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2010年12月14日火曜日

大誘拐('91)       岡本喜八


<「獅子の風格と、狐の抜け目のなさと、パンダの親しさを兼ね備えた人格」の支配力の凄み>



1  極上の「メルヘン」という「鼻薬」を嗅がせる如きトラップ



誰が観ても悪い印象を与えない映画を作るには、このような作品を作ればOKと印象付けさせる典型的な一篇。

それは、毒気を抜いた岡本喜八監督が、本来的な「娯楽活劇」にリターンすれば、このようなレベルの映像を構築するという検証と言えるだろうか。

そんな「娯楽活劇」を批評するに当って、ここでは一切、固有名詞を使用せず、本質的なところだけを言及していこう。

―― 以下、「娯楽活劇」の梗概をまとめてみよう。

顕著な体重減少によって、自分の死期が間近に迫っていると怯えつつも、死を覚悟した山林王は、以降、自らが保持する莫大な財産相続の問題に関与して、知略を巡らす日々が続く。

82歳の山林王は、凛とした女性。

彼女には、そのような知略を構築する天才的な能力があり、且つ、それを遂行する胆力が備わっていた。

これが、本作の大前提として、まず存在する。

82歳の山林王
渡りに船と言うべきか、或いは、飛んで火に入る夏の虫と言うべきか、そんな山林王を誘拐しようと目論む3人の若者たちが、彼女の眼前に出現した。

殆どその瞬間に、誘拐される対象人格の山林王が、誘拐する主体であるはずの若者たちを手玉に取り、支配するという関係構図が生まれるに至る。

考え抜かれた知略を遂行する機会が訪れたと、山林王は考えたのだ。

そして、この映画の最も重要なポイントは、確かに軽佻浮薄な振舞いではあったが、とうてい刑務所帰りとは思えない、誘拐犯人である三人の若者たちを、ごく平均的なタイプの煩型(うるさがた)による上から目線の「説教」や、「熱血漢」の薄っぺらな「熱血」的アウトリーチなしに、ほんの少しの「メルヘン」の臭気を嗅がせるだけで、簡単に「改心」してしまうような、至極、「純粋無垢」とも思しき「善人」として人物造形したことに尽きるだろう。

それが、作り手の意図であったか否かであったか不分明だが、少なくとも、若者たちの「善良性」が、物語の「意外性」を生む相当程度の推進力と化して、当初のテンポの悪さを相対化し、観る者を最後まで引っ張り切る効果を保証するのだ。

その流れの延長上に、誘拐される者が、誘拐する「善人」を利用して本意を遂げるという、老若男女に通じる特段の「メルヘン」に雪崩れ込んでいくのである。

山林王による〈虹の童子〉という3人組のネーミングこそ、観る者に、極上の「メルヘン」の臭気を、まるで「鼻薬」を嗅がせる如きトラップのうちに惹きつけてしまうのだ。



2  「面白いだけのヒューマン・コメディ」の枠内に収斂されていくドラマ



困っている人間を積極的にサポートする、幾多の慈善事業に取り組む程に、スケールの大きな包括力を有する山林王は、「善良性」を垣間見せる若者たちを、無傷で生還させねばならないと括ったのであろう。

そこにはもう、山林王と若者たちとの間で、ストックホルム症候群(犯人に親近感を抱くこと)とリマ症候群(人質に親近感を抱くこと)の双方、即ち、明瞭な「共犯性」が生まれていて、彼女はいよいよ、「100億円身代金目的誘拐事件」を若者たちに提示し、実行に移していく。

しかし、若者たちを無傷で生還させるという制約が、その後のストーリーラインを縛っていくので、実際の事件の展開は奇想天外で、アンチリアルな様相を呈するが、ユーモア含みのサスペンス的な、程良い緊張感との均衡が担保されていて、一級の娯楽映画の王道が開かれていく。

もとより、本作は、「犯罪サスペンスドラマ」と「ヒューマン・コメディ」という枠組みの内にあるが、前述した制約により、後者が前者を最後まで支配していくというストーリーラインの構造は崩されることはないのだ。

そして、事件の大成就と、若者たちの無傷の生還。

そればかりではない。

山林王は、自分の子供たちが100億という大金を捻出する気概を持つか否かについて、試している節があったが、無事、それをもクリアした。

全世界のメディアに配信された「大誘拐」の渦中で、彼女は自分の一族郎党をも無傷で生還させるに至ったのである。

そして、問題のラストスーン。

彼女の世話を受け、現在は県警本部長になって事件を担当している男との、緩やかな直接対決が開かれた。

男には「大誘拐」の犯人が、既に山林王以外に考えられないと把握したが、100億の大金の行方と、犯人である若者たちが味を占めて、次の犯行に連鎖していくリスクの有無を確認する必要があった。

県警本部長と山林王
緩やかな直接対決の中で、それは有り得ないと確信する男と、山林王との間に黙契が成立し、ハッピーエンドのうちに閉じられていく。

―― 要するに本作は、原作(創元推理文庫)にもあるように、「獅子の風格と、狐の抜け目のなさと、それに、パンダの親 しさを兼ね備えた人格」と、男によって評される人間性の主である件の山林王が、「女スーパーマン」と化して、その根源的推進力(知略・戦略・胆力)によって展開された、紛う方なく、一級の「娯楽活劇」であったということだ。

或いは、誘拐される者のアウトリーチによって、誘拐する若者たちの「善人性」が小出しにされ、継続的に引き出されていくという類の、極上の「ヒューマン・コメディ」に収斂されるドラマでもあった。

しかし本来は、「面白いだけのヒューマン・コメディ」の枠内に収斂されていくドラマであるにも関わらず、ユーモア含みの「犯罪サスペンスドラマ」との均衡を保持するが故に、サスペンスの王道を担保させるに足る、誘拐される者のモチーフを、「社会派的テーマ性」(3で言及)のうちに求める物語を紡ぎ出していってしまうのだ。

厭味を込めて言えば、そういうドラマであった。



3  「獅子の風格と、狐の抜け目のなさと、それに、パンダの親 しさを兼ね備えた人格」の支配力の凄み



本作に張り付く、もう一つのメッセージがあった。

言うまでもなく、それは、「・・・お国って、私には何やったんや」という山林王の言葉で表現された、国家権力への風刺である。

実は、その風刺には、観る者への問題提起が含まれているというの、が私の見方である。

以下の文脈である。

誘拐犯の3人
「純粋無垢」とも思しき「善人」として人物造形した若者たちになぞらえたであろう、戦争で三人の子(2人の息子と、一人の娘)を喪っている山林王は、自らの死を前にして、更に、相続税の物納という形式で、長く守り育ててきた美しい森までも奪われる事態だけは回避したかった。

と言うより、そんな「理不尽な政策」を遂行する国家に対して、一矢を報いたかったのである。

山林王が〈虹の童子〉を経由して、要求した金額は破格の100億。

それは、F16戦闘機を2機だけ買える「程度」の金であった。

既にこの台詞の中に、100億の「強奪計画」に象徴される国家権力批判が展開されていた。

そして、山林王がラストシーンで呟いた以下の言葉こそ、原作を読んだにおける岡本喜八監督の映像化の契機になったことが、原作の解説(吉野仁)で紹介されていた。

「・・・お国って、私には何やったんや」

ここで、観る者は、はたと考えさせられるだろう。

先の戦争への批判は、ほぼ日本人共通の感情だが、しかし、平等志向の日本人には、「金持ちが高い相続税を納めるのは当然だ」という感情を含むだろうから、「富の再分配」という基本思想と、戦争批判を一緒くたにするという国家権力批判は、果たして妥当であるか否かということを。

然るに、「観終わった後、何か『いい気分』になるという物語」の閉じ方は、まさに「面白いだけのヒューマン・コメディ」の定番的な軟着点であることを否定すべくもないだろう。

ここでもう一度、例の県警本部長の名文句を想起したい。

「獅子の風格と、狐の抜け目のなさと、それに、パンダの親 しさを兼ね備えた人格」

こういう擬人化のフレーズは、擬人化される対象動物の真実を反映していないという一点において、私には馴染めないが、そんな硬質的な拘泥を笑い飛ばすコメディの性格に情感を合わせて言うならば、このフレーズは見事という外にない。

ところで、私の中でなお拘泥するのは、犯罪のスケールの大きさを遂行する胆力を示す「獅子の風格」や、「純粋無垢」とも思しき「善人」として人物造形した若者たちと、呆気なく、世代を超えた関係構築を果たす振舞いに象徴される「パンダの親 しさ」ではなく、「富の再分配」の問題に対する「譲れなさ」という「日本人共通の基本思想」を、単に「国家権力批判」の視座によって、「狐の抜け目のなさ」というフレーズのうちに簡単に擦過してしまう安直さである。

岡本喜八監督
それは、犯罪のモチーフに張り付く「国家権力批判」の視座に反応した、岡本喜八監督の拘泥感の「底の浅さ」を検証すると言うより、「ヒューマン・コメディ」による「大浄化作用」がもたらす、「観終わった後、何か『いい気分』になるという物語」への軽快な自己投入の所産であるだろう。

やはり本作の私の評価は、冒頭で書いたように、「誰が観ても悪い印象を与えない映画を作るには、このような作品を作ればOKと印象付けさせる典型的な一篇」を超えるものではなかったのである。

だから単に、本作は、国家を翻弄する、「獅子の風格と、狐の抜け目のなさと、それに、パンダの親しさを兼ね備えた人格」の支配力の凄みを描きたかったと言ってもいいだろう。

無論、それでも充分にOKなのだが、敢えて言えば、自分の子供たちの気概を試した後、「女スーパーマン」が、根が「善良」だが、ラーメン単位でしか金額のスケールをはかれない若者たちを、如何に助けるかというモチーフに集約される、「面白いだけの映画」の宿命が、そこにあった。

そう思った。

(2010年12月)

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