ深々と共感的に見つめるだけである。

(2006年1月)

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