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2010年2月9日火曜日

殯の森('07)   河瀬直美


<「モーニングワーク」を同時遂行させた者たちの着地点>



1  「森」以前と、「森」以後の映像世界の乖離感を惹起させたもの



「体系性」を生命とする思想に対して、芸術表現は「完成度」を生命とすると言っていい。

芸術表現の代表格である映像表現の「完成度」は、「映像構築力」を根幹とするだろう。

その「映像構築力」は、「主題提起力」と「構成力」に支えられていると私は考える。

「構成力」とは、一言で言えば、映像展開を破綻なくまとめていく技巧的力量である。

その観点で本作を評価するならば、「映像構築力」の致命的な欠陥は見られないかも知れない。

しかし、観終わった後の物足りなさ、消化不良感の原因を求めるとき、主観的に把握したイメージを言えば、「森」以前の自然な描写と、「森」以後の作家的映像性の濃密な描写との乖離感が気になってしまうのである。

大雑把に言えば、「森」以前がドキュメンタリーであり、「森」以後が「物語」であるということだ。

確かに、「森」以後の物語の伏線の全ては、「森」以前のドキュメンタリー的映像の中で用意されていた(注)ので、「構成力」の決定的破綻は見られなかった。

しかし、「森」以前と、「森」以後の映像世界の乖離感を惹起させたものが、この映画にはあるのだ。

惹起させたものの要因の大半は、「作家性」の濃密な物語を構築した「森」以後の映像世界に、「主題提起力」が過剰に暴れてしまったところにあるように思える。

「主題提起力」を包含させたものは、「生と死」の問題であり、「老いと生きがい」、「介護する者と介護される者の関係のあり方」などであるが、それらのテーマを根柢において支配するメッセージは、大涅槃経的なこの国の自然観(「一切衆生悉有仏性」)や、生者と死者が出会い、魂をクロスさせる場所としての「森」の思想(「殯の森」=「敬う人の死を惜しみ、しのぶ時間のこと」)、死生観(「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という諸行無常観)、更に、映像序盤で僧侶が語った、「生きることは食べることだけではなく、生きる意味を感じること」という人生観であると言えるだろう。

そのような作り手の「主題提起力」が、「森」以後の随所随所にリアリティを欠いた一連のシークエンスの中で、殆ど独り善がりと思えるような騒ぎ方を露呈してしまったのである。

「森」以後の映像世界において、「介護する者と介護される者」が本質的に包含するであろう、「権力関係性」の自壊に関わる描写が開いた世界は、「生きている意味を感じること」を身体表現する、軽度な認知症(直前まで日記を書く能力を持つ)の男が支配し切る純文学の表現文脈だった。

これは明らかに、「森」以前のドキュメンタリー的映像が保有していた、「自然の優しさ」と切れた「自然の厳しさ」が、「介護する者と介護される者の関係のあり方」を逆転させてしまったのである。

私が気になるのは、大涅槃経的なこの国の自然観や、死生観、「生きる意味を感じること」という人生観が、「森」以後のシークエンスの中に雪崩込んでいって、そこに「介護する者と介護される者の関係のあり方」の本来性を中枢メッセージとして、堂々と謳い上げていく作り手の「主題提起力」の強引さである。

普通に考えても、このように複雑で、あまりに本質的なテーマを一点集中させるのが困難であるのに、本作の作り手は「森」以後のシークエンスの中で、それらを奇麗にまとめ上げてしまったのだ。

そこに、この作品が開いて見せた、「映像構築力」の強引さと不具合さを感受してしまうのである。

即ち、「森」以後のシークエンスが、抜きん出た自然描写の切り取りに見られたような、「森」以前のドキュメンタリー的映像性が持つ自然な描写を希釈化させてしまったのだ。

それだけ、「森」以後のシークエンスで、作り手の観念が勝ち過ぎてしまったということである。


(注)葬送の儀式での長いラインと「殯(もがり)の森」、自然情景の変容、新人介護士の「モーニングワーク」、認知症患者のリュックへの拘り。鬼ごっこと「殯の森」での共依存化、等々。



2  「森」以前のドキュメンタリー的映像性 ―― プロットライン①



簡単に、物語を検証してみる。

「こうしゃな、あかんということはないから」

この極めつけの言葉は、亡妻の思い出が詰まった認知症のしげきのリュックを片付けようとして、怪我をさせられた新人の女性介護士の真千子が、ベテランの主任介護士に慰撫された言葉。

その直後の映像は、自分のミスで愛児を死なせてしまった真千子が、しげきを相手に広大な茶畑で、笑い弾けるままに鬼ごっこ(かくれんぼ?)をするシーン。

これは、「こうしゃな、あかんということはないから」という言葉によって、肩の力が抜けた彼女の解放感を表現していた。

言わずもがな、しげきが躍動する、木登りによる落下から、この鬼ごっこの一連のシークエンスの伏線にあるのが、映像序盤における和尚の説教。

そのとき、「私は生きているんですか?」というしげきの問いに、和尚は、「生きることには二種類ある。ご飯を食べることと、生きている意味を実感すること」というような重要な説教を添えたのである。

既に、この時点で、「生きていること」の意味を実感できないしげきの閉塞感が露呈されたのだ。

それは、彼の墓参行への行動喚起が促された、その心理的必然性を読み解くキーワードだった。

ともあれ、すっかり打ち解けた女性介護士と認知症の老人のしげきが、老人の亡妻の墓参りに行くというシーンが、まもなく開かれていったのである。

ドライブの途中で、真千子が運転する車が脱輪してしまう事故が出来してしまった。

その後、近所に助けを呼びに行く真千子のいない間に、しげきが車から降りて、一人で勝手に歩き出して行った。

彼にとって、亡妻の墓参のみが目的なのだ。

戻って来た真千子が自分のパートナーを探し出して、今度は二人で畑での鬼ごっこをした後、畑からもぎ取った西瓜を食べ合うシーンが挿入されたが、これは明らかに、茶畑での鬼ごっこの場面の延長上にあるもの。

ここでも、「こうしゃんなあかんってこと、ないから」という、決定力を持つ言葉が生きている描写であった。

そして、ここまでが、「森」以前のドキュメンタリー的映像性が律動感を随伴する、「森」の入口にアプローチした本作の前半に当たるもので、漸次、運命を共にする時間を開く二人は、「殯の森」の奥深くに踏み入って行く。

ここからが、「物語性」の濃密な、「森」以後の映像世界のシークエンスが開かれていったのである。



「森」以後の映像世界のシークエンス ―― プロットライン②



亡妻が眠る「殯の森」への困難な墓参行の背景に、近畿地方になお残る「両墓制」の風習が存在するのかも知れない。

両墓制の埋め墓(ウイキ)
「両墓制」とは、土葬を基本とする「埋め墓」と、石塔を建てるだけの「詣り墓」を分ける古くからの墓制習俗で、その根柢にあるのは、「人間の死との近接」を忌み嫌う「穢れの観念」である。

「死に対する恐怖感」が、その風習に深く関与しているとも言われるものだ。

だから、本物の死者を埋める墓を、しばしば「森」の奥深くに作ったのであろう。

いずれにしろ、奈良県に多いと言われる「両墓制」が、説明描写を削り取った本作のケースでも、同様の墓制習俗と決めつけられないところである。

物語を、もう少しフォローしていこう。

「殯の森」の奥深くに踏み入ったばかりに、二人は迷ってしまった。

「殯の森」での迷走は、観る者にとって予想された展開であるが、それが「物語性」を深めた映像の宿命でもある。

携帯(文明)が通じない世界で、二人、とりわけ、真千子が目の当たりにしたのは、外観からでは推し量れない厳しい自然の現実だった。

「森」以後の映像世界を仮構したが故に、随所にリアリティの問題で疑問符がつくシーンが見られたが、中でも、豪雨の後の焚き火の描写には驚かされた。

この描写の狙いが、裸で体を温め合うことで二人の心理的距離を縮める効果によって、ラストシーンでの「ありがとう・・・」の交歓の伏線になると同時に、今や、「前線での苦闘の相棒」と化した新人介護士の真千子が、フラッシュバック(後述)に襲われることで、二人が「モーニングワーク」を切に必要とする者同士の、濃密な共依存関係にある現実の伏線として重視されたからだろう。

その後の物語展開は、「殯の森」の中での亡妻とのダンスシーンを経由して、「前線での苦闘」を象徴する深い森を彷徨する描写が挿入されていく。

「前線での苦闘」の後の長い夜が空けたとき、遂に、しげきは妻の亡骸の眠った場所を発見し、土を掘り起こした後、その場所に、彼が長年にわたって残した何冊もの日記帳を埋めたのである。

目的を果たした男は、「土の中へ眠ろう。気持ちいいなあ・・・」と言って、掘り起こした穴の中に身を委ねていく。

「ありがとう・・・」としげき。
「ありがとう・・・」と、「前線での苦闘の相棒」だった真千子。

ラストシーン。

オルゴールの音を、天に翳(かざ)す真千子がそこにいた。 



4  「モーニングワーク」を同時遂行させた二人の着地点



この映画の中で、良くも悪しくも、作家性の本領が発揮されていると思える点は、愛妻への深い思いを整理できない軽度な認知症患者と、自分のミスで愛児を死なせてしまった新人介護師の二人が、「森」以後のシークエンスの本質である、墓参行という極めて大胆な物語設定をする中で、二人の「モーニングワーク」(喪の仕事)が、ほぼ共依存的な関係の延長上に同時遂行されるという行為の特質性である。

認知症患者であるしげきが、豪雨の渓谷を突き抜けていくエネルギーを保有するという、些か描写のリアリティが疑わしい創作性に目を瞑れば、「森」の中の彷徨を支える熱量を前提にした物語が、柔和にソフトランディングする世界に待つものは、「モーニングワーク」の同時遂行であったということ。

それが、ラストシーンにおいて、しげきの亡妻の思い出であったオルゴールを、新人介護士の真千子が天に向かった翳す描写に繋がったのである。

またしげきが渓谷を渡る際に、フラッシュバックが起こった彼女の放った言葉(「行かんといて!行かんといて!」)の意味は、彼女もまた、「モーニングワーク」を必要とする一人の人間であるという現実を検証したものだ。

思えば、「森」以前の冒頭のシーンで、彼女が子供を亡くしたトラウマを想起する描写があった。

「あのときさ、何で手を離したんだよ!・・・何で死んじゃうんだよ」

やがて、離婚に至る夫から浴びせられた非難の言辞を一身に受ける妻が、そこに竦んでいたのだ。

オルゴールを天に向かった翳す描写によって閉じていくという、勝負を賭けたラストシーンが意味するものは、「見えないものへの愛の眼差し」を象徴する、昇天した我が子への作り手の中枢的メッセージであったに違いない。

亡妻への「モーニングワーク」を果たした末に、亡妻が眠る土の中にその身を預けたしげきが逢着した「安らぎ」の世界を、嗚咽の内に確認した後、自らも「モーニングワーク」を完結させていく物語の創作性が極まったとき、「森」以前のドキュメンタリー的映像と切れた「主題提起力」の暴れ方もまた自己完結していったのである。

但し映像は、「モーニングワーク」を同時遂行させた二人が、ヘリコプターの音が遠ざかっていくシーンの挿入によって、命を奪うかも知れない「殯の森」の彷徨の果てに、彼らの未来の困難さを暗示することを添えていた。

正解である。

このように安易な予定調和を排しながらも、本作は、「この世には希望がある」(作り手の言葉)というメッセージを残した、印象深いが、しかし映像構築力において不必要な「若さ」を露呈した映像だった。



5  「独り善がり」のナルシズムを超えて



ここに、作り手の言葉がある。

「受賞直後の記者会見では『今、日本が大切にしなければならないものを、世界に発信できて誇りに思う』というようなことを言いました。でも考えてみると、生きる上で精神的なつながりを大切にしなければならないことは、日本人だけではなくて、地球に生きる人すべての課題なのかもしれません」(この世には希望がある~河瀬監督「殯の森」受賞記念会見2007/06/13 JanJanより)


「地球に生きる人すべての課題なのかもしれません」、などという言葉を最も毛嫌いする私が標榜して止まない、「全身リアリスト」のスタンスは、本作で提示された「死生観」を全く受容しない把握をも包含している。(「おくりびと」の映画評論参照)

だから正直に言えば、作り手のこのようなコメントを聞くに連れ、私は芸術表現者に多い「独り善がり」のナルシストという印象を拭えないのだ。

河瀬直美監督
思うに、私たちの世界で、「独り善がり」のナルシズムが何となく許容されているのは、映画監督やアーティスト、ミュージシャンを生業とするような芸術表現者などに限定されているような印象を受ける。

およそ政治やビジネスのフィールドに携わる者たちには、このような「独り善がり」のナルシズム然とした発想の導入は禁句と言っていい。

ありもしないユートピアの実現を夢想したり、できもしない超ド級の理念を標榜したりする厚顔無恥さに呆れてしまう私にとって、ある種の芸術表現者の内側に張り付く、どこか一歩抜きん出た何かを持っているという幻想を誇示して止まない類の、その信じ難い非武装の騒ぎ方は、恐らく、「快不快の原理」で生きる子供の思考次元のアナーキーな自己運動の類にしか見えないのだ。

本作の作り手が、そんなカテゴリーに含まれる表現者であるか否か私は断定しかねるが、少なくとも、ここに引用した記者会見等(注)を介しての彼女の過剰な自己顕示を読む限り、とても私の趣味に合う作品を提出してくれる可能性は困難に近いと思われるのである。

それでも、強烈な「主題提起力」を投げ入れた作品を発表し続ける、その根気と熱意がなお継続されているメンタリティを知る限り、価値観の差異を超えて応援したいという思いも捨てられないところである。

正直言って、この作り手の映像作品を私は3作しか鑑賞していないが、機会があれば、今後も引き続き、彼女の入魂の映像を鑑賞する意欲だけは私の中でなお延長されているのである。

その際、「独り善がり」のナルシズムを超えている映像との出会いを切望するのは言うまでもない。


(注)「カンヌの歴史に足跡を残したと胸を張って言いたい。10年前に賞(新人監督賞)をいただいたが、カンヌは私の映画を待っていてくれて、私を育ててくれていた気がする」(カンヌの記者会見での発言)


(2010年2月)

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