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2008年10月29日水曜日

ソフィーの選択('82)       アラン・パクラ


<もう選択したくない人生>



序  「もう一つの選択」を決定づけてしまう悲哀



人生とは、間断なく続く選択の集積であり、その集積の軌跡である。

人生とは選択である、と言うとき、その選択が必ずしも自らの意志によらない選択も当然含まれる。

「コロッケかメンチか」という選択から、「産むか産まないか」という選択まで広げると、人生には実に様々で、重量感の異なる選択があることが分る。

厄介なのは、自らの意志によらない選択の問題である。

それも、外部から有無を言わせず強いられた選択の場合、それは何らかの形で私たちの人生に、しばしば見えないように、しかし確実に突き刺してくるような痛みを残していく。

その痛みが人生の形を決定づけてしまうなら、その人生の不条理を嘆く他はないのであろうか。

そんな人生の不条理を描いた映画、それが「ソフィーの選択」だった。

この映画は、自らの自由な意志によらない「一つの選択」が、緊張含みで展開する、その後の人生に待ち受けた「もう一つの選択」を決定づけてしまう悲哀を、あまりに痛切に映し出した作品である。

人生における「一つの選択」が、その後に続く人生の殆んど多くの選択を決めてしまうような人生が、この世に厳として存在するということだ。

その否定し難い事実をモデル化した映画こそ、この作品だった。



1  闇の奥に封印された過去



―― 本作のストーリーラインを簡単に追っていこう。


アウシュヴィッツ(オシフィエンチム)を体験した、ソフィーという名の一人のポーランド女性がいて、彼女と同棲する、ネイサンというユダヤ人の妄想性分裂病(統合失調症)者がいた。

左からスティンゴ、ソフィー、ネイサン
二人が住むアパートに、本篇のナビゲーターを務めるスティンゴという、南部出身の作家志望の青年が入居して来て、忽ちのうちに彼らは意気投合し、そこに奇妙な友情関係が成立する。

時は1947年。場所は、ニューヨーク市ブルックリン区。

粗暴さと優しさを同居するネイサンの奇癖に翻弄されながらも、彼の愛に縋りつくようなソフィーの不安定な心を癒すスティンゴは、彼女の閉ざされた過去の扉を少しずつ開いていく。

反ユダヤ主義の大学教授の父を持ちながらも、ナチスドイツから迫害され、自らも二人の子供と共にアウシュヴィッツに送られたという事実。

そして収容所内での辛い生活が彼女の口から語られるが、スティンゴはしばしば、彼女の暗鬱な表情の奥にある闇の部分に弾かれて、立ち竦む。

どうしても届き得ない、二人の棲む世界との距離に違和感を覚えながらも、スティンゴは美しいソフィーに惹かれていく。

ネイサンの粗暴さがソフィーに今までにない恐怖感を与えたとき、危機感を感じたスティンゴは彼女を連れてワシントンに逃げ、市内のホテルに宿泊する。

スティンゴはそこでソフィーに求婚し、自分の郷里である南部に戻って、二人で幸福な家庭を築こうと懇願した。

しかし、スティンゴの抱懐する幸福のイメージに同化できないソフィーは、そこで初めて、自らの闇の奥に封印された過去を、絞るように解き放ったのである。



2  不条理な選択



―― 以下、ソフィーの告白。

アウシュヴィッツ駅に降り立った収容者の長い列の中に、ソフィーと二人の子供が不安げに立っていた。

その列は、全ての収容者を、働く者と死に行く者に選別する地獄のラインだった。

一人のドイツ将校がソフィーに近づいて、語りかける。

「美しい。君と寝たい。ポーランド人か?…お前も薄汚いアカか」

初めは恐怖で反応できなかったソフィーは、捨て台詞を吐いてその場を去ろうとするドイツ将校に、必死に弁明する。

それは、自分たちの身を守ろうとする母親の、精一杯の自己主張だった。 

「ポーランド人よ。ユダヤ人ではないわ。子供たちも違うわ。彼らは純潔人種よ。私はクリスチャンでカソリックよ」
「アカではない?信心を?」
「私はキリストを信じています」
「救世主キリストを信じているのか?」
「ええ」
「彼は言っている、“幼き子供らをわが手によこすがいい”と。子供は、一人残していい」

将校のこの信じ難い言葉に、ソフィーは恐る恐るその意味を確認する。

「何ですって?」
「子供は一人残していい。一人は手放せ」
「選べとおっしゃるの?」
「お前はユダヤ人ではない。選択の特典を与えてやる」

神経を疑うような将校の冷徹な言葉に、苛烈極まるリアリティの、底知れぬ重量感を感じとったソフィーには、このとき、あってはならない現実を前にして躊躇している時間がなかった。

「そんな… 選ぶなんてできないわ。できないわ」
「選ばねば、2人とも向うの列だ。選ぶのだ」
「そんなひどい…できないわ」

狼狽(うろた)えるソフィーに、将校は死の選択を迫った。

「2人とも向うだぞ。やかましい。つべこべいうな!選ぶのだ!」
「止めて!できないわ!」

幼気(いたいけ)な娘を抱えるソフィーの手に力がこもった。母にしがみつく息子の表情が恐怖に震えていた。

「2人とも向うだぞ。連れて行け。早くしろ!」
「娘を連れてって!私のベビーを!その子を連れてって…」

咄嗟に娘を差し出すソフィーの行動は、殆ど衝動的だった。

しかしそこに、一片の理性が働いていなかったとは言えなかった。

厳しい収容所内で生存する確率を考えて、彼女は恐らく息子の生命を選択したに違いない。

だからこそ彼女は、あってはならない選択を迫られた不条理を呪い、何某かの理性的選択を行った自分自身を呪わずにはいられなかったのである。

この不条理な選択を、もしドイツ将校が権力的に遂行していたならば、ソフィーの自我は壊されずに済んだかも知れないのだ。

まさにそのような「究極の選択」を遂行した、「母なるもの」としての自我は、無残に壊されゆく運命を免れなかったのである。



3  「もう選択したくない人生」に大きく振れて



結局、ソフィーの息子は、絶滅収容所からの生還を果たさなかった。

このことで、彼女の残りの人生の行方は、ほぼ定まったと言えるだろう。

それ以上ない心的外傷を負った、一人の女が選択し得る人生は、極めて限定的だったと言うしかないのである。

彼女はネイサンという極めて情緒不安定な男と出会い、その常軌を逸した男の愛情に丸抱えされることによって、実は、人生の要所要所の判断を男に委ねてしまったのである。

彼女の自我は、「もう選択したくない人生」に大きく振れてしまったということである。

それがソフィーとネイサンとの関係を、心中という悲劇的な結末に導くメンタリティの根柢にあったものだ。

確かにソフィーは、自らの意志で死を選択したであろう。

それを「第二のソフィーの選択」と呼ぶ向きも多いが、私に言わせれば、それは「第一の決定的な選択」の後に残された余分な人生の、中枢を喪った漂流の中での、言わば、そこに辿り着くしかない「宿命的な選択」であったと考えられる。

従って、彼女は死を選択したのではなく、死以外に選択する術がなかったのである。

ネイサンの中に常に漂う死の体臭に誘(いざな)われしまったという事実、それが彼女の残りの人生の中の、「唯一の選択」であったとは言えないか。

映像は、ソフィーとネイサンというかけがえのない友人を喪った作家志望のスティンゴの、温もりの漂う回想によって閉じていく。

スティンゴの存在は単に映像のナビゲーターという役割に留まらず、ガラスの神経を持つソフィーの心の闇を、束の間解き放つ重要な役割を担っていた。

恐らく、「第一の選択」を回避して、収容所からの生還を果たしたソフィーと出会っていたならば、スティンゴとソフィーの関係は相互に求め合い、補完し合う理想的なモデルを作り上げていたかも知れない。

ソフィーを守り切れなかったスティンゴにとって、それだけが無念な思いであっただろう。



4  越えられていない、フラットな心理サスペンスのカテゴリー



―― 「ソフィーの選択」は、それなりに良くできた映画だった。

しかしこの作品は、どうみてもホロコーストの映画ではない。

明らかに本作は、ラスト近くの告白のシーンに勝負を賭けた、心理サスペンスの映画であると言っていい。

本作についてもっと辛辣に言えば、それは、ソフィーの心の闇を小出しに解き放った先に、「これだけの重い心の痼(しこ)りがあったんだ」という衝撃を、原作を知らない観客にもたらすリバウンド(「初頭効果/注」的と言っていい)を狙った、一種狡猾なる映画でもあったということだ。

出会い頭のインパクトで勝負する作品だったからこそ、興行的成功を導いたとも言えようか。

然るに、この作品をもう一度観た人は、最初に受けた感動との落差に戸惑うに違いない。

そこに、ソフィーに成り切った感のある、メリル・ストリープの演技の凄さだけが目立って、後は何もないという印象のみを残すのではないか。

残念ながらこの映画は、秀逸な人間ドラマとしての成功に達していないのだ。

表面的な映像のインパクトではなく、日常性の見えにくい部分にまで巣食っているような、遥かにもっと奥深くて、且つ、必要条件を充たし得る繊細な心理描写が必要であったと思われる。

何かが、あと少し足りないのだ。

少なくとも本作は、それと三度付き合った私の印象を、より鮮明に更新させる何かが欠けていた。

どこまでも、フラットな心理サスペンスのカテゴリーを越えられていないのだ。正直、そう思った。

それでも私が、この映画を一定程度評価する理由は、唯一つ。

この作品が、人生の不条理な選択のそのあまりの重さを極めてシンプルに、分りやすい形で提示していたからである。

この世の中で最も恐るべきもの、それは「強制による不条理な選択」であり、その結果、殆ど宿命づけられる、「もう選択したくない人生」が、狂おしく開いてしまうような苛酷なる人生模様である。

そんな人生模様の一つのコンパクトなモデルを、この映画に観ることができたのである。


(注)本来、最初の印象が強く残るという意味の心理学用語だが、ここでは、勝負を賭けたシーンの印象の鮮烈さだけが、観た者の映像記憶を決定付けるという意味で使っている。それを敷衍して、初めて観た映画の印象の決定力としての「初頭効果」の大きさを指摘した。



【余稿】  〈「絶対経験」の重し〉



アウシュヴィッツ第二強制収容所(ビルケナウ)の鉄道引込線

人間の壊れやすさを絶望的なまでに検証して見せたのは、絶滅収容所という名の自我の破壊空間であった。

そこでは破壊されたのは単にユダヤ人たちの身体だけでなく、人間であることの尊厳の維持さえ困難であった者の、ギリギリの自我の防衛線そのものであった。

人間の壊れやすさとは、自我の壊れやすさなのだ。

あの辛い経験があったから今の自分がある、というレベルの経験は全て「相対経験」である。

過去の辛さが、充実した現在によって放たれる視線によって相対化されているからだ。

しかしどのような把握によっても相対化できない過去の辛さは、そのまま現在の辛さに流れ込んできて、「絶対経験」の重しとなって自我を食(は)む。

僅かに生き残った自我がなお、自らを喰って浮遊する。壊れかけた自我が、その壊れの自己像という強迫によって、いよいよ自壊の速度を増幅させていくのである。

(2006年6月)

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