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    4 日前

2010年4月21日水曜日

太陽がいっぱい('60)   ルネ・クレマン


<「卑屈」という「負のエネルギー」を、マキシマムの状態までストックした自我の歪み>



1  「越えられない距離にある者」に対する、普通の人間のスタンスを越えたとき



「越えられない距離にある者」に対する、普通の人間のスタンスは二つしかない。

一つは、相手を自分と異質の存在であると考え、相対化し切ること。

例えば、「越えられない距離にある」相手もまた、「自分とは違う、人に言えない悩みを持っているのだ」などと考える「相対思考」こそ、徒に「卑屈」に陥らないクレバーな自我防衛の方略であるだろう。

天国と地獄」(1963年製作)の犯人は、この「相対思考」に自我をシフトできずに「地獄」への幽門を開いてしまった。

「卑屈」という「負のエネルギー」が、激昂、虚勢、更に、欠如意識や優越への過剰な情感とリンクすることで、「相対思考」を自家薬籠中(じかやくろうちゅう)の物とするレッスンが不足し過ぎていたのである。

もう一つは、相手を相対化できず、相手と何某かの形で競争し、或いは直接対決すること。

そのことによって、相手を乗り越えるとイメージできるような心理状態に自らをシフトしていくことだが、このパターンは、「青春映画」(後述)のモデルの一つであると言っていい。

ところが、以上の二つのスタンスの他に、ごく稀に、「第三の選択肢」というものが存在する。

相手の存在を、全人格的に抹殺することである。

これは、当然の如く、普通の人間のスタンスを越えているから、多分に確信的な犯罪者のケースに当て嵌まるだろう。

トム・リプリー
本作の主人公は、件の、ごく稀な「第三の選択肢」に身を預けることで自壊するに至った男の物語であった。

なぜなら、「完全犯罪」が成立しなかったからだ。

「完全犯罪」の困難さについては後述するが、以上の把握を踏まえて、2では本作の骨子を整理したい。



2  「青春映画」の彩りを含む「サスペンス映画」



何より、本作は「青春映画」であると同時に、「サスペンス映画」であるということだ。

と言うより、「青春映画」の彩りを含む「サスペンス映画」であると言った方がいい。

「青春映画」についての私の定義は、以下の通り。

「自らが対峙・克服すべき『敵』を仮構し、それと葛藤すること」を主題にした映画であるということ。

ここで言う「敵」とは、家族の成員、教師、周囲の大人、友人、或いは、「社会」という漠然としたものでもいいし、それを「権力」と置き換えても構わない。

要するに、「敵」を仮構し、その対象人格と葛藤することによって、手酷い挫折経験を包含するような、自我確立への曲折的な自己運動を展開するという物語が成立するということである。

その典型作品として、衰退化するテキサスの小さな町での、親友との三角関係の縺(もつ)れによる確執や、周囲の大人との葛藤を描いた、ピーター・ボグダノヴィッチ監督による、「ラスト・ショー」(1971年製作)というニューシネマの傑作を挙げてもいい。

次に、「サスペンス映画」についての私の狭義の定義は、以下の通り。

「犯罪に関わる者の、間断ない緊張感の延長感覚」が、映像構成の中で主要なファクターに成り得る映画である。

女の中にいる他人」より
その典型が、成瀬巳喜男監督による「女の中にいる他人」。

「自首するんだ!それがたった一つのしなければならないことだ。救われる道だ」

こんな言葉の連射によって、三度にわたる「告白」という暴力によって、妻を必要以上に懊悩させた挙句、その妻に、以下の覚悟を括らせた「サスペンス映画」の隠れた名作が想起される。

因みに、そのときの妻の覚悟のモノローグ。

「こうなったら、表玄関から堂々と出て行こうとしているあの人を、あたしが裏口からこっそり連れ出してあげるより仕方がないわ」

結局、妻による夫殺しによってしか自己完結し得なかったのである。

抜きん出た心理描写中心の構成力によって、この映像ほど、「犯罪に関わる者の、間断ない緊張感の延長感覚」が途切れなかった作品は滅多にない。

カテゴリームービーの支配下にあるケースにおいて、まさに心理描写の絶妙な技巧こそ、「サスペンス映画」の生命線である所以である。



3  「卑屈」という「負のエネルギー」を、マキシマムの状態までストックした自我の歪み



以下、本作のケースを考えてみたい。

まず、前者(「青春映画」)については、本作において、主人公であるトム・リプリーの「友人」のフィリップが、仮構された「敵」として描かれている。

冒頭の場面で、5年ぶりに会ったリプリーを、当人を嫌う友人のフレディに紹介するときに、「あいつは役に立つ」と語っていた。

このワンシーンは、恐らく、映像全体を貫流する重要な描写である。

リプリーとフィリップ
フィリップにとって、リプリーの存在が、良くて「悪戯相手」、悪くて「道具」以上の存在ではないからだ。(後述)

そして、そのリプリーから見れば、フィリップの存在は、階級的位置づけや、消費・蕩尽・需要能力という観点で見れば、「越えられない距離にある者」であると言っていい。

この文脈的把握によって、相互の身分の距離感覚に起因する、「優越」と「卑屈」の心理的関係の歪みが必然化したのである。

映像前半で描かれる、この両者の関係の歪みは、幾つかの場面で描かれていた。

「僕のマルジュ。愛してる。分ってるはずだろ。君を捨てて、誰があんな奴と帰るもんか」

これは、鏡に向かって、リプリーがフィリップの服を着用し、靴を履きながら独言するシーン。

マルジュとは、フィリップのフィアンセ。

「あんな奴」とは、トム・リプリー自身のこと。

彼はこの時点で、フィリップへの「同化」を果たそうとしているのだという解釈が一般的である。

しかし、この場面を目撃したフィリップから厳しく指弾されてもなお、従順な振舞いを延長せざるを得ないリプリーの自我の卑屈さが露わにされていた。

左からフィリップ、マルジュ、リプリー
リプリーを含む3者の共存を良しとしない、この関係の歪みを視認する不快感も手伝って、フィリップを占有し得ない苛立たしさが噴き上げることで、マルジュの感情の不満が沸騰し切っていた。

この不満のエネルギーを、マルジュのように、下船するという「距離の戦略」によってクールダウンさせることができれば問題ないが、本作の主人公の場合は、先の「天国と地獄」の犯人にも似て、彼の自我に張り付く「卑屈」という厄介な感情を起動点にしているので、元より「距離の戦略」の有効性は無化されていたのだ。

前述したように、「卑屈」という「負のエネルギー」が、激昂、虚勢、更に、欠如意識や優越への過剰な情感とリンクすることで、トム・リプリーには「相対思考」への選択の余地が閉ざされてしまっていたのである。

そんな厄介な男に残された選択肢は、あまりに限定的だった。

トム・リプリーは、それ以外にチョイスし得ない、最も野蛮な「第三の選択肢」に流れていったのだ。

即ち、相手の存在を全人格的に抹殺するという例外的な選択肢であるが、この「第三の選択肢」に流れていかざるを得ない「悲哀」こそ、彼の最大の「不幸」であったと言えるだろう。

それは、「出会うべきでないタイプの男」と出会ってしまった「不幸」であるが、その「不幸」の暴力的解決を必至とするほどに、彼の内側の「卑屈」という「負のエネルギー」を、マキシマムの状態までストックした自我の歪みこそ、彼の真の「不幸」の正体なのである。



4  「否定と破壊」を指向する感情密度に大きく振れていく起動点



淀川長治
因みに、この二人の関係を淀川長治は「ホモセクシャル映画の第1号」(ブログ「映画古古東西」より)と書いているが、その把握は見当外れだと思う。

以下、引用する。

「彼は金持ちの坊ちゃんの全てが好きになっちゃうのね。(中略)片っ方はネクタイから靴から全部欲しい。片っ方はそんなことをいう感覚の男が欲しい。憎らしいけど離れられない。それがだんだんクライマックスになってくるとエキサイトしてくるのね」(「恐怖対談・こわいでしたねサヨナラ篇」)

原作を度外視して、少なくとも本作で描かれた文脈から読む限り、二人はホモの関係などではない。

ホモセクシュアルとは、「同性に対する恋愛感情」、即ち、「性的指向」を指す概念である。

淀川は、二人の関係について「同化」という概念に誘導したいのだろうが、明らかに読み間違えているのだ。

「同化」とは、異質なる人格像に自我を投入することで、心理的一体感を手に入れることだが、この映画の主人公の場合、「濃密な感情共有」を基幹モチーフとせず、寧ろ、卑屈という「負のエネルギー」を推進力とする感情によって、身分、階級や消費・蕩尽・需要能力に関わる「関係の優劣性の否定と破壊」を、屈折的なミッション・ステートメント(行動規範)の起動点としているのである。

即ち、二人の関係の本質は、「共有」という概念になく、「否定と破壊」を指向する感情密度にこそ大きく振れていると言えるだろう。

更に言えば、この二人の関係は、「ホモソーシャル」(男性同士の強い連帯関係)的な「友情」を具現する関係にも届いていない。

因みに、「友情」に関する私の定義は、以下の通り。

「親愛」、「信頼」、「礼節」、「援助」、「依存」、「共有」である。

以上の仮説に照らせば、二人の関係の本質が透けて見えるだろう。

こんな言葉が拾われていた。

「あいつは役に立つ。使い走りから料理、経理、ヘリの運転、サインの偽造まで」

これは、「あいつは好かん」というフレディの忠告に対するフィリップの反応。

父親からの送金が途絶えた事実を知ったフィリップには、5年ぶりに会ったリプリーの利用価値がなくなっていたから、このような本音が吐き出されてしまうのである。

更に、二人の会話。

「15の時も君の船にいた。僕は溺れかけ、君に助けられた。地獄まで一緒だ。親父さんには嫌われていた。出が卑しいと・・・貧しいが、頭は働くってとこかな」

このリプリーの些か屈折した自己顕示に対して、以下のフィリップの厭味に充ちた反応には本音が見え隠れしていた。

「上品ぶりたがるのが、そもそも下品だ」

このフィリップの一言は、ナイフの使い方を例に出して、「関係の優劣性」を吐露したものだ。

このとき、リプリーを傷つけたと心配するマルジェに答えたフィリップの一言は、もっと攻撃性に充ちていた。

「奴の目的は金だ」

フィリップは、ここまで言い切ったのだ。

彼は、リプリーの邪心を疾(と)うに見透かしていたのである。

この関係のどこに、「友情」の構成要件(私の仮説に過ぎないが)が垣間見られるのだろうか。

或いは、「同性に対する恋愛感情」、即ち、「性的指向」が垣間見られるのだろうか。

この一連の振舞いから推測し得るのは、二人の関係が、「濃密な感情共有」を基幹モチーフとしない事実の反映以外ではないだろう。

因みに、フィリップ所有のヨット内での、この会話の後のシークエンスは、最も野蛮な「第三の選択肢」に流れ込むリプリーによる「完全犯罪」の、その「不完全犯罪」の現実の様態だった。



5  「第三の選択肢」に流れ込む「完全犯罪」への決定的モチーフ



本稿では、「完全犯罪」に関わる詳細なプロットに言及するつもりがない。

「犯罪に関わる者の、間断ない緊張感の延長感覚」という点において一定の達成が見られるものの、本作では、その類の「サスペンス映画」の醍醐味よりも、主演俳優のセクシャルな魅力ばかりが喧伝されているので、その辺りに全く関心がない私としては、件の面のみ強調化されたかのような事件後のプロットを割愛した次第である。

ここでは簡潔に、「第三の選択肢」に流れ込む、リプリーによる「完全犯罪」への決定的モチーフの描写を再現したい。

4で書いたように、男二人と女一人という難しい状況を作り出した関係性の中で、一方的に「下賤な者」という役割をラべリングされたリプリーは、更に、その恥の上塗りをさせられるに至った。

恋人同士の睦みの世界から、帆船の甲板に駆逐されるという屈辱を味わったのである。

船室内で交される会話の内容が気になってならないリプリーは、そっと二人の話を盗み聞きした。

心の中で湧き上がるフィリップへの反発が、リプリーをして、わざと船を揺らして二人を慌てさせるという一件を出来させたのは、その直後だった。

当然の如く、リプリーに対するフィリップのペナルティは容赦なかった。

リプリーは、自らが落としたボートに乗せられたのである。

運悪く、リプリーが乗せられ、曳航していたボートのロープが切れて大海原で漂流するに至るが、映像は、彼の「孤独」の悲哀を同情含みで拾っていく。

事態の重大さに気付いたフィリップに助けられたリプリーだが、背中に火傷を負った彼は死ぬような思いを味わった。

これが、事件への決定的な推進力になっていったと言っていい。

彼はこのとき、その内側で、「卑屈」という「負のエネルギー」が激甚なまでに噴き上げて、「自分には殺す権利がある」と思ったに違いない。

フィリップに対する殺意が、回避し得ない辺りまで固まった瞬間だった。

その事故の後での、二人の会話がある。

「あのとき、俺を本当に殺したいと思ったろうな?」とフィリップ。
「今度じゃないが、前に2度ほどね」とリプリー。
「面白い。それで預金の明細を?殺して横領か?」
「お見通しだな」
「だが、上手くいくかな?すぐ捕まるぞ」
「大丈夫。俺はこう見えても頭が切れる」

「完全犯罪」に関わる殺人事件が起こったのは、リプリーの小細工によって、フィリップと痴話喧嘩したマルジェが下船した後だった。

以降の映像の中で、緊張の連続によるリプリーの冷や汗ものの行動が次々に描かれて、遂に「完全犯罪」を信じる彼の至福の一言に繋がった。

ラストシーンである。

「太陽がいっぱいだ。今までで最高の気分だよ」

そう呟いて、デッキチェアで寛ぐリプリーに、彼を逮捕するために警察が近づいて来た。

フィリップの死体が発見されたからである。

以上が、事件についてのプロットを省略した本作の簡単な経緯。

次に、「完全犯罪」の困難さの問題に言及しよう。



6  「完璧な遂行」を成し得ない人間存在の不完全性と、その継続力の脆弱性



ここからは、「完全犯罪」に関わる言及をしていきたい。

完全犯罪とは、読んで字の如く、証拠を残すことなく遂行された犯罪であり、且つ、犯人を捕捉できないが故に立法処置できない犯罪のこと。

懲役刑に処せられるケースもある、悪質な道路交通法違反事件のような犯罪において、完全犯罪の成立は充分に可能だが、ここでは本作のような重罪事件の場合を仮定するならば、半永久的に犯行露見しないという、完全犯罪の「完璧な遂行」は殆ど困難であるか、限りなく不可能に近いと言っていい。

仮に、犯人を捕捉できない犯罪であったとしても、物理的な証拠を全く残すことのない犯罪の成立が困難であるのは、未だに証拠を発見できない故であったり、或いは、捜査側のミスリードに原因があったりするからである。

その意味で、多くの完全犯罪は、本質的に「『不完全犯罪性』という性格を持つ完全犯罪」であると言えるだろう。

それほどに、完全犯罪の「完璧な遂行」は困難であるということだ。

なぜなのか。

完全犯罪の「完璧な遂行」を成し得るほどに、人間が完全な存在形を具現し得ていないからである。

人間存在の不完全性と、その継続力の脆弱性。

これが、人間の本質的属性である。

不完全な人間が完全犯罪を目論んでも、その成功の確率は低く、仮に成功しても、そこに偶然性のサポートが関与している場合があまりに多いということ。

この認知こそ、決定的に重大な事柄なのである。

本作の主人公もまた、どれほどの偶然性のサポートの「恩恵」を受けたことか。

目撃されなかった、第二の殺人事件の死体遺棄の現場。

警察のチェックを受けなかった、タイプライターで打った手紙の投函の際の指紋。

更に、本人確認の際に目撃されなかった成り済ましの実態と、逃走現場、等々。

以上の事例を見ても分るように、本作の主人公が如何に偶然性によるサポートを受けていたかという事実が判然とするだろう。

まして本作の主人公が、恐らく計画的に目途したような、「成り済まし殺人事件」を完璧に遂行し切るには相当程度の高いハードルがある。

このハードルを越えるには、殆ど完璧な計画を策定する超人的な頭脳と、その計画を遂行し切る超人的な肉体が求められるのだ。

スーパーマンに化ける以外にないだろう。

人間の自我は知略の羅針盤であり、それを運ぶ肉体は、動物の本能にも届かない脆弱性の衣を被された限定的な機能体である。

何より、知略の羅針盤である自我が、本質的に未完成形であるが故に、多くの場合、人間は不完全性をどこかで晒してしまうのである。

このような不可能な命題を克服するには、「ショーシャンクの空に」(1994年製作)のような殆どあり得ない奇跡に縋るしかないだろう。

その「ショーシャンクの空に」がモデルにしたと思える、脱獄劇の困難さを描き切った、ジャック・ベッケル監督の「穴」(1960年製作)というフランス映画の冷厳なリアリズムに比べて、どう考えても、この二作の主人公の意志を完遂させるには、もう奇跡の導入なしに不可能であるということだ。

その奇跡を堂々と導入した「ショーシャンクの空に」は、商業主義と簡単に妥協することで成立した娯楽作だが、さすがにルネ・クレマン監督は、本作の「成り済まし殺人事件」を頓挫させることで物語を閉じたが、当然ながら、それもまた商業映画としての大きな成功を収めるための文脈の範疇にあった。

商業映画も大いに結構だが、そこに媒介された、サスペンス映画の途切れることのない緊張感が担保されることが絶対条件となるだろう。

その一点に関する私の評価を簡単に言えば、以下の通り。

ラストシーンで、「太陽がいっぱいだ」という一言を、主人公に言わせるための全てのお膳立てが整備されていたものの、本作を仔細にフォローしていくと、自分が殺した死体の協力なしに成立しない粗雑な描写に垣間見られるように、「商業主義のムービー」という暗黙の了解の中で、観客との関係の内に成立した、ハードルの低さへの甘えを多分に覗かせていたこと。

それに尽きると言っていい。




7  「描写のリアリズム」の甘さ ―― 回避した「映像の暴力性」




最後に、本作への辛口批評を付言したい。

「居酒屋」のマリア・シェル
「居酒屋」(1956年製作)という最高到達点とも言うべき作品を持つ、職人肌のルネ・クレマン監督らしくなく、本作の出来には大いに不満が残る。

本作は、詩的リアリズムの伝統を痛罵し、映像の主体性(作家主義)を重視して、即興演出の手法に拘ったヌーベルバーグと一線を画す、一種のカテゴリームービー(「青春映画」の彩りを含む「サスペンス映画」)であるにも関わらず、描写に粗雑さが散見され、俳優の表現力の不足もあるが、主人公の心理描写も甘いのだ。

例えば、常に死体遺棄の際に、単独殺人犯を悩ますのが「死体の重さ」という常識への配慮なく、ホテルの部屋からの肥満男(フレディ)の死体の搬送を単独で遂行するのは、殆ど不可能であると言っていい。

また、その死体の主を撲殺する場面は疎(おろ)か、本作の中で重要なシーンであるフィリップ刺殺事件の際にも、その後の描写をフォローしても全く出血場面が出てこないのである。

「サスペンス映画」は押し並べて、「描写のリアリズム」を生命線にするのではなかったか。

仮に、出血場面をカットしたことで「映像の暴力性」を回避しようとしたならば、その思惑は逆効果になったと言えるだろう。

肝心の場面のカットによって、殺人事件を犯した者の重量感が映像総体から伝わってこないからである。

ルネ・クレマン監督
まして、「卑屈」という「負のエネルギー」が沸点に達した男の、事件後の内面の緊張感にリアリティを与える必要があるのだ。

私には、殺人事件を犯した者の重量感の描写を回避したとしか思えないのである。

主人公の内面描写で勝負しなければ、映像が生きていかないにも関わらず、「映像の暴力性」を回避したかの如きシーンの連射を勘繰れば、本作には、「このような立場に置かれた者なら殺人事件も仕方ない」という印象付けが垣間見えるということだ。

主人公への感情移入を容易にさせるためであるだろう。

そう思えてならない映像構成だった。

(2010年4月)

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