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  • アジサイはアートである 「我が町・清瀬」2017初夏 - アジサイを接写していると、色相のグラデーションの鮮やかに驚かされること頻りである。 だから、毎年、初夏になったら「我が町・清瀬」で写真を撮る。 この一期一会の思いでアジサイを観賞していると、アジサイが一つのアートであることを実感する。 アジサイはアートなのだ。 時々刻々に変色していくアジサイは...
    2 週間前

2008年12月19日金曜日

 エイトメン・アウト('88)    ジョン・セイルズ 


<「強き良きアメリカ人」という物語の重さ>



 序  アンラッキー・エイト



 シカゴ・ホワイトソックスという名の、メジャーリーグのチームがある。

 アメリカのベースボール・チームの中で、ヤンキースやカージナルスほどの人気球団ではないが、それでも、メジャーリーグ・シーンで長い歴史を持つシカゴ・ホワイトソックスという球団が、88年ぶりにワールドチャンピオンに輝いた2005年の本拠地での熱狂には、シカゴの町を揺るがすような狂宴の感があった。
まるでその熱狂は、この球団が内側に抱えた「闇の歴史」から、初めて解放されたかのような歓喜の爆発にも見えたのだ。なぜならその「闇の歴史」以来、この球団は1世紀近くに及んで、ワールドチャンピオンの輝かしい座とは無縁であったからである。

 この球団が内側に抱えた「闇の歴史」―― メジャーリーグの長い歴史を知る人は、それを「エイトメン・アウト」と呼ぶ。それは1919年の秋に、この国のスポーツシーンを揺るがした一大事件の負の記号である。

 「ブラックソックス事件」とも呼ばれるこの事件は、正確には、「ホワイトソックス八百長賭博事件」と称されるべきもので、事件の背景に潜む、「スポーツ文化としてのベースボール」の未成熟さだけが教訓となっているが、その問題が内深く抱えるであろう、「強き良きアメリカ人たれ」という、この国の殆ど不文律的な物語の重さもまた私には興味深いテーマであった。

 因みに事件については、しばしば「アンラッキー・エイト」の悲劇として映像化されてきたが(1989年公開の、「フィールド・オブ・ドリームス」が最も有名)、事件を叙情含みに流すことなく、この問題に対して真っ向勝負で挑んだ感のある、知られざる劇場未公開の秀作がある。本作の「エイトメン・アウト」がそれである。その作品で描かれた世界のリアリティに、私は強く心揺さぶられるものがあった。

 以下、本作への言及に入っていく。



 1  シューレス・ジョー



 まず、この印象深い映像のストーリーを丹念に追っていこう。


 1919年、第一次世界大戦に参戦したアメリカが自国の勝利に沸いていた時代、大衆の娯楽と言えば、ベースボールに尽きた。ベーブルースが活躍していた頃の熱気ムンムンのメジャーベースボール・シーンでは、ベースボールの勝敗が賭博の対象になる位の活況を呈していて、選手とファンが一体になる程の固有の大衆文化として際立っていたのである。
 
 ホワイトソックスというチームの強さも、エースのエディや、センス抜群な若手のジョー・ジャクソンなどの活躍があって、この年のア・リーグのチャンピオンに輝いた。ところが、その優勝を祝うオーナーであるコミスキーのプレゼントは、安物のシャンパンを並べただけのもの。これが、オーナーの言うボーナスの全てだった。

 それに最も不満を持ったのは、この年29勝を上げたエディ・シコッティ投手だった。彼は30勝すればもらえたボーナスが、僅か一勝足りないだけで手に入れることができなかったのである。本来ならもっと勝っていたはずだと考えるエディには、オーナーの極端な吝嗇(りんしょく)が我慢し難かった。当然の如く、他の選手もまたオーナーの処遇に対して大いに不満を持っていた。
 
 元々、ホワイトソックスというチームは当時最強でありながら、オーナーの吝嗇のためにユニフォームも満足に洗濯させてもらえないことから、「ブラックソックス」のチームと揶揄されていた程だ。従ってこのチームは、強い割にはまとまりに欠けていた。そんなチームに八百長賭博事件が出来したのは、寧ろ必然的だったかも知れない。

 八百長賭博の魔の手が侵入してきた経路は、チームの中で待遇に不満を持ち、更に賭博ボクサーの経歴を持つ、レギュラーのギャンドルを介してだった。人間的に隙の多いギャンドルは、賭博師たちからの格好の標的になったのである。そのギャンドルは、ショートを守るスィード・リスバーグに働きかけ、まず仲間に引き入れた。利害を共有する二人は、見る見るうちに、八百長仲間をチーム内で増やしていくことになった。その中に、右腕のエースのエディもいた。悲劇の始まりである。

 正三塁手のバック・ウィーバーも、この八百長の話を聞き知った。しかし彼は、それに強い関心を抱かなかった。ベースボールに対するピュアな情熱が消えていないのである。ワールドシリーズという、メジャーリーガーの最高の夢の舞台が目前に迫っていたからでもあった。

 もう一人、ベースボールに対する情熱を捨てられない若者がいた。
 
 

タイ・カッブとジョー・ジャクソン(右)
ジョー・ジャクソンである。

 アスレチックスのルーキーの年に、4割8厘をマークするほどのヒットメーカーだった彼は、その教養の欠如のため、観客から「文字を読めるか」などと揶揄されながらも、一貫して「野球小僧」の青春を貫いていた。

 その彼はまた、「シューレス・ジョー」とも呼ばれていた。それは、マイナー時代に靴が足に合わないという理由で、素足でバッターボックスに立ったという伝説に由来している。素足でもベースボールを捨てない男の純粋さは、当然の如く、子供たちの間でも熱狂的な支持を集めていた。

 その彼が今、ワールドシリーズを前に、ロウソクの前で左目を隠して、その灯を見つめている。移動中の列車車両の中でのこと。そこにチームメイトのスィード・リスバーグがやって来た。

 「視力を失うまで炎を」とジョー。
 「失ったら?」とスィード。
 「もう一方も…打率が上がる…変か?」とジョー。

 彼にはベースボールのことしか頭にないのだ。

 「好きにやれ。ジョー、皆の話がまとまったんだ。2試合捨てるぞ」
 「誰が?」とジョー。

 驚いている。彼は今、自分の人生を決めようとする運命の岐路に立たされていた。

 「皆だ。ギャンドルや、俺、エディ。レフティも…そうさ、フレッドやハップ、バックも、皆だ。ジョーはダメだという者に言ってやったぜ。“ジョーも仲間だ。入れよう”ってな」
 「僕も?」
 「是非とも」
 「困ったな」
 「断るなんてバカだぞ。エディも話しに乗った。この話を断ってバカになりたいのか」
 「分らない」
 「ぶち壊したら、皆怒るぞ。皆を怒らせたいのか?俺だって怒る」
 「皆、やるのか?」

 ジョーは追い詰められていた。

 彼には理屈で行動できない弱さがある。世間ずれもしていない。大人の知恵も不足していた。言わば、一人のピュアな子供だったのだ。そんな子供だからこそ、周囲の空気に容易に感染されてしまう。そこがジョーの最大の欠点だった。

 そのとき、ジョーの問いに対して、「主力選手はね」と、スィードは確信的に語ったのある。ジョーは、一言「OK」と答えるしかなかった。

 「それでいい。あまり気にするな。リラックスしていろ。金のことだが、最低1万。シリーズ手当てとは別に。心配するな」

 そう言い残して、スィードは仲間のもとに去って行った。ジョーだけが、そこに残された。



 2  ワールドシリーズの暗欝



 ワールドシリーズの当日がやって来た。

 

1919年シーズンのシカゴ・ホワイトソックス(ウィキ)
1919年のワールドシリーズは、入場収入の増加を目論んで9試合が実施されることになっていた。場所はシンシナティ。言わずと知れた、レッズ(ナ・リーグのチャンピオン)のホームグラウンドである。この年は巷間では、八百長賭博の噂で持ち切りだった。ホワイトソックスの監督キッド・グリーソンも、その噂を聞き知っていた。

 「八百長の噂でオッズが揺れる。バーで皆が話を」と監督。
 「本当の話かも」とオーナーのコミスキー。
 「選手は裏切らん」と監督。
 「その通り、絶対勝てよ」とオーナー。彼は側近に命じた。
 「別々にスコアをつけて、怪しい選手に丸印を。その結果を後で比べよう。心配ないと思うが」

 ベンチの中で、野球小僧のジョーは沈み込んでいた。近づいて来た監督に、ジョーは「出たくない」と洩らした。監督はその要求をにべもなく退けた。

 「出場するんだ、ジョー!出ろ!」

 
試合前の自軍のベンチの全ナインに、監督は檄を飛ばす。

 「この30年で、お前たちは最高のチームだぞ。負けはしない。自分に負けなければ。分るだろう」

 暗黙裡に自分の本音を言葉に表すことで、監督は選手の誇りと、誘惑に負けない強い自覚の堅持を求めたのである。
 

 ゲーム1の試合が始まった。

 1回裏のレッズの攻撃。その先頭打者に、エースのエディ・シコッティはその初球から死球を与えたのである。これが八百長ゲームの開始を告げる合図となった。スタンドの最前線で、このシーンを見てほくそえむ男がいる。八百長賭博の仕掛け人である。

 次打者の鋭い打球が、サードを襲った。サードを守るバックはこれを横っ飛びで好捕し、それを間髪入れず一塁に送球した。これで1アウト。しかしファーストを守るギャンドルは、バックを睨みつける。次打者の大飛球は外野を襲うが、これをハップがまたもやファインプレー。八百長の明け透けなプレーが、まだ見えてこなかった。しかし、その後のエラーの連続に、スタメンナインの三人以外の全てが絡むことで、このゲームは9対1で、ホワイトソックスは確信的に落とすことになった。

 因みに、八百長に絡まなかった三人とは、サードのバックとキャッチャーのレイ・ショーク、それにセカンドのエディ・コリンズ。バックは八百長を知っていたにも関わらず、そこに絡まなかったのである。

 「なぜだ?」とスィード。
 「なぜって?」とバック。
 「裏切る気か?」
 「僕は1セントも受け取らない」
 「仲間だぞ」
 「僕は僕の野球をやるだけだ」

 ロッカー室での、スィードとバックの実りのない会話。

 八百長に加担したジョーは、仲間から金を受け取った。その顔は苦渋に充ちていたが、それを受け取らない限り、「裏切り者」という不名誉を被されることへの恐怖感が、彼の中に働いていたのだろうか。
 

 ゲーム2

 この試合も、ホワイトソックスは4対2で敗北した。打線は、ジョーの3安打を含む10安打も放ったのに、リリーフのレフティのあからさまな投球によって負けたのである。キャッチャーのレイ・ショークはそのレフティに向かって、試合後、荒れ狂った。

 「カーブをわざと投げなかったな!サインを出したろ!」
 「本当なのか?」と監督。

 
彼自身も、この試合によって八百長の疑惑を否めなくなってきた。そこに新聞記者がやって来た。彼らも殆ど、チームぐるみの八百長に気づいているようだった。今度はグリーソン監督が荒れ狂って、ロッカー室でニタついているギャンドルに向かって殴りかかったのだ。

 「何をしてるか分ってる。私には分るぞ!」

 監督と選手が取っ組み合いをする風景が、そこにあった。

 ファンからもこのチームは罵倒されていた。グリーソン監督は、意を決してオーナーに会いに行った。そこで、全てを話してしまったのである。慌てたオーナーのコミスキーはア・リーグ会長に事態を説明し、その会長がナ・リーグ会長に報告するが、「負け惜しみだ」と突っぱねられ、結局、事態の収拾が図られることはなかった。
 

 ゲーム3

 八百長に絡んでいなかったルーキーの好投で、この試合はホワイトソックスの完封勝ち。このルーキーとショーク捕手が、自軍の勝利で抱き合うシーンが映し出されて、八百長性が稀薄化された。因みに、金を受け取っているはずのジョーは、この試合でもマルチヒット(2安打以上のヒット)を記録した。 
 
 一方、八百長への参加を拒んで全力プレーを惜しまないバックは、自らが抱える心の負債に耐え難くなっていた。彼は遂に、そのことを妻に告白してしまうのである。

 「八百長試合なんだ…ギャンドル、スィード、エディたちが…」
 「エディ?」
 「誘われた」
 「それで?」
 「断ったさ。でもプレーしてて、何か罪悪感が…」
 「知らせないの?」
 「監督は気づいてるはずだ。八百長を止すのを待ってるんだろう。ベンチでは互いに視線を合わせない。誰が黒で、誰が白なのか…」
 「知って幻滅」
 「ああ、僕もがっかり…」

 バックにとって、監督が何かしてくれるという思いのうちに、彼なりの免罪符を求めているようだった。彼は少なくとも、妻に打ち明けることによって、心の澱となって淀んでいる債務感情を軽くしたかったのだろう。
 

 ゲーム4ゲーム5

 
バック
共に失策が絡んで、ホワイトソックスは予定通り試合を落とした。これで相手のレッズに王手をかけられたのである。

 その直後、バックはファンの子供たちに囲まれていた。

 「父さんは、ソックスが試合を投げてるって」

 子供の一人が、バックに向かって不満をぶちまけた。「デタラメだ」とバックファンの少年が否定して、子供同士の喧嘩が始まった。

 「止めるんだ、止せ!」

 バックは子供の喧嘩を分け、八百長を信じない少年に、「味方してくれてありがとう」と声をかけた。既にワールドシリーズの話題は、勝敗の帰趨よりも八百長賭博の話題で持ち切りになっていたのである。


 ゲーム6

 ゲーム3で好投したルーキーのカーが登板し、ホワイトソックスは土壇場で踏みとどまった。ジョーの好打も光っていた。ギャンドルがリードする「八百長の完結」のシナリオは、ゲーム7に延長されたのである。

 しかしこの頃、ギャンドルに金を届ける賭博師は、約束の報酬の一部しか渡さなかったため、選手たちに動揺が走った。それはエディの心情から、「金よりベースボール」という思いが強くなった瞬間だったと言える。

 そのエディがゲーム7で、得意のナックルを駆使して完投勝利したことで、俄かにワールドシリーズの行方が不分明になってきたのである。その変化に反応したのは、明日の先発が予想されているレフティだった。彼は報酬が途絶えたことに不満を持ち、ゲーム8での汚名挽回を狙っていたのだ。

 
そのレフティの前に、八百長賭博の黒幕であるロスティーンの手先の者が現われた。

 「明日負けないと、お前の女房を殺す」
 「誰が?」とレフティ。
 「約束をしただろ?」
 「汚いぞ」
 「命を奪う。俺でなくても誰かが。初回で失点を…」

 そう言い残して、ロスティーンの手先は去って行った。
 

 ゲーム8

 レフティは、初回から点を失った。監督の降板命令によってマウンドを降りるレフティに、スタンドから色々なものが投げ入れられた。当然ブーイングの嵐。その中で、一人ジョー・ジャクソンだけが気を吐いた。しかしホームランを打ったジョーを迎えるベンチは静まり返っている。それ以上に、ジョーの沈鬱な表情が印象的に映し出されていた。結局、10対5で勝敗は決したのである。

 レッズのワールドチャンピオンが決まり、ホワイトソックスの無残なゲームの、醜悪なショーもまた終焉を告げたのである。しかし、本当の悲劇はここから始まっていく。
 
 

 3  エイトメン・アウト



 八百長賭博の報道が、瞬く間に巷間を駆け抜けていった。

 一年後、大陪審の法廷が開かれた。ホワイトソックスの8名のナインが、「共同謀議による信用詐欺」の罪で起訴されたのである。

 ジョーが大陪審の証言を終えて出て来たとき、記者団に囲まれた。

 「君も八百長を?」
 「黒幕は誰なんだ?」
 「なぜ黙ってた?」
 「スィードが・・・」

 記者団の矢継ぎ早の質問に答えようとしたジョーの後ろから、例のホワイトソックスファンの子供の問いが追いかけた。

 「ジョー!やってないよね?嘘でしょ」

 ジョーはそれに答えず、足早に立ち去って行った。


 

エディ・シーコット(ウィキ)
エディ・シコッティは自宅で妻に覚悟を促した。

 「農場へ移れ。服役刑になったら・・・」
 「有罪になるの?」
 「才能で大物になれると思ってた。優れた何かで・・・そんな我々を見たくて観客が来る。それなのに刑務所送り寸前。才能は無意味だ。オーナーやロスティーンはどこだ。どこかで儲けを分けてる。真の共同謀議だ」
 「本当は、レッズに楽勝できたのにね」
 「今となっては遅い」

 映像で観る限り、エディ・シコッティはシニシズムが濃厚な男である。しかし、この投手が八百長に加担しない限り、この事件は起こらなかったのだ。本人に、その自覚がどれ程あるか疑わしい会話であった。
 
 八百長を信じたくない例の少年は、今度はバックを待っていた。

 「ジョーや皆のこと、本当なの?」
 「あまり責めるな。大人の世界は複雑だ」
 「バックは潔白だよね」と別の少年。
 「子供のままさ。野球をやれるのが嬉しい。入団当時と同じ。球場に行くと満員の観客が歓声を。気持ちが昂る。グラウンドでは掛け声。ピッチャーが投げ、その球を追う。自分と白球だけの世界。気分が乗ると最高の調子になる。バットが自然に球を捕らえるんだ。球がへこむのを感じる。そのときは長打に。たまらない感触だ。何物にも替え難い」
 「どんな判決かな?」
 「来年も、サードには僕がいるさ」

 バックは自分を信じている。
 試合では、全く八百長に加担しなかった。単に八百長を外部に告発しなかっただけなのである。だから彼は分離法廷による裁判を要求したが、退けられた。

 しかし子供を前にして、バックは起訴された8人の中で、自分だけが八百長に加担しなかったということを上手に伝えられない。「大人の世界は複雑だ」と語った彼の言葉には、「君も大人になれば必ず分る」という思いが滲み出ていたのである。

 法廷でのグリーソン監督の証言。
 
 「・・・魔がさすのは分る。報酬に不満なとき、悪い連中と知り合い、大金で誘われれば・・・人間だから。だが私はやらなかった。道徳家じゃないが・・・」
 「自分の選手をどう思うか?」
 「最高の選手たちだと思う」

 明らかに、オーナーに対する不満が含まれていた。

 
 裁判の結果、選手たちは全員無罪となった。

 しかし、この年から設けられたコミッショナーの制度の中で、初代コミッショナーになったランディスによって、次の布告が読み上げられた。

 「評決とは関係なく、“試合を放棄する選手、放棄を引き受けるか約束する選手、放棄の方法を、不正な選手と賭博師が相談する場に同席しながら、球団に報告しない選手、これらを永久追放とする”」

 
「エイトメン・アウト」
これが、「エイトメン・アウト」と称される有名な布告だった。以上の布告に抵触する、ホワイトソックスの11人の選手は、球界から永久追放されてしまったのである。



 4  ベースボールを享楽する男



 時は1925年、場所はニュージャージー。

 マイナーリーグのグラウンドに、一人の若者の溌剌としたプレーが一際目立っていた。センターへの大飛球を軽々と捕球するその若者こそ、ジョー・ジャクソンだった。彼のプレーをスタンドで見ていた男が、傍らの男たちに言い切った。

 「彼は最高だった。走攻守どれもが」
 「彼はジョーなのか?」と隣の男。
 「違う・・・彼らは去った」とその男。

 この男こそ、バックだった。

 映像は、三塁打を放ってスタンドに、ベースボールを享楽する少年のような笑みを送るジョーを映し出して、閉じていった。

       
                       *       *       *       *



 5  ハリウッド文法の過剰性を削り取った物語



 以上が、「エイトメン・アウト」という感銘深い映画のストーリーの概略である。

 この映画は現在も劇場未公開で、ビデオやテレビ放映でしか観る機会がないので、比較的詳細にストーリーを追ってみた。これは、私が観たジョン・セイルズ作品の中で最も印象深い秀作であると考えているものの、どうしても黙視し難いお粗末な描写があるため、私の個人的な映画ランキングの評価を上げることができなかった。

 そのお粗末な描写とは、野球映画であるにも関わらず、そのプレーのリアリティが相当程度欠如していて、正直言って、どう見ても草野球の映画にしか見えなかったという点に尽きる。

 メジャーリーグを描いた、昨今のアメリカ映画の臨場感溢れるプレーのシーンと比較するとき、たとえそこに、CG活用の有無の差があると言っても、やはり、この映画のプレーヤーを演ずる俳優の、「メジャーリーガーらしさ」の欠如は黙視し難かった。とりわけピッチャーの投球動作の緩慢さには、眼を覆い難い程だった。

 確かに彼らは、八百長のプレーをするための演技性を表現したのかも知れないが、それにも限度がある。彼らは本当に、これ程までにあからさまなプレーをしたのだろうか。今となっては分らないが、どう見ても75マイル位にしか見えない速球派のストレートが、レフティによって投じられたとしたら、それは殆ど、子供が観ても分る八百長プレーのパフォーマンスとしか了解されなかったであろう。このようなプレーシーンの描写の不満足が、私の本作の作品観を些か貶めてしまった次第である。

 それにも関わらず、私はこの映画を評価する。

 実録ドラマの制約に捉われることなく、そこにギトギトした暑苦しい過剰な描写も、不必要なまでの思い入れもなく、それでいて、作り手のメッセージ性が率直に伝わってくる作品であると考えているからである。

 
12人の怒れる男
この映画を観ていて、私の脳裏を常に過(よ)ぎったのは、「12人の怒れる男」(シドニー・ルメット監督)という有名な作品のストーリーである。

 一人の強靭な意志と勇気と判断力を持った男がいて、その周り11人の個性的だが、しかし、決定的判断力と確固たる信念による行動力に些か欠如した、言ってみれば、人並みの能力と感情の継続性を保有するレベルの者たちがいた。その中には、理屈に偏向する者や、感情や経験に大きく振れていく者もいたが、しかし決定的局面では、決定的判断力を示した一人の男の、その一貫した主張のうちに吸収されてしまう継続力の脆弱さを、まるで敗者の如く露呈してしまったのである。

 しかしよくよく考えてみれば、11人の者たちが示した人間的な思考や感情こそが、通常の生活次元での表現であったと言っていい。なぜならば、状況に応じて振れていくのが人間であり、その状況が展開した変化のうちに真実が見えてくれば、その真実に対して肯定的に反応していくのが、人間の平均的な行動の様態であると言えるからだ。

 従って、この映画は優れた傑作であることは否めないが、しかし一人の「平凡」な顔をしたスーパーマンによって、極めて困難な空気を決定的に洗浄させてしまった、ハリウッド好みの英雄譚の範疇を逸脱する作品にはならなかったのである。それは、常に強い指導者を希求して止まない、アメリカという特殊な文化風土が生み出したヒーロー譚と言って良かった。裏返せば、アメリカという、多くの民族を束ねる帝国的な国家に住む者たちが、そのようなヒーローを必要とせざるを得ない欠陥性を、いつもどこかで抱えていることを物語っているとも言えるのだ。

 確かに近年のハリウッド作品には、先の見えない困難な時代状況下にあって、ヒーロー像の変容が散見されるが、それでもなお、「悪の英雄譚」、「マイナー志向性とのマッチング」等という物語のデフォルメの内に、観客を飽きさせない、突き抜けた映像効果の補完によって構成される、数多の娯楽作品の範疇を大きく逸脱させるものではないだろう。

 ともあれ、ハリウッド文法とも言える過剰性を根柢において削り取った物語こそ、本作の「エイトメン・アウト」ではなかったのか。少なくとも、私は本作を以上の文脈のうちに把握したのである。

 「エイトメン・アウト」―― それは、「12人の怒れる男」の映像を決定づけた、かの決定的なる如き主人公の不在を描いた作品だった。それは従って、ごく一部の例外を除いて、普通の男たちが普通以上に膨らんだ不満の澎湃(ほうはい)の中で、侵すべからざる行為に流れていった心の振幅のさまを記録した映像だったと言っていい。
 


 6  「強き良きアメリカ人」という物語の重さ



 まず批評の切り口として、この映画で描かれた八百長試合に関与した8人の選手について考えてみる。
 
 その八百長試合に関与した選手を、大きく4種類に区別することができるだろう。
 
 その1。確信的に八百長をリードしたか、または、金目当てで積極的に加担した者。
 その2。オーナーの処遇に不満で、どちらかと言えば、そのアンチテーゼとして八百長に加担した者。
 その3。八百長に加担する意志が稀薄でも、それに加担せざるを得ない空気の中で仲間に入った者。
 その4。八百長を拒絶しつつも、それを黙視した者。
 
 以上の区分の中で、1から3までの者が金を受け取り、その意志がどうあろうとも、八百長プレーヤーとしての謗(そし)りを免れない者である。

 区分4に入る者はバック一人で、彼だけが金銭を受け取らなかった。
 従って、彼を八百長プレーヤーの一人として認定するのは無理がある。しかしコミッショナーの裁定も、恐らく間違ってはいない。八百長を知っていて、それを黙殺したバックの行為もまた、恐らく、当時のスポーツ界に蔓延していたであろう八百長試合を根絶するためには、永久追放の対象にならざるを得なかったに違いないからである。

 

ジョン・セイルズ監督(ウィキ)
しかし映像は、スポーツシーンに於ける八百長の是非や、スポーツマンの在るべき姿を問うた作品では決してない。

 それは、くすんだ空気の加速的広がりの中で、その空気に呑まれていった者、或いは、その空気を感知しつつも、そこで何も為し得なかった者、またはその空気を外側から疑いつつも、自分の利益だけで動こうとした者たちの心の振幅のさまを通して、「状況」が作り出す空気というものに、人間が如何に非力であるかということを描き出した作品であったと思われるのだ。

 そして、その空気が時代の中で作られたものでありながら、沸騰した時代を仕切る者たちの手によって、その時代にあって認知された「正義」の名の下に、そのくすんだ空気に少しでも絡んだ者たちが、一網打尽に断罪されてしまうことの難しさを問いかけた作品でもあった。

 更に言えば、多くの大人たちが複雑に絡み合って作り出した状況に対して、無垢な視線を投げ入れる少年の、ベースボールへの熱い思いを対峙させることで、この国に於ける「文化としてのベースボール」の有りようを、根柢的に問題提起した作品であったという見方もまた可能である。即ち、「ベースボールは一体誰のものなのか」という本源的な提起である。

 それは、映画の重要な局面で登場する一人の少年のアクションに問題のコアが集約されていて、その提起に反応を迫られた、バックとジョーの苦渋な表情そのものが、その回答を言わずもがなに映し出していたとも言える。
 
 私がそれらの問題提起の中で最も重要視したのは、エディとジョー、バックの描写に見られる心の振幅のさまである。先の私の分類の中で、エディは区分2に、ジョーは区分3に、そしてバックは区分4に入っていると考えられる。そしてそのいずれもが、「エイトメン・アウト」の対象になったのである。
 
 まず、エディの場合。

 彼の八百長試合への参加の決定的なモチーフは、明らかに吝嗇なオーナーに対する不満にあった。ボーナスを求めた彼が、それを拒まれたときの怒りの根底には、「エースとしての評価の低さ」という認知によって、年来の誇りを傷つけられた思いが最も強いと考えられる。オーナーの対する復讐こそが、彼の八百長加担のライトモチーフであったのではないか。

 映像を追っていくと、彼はシリーズ途中で賭博師からの金銭の滞納を知っても、金銭に対する特別な拘泥を見せず、ゲーム7では一失点完投を演じて見せたのである。プレーヤーとしての誇りと自覚が蘇生したかどうか不分明だが、少なくともこの男は、ギャンドルやスィードといった、区分1に属するだろう「確信犯」でなかったことだけは間違いないだろう。

 だからこそエディ・シコッティは、大陪審の個別聴取の中であっさりと金銭目的で魂を売ったことを認めた後、妻に対しても覚悟を求めて、以下のように言い放ったのでだ。

 「才能で大物になれると思ってた。優れた何かで・・・そんな我々を見たくて観客が来る。それなのに刑務所送り寸前。才能は無意味だ。オーナーやロスティーンはどこだ。どこかで儲けを分けてる。真の共同謀議だ」

 彼にとって真に裁かれるべきは、金でのみ動いたコスキーやロスティーンでなければならなかったに違いないのである。

 
 次に、ジョーの場合。
 
 
ジョー・ジャクソン
ある意味で、彼こそがこの事件の最大の被害者であったかも知れない。彼は事件に巻き込まれた男だった。そのプレーに於いて、ジョーは全く八百長に加担していない。シリーズの成績も3割を越え、ホワイトソックスで唯一ホームランを放った男だった。

 しかし彼は、シリーズが八百長賭博の対象になっていて、その賭博に他のナインが加担していたことを知っていた。そればかりではない。彼は金銭を受け取っているのである。その金を嬉々として受け取ったか否かなどという問題は、八百長事件に於いて末梢的な問題に過ぎない。確かに彼は金銭目的のために、仲間たちの八百長プレーに積極的に加担していなかった。しかし彼は金銭の授受という一点によって、永久追放の憂き目に遭った。当然の理屈である。

 では、彼の最大の罪は、その金銭の授受にあったと言えるのか。

 形式的にはその通りだが、「アメリカの正義」と、「ベースボールの栄光の文化」という視座から言えば、彼の最大の罪は、「八百長を持ちかけられて、それを拒まなかった良心の欠如」という問題にあるだろう。

 ベースボールを心の底から愛し、且つ、そのプレーを子供たちから愛されていたヒーロー中のヒーローが、その魂を金で売った破廉恥さによって彼は裁かれたのである。

 正確に言えば、魂を金で売ることを嫌っていたにも関わらず、周囲の空気の圧力に屈してしまったその弱さこそ、そこで裁かれねばならない何かだったのである。そのような男は「アメリカ人の屑」であり、「意気地のない弱虫」でしかなかったのである。

 然るに、ジョーの「弱虫」を責められる者が、この国のこの時代の文化の中で、果たしてどれ程いたと言うのだろうか。「12人の怒れる男たち」のヘンリー・フォンダが、この国に一体存在すると言うのだろうか。

 童心のままにベースボールを捨てないで生きるジョーの、ラストシーンでの表情が物語るのは、「ベースボールに対する童心的な抱擁」を貫くことの大切さである。それは、その「童心的な抱擁」をプレーの中でしか貫けなかった、ジョーの自我の未熟さをも映し出しているが、しかし永久追放されることによって彼が失ったものが、必ずしも、この若者が最も愛するベースボールというスポーツではなかったことを示唆していて、興味深いものがあった。そこに、作り手の思いがひしひしと伝わってくるのでである。

 
 最後に、バックの場合。
 
 実質的には、彼がこの事件の最大の被害者だった。彼は八百長賭博に全く関与しなかったばかりか、シリーズのプレーに於いても常に全力投球を惜しまなかった。更に金銭も受け取っていないのである。「共同謀議」に全く関与することがないこの若者が永久追放されたことは、悲劇以外の何ものでもないと言えるだろう。そんな彼がなぜ裁かれたのか。それは、「エイトメン・アウト」の告知によって明らかである。それによれば、以下の通りである。

 “試合を放棄する選手、放棄を引き受けるか約束する選手、放棄の方法を不正な選手と賭博師が、相談する場に同席しながら、球団に報告しない選手、これらを永久追放とする”

 この場合、バックは、「相談する場に同席しながら、球団に報告しない選手」とされたのである。しかし彼は八百長の事実を知っていても、その相談の場に主体的に関わった訳ではない。彼は単に、「球団に報告しない選手」でしかなかったのだ。

 
バック
しかし、それがいけなかったのだ。なぜなら、彼はヘンリー・フォンダにならなかったからである。「怒れる一人」にならなかったこと、それが問題だった。それは「強きアメリカ人」でも、「良きアメリカ人」でもなかったからだ。バックは、「強き良きアメリカ人」でないことによって裁かれたのである。

 彼は分離裁判を要求したが、退けられた。永久追放になってからも、彼はその解除を求め続けたが、これも叶わなかった。彼こそ最大の被害者である所以である。

 以上三者三様、それぞれ八百長事件に対する関わり方が異なるが、彼らが受けた処分は一様に同じだった。刑事罰こそ受けなかったが、球界からの永久追放という処分は、彼らにとって死の宣告と同義であった。

 その死の宣告に対して、ある者は覚悟した者のように振舞い、ある者はそれを受け入れて、なお自分が愛するベースボールに繋がり続ける意志を継続し、そしてまたある者は、その宣告を生涯に渡って拒み続けたのである。

 彼らのこの生き方の違いは、彼らが置かれた立場の違いにあった。彼らが置かれた立場の違いは、彼らの国が彼らの生き方に対して要求するものの違いになって現われた。それはこのように表現できるかも知れない。

エディは、「金や恨みで魂を売らないアメリカ人」であることを要求され、ジョーは、「弱虫でないアメリカ人」であることを要求され、そしてバックは、「強き良きアメリカ人」であることを求められたのである。
 
 私にとって、この「エイトメン・アウト」という映画は、以上の把握によって成り立つ映画であった。

 例えば、ジョーの場合、チーム内にオーナーの処遇に対する不満が澎湃(ほうはい)している中で、エースのエディ・シコッティまでもが八百長に加担するくすんだ空気から、自分だけが自由になる覚悟と勇気を果たして持ち得ただろうか。

 この映画の核心的主題の一つは、そこにある。

 くすんだ空気を自らの正義感でクリアにするような勇気を持つ者は、「12人の怒れる男」のヘンリー・フォンダ位であろう。

 この作品は、「強き良きアメリカ人」を継続することの困難さを描いた映画でもあった、と私は勝手に考えている。「強き良きアメリカ人」という物語の、過剰なまでの重さを描きたかったのかも知れないと考えるからである。

 

 7  「日本のジョー」の悲劇



 ここで、一転して話題を変えてみる。


 ジョーのことを考えるとき、私は日本プロ野球シーンで起こった、「黒い霧事件」のことを想起せずにはいられなかった。事件の詳細についての言及は避けるが、この事件で最大の被害者と言われる池永正明投手こそ、まさに「日本のジョー」であったと言えるからである。
 
 その事件が起きたのは、1969年10月のこと。

 
池永正明投手
西鉄ライオンズ(当時)の永易将之(ながやすまさゆき)投手の八百長プレーに端を発した「黒い霧事件」の黒幕は、野球賭博を行った堺市の暴力団。この暴力団から永易に金銭の供与があることが発覚し、翌年には国会でも大きく問題化されるに及び、暴力団の首謀者の自供から名前が挙がったのが池永正明投手だった。

 僅か5年で99勝を挙げている若きエースの八百長関与の報道は、当時の日本プロ野球界の存亡の危機に関わる大事件として耳目を集めることになった。

 結局、池永投手は不起訴処分になったが、「疑わしきは罰する」という野球機構の危機意識によって、彼が永久追放処分になったことは周知の事実。

 では彼は一体、どのような八百長賭博への関与をしたのだろうか。

 そこに金銭の授受が存在したのである。世話になっている先輩から、心無くも金銭を受け取ったのだが、彼はその金を押入れにしまったままにした。しかし彼は、先輩から受け取った金を遂に返さなかった。返せなかったのである。

 そこに日本のタテ社会の義理のしがらみがあったことは容易に推測できる。典型的な体育会系の精神風土で、一種特有のメンタリティを育んできたプロ野球選手の中では、実績よりも年齢によって上下関係が形成されやすい空気が日常的に蔓延している。これは現在に至っても大して変わらない。

 池永投手にとって、先輩の頼みを拒絶するには相当の勇気と覚悟が求められたのである。しかし彼は、「義理を重んじる日本人」であり得たが、「弱虫な日本人」であることから自己解放できなかった。因みに彼は、プレーに於いて一切の敗退行為をしていない。それは彼の成績が、充分に証明していることだ。

 池永正明投手こそ、「日本のジョー」であったと考えられる所以である。

 その経緯も、ジョーのケースとあまりに酷似している。彼らが置かれた心理状況も、同質の構造であったと思われる。なぜなら、アメリカ人ほど仲間を裏切ることを恥じる国民はいないからである。多少悪いことをしてでも、仲間を裏切ることができないメンタリティに於いて、日本とアメリカの国境の決定的な差など殆どないといっても言い。
 
 「罪の文化」の国民と、「恥の文化」の国民の、その拠って立つ精神的基盤の決定的な差を特定づける何ものもないのである。
 
 人間は本来的に愚かであり、私たちが「良心」と呼んでいるものの脆弱さは、そこに多少の環境の影響が見られようとも、国境や性別に於いて決定的な落差が認められるような何かではない。

 池永投手がそうであったように、ジョーもまたくすんだ空気に呑み込まれてしまっていた。そこに「良心」の発動を求めるのが困難であるような空気に呑み込まれたとき、私たちは恐らく、人間の愚かさの本性を露呈せずにはいられなくなるだろう。

 私たち人間の気高さを誇ったところで高が知れているし、そこに踏み込めないほどの真正な聖域などあろうはずがない。誤謬を犯さない人間はいないし、誤謬を犯した者を裁くときにも誤謬を重ねてしまうのだ。それが人間の、現実の有りようなのである。

 それにも関わらず、私たちは誤謬を犯した者を裁く行為を捨てられないし、また捨ててはならないのである。そうしなければ、人間社会が維持できないからだ。池永投手もジョーも、そしてバックも、残念ながら裁かれるべくして裁かれたのである。
 
 マイナーリーグで嬉々としてプレーするジョーの溌剌とした表情こそが、メジャーリーグに憧れる、あの少年への唯一で最大の贈り物だった。

 そのジョーのプレーを見守るバックの視線もまた、あの少年の視線とラインを同じにするものだった。この国におけるベースボールの文化は、このような少年の視線によってのみ支えられる、と作り手は言いたげでもあった。
                              
(2007年4月)

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