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2008年11月13日木曜日

ファーゴ('96)      コーエン兄弟



<確信的日常性によって相対化された者たちの、その大いなる愚かしさ>




1  女房誘拐計画



「これは実話の映画化である。実際の事件は、1987年ミネソタ州で起こった。

生存者の希望で人名は変えてあるが、死者への敬意を込めて、事件のその他の部分は忠実な映画化を行っている」

これが冒頭の字幕である。


その次に映し出された風景は、雪靄(ゆきもや)の深い白銀の世界。

そこに一台の車が、故障と思しき車を牽引している。

画面はまもなく、ノースダコタ州ファーゴ(注1)に向うその車をフォローしていく。

一人の男が車から降りて来て、待ち合わせのバーに入っていく。

そこには、二人のいかつい顔の男がいた。車の男は二人に自己紹介した。

「ジェリー・ランディガードだ」
「あんたが?」とビールをラッパ飲みしていた小男。
「シェブの紹介だ」
「7時半の約束だぞ」
「8時半では?」
「1時間待った。こいつは小便3回」と小男。

隣に座る無口な大男を指して、一人で喋っている。

「すまない。シェブは8時半だと・・・間違いだ」
「車は?」 
「駐車場に入れた。新車のシエラだ」とジェリー。

彼が牽引していた車は、新車だったのである。

「よし、かけな。俺はカール。パートナーのゲア」と小男。

その名はカール。隣の男の名はゲア。何も喋らない。

「よろしく。で、すべて了解を?」
「心配なのか?」
「違うよ。シェブの保証付きだ。君らを信用している。じゃあ、これが車のキーだ」
「それだけか?新車と4万ドルだろ?」
「約束では、まず車を渡して、4万は身代金の形で支払うはずだ」
「シェブの話とは違う。第一、約束は7時半だ」
「それは間違いだ」
「聞いたよ」
「前金で払う約束はしていない。まず、君らに新車を渡して、それから・・・」
「議論は止せ。議論しにきたんじゃねえ。そっちの話が呑み込めねえ」
「計画はちゃんと出来ている」
「自分の女房を誘拐?」
「ああ」
「俺たちに誘拐させて、身代金を8万払い、半額の4万をあんたが取り戻す?自分が払った金を取り戻すのか?」
「僕が払うんじゃない。女房とその親父が金持ちなんだ。僕のトラブルを・・・」
「トラブルって?」
「その話はあまりしたくない。とにかく金が必要で、舅(しゅうと)の金を」
「直接頼めば?かみさんは?」
「頼めないんだ。二人は僕のトラブルを知らないし、金など出さない。とにかく僕の個人的な問題だ・・・」
「俺たちに、こういう仕事を頼んで置きながら・・・とにかく車を見よう」

なかなか進展性の乏しい以上の会話の中で、ジェリーという男が何のためにこのバーに来たのか、その理由だけは了解できる。

終始、大男は無言だったが、ただ一言、ジェリーに「かみさんは?」と最初に聞いた言葉だけを残すに止まった。

しかし隣のお喋り好きそうな小男が、空気を一人で支配しようとする、ちっぽけな見栄だけがそこに露呈されていた。



2  連続殺人事件に変容する偽装誘拐事件の非合理性



ミネアポリスのダウンタウン
ミネソタ州ミネアポリス(注2)。

ジェリーは「ファーゴ」での仕事を終えて、自宅に戻って来た。

彼には優しい妻、ジーンと、思春期盛りの息子が一人いる。彼の仕事は自動車のディーラー。

義父は業界の大物で、ジェリーにとっては目の上のタンコブだった。

この日も義父は自宅に訪ねて来ていて、ジェリーはよそよそしい挨拶をするばかり。


(注1)ノースダコタ州の都市の名で、夏はとても暑く、冬は酷寒の地と言われる。レンガ造りの歴史的な駅舎と、その駅舎にある古い年代物の時計で有名。ミネソタ州の隣に位置する。 

(注2)ミネソタ州の州都で、カナダに近いため冬の寒さは厳しいと言われる。商業、金融、製造業、ハイテク産業などが発達して、「ミネアポリス・セントポール国際空港」のような著名なハブ空港があることでも知られている。                                   


ジェリー
ジェリーは仕事でも上手くいかない。

顧客にクレームをつけられて、その対応に四苦八苦。彼は多額の負債を抱えていて、その返済に悩んでいた。そのため彼は義父に駐車場を作りたいという計画を申し出ていたが、義父は色好い返事をしない。そこで彼は妻の偽装誘拐の計画を立てて、多額の金を手に入れようとしたのである。

ところが、その義父から、彼の計画についての話があるという連絡があり、彼は慌てて誘拐計画を中止にしようと動き出す。彼は、例の二人の男たちを紹介した整備工のシェブのもとに赴き、二人の連絡先を聞くが要領を得なかった。

詳細な事情を知らないその二人の男たちは、いよいよ計画を実行しようとするが、その前に娼婦を伴ってモーテルに立ち寄っている。まだ彼らの脳裏には、偽装誘拐のリアリティの実感が迫っていないようだ。

そんな二人の、車の中での会話。

相変わらず寡黙な大男のゲアに対して、小男のカールは面白くない。

「声を出すのは損か?」
「返事したろ?」
「そう、4時間でたった一言。お前は素晴らしい話し相手だ。楽しくで涙が出る。変わってる奴だよ。ブレイナード(注3)からずっと、俺が運転している。退屈だから話をしようとしてんのに、なのにお前ときたら、黙りこくっているだけだ。いいさ、俺も話し相手にならんぞ。“黙りっこ”。二人でできる楽しいゲームだ。ご満足か?黙りっこだ・・・」

結局、最後までカールが話し続けていた。


(注3)ファーゴとミネアポリスとの中間に位置するミネソタ州の町で、州内でも有数の避暑地である。本作では、偽装誘拐の密談の地でもあった。


まもなく、カールとゲアの二人組は、ミネアポリスのジェリーの自宅に白昼堂々と押し入った。

覆面を被ったゲアは、ジェリー夫人のジーンの眼の前で窓ガラスを割って、驚愕する彼女の前に現われた。その身を羽交い絞めにされたジーンは、恐怖のあまりゲアの手に噛み付いて、二階に逃げ込んだ。そこに残されたゲアは、自分の傷の手当てのことしか頭になく、彼女を追い詰めた部屋の中で傷薬を見つけて、その手当てを優先するという愚昧ぶりだった。

そんな状況下で、白いカーテンの裏に隠れていたジーンは男に見つかって、カーテンを巻いたまま階段から転げ落ち、捕縛されたのである。彼女は完全にパニック状態になっていたのだ。

一方、ジェリーは、義父の話が自分の望んだ駐車場への融資ではないことを知って愕然とした。妻の父である義父ウェイドは、娘婿の能力を全く評価していないのである。

その事実を知って落胆したジェリーは、白銀の色彩の中に点在する植木を高々と俯瞰する、まるで抽象絵画のような世界の中をゆっくりと歩いていく。そこは彼が駐車場にするために手に入れようとしたスペースだった。

彼はそこにぽつんと置かれた愛車の中で、暫く閉じこもり、やがてフロントガラスに凍りついた雪を削り取った後、その怒りを雪の白の上で噴き上げていく。

まもなく、自宅に戻ったジェリーは、眼の前に散乱する部屋の様子を見て、妻のジーンが誘拐されたことに気がついた。

それもまた、彼の偽装誘拐の画策の結果だったが、義父の信頼を失った彼には、もうそれ以外に事態を打開する手段がないと括っているようでもあった。

誘拐されたジーンを後部座席に押し込んで、カールとゲアの二人は夜の雪道を進んでいく。

ところが、ナンバープレートを付けるのを忘れていたカールは、道の途中で検問する警察官に降車を求められ、予期せぬ事態に対応できないでいた。ゲアの拳銃が火を噴いたのはその瞬間だった。

事件の発覚を恐れたゲアは、傍らで慄くカールに命じて警官の死体を処理させた。ところがそこに、一台の乗用車が通りかかった。ゲアはその車を追走して、その車が転倒している現場に近づき、二人を射殺したのである。ゲアという寡黙な大男が、その生来の恐るべき牙を剥き出した瞬間だった。

これが、一つの由々しき事件に結ばれていく。今や偽装誘拐事件は、とんでもない連続殺人事件に発展しつつあった。



3  日常性を繋ぐ女性警察署長



夫の傍らで安眠する女。

そこに突然電話が鳴り、「すぐ行くわ」と答えた。ベッドから立ち上がった彼女は身重の体を揺さぶって、夫が作ってくれた卵料理を食べて自宅を後にした。彼女の名はマージ。ブレイナードの町の警察署長である。

夫の名はノーム。どうやら売れない画家らしい。性格はとても優しい印象が強く、妻を思いやる気持ちが観る者にひしと伝わってくる。

マージは直ちに現場に駆けつけた。

身重の体に合うような警察服に包まれて、実況検分をしている。

彼女は現場を検分して、すぐにその犯人が土地の者でなく、大男であることを確信した。


突然、彼女は現場で前のめりになり、共に検証に携わる男の警官から、「何かあったかい?」と声をかけられた。



「ちょっと吐き気がしたの・・・大丈夫よ。悪阻なの・・・治ったわ。お腹がすいたわ」
「朝飯はまだ?」
「ノームが卵を焼いてくれたわ」

更にマージは警官の死体を検分して、そこに残された足跡から、小男の存在を言い当てて、二人の男による犯行であると推理した。

マージが所轄署に戻ったとき、そこに昼飯用にハンバーガーを持って来た夫のノームが待っていた。

マージはその夫のために、袋一杯にミミズを入れて持って帰って来た。仲の良い夫婦の関係が、既にそんな日常的風景の中に映し出されている。

「絵は描けた?」とマージ。
「まあね。ハウプマンが展覧会に出品を」とノーム。
「あんたの方が上手よ」
「どうかな」
「あなたの方が上よ」
「そう思う?」

そんな何気ない会話の中に、身重の妻の夫への配慮が見え隠れしている。

そこに、二人組に関する情報が入った。それは二人組がモーテルに立ち寄ったという情報。その情報をもとに、マージは彼らを相手にした娼婦の聞き込みに向った。彼女の日常性は、警察署長としての仕事と地続きになっているようであった。

マージは娼婦たちから、二人組みの印象を聞き出した。

「それで、その二人の男の人相は?」
「小さい方は変な顔。変な顔なのよ」
「もう少し具体的に」
「割礼はしてなかったわ」
「それで変な顔?・・・他に何か特徴は?」
「ないわ。ただ変わった顔をしていただけ」
「もう一人は?」 
「マルボロ・マンに似てたわ・・・吸ってたタバコもマルボロ。無意識の選択ね」ともう一人の女。
「“ミネアポリスに行く”って」と初めの女。

殆ど意味のないような娼婦たちの証言だったが、最後の言葉だけが意味を持っていた。しかし未だマージは、連続殺人事件と誘拐事件の結びつきを確認できていない。

その夜半、安眠するマージに再び電話の音。

「マイク・ヤナギダ」と称する男からの電話だった。

彼はミネアポリスに来ていて、そこで事件のことを知り、事件を捜査するマージを思い出して電話したのだった。旧交を温めただけの電話で、物語のラインとは全く結びつかないのである。



4  「サスペンス映画」の類型的な枠組みを壊して



一方、湖畔の隠れ家にジーンを拉致した二人は、未だ金を全額手に入れることなく、山小屋の中で暇を持て余していた。

映りの悪いテレビに苛立って、カールはそのテレビを叩きつけるばかり。

そのカールは勤務中のジェリーに電話して、「三人の血が流れた」と報告し、金の上積みを督促した。

「何だと?君ら一体何を?話が違うじゃないか!」
「邪魔しないで聞け!」
「悪いがこっちは・・・」
「逆らわないで、8万全額をよこせ」
「冗談じゃない」
「血が流れてヤバイことになった。明日金を」
「そんな・・・約束は約束だ」
「そういうゴタクは、殺された3人に聞かせな」
「何だと?」 
「分ったな。じゃ、明日」

ジェリー
一方的に電話を切られたジェリーは、職場で荒れるばかりだった。

その夜、彼は義父と金を犯人たちに届ける件について話し合った。彼らはまだ警察に届けていないのである。しかし、ジェリーを信用しない義父は、自ら金を届けることを決断した。

また、モーテルから二人が電話した記録から、マージはシェブの存在を特定し、直ちに彼の勤務先へ向った。

仮出所中のシェブは、二人のことを話さないと自分の立場がまずくなることをマージに脅されて、不承不承ジェリーのことを話したのである。マージはそこで初めて、ジェリーの存在を知ったのである。

そのジェリーのもとに、マージが現われた。

マージはジェリーの受け答えの不自然さに疑問を持ちつつ、彼の勤務先を後にした。

マージがその後向った先は、マイク・ヤナギダとの再会を果たすために待ち合わせしたレストラン。彼のプライバシーを散々聞かされて、マージは別れのタイミングを狙っている。その程度の親交なのである。

「僕がバカだった。会ったら楽しいだろうと・・・」
「いいのよ」
「君は素晴らしい女性で、僕は孤独・・・」
「いいのよ」

話の途中で泣き出すヤナギダを前に、マージはまともな言葉をかけられない。このヤナギダとのエピソードは、明らかに本作の流れから逸脱している。このようなエピソードを挿入した作り手の意図はほぼ特定できる。

作り手は恐らく、「サスペンス映画」の類型的な枠組みを壊したいのである。

或いは、「映画」それ自身の約束事を壊したいのである。

本作には、このようなムービーラインの本質を確信的に外していくようなエピソードが満載していて、この「ヤナギダ」の話もまた、その確信的な表現手法の範疇に収まるものであろう。この時点で、本作が徒(ただ)ならぬ実験的表現世界に踏み込んでいることが、観る者に了解されるに至る。



5  「人生は、もっと価値があるのよ」



カールはシェブの部屋を使って、町の娼婦とファックしていた。

そこにシェブが帰って来て、カールはシェブに叩きのめされる。

それだけの話で、シェブのエピソードなど本作の流れと殆ど無縁だが、しかし、ストレスを溜め込んだカールのその後の行動の伏線として、その描写はギリギリに重大な意味を持つことになった。

カールのもとに、ジェリーの義父であるウェイドが現われたのである。

「貴様は誰だ?」
「金はここだ。俺の娘は?」
「話が違う。カバンを置け!」
「娘は?」 
「ジェリーはどこだ。こっちの指示と違うぞ」
「娘はどこだ。娘が先だ」
「カバンを置け!」
「娘と交換だ」
「ナメやがって!」

そう言った瞬間、カールの右手の拳銃が火を噴いて、眼の前のウェイドを撃ち抜いたのである。

 雪の路面に倒れたウェイドは、自らの力を振り絞ってカールの顎を撃ち抜いて相当の手傷を負わせた。激昂したカールはウェイドに銃を乱射し、殺害したのである。

その場に、ジェリーが車で到着した。

彼は義父の死体を見て、驚愕した。料金所に戻ってみると、そこにも死体があった。係員の死体である。殺害したのは、顎から血をだらだらと垂れ流していて、すっかり理性を失っていたカールである。

しかしジェリーは、そこでの一連の流れをを知らない。そのまま自宅に戻ったが、彼もまた完全に理性を失っているようであった。

カールは義父が持参した現金を手に入れて、それを何の変哲もない雪の道の中に埋めている。男の顎から噴出した血が、自分のシャツにべったりと鮮血の赤を染抜いて、その赤を拭った手が雪の白に伝わって、隠し場所の辺りの白を僅かに変色させていた。純白なる自然と凶悪なる暴走の赤が、鮮烈に交叉しながら映し出されていた。

アジトに戻ったカールは、そこに人質の死体を確認した。

カールが問い質したら、「喚き出しやがった」とゲアが、一言で片付けた。既に殺人に対する歯止めが効かなくなっていたカールは、金を手に入れた今、それを4万ずつ相棒と分けることにして、自分は車で逃げることしか考えていなかったのである。

勿論、自分が隠した金の在り処については相棒に言うはずがなかった。

そんなカールが表に出て、車に乗り込もうとするところを、ゲアの凶器が襲いかかってきた。

マージは湖畔のアジトを、遂に突き止めた。

彼女がそこに少しずつ近づいていったとき、彼女の視界に入って来た光景は、まさに常軌を逸するおぞましい世界だった。大男が死体をミンチにかけていたのだ。大男とはゲア。ゲアによって殺されたカールの死体が、一面の白に鮮血の赤を広げていく無機質なるものに変化しつつあった。

マージは拳銃を突きつけて、殺人鬼を追い詰めていく。

咄嗟の判断で、彼女は逃走する男の足を撃ち抜いたのだ。

最後まで冷静な態度を崩すことがなかった彼女は、遂に殺人鬼を逮捕したのである。

犯人を搬送する車の中で、マージは語ることを知らない男に、虚しさを知りつつも語りかけていく。

マージ
「・・・何のために?僅かなお金のため?人生は、もっと価値があるのよ。そう思わない?バカなことを。こんないい日なのに・・・理解できないわ」

映像のテーマの本質を射抜くような、この何気ない語りの中に集約された含みは、その反応が全く期待できない一方通行の表現であったが故に、相当の重量感を保持していたように思われる。

まもなく、この凶悪なる殺人犯であるゲアの逮捕の後、事件の実質的な主犯であるジェリーも逮捕されることになった。

この男が仕組んだ最も愚かな物語の結末は、最も愚かな男の全てを露わにするものだったのだ。



6  「展開のリアリズム」で勝負しようとしなかった作り手の覚悟



いつものベッドで、身重の女は、心優しき夫の腕にもたれかかっていた。

「発表があった」と夫。
「発表が?それで?」と妻。
「3セント切手だ」と夫。
「真鴨のデザイン?おめでとう!」と妻。喜びを満面に表した。
「でも3セント切手だ」
「すごいわ」
「ハウプマンは29セント切手。3セント切手を誰が使う?」
「皆が使うわよ。郵便代が値上げされた時にね。不足分を補うのに必要よ」
「そうか・・・そうだな」 
「良かった。私も鼻が高いわ。私たち幸せな夫婦ね」
「愛しているよ」
「私もよ、ノーム」
「あと2ヶ月」
「あと2ヶ月よ」

あと2ヶ月も経てば、新しい生命が誕生してくるこの夫婦の至福の境地が、観る者の心を静かに捉えて放さなかった。

最後まで、「展開のリアリズム」で勝負しようとしなかった作り手の覚悟が、このラストの夫婦の何気ない会話の内に、安寧に繋がる日常性のリアリティを初めて開いて見せたのである。


*       *       *      *



7  「実話」以上の「実話」と言ってもいい何か



「実話」と銘打ったこのフィクションが露わにしてくれたのは、自らの愚かさの故とは言え、非日常的な世界に搦(から)め捕られた人間の真実の様態であった。

「実話」と銘打ちながら、そこで自在に展開する物語を作り上げた結果、その内実が生み出したのは、相当にカリカチュアライズされながらも、いや寧ろ、そのような表現手法によってこそ逢着した、まさしく人間の真実の姿でもあった。

それは、「実話」以上の「実話」と言ってもいい何かである。

即ち、「実話」であることによる制約から解放されることで作り出した作品の中にこそ、それがいつでも、「実話」に転化しかねないような人間の内なる真実性を孕んでいたのである。

コーエン兄弟
本作はある意味で、「どうすれば自分の状況を、よりリスクの高い不利な状況にまで追い詰めてしまうのか」というテーマを、極めて人間学的な見地から明らかにした、秀逸な一篇だったとも言える。



8  どうすれば自分の状況を、よりリスクの高い不利な状況にまで追い詰めてしまうのか



―― 以下は、その事例である。

 日常から落差の大きい非日常に転化するときの、人間の起こすリアクションの甚大さ。そこで束の間、機能停止状態になった自我の空洞に侵入する非日常の落差感が、かつて経験したことのない恐怖感を生み出してしまうと、限りなく高い確率で自分の状況を不利にしていくということである。

例えば、本来凶悪犯ではないカールが、自分が経験したことがない非日常(連続殺人事件)の世界に呑み込まれて、理性を失っていくプロセスは状況論的に説得力を持っていた。

元々、堅固でない自我が呆気なく崩壊していくさまは、哀切極まるものであったと言える。男がこの事件の魔境にインボルブされなければ、ケチな小悪人のまま、傍から見れば、その取り柄のない生活様態を自分なりに謳歌しつつ、塀の中との人生を往還しながらも、その鈍走の軌跡を残すことで閉じられたのかも知れない。

しかしこの男は、後述するが、既に相棒の選択をしくじった時点で、自滅への坂を転げ落ちてしまっていたのである。彼は本来殺すべき意志のない二人の者を、殆ど行きがかりの感情の反動の爆発によって、愚かにも殺(あや)めてしまったのだ。未知なる恐怖に充ちた状況が、この男の脳内から過剰なノルアドレナリン(注4)系のホルモンを分泌させてしまったのであろうか。

この男のことを考えるとき、塀の中で後悔し、懺悔する凶悪犯の何割かは、人格障害の症状をラジカルに炙り出すような文脈とは無縁なところで、自分の能力では処理できない状況に拉致されたことによって、相当程度、偶発的な暴発に流れ込んでいくケースが存在するであろうことを了解せざるを得ないのである。


(注4)人間が遭遇する状況下で、不安や恐怖の感情を惹起させる際に、「闘争か、それとも逃避するか」という構えを作り出すことで、自分の自我を襲うストレスを中和させるための行動に入るとされるが、そこで必要に応じて脳内で分泌されるホルモンのこと。「怒りのホルモン」という誤解されやすい説明もあるが、確かに、このホルモンの分泌が慢性的に高い状態に置かれると、心理的な興奮状態を継続させやすくなり、PTSDの症状を現出させると思われる。(拙稿/「心の風景」より引用)


 自分の「分」=能力を越えた行動を選択すると、相当の確率で自分の状況をより不利なものにしていくということ。

ジェリー
例えば、ジェリーの場合。

この男は、自分の妻の偽装誘拐事件を画策しながらも、そこに緻密な計画性と行動力が決定的に不足していた。安直に元囚人である整備工に接近し、更に、そんな男に事件の請負人を依頼するという呆れるほどの杜撰さ。

そして犯人たちと会っても、事件の詳細な計画を丸投げする不徹底さは、まさに、この男の際立って致命的なる能力的欠陥を検証するものだった。

有能な義父から、この男が無能の烙印を押された理由は、ほぼそこに透けて見えるのである。

義父の眼力の正しさが証明されたということ以外ではないのだ。

 その自己防衛行動に於いて、ある種の狡猾さを含む合理的行動の学習を果たしていないと、唐突に開かれた自己防衛的局面で過剰に反応し、それが自分をいよいよ不利な状況に追い込んでいくということ。

ゲアの場合、この反応が連続殺人事件に結びつくことで、自分が手に入れるであろう利益の配分の可能性を自ら削り取ってしまったのである。

更にジェリーの場合も、事件の画策の根底には、義父への重なる恨みが見え隠れしていて、その行動自体が彼の防衛的反応の顕在化であるとも思われるのだ。そこに既に、彼の過剰さが存在していたのである。

 欲望が肥大していくと、それが独占欲と安易に結びついて、普通の人間の普通の理解のレベルでは到底及ばない、極めて残忍な行動を招来する危険性を孕んでいるということ。
ゲアの相棒殺しとその遺棄の残酷さは、彼がその歪んだ人格の表現様態の中で普通に開いた状況の典型でもあった。

 自分の相棒や伴侶を選び間違えると、とんでもない事態を出来する状況に搦(から)め捕られる確率を高めてしまうということ。

ゲアとカール(左)
ゲアと組んだカール、ジェリーとジーンの夫婦もまた、このケースに当て嵌まるだろう。

前者のケースは分りやすいが、後者の場合もまた、義父という「障害物」の存在によって、ジェリーの愚かな画策を、容易に戻るところができない辺りまで暴走させてしまったのである。



9  恒常的安寧を志向して止まない、その日常性の構築を作り上げるもの



以上の事例から導き出される人間学的文脈は、それほど難しいものではない。

それが、自分の意思の発動の如何に拘らず開かれてしまった厄介な事態の内に、その身を預けたとき、その状況がもたらす課題が自分の問題処理能力を上回ってしまう限り、人間がその状況で曝す愚かさや醜悪さ、滑稽さというものは、紛れもなく、その人間の自我の脆弱さを表現したもの以外ではないということだ。

そもそも、「快不快の原理」で生きてきた人間の行動原理が、前期思春期以降、少しずつ自覚的に身につけていく「損得の原理」と、更に青春期に至って、より選択的に吸収していくであろう、「善悪の原理」とのパラレルな内部精神の進化の固有なる軌跡こそ、自我の確立運動についての端的な把握と言っていい。

私たちの自我は、その根柢に於いて、「何が損で、何が得か」、更に、「何が悪徳と看做(みな)され、何が善なるものか」という判断基準を内包し得る、言わば、「人生の羅針盤」である。

通常、私たちが犯罪にその身を預け入れることがないのは、犯罪に踏み込んで手に入れる利益よりも、それによって失う利益や既得権、更に、そこで蒙る不利益の方が大きいと判断できるからである。

必ずしも、善悪の基準によって、私たちの行動規範が選択的に受容されている訳ではないということだ。多くの場合、私たちは、このような自我を親によって作ってもらって、ある時期以降、自らの努力でそれをより堅固なものに形成していくのである。

自我こそ、「内なる神」の正体であり、私たちが、通常、「良心」と呼んでいるものの別名であると考えられる。 

そして何よりもそれは、「これを為したら自分が損をする」ことを確信できる思考中枢の生命線でもある。堅固で豊かな判断能力を示すに足る自我があればこそ、私たちは恒常的安寧を志向して止まない、その日常性の構築を作り上げることが可能になるのだ。

この認知が、私たちの平均的な人間学の出発点なのである。



10  確信的に充実した日常性とは無縁なる者たちの、末梢的なる人間学的把握



―― 本作に戻る。


先述の事例で言及された者たちの愚かさの正体は、人間学的観点から言えば、彼らの自我の圧倒的な脆さとその歪みにある。

ゲア
ゲアについては、殆ど人格障害の様相を呈しているので、詰まるところ、事件の悲劇の発火点にまで遡及すると、この男の存在抜きには語れないということになる。

この男が犯した殺人が、次々に猟奇殺人にまで流れ込んでいったことを考えれば、単なる偽装誘拐事件という、呆れるほど間抜けな事件のカテゴリーで収まったのかも知れない出来事を、一気に凶悪化させしめた一連の悲劇の中枢に、「決してそこに置いてはならない男」を招き入れたという一点に於いて、この男の悪しき存在性を把握できるだろう。

しかし元々は、ジェリーの愚かさこそが、全ての事件のルーツにあった。

この男の幼稚で愚昧な思考は、明らかに、男の自我形成の未成熟を露わにしていて、事件を着想するに至るプロセスの中に、殆ど充分なほどの無能のさまが、集中的に曝されていたことを想像するに難くないのである。

男は恐らく、人並みに妻を愛し、息子を愛し、そして人並みに、家庭を大切にする気持ちを継続的に持っていたであろう。

然るに、男は自らの「分」を超える仕事の野心を捨てられなかったに違いない。その理由は、彼らの結婚を反対したであろう義父に対する反発感情であったと思われる。

義父の自分に対する低評価を決定的に覆したいという思いが、男の内面を支配していたのではないか。それ故、決して離婚を考えていないであろう自分の妻に対する偽装誘拐という事件を画策した。

それは義父に対するあからさまな反逆であったと考えられるのだ。この男の内側には、父性コンプレックスと思しき感情が見られるのである。

自分の能力を検証しようという彼なりの企画が、義父に悉(ことごと)く却下されたとき、彼は遂に事件に踏み込んだ。その名目は借金の返済にあったが、その意識の深い所で、義父を極限まで悩ませてやりたいという思いが沈殿していたと思われるのである。

そして彼の妻、ジーンもまた、父性コンプレックスを内包させていたようにも思われる。彼女は実父の前では、従順なる一人の娘の役割を演じていく。

父のウェイドもまた、娘を溺愛していた。

彼は娘を助けるべく、拳銃を携えて自ら凶暴な犯人の前に現われたのだ。

しかも車のトランクには、大金が用意されていた。彼は自分の命と財産に換えても、娘を救出しようとしたのである。このウェイドという男には、娘婿のジェリーに渡す金はなくても、娘のために投げ出す金は存分にあったということだ。

そんな父の愛をひしひしと感じる娘だからこそ、夫を助けるという理由で、実父に懇願するような主体的行動を選択できなかったのであろう。彼女の自我もまた、極めて未成熟なる様態を曝していたと言えようか。


―― 以上で、確信的に充実した日常性とは無縁なる者たちの、末梢的なる人間学的把握は終りにしよう。



11  確信的日常性によって相対化された愚かしさ



そして稿の最後に、これまで言及した者たちの自我の崩れ方のさまとは、全く没交渉な人物のことを書いていく。

本作の主人公であるマージである。

彼女は小さな町の警察署長にして、心優しき画家である男の妻である。

そしてこの妻は、あと二ヶ月足らずで出産を予定する妊婦である。この妊婦は未だ出産休暇を取らず、警察の職務に追われる日々を送っていた。

そんな中で発生した連続殺人事件の捜査を担当し、陣頭指揮に当って、その身重な体を揺さぶるように動き回る。果たして、そんなことが可能か否かというリアリティの問題はこの際棚上げにして、観る者は彼女の八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍を見守ることになる。

確かに彼女は有能だった。それは、「女にしては」という含みのある制約を無視して、特段に優れた捜査能力を発揮して見せたのである。

ところが、映像で映し出される彼女の描写の全ては、決して、事件と直接絡む出来事ばかりではなかった。とりわけ、「マイク・ヤナギダ」に関するエピソードは、事件と脈絡する伏線にもなっていなかった。

単に事件を知った旧友が、彼女との再会を懐かしがって見せただけのエピソード。なぜ、作り手はこのような描写に、全篇僅か90分の映像の一部を割こうとしたのか。

ストーリーの記述の際にも言及したが、作り手はこのような描写をふんだんに見せていくことで、「サスペンス映画」の約束事を破壊する実験をしたのであろうか。

それも充分に考えられるが、私はそれ以上に、彼女の枝葉末節のエピソードを多く盛り込むことによって、作り手は、絶対的安定感を手に入れた日常性の、その心地良き小宇宙を描き出したかったからであると考えている。

そこで紹介される、夫との微笑ましい共食風景や他愛のない会話の中にこそ、彼女の幸福なる日常性の世界の中枢があった。

それは、彼女の拠って立つ自我の絶対的安定の基盤だったのだ。

彼女は夫の売れない絵を賞賛し、常に夫の創作意欲を削ることがない心遣いを見せていた。家庭では事件のことは話さず、夫の大きな胸に、その身を柔和に預ける甘えを表現して止まないのだ。

夫もまた、妻の緊急の出勤の際には卵料理を作って、何とか栄養を補給させようとする。そしてその妻は、食欲がなくても夫の料理を満足げに食べて、常に夫への感謝の念を忘れないのである。

夫婦はまもなく産まれる子供のために、幸せな家庭の受け皿を築く努力をしているようにも見えるが、しかし彼らの振舞いは極めてナチュラルであり、どこまでも素朴である。相互に不必要な気配りをしているように見えないところにこそ、この夫婦の絶対的強みがあるのだ。

二人は心底幸福感を実感していて、そこに過剰なる尖りは全く見られないのである。

この二人についての日常描写は、事件を発動し、そこに翻弄される愚かなる者たちの非日常的風景と殆ど対極の関係を表現するものになっている。

そこにこそ、作り手のメッセージが仮託されていると解釈するのが自然なのである。

事件に翻弄される者たちの愚かさ、醜さ、滑稽さは、まさに確信的に、その身を日常性に委ねる穏やかなりし夫婦の存在性によって相対化され、その非日常的風景の崩れのさまを、より醜悪なる形で炙り出されてしまうのだ。

マージは警察署長であり、事件の中心的捜査官だが、彼女の勤務の内実は非日常的な醜悪さに触れることはあっても、彼女自身は特段の自己犠牲的使命感によって、且つ、そこに侵入するに足る相当の覚悟をも随伴させつつ、その非日常の刺々しさの中に踏み込んでいるようには見えないのだ。

彼女はあくまでも、マイペースに淡々と職務をこなし、時には悪阻の症状を見せて、職務を中断することさえある。

事件に対する彼女の入り方は、殆ど、彼女の日常性と地続きなのである。彼女の職務もまた、彼女の普通の日常のそれと変わらないのだ。

彼女がその身重の体を移動させながら、連続殺人事件という非日常の世界に踏み込んでも、その世界が放つ危険で醜悪且つ、刺々しい臭気を嗅いでも、彼女は全くそれに振られる素振りは見せないのである。

彼女にとって、自らの日常的職務の範疇にある事件への捜査とどれほど絡んでも、彼女が夫と共に求めるようにして作り上げた、その心地良き日常性が崩されることがないのだ。

だから彼女は、出産という非日常の時間と柔和に繋がっている、その固有な日常性を目立って身体化させても、本来の安定した意識の不動性を、そこに堂々と映し出して見せたのである。

映像は恐らく、その辺りについて淡々とした思いを寄せている。

しかしその思いは、確信的日常性を構築した者だけが理解し得るラインなのである。

これは、「確信的日常性によって相対化された愚かしさ」を描いた秀作であったと言えるのだ。

安定した日常性を確保した者(警察官)が、その勤務の日常性に自らを委ねるとき、その勤務が開いた非日常の現実(連続殺人事件)に入り込んでも、その者が確保する日常性との連続性が断たれていて、そこに安定した日常性を確保した者の真の強さが検証されたのである。

本作に於けるマージについての描写は、ダブルベッドでの夫との添い寝に始まって、そしてそのベッドの上で、夫との柔和な会話によって閉じていく。この描写の円環的な文脈こそが、本作の生命線であったと言えるのだ。

あと二ヶ月もすれば、新しい生命が誕生するかも知れない至福の境地を、夫婦は愉悦している。

この話は夫婦愛の極点を示す描写でもあった。

そして、妻の継続的に安定した精神的サポートがあればこそ、夫の絵が3セント切手に採用されるという細(ささ)やかな成功に繋がったと読み取れなくもない。そのエピソードの中に、慎ましやかなものに対する作り手の思いが仮託されていると見るのは、蓋(けだ)し自然であると思われる。

言わずもがなのことだが、マージとノームの関係だけが、本作で紹介された四組の典型的な関係の中で、唯一、柔和で破綻のない平和な秩序を現出していたのである。(因みに、他の三組とは、ジェリーとジーンの夫婦、ジェリーと義父ウェイド、そしてカールとゲアの犯罪コンビの関係である)

カール
最後に本作は、「変な顔」の男という記号でしか語られなかった小男が、その人格性を削られたまま、多少湿気のある日常性(娼婦遊び)と、乾燥した非日常性(事件の連鎖)を往還させながらも、その脆弱な自我をより劣化させる方向に崩していった様態を対極に置くことで、映像の基本ラインの構造を映し出しているとも把握できる。

結局この話は、それぞれの拠って立つ、自我の基盤の硬軟度や豊凶度のさまというものが、それぞれの自我が関与する状況下で、いかに自らを有利、不利なものに分けていくかということを人間学的に考察した一篇であったと、私が勝手に把握した次第である。

「・・・何のために?僅かなお金のため?人生は、もっと価値があるのよ。そう思わない?バカなことを。こんないい日なのに・・・理解できないわ」

このマージの言葉の重量感は、当然の如く、捕縛されているゲアには届かない。或いは、この映像を観る多くの者たちにも届かなかったのかも知れない。

それもまた、良しとしよう。映像から何を汲み取り、何を捨てていくのもまた、観る者の自在なスタンスや思い入れの度合いに因っているからである。



12  ある種の堅固さを持った、本質的な思考ラインから切れた者の怖さ



ただ、最後まで本質的なことを語ることをしなかったゲアという人間を、私たちがどう観るかというその眼差しだけは、正直気になるところである。

本質的なことをこの男が語らなかったのは、この男が、何かある種の堅固さを持った本質的な思考ラインを保持していないからである。

こういう男が最も怖いのだ。

なぜなら、そこに迸(ほとばし)る血流の不可避なうねりの音響というものが、私たちの感覚器官に捕捉されないからである。この男だけが、そこに特別な感情爆発のサポートなしに確信的に人を殺し、淡々と殺めたその死体をミンチ状にして、まるで無機物の感覚によって裁断することができたのだ。

ゲアとカール
この男は、紛れもなく人格障害者であり、それも極めつけの人格破綻者であったと把握すべきなのである。

こんな男は、ひたすら欲望の赴くままに動いて、それが遂に枯れることのない人生をこそ選択し続けるだろう。

だからこの男は、ただ単にフラットな意味で、この世にごまんと存在するであろう、「愚かなる者たち」のカテゴリーに入れることさえ難しいと言わざるを得ないのである。

ついでに言えば、映像の中でその哀れさと愚かさを曝し続けたのは、ジェリーとカールの二人である。しかしこの男たちに対する言及は、先述したラインの把握で既に充分であるだろう。

警察署内に、昼食用のバーガーを届けてくれる夫に対して、予め用意しておいたたミミズを渡すマージ。夫の釣りの餌をさり気なく渡すその振舞いは、極めてナチュラルに進行する夫婦の日常性の、その等身大のサイズに見合ったかのような、ゆったりした速度に嵌っていて、このような他愛のないエピソードを、センスに満ちたシナリオに書き込んだ作り手の、時間の観念を独創的に表現するものとして、限りなく印象的であり過ぎた。

それは、本作を観る者の時間の観念をも、そこに軌道修正させていくに足る説得力を含む描写となっていて、私としては、無前提に受容できた次第である。

返す返すも、見事な一篇だった。

(2006年7月)

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