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2008年11月27日木曜日

女の中にいる他人('66)     成瀬巳喜男


 <告白という暴力の果て>  



1  殺人事件



鎌倉で隣り合う家に住む二人の男、田代勲と杉本隆吉は赤坂で偶然出会った。

仕事の都合で東京に来た建築士の杉本は、東京に勤務する妻のさゆりを訪ねることにした。二人は行きつけのバーに寄って、酒を酌み交わすが、東京の雑誌社に勤める田代は親友と会っても、その表情から全く歓びの感情が伝わってこない。

そこに杉本の自宅から電話があって、妻のさゆりに何か事故があったらしいということ。自宅に連絡したさゆりの友人からの報告である。

「どうしたんだい?」と田代。
「さゆりが何か、事故があったらしい」と杉本・

その後、杉本は事故があったという、さゆりの友人宅を訪れた。そこには、友人の加藤弓子と刑事が待っていた。

「奥さんは事故ではなかったんです。殺されたんです」と刑事。
「殺された?」と杉本。
「私は何も知らなかったんです・・・」と弓子。
「・・・奥さんは、一時間ほど前に、加藤さんによって死体として発見されたんです。そして奥さんが亡くなられる前に、この部屋に、奥さんと一緒に誰かいたこともほぼ確実です」

バーに勤めていた頃から、男友達も多いという杉本の妻は、弓子から部屋の鍵を預かり、自由に使っていて、事件に遭遇したらしい。

刑事の話から、明らかに人見知りの犯行が疑われて、真っ先に夫のアリバイが追及された。夫婦の関係は上手くいっていなかったことを、刑事は既に把握していたようだった。杉本はベッドに横たわる妻の死体を確認して、異常な事態に直面した状況に、その表情が凍りついた。

「まさか、こんなことになるなんて。杉本さん、私のせいじゃないわ!分って下さる?」
「勿論、あなたのせいじゃありませんよ・・・」
「本当に何てこと・・・」

状況に翻弄される弓子の動転振りが、雨が降りしきる夜の部屋の中で晒されていた。

一方、事件を知った鎌倉の田代家では、隣家の不幸の話題で不安を隠し切れない様子だった。田代はその隣家を早速訪ねた。

「新聞で見たよ。本当に何と言っていいか・・・」

「君なんか、全然想像もつかないだろう。君の奥さんなんかには、絶対あり得ないことだからね・・・何しろ、女房に男があって、しかもその男に殺されたんだからな。世間じゃ、さゆりだけを悪く言って、僕に同情してくれるかも知れないし、間抜けな亭主と笑うかも知れない。でも、あれだけを責める気にはなれない。僕だって、決していい亭主だったわけじゃないからね。色んな男と遊び回っているのを気になりながら、はっきりした態度も取れず、確かに僕にも責任があるからね・・・あんな女だったけれど、まさかあんな死に方するなんて、考えてみれば可哀想な奴さ。昨日、君と会ったろ?あの店から、あのアパートまでほんの僅かなんだ。時刻も同じ頃だし、警部の奴、僕が東京にいたことで真っ先に疑いやがって。幸い僕の弁護士がアリバイを証明してくれて、君のことを引き合いに出さずに済んだよ」

「何か役に立つなら、僕は引き合いに出されても、ちっとも構わない」


苦境に遭った友人の役に立とうと、田代は自分の思いだけを告げて自宅に戻った。



2  最初の告白



事件の噂は、田代の周囲で暫く渦を巻いていた。勤務先では、加藤弓子を間接的に知るという女性事務員が現われたりする中で、田代は会話の自然な流れで、杉本との関係だけを説明する羽目になった。

また自宅に戻るや、彼の実母から、事件の話題を振られることになる。

「どうも少しばかり、あのご夫婦と仲良くし過ぎたわねぇ。いくら杉本さんがいい人だからといって、いつかこんなことをしでかすんじゃないかと思ってたんだよ、あの奥さん」
「でもいくら何だって、こんなことになるなんてね」と妻の雅子。
「お陰で私たちも変な眼で見られますよ。まあ、私たちは構わないけど、勲、お前ですよ。お前は毎日外に出るんだから・・・」と母。
「お母さん、もういいですよ、そんなこと。少しくらい変な眼で見られたって、どうってことない。僕は別に友達の誰彼と比べたって、世間並みの平凡な人間ですからね」

田代は苦虫を噛み潰した顔で、事件の話題をかわしていく。その表情は、すっかり生気を失った者の陰鬱さを映し出していた。

杉本さゆりの通夜の日。

加藤弓子はそこで見た田代の顔にハッとした。どこかで見覚えがあった顔のようでもあるが、思い出せなかった。初対面の女からジロジロ見られる田代は、それを気にするが、それ以上に気になる様子の妻の前で、努めて平静を装っていた。

まもなく加藤弓子は、杉本の事務所を訪ねた。彼女は杉本に、自分のみが知る事情につて話したのである。

「さゆりさんが男の人と、私のアパートから出て来るのを見ちゃったんです。そのときはチラッと見ただけで、その人が誰だか分らなかったんですけど、その人に会ったんだです。お葬式のときに・・・」
「葬式のときに?」
「ええ」
「そりゃ、一体誰なんです?」
「あなたのお友だちの田代さんです」
「田代?」
「確かにそうなんです」
「しかし、いきなり田代を疑うなんて、早すぎるな」
「そりゃあ」
「あんたは田代という人の人柄を良くは知らないけど、僕は20年来の友人です。僕の付き合いの中でも、一番尊敬している友達なんですよ。あいつを今度のような事件と結びつけて考えるのは滑稽ですよ・・・」

杉本はそう言って、友人の田代を寧ろ庇って見せた。

彼は弓子を送る帰路、田代の件は警察に話すべきでないことを念を押したのである。

弓子を送った後の杉本の表情に、一瞬、翳りが刻まれた。田代と赤坂で偶然に出会った、あの日のことがふっと思い出されたのである。

そんな思いもあってか、杉本は田代家を訪問した。

杉本との私的な交流が形成されていた田代家では、とりわけ、子供たちが杉本に馴染んでいて、その団欒はナチュラルな空気感に包まれていた。しかし、杉本を明らかに意識する田代の表情が映し出された後、居間で寛ぐその田代に横目で視線を送る杉本の表情のアップが追い駆けていく。


その晩、雷光が田代家の周囲を暴れていた。田代は普段以上に思い詰めた表情で、妻に語りかけていく。

「雅子、お前に話したいことがあるんだ・・・僕はお前が思っているような人間じゃないんだ。僕は、前によその女と恋愛したことがあるんだ」
「いつ頃?あたしと結婚してから?」
「もう何カ月か前」
「そんな最近のこと?」
「もうとっくに済んでしまったことだし、大したことじゃなかったんだが、お前を騙しているのが本当に嫌な、惨めな気持ちだったんだ」
「その前の人って、誰?私の知ってる人?」
「それは大変な人なんだ」
「大変な人?・・・まさか、さゆりさん?・・・あなた!」
「本当はちっとも愛してなんかいなかったんだ。どうか怒らないでくれよ。もう済んでしまったことなんだ」
「怒らないでなんて・・・いっそ黙っていて下さった方が・・」
「でも、僕はどうしても言わなくちゃ気が済まなかったんだ。勿論、お前が怒ると思ったが、どんなに怒られても、正直に白状した方が、まだ、許してもらえると思ったんだ」
「でも、やっぱりひどいわ。夢にも考えたことなかったんですもの、そんなこと」
「済まん、でも本当に、ついちょっとした出来心っていうか、その間、お前と子供たちのこと、ちょっとの間だって忘れたことない。いや却って、そんなことこがなかったときよりも、しょっちゅうお前たちのことがこびりついて離れなかった。辛かった・・・」
「あなた、あの人が死んだときも続いていたの?」
「いや、その、その少し前に別れていた」
「本当?・・・良かった。あの人が殺されるまで続いていなくて・・・あの人があなたを好きだってこと、お母さん気づいてらっしゃったのよ。でも私はそう思いたくなかったの。あの人は、大抵の男の人に興味を持ってらっしゃったんですもの。さゆりさんて、そういう人だったのね・・・私忘れますわ。忘れられないでしょうが、一生懸命、忘れるようにしますわ。だって、さゆりさんはもう・・・その代わり、もう二度とこんなこと嫌よ」

妻の強い思いを込めた言葉に、夫は黙って頷いた。いかしそれは、これから始まる「告白」という名の暴力の始まりでしかなかった。



3  第二の告白




家族は久し振りに、遊園地で楽しいひと時を過ごした。

田代勲も親子水入らずの家族ゲームの輪の中にいて、長く苛まれていた自我を解き放っていた。

その晩、勲の母は、孫のやんちゃ振りを心配する雅子が、勲の子供時代のことに話題を振ったとき、厭味なく反応した。

「本当に大人しい、気の弱い子供だったんだもの。嫌なことでも、嫌とはっきり嫌とはを言えない位でね・・・でもね、男はもう少ししゃっきりした方がいいのにと心配した位だもの。大人になってからも、色んな誘惑に負けないようにね」

母の言葉に毒気はなかった。

しかし息子は、その言葉をダイレクトに受け止めてしまうのだ。彼の表情は家族ゲームを通過した後でも変わらないのである。

「やっぱり、神経衰弱だな」

夜の床で散々うなされた翌朝、田代は妻にポツリと漏らした。例の一件を忘れられないで悩む夫を案じた妻は、封印したばかりの問題に言及したが、夫はそれを否定した。

「一度お医者様に診ていただいたら?」
「それより、できたらどこか、静かな所にでも・・・」
「そうなさいよ。私も会社の方さえ良ければ、どこか、山か海にでもいらっしゃれば良いと思ってたのよ」
「お前も一緒に行けると・・・」

夫は妻の同行を求めるが、現実的に無理と判断して、一人で静養に行くことに決めた。妻の雅子もそのことを快く受け入れて、「ノイローゼだな」と悩む夫を積極的に送り出したのである。

田代は一軒の温泉宿で、その暗鬱なる心を鎮めていた。

しかし、彼がそこで遭遇した出来事は、彼の心をますます暗鬱な状態に追い込んでしまったのである。温泉宿の近くの吊り橋から、若い男が飛び降りて自殺したのだ。警察官にその遺体を収容される寸前の惨たらしい身体が、田代の視界に捉えられて、彼はもう自我の臨界点を越えつつあった。その夜、彼は自宅に電話して、妻の雅子を呼び出したのである。


翌日、雅子と並んで山道を歩く田代の姿がそこにあった。

陽天の強い日差しに照りつけられて、一人ではしゃぐ妻の振舞いとは無縁に、夫の沈鬱な表情がいつまでも継続されていた。夫は暗いトンネルの中に入り込んで、そこに妻を誘(いざな)った。

「お前に話したいことがあるんだ」
「なあに?」
「杉本の細君・・・あの人のことで・・・この間話した、あれはまだ、お終いじゃなかったんだ」
「と、おっしゃると?」

夫は頷いた。

妻は全てを察知したのである。その表情は、激甚な不幸に襲われた者の衝撃を隠し切れない感情を炙り出していた。

「あれは僕がやったことなんだ」

間髪入れない夫の告白に、妻は事態を認知することから、ほんの少しの回復の時間を求めるようにして、強く言い切った。

「帰りましょ」

そう一言捨てた後、一人で急ぎ早に旅館に戻る妻。

部屋に篭った妻は、窓際で立ち竦んでいる。

夫がそこに追いついて、更に妻に向って思いを吐き出した。

「あんな恐ろしい話をして、でも、どうしても言わなければ・・・一人で今にも違いそうだったんだ。お前にどう思われようとも、どんなに言いづらくても、言わなければ・・・」
「あなた、何かの弾みだったんですか?」
「どうしてあんなことになったか、よくお前に話したい。どうして、あんな恐ろしいことになったか。でも、お前にはなかなか分ってもらえないと思うんだ。僕だって、お前一人を愛している限りでは、そんな馬鹿なこと・・・何と言ったらいいか、初めは軽い悪ふざけようなつもりだったんだ・・・」

夫は遂に、告白のピークの辺りに達しつつあった。

―― 彼はその日のことを、回想しながら妻に話していく。

田代はその夜も、女と共に弓子のアパートの部屋にいた。相手は杉本さゆりである。

「ねえ、私の首に指を掛けて」とさゆり。
「こう」と田代。首に指を掛ける真似をした。
「もっと両手でしっかり・・・やってみたいの」
「苦しいだけだよ」

それでも女は、「もっときつく、私の眼が閉じるまで」などと要求する。男はそれを拒みつつも、「良い気持ち」と反応する女の首を、少しずつ、自分の意志を乗せながら締め上げていく。

夫の告白は、事件の核心に迫っていく。


「それはもう、悪ふざけなんてものではなかった・・・恐ろしい興奮だった。彼女が眼を瞑っても、なお僕の指が締め続けやしないかと思うと、急に恐ろしくなって、すぐ手を引いて、彼女を突き放したのだが、そのときは僕のほうがヘトヘトになっていた。その日以来、もう、こんな真似は止めようと思って、2、3週間会わなかった。ところが、また・・・僕はいつのまにか、細い線を越えたような気がしたんだ。現実と夢の間にあるような、眼に見えない細い線。しかし恐ろしく大事な線をね。しかも、その線を越えることが実に簡単だったように思えるんだ。今、その線のこっち側にいたかと思うと、次の瞬間には向こう側にいて、そのとき彼女はもう死んでいたんだ」

「あなた、あの人を殺すつもりはなかったんでしょ?」
「殺すつもりはなかったと思う。だが分らない・・・」
「誰も疑ったりする人はないんでしょうね」
「ないと思う」
「じゃあ、大丈夫ね。このまま黙って、あなたとあたしさえ黙っていれば・・・」
「そんなこと・・・」

「できるわ。もしも、このことが世の中に分ってしまったら、子供たちや私は、どういうことになると思うの?・・・あたしはあなたが死ぬんだったら、一緒に死にます。あなたが生きていけるんだったら、どんなに暗い人生でも一緒に生きていきます。でも、子供たちを巻き添えにすることは出来ないわ。あなたがそんな恐ろしいことするはずがないじゃない。忘れてしまうのよ。私も忘れてしまうわ。そんなバカバカしいこと・・・・・」

「忘れるなんて、そんなことできやしないさ・・・ああ、でもお前に何もかも話してまったせいか、あんなに苦しかった気持ちが嘘みたいに、ほっと軽くなってしまったよ」
「それでいいのよ。このままいいのよ」
「ああ、さっぱりしたけど、やっぱり眠れそうもないな」

妻はこのとき、覚悟を決めていた。

夫の全ての告白を聞いた今、夫と事件を共有し、それを闇の中に封印してしまう覚悟を。



4  第三の告白



妻は「眠れない」と訴える夫に睡眠薬を与えるべく、夫の旅行鞄からそれを取り出そうとした。そのとき妻は、その鞄の中に劇薬が入っていることを知って驚愕した。夫は死を考えて、この旅に向かっていたのである。

「本当に死にたいと思ったんだ」
「駄目よこんなもの、私預かっておくわ」
「お前は俺を許してくれるつもりなのか。いや、許してもらうなんて。とにかく俺はあんな恐ろしいことを・・・この世の誰かが、いや、お前が知っている。そう思うと、俺は一人ぼっちじゃない。お前には迷惑かも知れなが、本当に気が楽になったんだ」
「何もかも忘れて、ぐっすりお休みなさい」
「しかしこれから先ずっと・・・」
「もう何もおっしゃらないで・・・」

妻は夫の胸にその身を埋めた。

そこに、夫婦だけが共有する最も陰惨な記憶も埋めた。埋めなければ、一つの平穏な家族の秩序が根底から崩れてしまうのだ。

翌朝、鎌倉の杉本から長男の広志(ひろし)が急病になり、あわやという事態に、杉本が寝ずの看病で救ってくれたという内容の電話を受けた。息子の病気は大事に至らなかったが、田代は親切を施す杉本に、却って反発した。

「あいつ、まさか僕を疑っていて・・・」

田代は内面の秩序を全く回復できていなかった。諌める妻に少し秩序を回復したかのような夫は、今度は妻の想像を越える言葉を口にした。

「あいつに何もかも、皆話せたら・・・」
「なんてこと、あなた!」
「今の俺には、あいつの親切がたまらないんだ!」
「駄目よ!そんなこと絶対駄目よ!私たちだけでいいじゃないの!何もかも知ってるのは。私が知ってるからいいじゃないの、あなただけじゃないんですもの・・・」
「うん、そうだな・・・」
「ねえ、あなた。忘れましょう・・・忘れてしまえばいいのよ。忘れるのよ・・・」

この妻の言葉が闇の中に捨てられて、非日常の極みに終始した二人の旅は閉じていったのである。

しかし、男の内側の世界では、秩序とは全く縁の切れた場所で魂が叫び、呻いていた。男は遂にその呻きを、話してはならない相手に向って吐き出してしまったのである。隣家の杉本家を訪れて、男は警察の調査が全く進んでいないことを知って、自分の方から事件の核心を吐露してしまったのだ。

「相手の男を知りたくないのかい?」
「知りたくないね、もう、今さら・・・」
「僕は君に知ってもらいたいんだ。さゆりさんを殺したのは僕なんだ」

その瞬間、杉本の表情は凍りついた。凍りついたその表情が、予想された告白を聞いた者の落ち着きを取り戻していた。

「やっぱり・・・」
「やっぱり?君は疑っていたのか?どうして言わなかった。言ってくれなかったんだ。僕は言ってもらいたかったんだ、君から。君がそう言ってくれれば、僕は今までこんなに苦しまないで・・・いや、そんなことは贅沢かも知れない。僕は君に怒ってもらいたいんだ。俺は君を裏切ったんだぜ。これ以上ひど裏切り方なんて考えられない。俺は君の奥さんを殺したんだぜ・・・」
「本当に殺したのか、お前が?」
「あの日、アパートで飲んだウィスキーのビンやグラスに俺の指紋がある。それから、ベッドの傍の花瓶に首飾りを入れた・・・」

その瞬間、田代の頬に衝撃が走った。杉本の右手が男の頬を強打したのである。

「気の済むまで殴ってくれ!警察に訴えてくれ!君に教えてもらいたいんだ。俺はどうしたらいいか・・・」
「どうしたらいいか?」
「俺は雅子にも話してしまったんだ。あれは俺を助けたがってる。黙ってろって、何もかも忘れろって言うんだ。しかし俺にはどうしてもそんなことなんてできやしない」
「俺は今さらもう、女房の相手が誰だか、そんなこと、ちっとも知りたかなかったんだ。女房を殺した男がお前だったなんて、バカ野郎!」

杉本の右手が再び、田代の頬を強打した。

しかしその右手は、拳として握られていない。平手打ちなのである。どこかで、杉本の抑制的な配慮が窺えるのだ。そんな配慮が、杉本の次の言葉に繋がっていく。

「お前は自分で何をしているか、分らなかったんだ。はっきり分っていたら、そんなことできるお前じゃない。他の誰より俺が一番よく知ってるよ」

田代はもう、それ以上何も反応できなかった。


田代はその足で自宅に戻り、妻の雅子に杉本と会ったことを告げた。

「杉本もお前と同じよなことを言ってたよ。話したよ。何もかも。」
「まあ、あなたやっぱり・・・」
「お前は話ちゃいけないと言ったが、僕はどうしても話さずにいられなかったんだ。でも、何もかもすっかり杉本に話したお陰で、僕は何だか、ほっとした・・・」
「気持ちが軽くなったんでしょう、あなただけ・・・あなたはほっとなさったでしょうけど、私たち、子供たち、お母さまは・・・あなたと私の二人だけの秘密だったのに・・・それで、杉本さんは何とおしゃってるの?」
「信じられないって言うんだ。僕がそんなことやったなんて・・・忘れてしまえって言うんだ・・・」
「あの方もそう・・・」

妻の反応は以外に冷静だった。

冷静でいられないのは、田代一人のみである。

彼はその直後、嘔吐を催して、洗面所に駆け込んだ。夫の背中を繰り返し撫でる妻の表情は、このときも冷静である。夫の加速する告白の暴力に対して、悉(ことごと)く約束を破棄される妻の心は、殆んど厭悪感に満たされているようでもあった。



5  裏口からこっそり連れ出して



明け方、浅い眠りの田代は夢現(ゆめうつつ)の中で叫んでいる。

「自首しろ!自首しろ!」

起き上がった田代は、階段を降りて行った。

「自首しろ!自首するんだ!それがたった一つのしなければならないことだ。救われる道だ。いや、救われようと救われまいと、おれは自首しなくっちゃならない!」

夫の背後に、妻が近寄って来た。

「あなた、まだ5時よ。全然お休みになれなかったの?」
「いや、寝たよ」
「睡眠薬あげましょうか?」 
「いいよ、大丈夫・・・俺は自首して出たいんだよ」
「まあ、あなたったら・・・」
「俺は卑怯者になりたくないんだ」
「誰があなたのことを卑怯だなんて言うのよ。あなたは、ありもしない、本当でないことを想像しているだけなのよ。あんまり考えすぎたり、睡眠不足のせいです」
「僕が人殺しをした夢を見たんだと、お前は言いたいんだろうけど・・・」
「あなた、自分で何か恐ろしい罪を犯したと、そう思いたがってるのよ。あたしに対して、何か悪いことをしたという気持ちで、自分を責めてらっしゃるんでしょ?そんなこと意味ないわ。あなたは何もしなかったんですもの」
「ああ・・・」

田代の反応は、覚醒してもなお悪夢の世界の中に沈んでいた。

その朝、田代が重い気分を引き摺って出勤した後、妻の雅子は隣家の杉本家を訪問した。

「何か?」
「田代が大変なことをしてしまって。でも私にはあの人が、あんな恐ろしいことをしたとは信じられないのです。本当にあの人がやったことなんでしょうか?」
「僕もあいつが、あんなことやったなんて信じられなかったのです」
「信じられなかった?じゃあ、やっぱりあの人が・・・」

杉本は反応しなかった。その態度に全てを察知した雅子は、思わず両手で顔を埋めて、小さく嗚咽した。

「しかし、あいつは悪い夢を見たんだ。そう思ってます。あなたもあいつも、そう思えばいいんです。忘れることですよ」

杉本の反応をある程度予想していたのか、雅子は自分の思いを少し滲ませるかのように、最も肝心な言葉を吐露した。

「でもあの人、いつ自首するか分らないんです」

これは、雅子の勝負の一言のようだった。彼女は杉本の次の言葉を待って、男の表情を必死に弄(まさぐ)っている。

「自首なんか、させちゃいけません」

雅子はこの一言を待っていたのだ。

思わず嗚咽してしまった。嗚咽の奥に、事件が存在しなかったという暗黙の共同体が形成された安堵感が潜んでいた。

その晩、田代は書斎で書類の整理をしていた。妻がその理由を尋ねたとき、夫は自分の覚悟の言葉を刻んで見せた。

「決心したよ。自首するよ。明日の朝、警察に行くつもりだ。もうあお前が何を言おうと、僕の決心は変わらないよ。僕はもう、何も怖くないんだ」

妙に晴れ晴れとした表情を見せる夫に、妻は最後の勝負に打って出た。

「あたし、もうあなたと議論するつもりはないのよ。でももう一度だけ、本気になって聞いて下さる?」
「何を?」
「本当は何も関係ないのに、罪を犯したって考え込む人が、確かに時々あるんですって・・・あなたも、誰か他の人がしたことを、自分がしたと思い込んでいらっしゃるんじゃなくって?」
「いや、時にはそんな風にも思ってみたさ。しかしそれはいけないことなんだ。お前は本当に僕が言ったことは、みんな夢だと思っているのかい?」
「いいえ、何もかも夢だなんて思いませんけど、でもあなたがそのアパートで、さゆりさんに会ったってこと、さゆりさんが殺されたってこと、それが全然別の時間にあったのに、たまたまあなたが、自分がやったように思い込んでしまっているんじゃないかって」
「そんなことはない」
「じゃあ、そのときのこと、一つ一つ正確に覚えていらっしゃる?」

その妻の問いに対して、夫は事件の日の詳細な事実を説明していく。

「でもそれが皆、あの人の死んだ日にあったということは確かなんですか?他の時にあったんじゃありません?」 
「違うよ。確かに僕がやったんだ。絶対に夢や幻を見てるんじゃない」

「お願いあなた!杉本さんも忘れろとおっしゃってるんです!どうか私のために、子供たちのために、お母さんのために一言、あなたがなすったんじゃないって、そうおっしゃって!このまま、一月もすれば、何ヶ月かすれば、いつかこんなことは皆忘れてしまって、違った考え方をなさるようになるかも知れなくてよ、後生ですから、もうちょっとお待ちになって!」

「駄目だよ。自首すると決心した以上、今さら止めるなんて、とてもできない。お前と子供たちと一緒に、もう一日、もう一日とズルズルに暮らすことは、却ってやりきれないんだ。もう何も言わないでくれ、頼むから・・・分ってくれたかい?お前さえ分ったくれたら、僕はもう何も思い残すことはない・・・いつか。お前だけでなく、お母さんと大きくなった子供たちも、僕のやったことが分ってくれたら・・・いや、きっと分ってくれると思うんだが、殺人という罪を犯しながら、黙って世の中を欺いているような父より、堂々と自首して出た、そういう父の方が人間として、いくらかましだってことを。僕はそう思ってる。子供たちだって、きっ分ってくれると思う」

「分りました」
「本当に分ってくれたかい?」
「ええ、あたし、あなたと一緒になって、あなたがこうしたいとおっしゃることで、こんなに感動したことってありません。それだけは、分っていただきたいんです」
「僕はもう、自分の運命を悲しんでなんて思ってやしないよ。お前のお陰で、堂々と表玄関から、大手を振るって出て行くことができるんだからな・・・」

嗚咽する妻。その妻を胸に抱く夫。

夫婦の感動的な会話のフィナーレは、夫の自首という決断の内に流れていったかのようだった。

ウィスキーを求める夫。「はい」と答える妻。

外は夏の花火で、異次元の世界を展開している。しかし田代家の居間では、もっと異次元の世界が開かれつつあった。ウィスキーを台所に取りに来た妻の表情に、夫との最後の睦みの会話とは明らかに切れた感情のうねりが炙り出されていた。

「こうなったら、表玄関から堂々と出て行こうとしているあの人を、あたしが裏口からこっそり連れ出してあげるより仕方がないわ」

妻は心の中で、既に括っていた。

夫から預かっていた劇薬をウィスキーのグラスの中に、人一人がその命を終える分だけの量を入れたのである。

友人の自殺に接して、杉本は行きつけのバーで、マスター相手に呟いた。

「バカな奴・・・何て言っちゃ、可哀想だな」

彼は大坂に転勤することをマスターに告げた。彼には、大都会東京の片隅で起こった私的な事件の一切を忘れる必要があったのだろう。



6  海岸線に一筋の歩行の軌跡を残して



ラストシーン。


鎌倉の海岸を雅子は歩いている。静かに、一歩ずつ踏みしめるように、歩いている。歩きながら自分を納得させている。(画像は、現在の鎌倉の材木座海岸)

「あたしは、何か恐ろしいことをやってしまったんだわ。このまま黙って生きていけるだろうか。あの人が自分のやったことを黙っていられなくなったように、あたしもまた黙っていることが苦しくて、誰かに向って、告白せずにいられなくなるだろうか。その日まで、ともかくも、あたしは子供たちの姿を見守りながら、黙って生きていくわ」

雅子の視線の先に、二人の子供が砂浜で戯れている。雅子はそれをしっかりと確認しながら、海岸線に一筋の歩行の軌跡を残している。

その歩行の先に何が見えるのか、雅子も知らない。

しかし、それでも歩行を止められないのだ。止めてはならないのである。自分にそう言い聞かせながら、一人の母が未知なるラインを刻もうとしているように見えた。


*       *       *       *



7  魔境の淵でもがいた男



不倫という、覚悟なしに踏み込んではならない非日常の世界に、一人の小心な男が侵入した。男は、その世界で遊ぶにはあまりに似つかわしくなかったのだ。覚悟もなければ、魔境の世界を仕切る能力にも欠けていたからである。

案の定、女が仕切った魔境の淵に男はもがき、沈みこむ。

「首を絞めて」と催促する女のゲームに、男は加速的に引き摺られ、そして、その細い流線の首を締め切った。踏み込んではならない魔境の向うに、未知なる闇が広がっていて、男は更にその世界に侵入したのである。

殺人事件の発生である。女は親友の妻。

SMの世界に手慣れていたであろう女が、ゲームに疎い男の潜在的攻撃性の暴発によって落命する。幼少時より内的衝動を抑制しすぎてきた自我が、仮想現実のようなゲームのツボに嵌って暴発したのである。それが、男の自虐的な彷徨の始まりだった。

良心とは、内に向かった攻撃性である。


その攻撃性を実感し、自己了解することで、人は良心という甘美な蜜の味にいっとき酔いしれる。自虐することで得られる快楽に際限はない。イエスしかり、聖フランチェスコしかり、トルストイしかり、ガンジーしかり、嘉村磯多(かむらいそた・注)しかりである。際限のない自虐の展開は、大抵周囲の人間を巻き込んでいく。良心の呵責に苦しむ自我を他者に認知してもらいたいのだ。(画像は嘉村磯多)


(注)山口県出身の昭和初期の作家。極端に人間不信の正確が災いしてか、親との対立や、妻子の遺棄など、社会規範に逆らうような生涯を送り、それを小説化したことで有名。「私小説の極北」とまで称される作品を残した。代表作に、「崖の下」や「途上」がある。



8  告白という暴力の果て



女を絞め殺した男もまた、自虐の連鎖に嵌っていく。

―― その最初のステップは、妻に対する不倫の告白。

「話さないでくれた方が良かった」という妻の憂いを無視して、容赦なく第二のステップが開かれる。


遊園地での束の間の家族ゲームによっても癒されなかった男は、ノイローゼの認知の中で一人温泉宿に旅立った。

そこで遭遇した自殺の現場に立って(少し出来すぎで、いかにもベタな設定である)、男の自我は溢れる不安を抱え切れなくなったのだ。男は妻を温泉宿に呼び出して、薄暗いトンネルに誘(いざな)った。

―― そこで男は、再び妻に告白する。

不倫の相手を殺害したのは自分であったことを。驚愕する妻の表情を、闇を抜けるトラックの照明光が不気味に照らし出す。今度ばかりは穏やかでいられない自我を、告白という暴力が劈(つんざ)いた。告白によって少しは軽くなる者と、とてつもなく重くなる者との自我の関数は、あまりに残酷である。妻は夫の精神的暴力を全身で受け止めるしかなかった。

まもなく、夜の床で妻は夫の犯罪を受容し、「忘れましょう」と静かに言い放って、夫の暴力を断崖の際で食い止めたのである。この瞬間、不本意にも、妻は夫の犯罪の共犯者になったのだ。

しかし、夫の自虐の暴走は止まらない。

温泉宿での第二の告白の翌朝、長男の病気を救ってくれた親友の行動が気になって、彼の自宅を訪ねる。彼は、自分が殺害した女の夫であるのだ。しかしこの行動の伏線には、会社の同僚による横領事件が濃密に絡んでいた。社長の指示で同僚の自宅を訪問した際、事情を知らされた妻が警察沙汰を恐れる心情を目の当りにして、男はやがて逮捕されるであろう同僚の末路を我身に重ねたのである。

贖罪なしに済まない男の心象風景は、いよいよ際立つブルーに染め抜かれていた。そのブルーのラインが広がって、遂に、親友に事件の顛末の一切を告白するに至る。「やっぱり」という相手の重い呟きに、男は自虐的な反応をするばかり。親友に殴られた後、「忘れろ」と言われて許容されてしまう男の自虐は、またしても妻に向かって放たれるのだ。

―― 第三の告白のステップ。

泥酔して帰宅した男は、とうとう親友に告白してしまったことを妻に告げる。動転した妻は、自分だけ楽になろうとしている夫を責め立てた。自分がようやく落ち着ける場所を手に入れたと思ったそばから、恰も、その場所を狙い撃ちして来るかのような、夫の加速する告白という名の暴力に、気丈な妻の自我も許容の臨界点に近づきつつあった。犯罪の精神的加担者を、これ以上増やすわけにはいかなかった。妻はまもなく夫の親友を訪ね、夫が紛れもない犯罪者であった事実を、そこで改めて確認するに至る。夫の自虐が最終局面を拓くのは、殆んど時間の問題だった。

―― 第四の告白のステップ。

それは、エンドマークに繋がる最も重苦しい展開を開示せずにはすまなかった。そこまで流れていかずには済まなかったであろう、言わば、約束された悲劇が、殆んど確信的自虐者になっていた男を待っていた。根拠を持った不眠の恐怖が、既に男の神経をズタズタにしてしまっている。寝床から起き上がった男が部屋を出て、体も心も引き摺って、階段を下りていく。

男のモノローグ。

「自首しろ!自首するんだ!それがたった一つのしなければならないことだ。救われる道だ。いや、救われようと救われまいと、おれは自首しなくっちゃならない!」

そこに逢着しなければならなかった場所に、男は遂に辿り着く。

男の自虐の完結は、恐らくそこにしかなかった。苛めて苛め抜いて、それでも足りずに巻き込んで、巻き込み抜いて辿り着いた贖罪の世界。それ以外に安寧と秩序を手に入れられない世界の中枢に、良心という名の心地良き絶対者が棲んでいる。制度による厳格なペナルティを受容することだけが良心を検証し、告白という暴力を是認し、自虐の快楽を継続的に正当化することができるのである。

夫の決意を変えられないと確信した夜、妻は夫のウイスキーのグラスに致死量の毒を盛った。妻もまた、人生で最も長くて重い夜を駆け抜けていく。

「こうなったら、表玄関から堂々と出て行こうとしているあの人を、あたしが裏口からこっそり連れ出してあげるより仕方がないわ」

雪崩のような夫の告白という暴力の攻勢によって沸点に達した妻が、そこにいる。耐えて耐えて耐え抜いた末の妻の決断は、もはや、犯罪の精神的加担者の枠を突き破るものだった。決して踏み込んではならない世界に、夫の告白に耐え抜いた女もまた侵入してしまったのである。

ノイローゼによる夫の自殺。全てこれで片付いてしまった。

その詳細な経緯について、成瀬の映像は例によって何も語らない。

最も必要な描写のみをテンポ良く繋いでいく映像の流れが、却って、夫婦の感情の奥の部分まで際立たせて見せていた。そんな映像が最後に語ったのは、妻のモノローグ。もう一度、あらすじの記述で触れた雅子の言葉を、ここ引用する。

「あたしは、何か恐ろしいことをやってしまったんだわ。このまま黙って生きていけるだろうか。あの人が自分のやったことを黙っていられなくなったように、あたしもまた黙っていることが苦しくて、誰かに向って、告白せずにいられなくなるだろうか。その日まで、ともかくも、あたしは子どもたちの姿を見守りながら、黙って生きていくわ」

海岸の波打ち際で戯れる二人の子供たち。それを見守る母がいる。既に、妻ではなくなった一人の女がいる。恐らく、告白せずに生きていくであろう強靭な女がいる。決して自虐に逃げ込まない者は、絶対的に強いのだ。

そういう者は、告白する相手を大抵持たない。自ら語り、自ら納得する。語るべき何かを引き受けられる能力を持つからだ。それは人に語ることによって得られる安らぎを、既に内側でクリアしてしまっているからである。

男は踏み込んではならない世界に、確信的に侵入できなかった。

その覚悟のなさが男を犯罪者にした。だから、男は最後まで確信犯の領域に上り切れなかった。せいぜい、確信的自虐者の森を彷徨っていただけだ。しかし女は違った。相当の覚悟をもって踏み込んではならない世界に侵入した分だけ、ほぼ確信犯の領域にまで上り詰めている。女にあって男になかったもの、それは犯罪の覚悟性であり、その継続力の強さだった。


この映画は、果たして何を表現したかったのか。


単に、一級のサスペンス映画を作りたかったからではあるまい。原題は、翻訳ものの「細い線」。それが最初のシナリオでは「愛するがゆえに」という題名に変わっている。前者は、映画の題名としては弱すぎるし、後者は、明らかに映画の本質を外している。男女の愛情の問題が、主要なテーマであるとは到底思えないからだ。

そして本題は、「女の中にいる他人」。

これは如何にも映画の題名として嵌っていて、且つ、その本質に近いものがある。しかし、これでは題名が映画を語りすぎてしまう。いや、最初の十分で全てが分ってしまう映画だからこそ、三人の主要登場人物の心理描写で勝負する作品になったと言うべきか。

この映画を私なりに解釈すれば、男の際限のない自虐に対して、決して自虐に逃げない妻がリベンジする話である、ということになる。マゾヒズムと化していく告白的な自虐によって少しでも良心の証を手に入れることで、自ら犯した重大な犯罪を希釈化すると同時に、それを関係の中に拡散し、分有化しようという自己欺瞞。

こんな厄介な病理が、一見「苦悩する犯罪者」の内面に張りついているが、それは元はと言えば、踏み込んではならない世界に覚悟なくして侵入したことへのペナルティの結果であって、だからこそ、少しでも早く楽になりたいと願う男の小心な日常性は、継続的に自壊し続けてしまう悪循環に拉致される他はなかったのである。

周囲を巻き込むことなくして自己完結できない男の弱さが、遂に女の強さの中に呑み込まれてしまったのだ。

妻にとって、夫の告白は暴力以外の何ものでもなかった。


この暴力に、妻は四度受難したのである。それは自らの家庭をじわじわと破壊していく暴力でもあった。妻の最後の決断は「愛するがゆえ」の決断ではなく、自己防衛の決断であり、或いは、それ以上に自虐者=加虐者でもあった夫への確信的なリベンジでもあった。

カトリックの懺悔の儀式でも分るように、告白の本質は罪の希釈化であり、良心の自己確認である。「ゴットファーザー」のマフィアたちは人を殺すたびに懺悔し、懺悔することで、更に殺人を重ねていく。人間が犯す罪を受容する絶対者に依存すればするほど、しばしば、人間は犯罪の悪循環から逃れられなくなる。人間はそのような本質的な脆弱さを、どこかで、普段は目立たないようにして、その内側に抱えているのではないか。

小心な男にとって自らの甘えを吸収し、依存することができる絶対的な存在は、男の妻以外ではなかった。妻に対して繰り返し懺悔し、その度に許容される男の自我は、結局、告白という暴力の連鎖を止められなくなって、遂に我が身を司直の手で裁いてもらうという、それ以外にない選択に流れ込んだのだ。

自殺ではなく、自首という手段を選んだのは、彼の告白的衝動が最後まで衰弱していなかったからである。懺悔して人を殺す多くのマフィアが、多くの場合、非業の死を遂げるか、権力に捕縛されるかというような道筋しかないように、男もまた最後の告白の前に「非業の死」を遂げたのだ。

妻にもう告白すべき何ものも残っていなかった男の、その身勝手な告白衝動が完結する前に、男は恐らく無念の死を遂げたのである。

そんな男の身勝手な自己完結を、妻は最終局面で拒んだのだ。

覚悟もなしに勝手に不倫し、勝手に人を殺したことで拓かれた夫の際限のない自虐の連鎖を、覚悟を決めた妻が断ち切った。それだけは許してはならない夫の自虐の完結を、確信犯として生き抜いていくであろう妻が確信的に断ち切ったのである。自虐の連鎖に入ってから、最後まで自分のことしか考えようとしなかった夫を、家族の行く末を考える妻が、それ以外にない方法によって完璧に葬り去ったのだ。

それ故に怖い映画だった。それが人間の闇の奥にある真実を、鮮やかに照らし出してしまったからである。



9  日常と非日常を恐々と往還するさま



―― 大方の人はこの作品を称して、「成瀬が撮った、初の本格的なサスペンス映画」と観るだろうが、私はそのように捉えない。

確かに、この作品はサスペンス性に満ちている。

しかしこの作品が、初めから犯人が分っていて、その犯人の動機とアリバイを追求することに主眼を置いた「刑事コロンボ」のような推理ドラマの範疇にも入りにくいのは、この映像に映し出されたものの殆んど全てが、犯罪を犯した後の男とその妻、更に、妻を親友に殺された男の心理描写に限定されていて、しかもその内実が、贖罪という仮面の下で自虐の連鎖を止められない男が、妻と親友を巻き込んだ挙句の悲惨を執拗に描写しただけのものでしかないからである。

しかも、この映画のサスペンス性は、落雷による闇の中での告白に象徴される情景描写によってのみ支えられているのである。初めから犯人が分っているだけでなく、物語の展開とその結末をも見えてしまう映画の、その本当のサスペンス性は迷路のような心の闇の不可解な暴れ方という点にこそあった。


これは、サスペンスタッチの切れ味鋭い、一級の心理ドラマである。多くの成瀬作品に見られる、ダメ男としっかり女が日常と非日常を恐々と往還するさまを、今までになく重苦しく、徹底して残酷に描き切った一篇。(画像は成瀬巳喜男監督)

余分なものを削って削って、削り抜いて到達した濃密なる映像が、そこにあった。

人間のありのままを冷酷に、かつ諧謔含みで描き切ってきた成瀬が、諧謔を一切排して到達した、鋭い人間観察の一つの結論がそこに見え隠れする。人間は始末に終えない存在だが、それでも思うままにならないこの人生を、転がしていく熱量だけは失うまい。私には、ここでもやはりそう聞こえてしまうのである。

(2006年11月)

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