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2008年12月6日土曜日

風花('oo)      相米慎二


<肥大化しつつある空洞感 ―― その脱出の可能性についての映像的考察>




序   危うい空虚感と、そこからの脱出の可能性と困難さ



男はいつも酒を飲んでいる。女は過去に縛られて、風俗の世界に身を投げる。

その世界で二人は交錯し、旅に出る。

しかしこのロードムービーはどこまでも侘しく、発展的な展開がない。

酒でしくじる孤独なエリート官僚と、我が子を捨てた風俗嬢の無機質な関係の向うに広がるのは、闇の濃度の深まりばかりである。時間を持てない男と時間を繋げない女は、情死という物語をも作れず彷徨(さまよ)っているのだ。

この映画の全般に漂う危うい空虚感と、そこからの脱出の可能性と困難さのリアリティ。そこに、どうしようもなく魅了されてしまった。


―― 一般的に暗鬱な雰囲気が漂う描写に終始した感があるが、私にとって実に好もしい印象を残してくれた、この印象深い物語を追っていこう。



1  時間を持てない男と時間を繋げない女




男は満開の桜の下で、眼を覚ました。

陽春の朝とは言え、肌寒い外気はスーツ姿の男の覚醒をもたらしたのか。

男の傍に知らない女が横になっていて、男には自分の置かれた状況が把握できないまま、脱げかけたズボンを整えて、必死に日常性を回復しようとする。

まもなく、覚醒した女に声をかけられても、男は「どこで会ったのかな」としか答えられない。

女は「ほんとに?」と驚くばかり。

「どうすんの、?」と女。
「北海道って?」と男。
「あんたが雪のあるところを見たいって、しつこく言うから、じゃ、あたしも田舎に帰りたいから、車運転してくれたら、案内してあげるって言ったんじゃない。今日の女満別(めまんべつ・注)の最終便。あたしはっきり覚えているからね。覚えてないとは、言わせないよ。あたしはすっかりもう、その気なんだからね」
「気持ち悪い言い方、止めろよ」と男。

素面に戻った男は、女の具体的な指摘を全く受容する素振りすら見せないで、身繕いをするばかり。

「あんた、素面だと最低だね。酔っ払っているとき、あんなに可愛かったのにねぇ」
「人が酔っ払ってることに付け込むなよ」
「早く消えて!」

不満たらたらな女は、男に何かを投げつけて、鬱憤を晴らすしかなかった。男は何かブツブツ言いながら、その場を立ち去って行った。


女満別町の位置 (ウィキ)
(注)「平成18年3月31日、女満別町は東藻琴村と合併し、大空町となりました。 女満別(めまんべつ)は、北海道の北東部に位置し、海の幸豊かなオホーツク海に近く、湖と良質な農産物を生み出す広大な大地に囲まれた自然豊かな町です。 また、オホーツクの空の玄関『女満別空港』を控え、本州府県とのアクセスも便利で、毎年数十万人の観光客が道東観光(網走、知床、阿寒、摩周湖等)への出発点として訪れています」(「女満別町農業協同組合」HPより)


男の名は澤城廉司(さわきれんじ)。キャリア官僚である。

廉司は誰もいない雑然としたマンションの自室に戻って、いつものように留守電を再生した。

「お前のこつがあったけん、みたのうして、店も開けられんたぁ。母ちゃんの一回忌ももうすぐばってん、お前、顔出さん方がよかたい。ばってん、店ば閉めて売り上げもなかし、法要の金、お前どやんかでっきんか」

留守電の再生を乱暴に切り、廉司は一方通行の伝言を無視した。

伝言の内容は、どうやら故郷にいる父親からの金の無心らしい。その方言から、廉司の出身は九州であることが推測される。冒頭の「お前のこつがあったけん」という内容は、次の描写で明かされることになる。

―― その日、廉司はコンビニに立ち寄った。酩酊状態のまま、缶ビールを手にして、それをレジに通すことなく店を出てしまったのである。

「泥棒!泥棒です!」

店のレジにいた女子店員の声で、店の中から出て来た店長に、廉司は捕捉されてしまったのだ。

一方、自分を特定できなかった廉司と別れた女は、マンションの自室に戻っていた。

ストッキングを脱いだとき、女はボールペンで乱雑に書かれた筆跡を眼に留めた。

「遺書 死にます 澤城廉司」

女は、「死んでくれ、勝手に」と、一言吐き捨てた。

その後、女は自分が働く風俗店の店長からの出勤の督促に、「田舎に帰るから、あたし当分行けないよ」ときっぱりと言い切った。

女の名は、冨田ゆり子。

都内のピンサロ店で、「レモン」と言う源氏名の下に仮装して働く、見るからに30過ぎの女性である。(以下、本稿では本名の「ゆり子」を使用する)

廉司は常に、アルコールを手放せないでいる。

部屋から出て、鉄橋の欄干で缶ビールを飲みながら、例の事件のことを思い出していた。

万引きで拘留された事件がまもなくニュースになって、キャリアの文部官僚である自分の進退を上司に預けた廉司は、上司から停職処分を受けることになったのである。

廉司は故郷の唐津(上司との会話の中で判明した)に帰ることを促されても、彼には実家には戻る意思がなかった。

例の父親からの伝言の内実が、恐らく彼を、この都会の孤独な生活に縛りつける以外になかったことを物語っている。だから彼は、女から無視されるような遺書を残したに違いない。

一方、その女、冨田ゆり子もまた、苦い回想に劈(つんざ)かれていた。

彼女には故郷に残した子供がいるらしい。

マンションの屋上で、女は子供のことばかり考えている。女が男と約束した北海道行きは、どうやら子供に会いに行く帰郷の旅らしかった。

まもなく二人は、男の意志によって再会を果たすことになった。

廉司とゆり子
男は羽田空港で、女を待っていたのである。

女との約束の遂行に縋りつくしかない心境が男の中にあり、それを受容する寂しさが女の中に生きていた。

だから、その履歴を全く異にする二人は、女にとってのみ目的的な旅への同行に於いて、辛うじて一つに合わせることが可能になったのである。

映像の次のカットは、既に北海道の広々とした海岸沿いの道路を、一台のピンクのレンタカーが走っている場面を映し出していた。

車を運転する廉司は、助手席に座るゆり子からジャンパーを買うことを勧められ、「物は所有したくない」と無表情に答えた。

「・・・あんた素面だと、ほんと性格悪いわ」
「感想もいらないし、人物評も止めろ」と男。

会話にならない。

「酒乱の逆ってあるんだね」

女は笑いながら反応する。酩酊しているときの男との落差に驚くと言うより、寧(むし)ろ滑稽なのだ。

「酒飲めば、合わせられるんだけどね」

男の鉄火面のような反応に、なお笑いながら返していく。

「あんたみたいな人、一瞬でもいい奴だと思ったあたしは、本当に馬鹿みたい。びっくりしちゃう。どうしてこう、男運悪いんだろうね」

「自慢じゃないけど、俺も女運悪いから」

素面の男は、一貫して「キャリア官僚」のイメージを崩せないでいた。

二人は一軒の喫茶店で、コーヒーを啜っている。

相変わらず無表情の男に、向かいに座る女は一冊の雑誌に載った写真を、笑いながら突きつけた。「キャリア官僚」の万引き事件のスキャンダルが、そこに面白可笑しく書かれていたのである。

「これ、あんたにそっくりじゃない?」
「似てるな」
「あんたも苦労してるんだね・・・」

女は相変わらず笑いながら、男の無表情を崩そうとするかのように反応する。

雑誌に載った男の名前の読み方を質問する女に、男はそれもまた真面目に、「れんじ」と答えたのである。女はいつまでも笑い続けていた。

レンタカーの中での会話。

「他の道、ないのかよ」
「何でよ?」
「単調で眠くなるんだよ」
「居眠り気をつけてよね。巻き添え喰ったらたまんないからさ。あたしにはちゃんと用事あるんだから」
「何でわざわざこんな地の果てまで来て、犬死しなきゃいけないんだよ」
「死にたいんじゃなかったっけ?」
「はあ?何で俺が死ななきゃいけないんだよ。こんなところで、訳が分らない女と事故ったら、それこそ新聞に、何書かれるか分んないよ。俺はもう親不孝できないんだよ」
「あんた、今までよく殺されなかったね」

女は笑いの中に男の放言を包み込み、男はそこに小さな笑みを一瞬漏らした。

レンタカーから降りて、心寂(うらさび)しい道路の傍らで、男は知らない町のペシミスティックな光景を蔑んだ。

町を捨てた人々と、その人々に捨てられた町を、殆ど官僚の視線で嘲(あざけ)ったのである。

女はこのとき、初めて男に感情をぶつけていく。

「いい加減にしなさいよね。そんなに嫌なら、とっとと帰ればいいでしょ!」
「帰るところあれば、こんなとこいないよ」

素面の官僚マンと風俗嬢の女の会話は、一向に折り合いを見せないでいた。

雪が積もり始めたある町で、ゆり子はレンタカーを降りて、墓参りをした。

誰の墓であるかを廉司に聞かれ、女は次のように答えた。

「酔っ払い・・・新聞受けの前で、体半分雪に埋もれて、死んでた馬鹿」

その「馬鹿」の正体が、彼女の実父であることは、映像のラスト近くで判明することになる。

また女は、道沿いに淋しげに建つ小さな商店で買い物をした。

女はその手に、線香花火を持っていた。男にその理由を問われて、女は「お土産」と一言。

「北海道じゃ、そんなちんけな物が珍しいんだ」

女は男の反応に、露骨な不快感を示す。

「あの山の向うは、どうなってんだ?」
「北海道でしょ」と、吐き捨てるような女の言葉。

女の表情から、明らかにドライブ当初の笑みが消えていた。



2  夜の山道を彷徨って



ゆり子は、雪深い風景の中で車を止めて、車体の後部にもたれかかって喫煙している。

女の脳裏に、思い出したくない過去が過(よ)ぎっていく。

―― 女は実母に我が子を預けて、故郷の町を出て行こうとしていた。駅舎の狭い空間のベンチに、赤子を抱いた実母が子守唄を歌っている。

「この子には、私らみたいになって欲しくないわ・・・ゆり子、頑張って、一日も早くこの子と一緒に東京で暮らせるようにしないとな」

母のその言葉に、娘のゆり子は暗黙の決意を結んでいた。女の北海道行きの輪郭が明らかになってきたのである。

苦い回想から立ち直ったゆり子は、男に促されて、娘との再会の旅を継続した。

女の娘である赤子は、僧侶と再婚した母の元に預けられているらしい。一歩一歩、娘との空間的距離を縮めていく中で、女は緊張を鎮めようとしていた。

そんなとき、レンタカーを運転する男の口から、信じ難い言葉が放たれた。

「分った。どこで会ったか思い出した」

廉司は、助手席で化粧直しをする女を横目で見て、初めて女を特定できたのである。

以下、廉司のそのときの回想シーン。

――「済みません。駄目なんです。迷惑かけて済みません」

ピンサロ店で風俗のサービスを受ける男は、女を相手にできない酩酊状態の中で、ひたすら謝っている。

自分の置かれた状況の空洞感が、男としての存在感を奪い尽くしているかのようだった。

やがて男は店を出て、路傍のゴミ置き場に身を沈めて眠っていた。そこに店を上がった女が通り、酩酊した男を起こしたのである。

今度は、ゆり子の回想シーン。

―― 女は生活苦に喘ぎながらも、自分の愛児を抱いて、部屋の中で笑顔を振り撒いていた。

夫が借りたサラ金からの取立ての留守電に続き、警察からの思いも寄らぬ伝言が、女の耳元に飛び込んできた。夫の車が事故を起こして、亡くなったという連絡だった。

このとき以来、女は夫の借金を負った、若妻としての運命を引き受けざるを得ない状況に置かれてしまったのである。

これが、女が我が子を残して、東京に風俗嬢としての生活に戻っていく事情の全てだった。

まもなく二人は、別れることになった。

彼らのドライブ行が、ゆり子の目的地に辿り着いたからである。さっさと一人で歩き去っていく女に、取り残された男は背後から放った。

「お前、ほんとに嫌な女だな」
「あんた、ほんとに親切だよね」

女の笑顔だけが、廉司の前で捨てられた。

男には、どこ行く当てもない。だから彼は、その場所を立ち去れないのだ。

無機質な借り物の車の中で、当てにできない女の帰りを待つ以外なかったのである。

廉司と別れたゆみ子は、娘を預かっている母の再婚先の寺院を訪ねた。

「どうしたの?突然」と母。
「香織の顔、見ようと思って」と娘。

部屋に上げられた娘に、母は最初から説教調に振舞っていく。

「5年も会いに来んで、産めば親になれるってもんでないんだからね」
「分ってるよ」
「どこにいるの今?まだ、東京にいるの?」
「ちゃんとやってるよ」
「どうだかね。香織ももうじき小学校で、ちゃんとした親が必要で、ウチの子にしようって、話し合っていたとこなのよ。主人がね、香織のことを可愛がって・・・」

母がここまで静かに語った瞬間、娘の思いが大きく弾けてしまった。

「何なのよ!あんたは勝手に!」

娘はそう叫ぶや否や、そのまま娘がいるであろう部屋に走っていった。

その娘を、義父が廊下で待ち受けていて、香織との面会を拒んだのである。

「香織に会いに来たんだったら、帰ってくれんか。香織はもう、あんたの顔覚えていないよ」
「そうかも知れないけど、あたしの子供ですから・・・」
「あんたが東京で何してるか、わしは知らんわけじゃない。仮に母親になったとして、何をしてやれる。香織を不幸せをするんじゃないのかね。あんたが母親だからなお更、香織に会わせるわけにはいかん・・・」

ゆり子は、その後の義父の静かな説諭の前で、もう何もできなくなってしまった。

一方、女を待つ廉司は周囲を車で流していた。

そのとき、携帯に文部省の上司からの連絡が入った。

「今、どこだ?」
「あ、課長。自ら謹慎しようと思いまして、流刑地の方まで来ています」
「ついでに、そこで仕事探せ。水商売の女には気をつけろって言ったろ?」

課長は、部下の罷免の辞令を下したのである。

理由は、男が懇ろにしていたクラブの女が、男から傷害を受けたという被害届けを一方的に出したことで、もう部下を守れなくなったと言うこと。「退職金は出るようにした」という弁明が、ここでも一方的に放たれたのである。

ゆり子は「怨んじゃ駄目だよ。香織のためだからね」という母の言葉に送られて、返す言葉なく、娘は母の元を離れて行った。

離れて行った女に、もう行く宛などどこにもない。女は自分の唯一の願いを削り取られて、今、陽光眩しい高台の境内を彷徨(さまよ)っている。

彼女は亡夫のことを思い出していた。

全ては、夫が自分に金の無心をしてきたことから始まったのである。事業を起こしたいという夫の懇願に、かつて風俗嬢時代に貯めた数百万の金を用立てたのである。

今にも崩れそうなその身を境内の階段にもたれて、女は空洞感を露わにした思いを刻んでいた。

映像は、境内の下から階段を上ろうとする男の姿を映し出していく。

男は女の異変に気づくが、このときだけは、自分の心の空洞感を露わにすることなく、急ぎ足で階段を上って行った。

「随分、早かったじゃないか。お母さんに嫌われたのか?」

階段の中腹で、男は女に普通のテンションで声をかけた。

「人生愉しめって言われたよ、母親に」

女は一瞬の沈黙の後、心配する男の表情を氷解させるかのように、笑顔を振り撒いた。その笑顔は、ドライブ行の最初の頃のそれと全く変わらない。

その後、二人は裏寂れた町の食堂にいた。

男は既に深い酩酊状態にある。女は相変わらず笑みを絶やさず、意味のない悪戯や会話を繋いでいた。

酩酊した男の口から吐き出される土地の悪口に、食堂にいた見知らぬ男が感情を激化させ、酩酊する男に暴力を振るったのである。

まもなく、映像は無人の診療室で、ゆり子から治療を受ける朦朧(もうろう)気味の廉司の無気力さを映し出していた。

治療を施したゆり子が「ゆっくり寝なよ」と一言放って、治療室を出ようとした。

暗く静かな映像が束の間流れた後、女は再び顔を出し、泥酔男の前で自分の思いの丈を静かに吐き出したのだ。

「何がそんなに苦しいんだよ。バッカじゃないの・・・娘の顔を見たらさぁ、もうちょっと頑張れる気がしたんだよね。どんな顔になったかなぁって思い浮かべてさ。バッカみたい。5年もほっぽらかしにしたら、会っても顔分らないんだよね。あたしなんかいなくても一緒だよ」

再び、レンタカーを飛ばしている。

「どこ行くよ・・・もう東京帰るか」と廉司。 
「あんた、帰れば」とゆり子。

目的のない二人のドライブの帰結点が、完全に宙に浮いて、彷徨っている。

「面白い?」とゆり子。
「面白くないよ。面白くないこと重ねて生きていくんだよ」と廉司。

なお、帰結点を失った旅が続いている。その内、道に迷ってしまった車は、それでも夜の山道の中を彷徨っていた。

「くたびれたね」

女はそう呟いて、眠りに就いてしまった。



3  キラキラと輝く「風花」が舞って



まもなく車は、一軒のペンションらしき宿に辿り着いた。

夜の闇の中で光る山肌に、その年に積もった新雪が深々と被さっている。

思わず歓声を上げる廉司が、その身を小さく躍らせた。二人はペンションに宿泊することになったのである。

夜のペンションの会食風景は、二人のテンションと全くクロスしない闊達(かったつ)で、陽気な空気に満ちていた。

そこに地元民たちの日常的な振る舞いが踊っていて、その空気に取り残された男だけがその場所を去って行く。

食堂に残った女は、地元の中年男に言い寄られていた。

食堂を離れて行った廉司は、温泉宿の誰もいない風呂場で、旅の垢を落としていた。

そのときだった。自分の脚に書かれていた、女の筆跡を眼に留めたのである。

「どこかで死んでいると思います。さがさなくていいです。ゆり子」

そう書いてあったのだ。

そのとき廉司の脳裏に、ピンサロでの夜、ゆり子と交わした「死」についての冗談めいた会話が過(よ)ぎったのである。

男が女の脚に遺書を刻んだ、あの夜の会話である。完全に酩酊状態だった男に、女は笑みの中からこう語ったのである。

「死ぬなら、確実に死なないと駄目だよ。中途半端、悲惨だしさ。人に迷惑かけちゃうしね」

その言葉に反応した廉司が、「どうやっだら、死ねるんですかねぇ」と問いかけたとき、女はそこだけはきっぱりと答えたのだ。

「北海道は?死ぬのにいいとこいっぱいあんのよ。睡眠薬飲んで、雪の上に仰向けになんのよ」

その言葉を思い出した廉司は、慌てるようにして食堂に戻って行った。ゆり子が部屋に戻っていなかったからである。

男が食堂を覗いたとき、ゆり子は簡易舞台で演じられる「座頭市」の即興芝居を、他の男たちと共に眺めて愉しんでいたのだ。

男はそれを視認するや否や、二階の部屋に戻って行った。

散々愉しんだゆり子が部屋に戻ったとき、全く浮ついた空気に馴染めない、廉司の無愛想な歓迎を受けることになった。

「よくそんな風にして生きていてられるな。そんなズルズル生きていて、恥ずかしくないのかよ」

女に対する不満を、男はダイレクトに吐き出してしまった。

「恥ずかしいよ。恥ずかしかったです・・・」

酩酊する女がそう反応しても、男の心の中の鬱憤は浄化されることはない。

「一緒に死んでやるよ、行こう」

男はそう言って、女の腕を掴んで部屋を出て行こうとした。

「見苦しいんだよ、酔っ払い!勝手に東京に一人で帰れよ」
「帰れるわけないだろ。何で指図されなけりゃいけねぇんだよ」

男のその言葉は、女の激しい反発を削れないほど弱々しいものだった。

弱々しいが故に、男の感情のうねりはまもなく沈んで、一組の布団だけが敷いてある中枢にその身を横たえたのである。

暫時、見知らぬ土地の見知らぬ宿屋の狭い空間の中で、心地悪い沈黙が流れた。

その沈黙を破ったのは、男の方だった。

男は女の体の上に、その身を強引に押し付けたのである。「プロの女」なら当然受容すべき行為であると、半ば突き放したような感情をそこに乗せているようでもあった。

しかし女は、半ば予定されたかのような男の行動を受容しなかった。

そこで作られた一層心地悪い空気の中に、ペンションで知り合った中年男が唐突に訪問して来たことで、二人の微妙なクロスは中断されることになった。

その男が連れて来たウブな男の下半身の処理を頼まれて、女はそれを引き受けるのである。「プロの女」としての「仕事」をゆり子に引き受けさせたのは、他ならぬ廉司だった。

彼は自ら部屋を出て、宿屋の暗い空間の中で鬱々として、まもなく小さな眠りに入っていった。

小さな眠りから解き放たれた男が部屋に戻ったとき、そこに女からの書置きのメモが置いてあったのだ。

「ガソリン代とか出してもらったので、その分置いていきます。元気でね。 冨田ゆり子」    

外は、春遅い北海道の山麓の大自然。

一面の銀世界が、黄色く輝くような月明かりの下で、なお厳しい季節の鼓動を表現している。

ゆり子は夜の温泉宿を出て、深々と雪が積もる自然の中に身を預けて、定まらないラインの上を彷徨っている。

しばしば劈(つんざ)くような自然の咆哮(ほうこう)に反応するかの如く、女は童話のような話を語り継いでいた。

「昔むかし、あるところに小さな女の子が雪の中の小さな家に、お父さんと二人で暮らしていました。お父さんは『北の誉』とハイライトが大好きで、毎日死ぬほど飲んでいました。死にたくて仕方がないようにしか見えませんでした。女の子はお父さんに似たのか、死ぬのにいい場所を探して歩くのが好きでした」

女の話は、暗鬱なる自己史の一端をなぞるものだったのである。

そんな女を捜して、廉司は走り回っている。
必死に走り回っている。しかし女は見つからない。

まもなく女は、月明かりに眩しく光る湖の岸にしゃがみ込み、娘への土産に買った線香花火に火をつけて、それをじっと見つめている。

見つめながら、女は廉司と会ったあの夜のことを回想していた。

「風花」のように舞う夜桜の木の下で、酩酊する男にとっては殆ど意味もなく、希望を未だ失っていない女にとっては、少しばかり意味のある会話を交わした、あの夜のことを。

やがて女は、覚悟を秘めて携帯してきたに違いない睡眠薬をゆっくり手に取って、それを一粒一粒口に含み、ガリガリという音を発して、噛み砕いて呑み込んでいく。

薬の力によって、ほんの少しばかり心地よい世界に入った女は、月明かりが反射するスポットのよう氷面の上で、体をゆったりと動かして、神秘的な舞いを踊っていくのだ。

そこにキラキラと輝く、幻想とも思える「風花」が舞って、女の律動に寄り添うようにして、そこに哀しく昇華されていく映像の、鮮烈なまでに印象的な構図を作り出したのである。

女を捜すために、男はなおも森の中を彷徨い続けていた。

そして遂に、男の視界に氷面の上で仰向けに寝ている女の姿が捉えられた。

「おい!」

男は大声で叫んだ。

「来なくていいのに・・・」

女の口から、蚊の鳴くような言葉が洩れた。男は女の元に走り寄って、叫び続ける。

「何やってんだよ!ほんとに死ぬことないんだから」

男は女の口から睡眠薬を吐かせようと、自分の指を女の口に差し込んだ。意識を取り戻さない女を担ぎ上げて、男は雪原の上を歩いていく。

「大丈夫か!おい、しっかりしてくれ。お前、何か冷たくなってきてないか。おい!本当に大丈夫なのか!死ぬなよ!おい、ゆり子、ゆり子さん、ちょっと!」

男は女に自分の上着を被せて、必死に体を温めていく。

再び女を担いで、男は一軒の農家の空き家に辿り着いた。

その小屋の中で暖を取り、なおも男は女の介抱を諦めないでいた。

風花
朝の陽光が小屋の中に差し込んできた。女はようやく意識を取り戻したのである。男はそれを確認して安堵した。

「大丈夫か?気分はどうなの?」
「頭痛い」
「二日酔いとどっちが痛い?」
「二日酔いかな」
「お前のお陰で、俺、酒止められるかもな」

意識をすっかり取り戻した女は、男の胸に縋り付き、男もそれを求めるように深々と受容した。

まもなく、女は男と別れた。自分の娘との再会を果たすためである。

「あたし、120歳まで生きられそう」
「そしたら、俺1ダース子供作れるよ」

たったこれだけの会話だった。

意味深な会話だが、それが映像を通して、二人の間で交わされた最後の言葉になった。

女は、娘が世話になっている母の再婚先を再び訪ねた。

小さな鳥居を潜(くぐ)って、まっすぐ伸びる長い石段を、今度は力強く駆け上って行く。階段を上り切ったところに、娘が座っていた。

5歳になる娘の笑顔が女の視界に飛び込んで来て、母である女は娘に近づいて、蛙を持つその手を優しく包み込んでいく。

「ママ?」

幼児から発せられた信じ難き言葉に、母である女は感極まって、しっかりと娘を抱き締めることで反応する。その顔には、幾筋もの液状のラインが繋がって、今にも嗚咽に流れそうな感情の意味を無言で表現していた。

レンタカーの外で、男はその光景を自らの視界にしっかりと収めた後、車に乗って数十メートル進んだ先で停車して、その場所になお止(とど)まっている。

遠景となっているが、小さく一つに結ばれているであろう母子の時間を、車のミラーで確認しているようであった。


*       *       *       *



4  欲望自然主義の稜線の広がりの中で



現代は過剰な時代である。

全ての意味で過剰なのだ。

眼の前に、ほんの少し手を伸ばせば届き得るところにある様々な快楽装置に囲繞されていて、今では、この国の稀少価値なる子供たちに、「欲しいものは何もない」と言わせるほどに過剰なのである。

しかし選択肢が余りに多すぎるが故に、「特定的に選択し、特定的に取得し、特定的に取得したものの価値」を存分に蕩尽できてしまうほどの過剰さは、却って人々の心から「幸福」の実感へのリアリティを削り取ってしまったとは言えないか。

その辺が、私たち人間の最も厄介なところなのだ。

人間の欲望自然主義には、フラットな法的規制を無化するほどに心理的臨界点を明瞭に設定しにくいという、宿痾(しゅくあ)のような病理を内包しているということ、これに尽きるのだ。

人間は眼の前に手の届きそうな快楽情報があれば、それを手に入れないと気が済まず、しかもそれを一度手に入れてしまったら、その先に必ず存在すると信じるに足る、また別の欲望の具象的イメージを設定し、今度はそれを手に入れるための内側の推進力によって、そのエンドレスな見えないラインの上を疾駆してまうのである。

均しく貧しかった時代には開かれなかった、この類の欲望の無限連鎖は、近代科学の信じ難き快楽装置の技術的開拓によって、何か恒久的な稜線を伸ばしてしまったようなのだ。

しかも人間は、既に過剰となった快楽装置を、自らの確信的で理性的、且つ合理的なる判断によって、容易に廃棄することができないように思われる。

捨てていくことよりも、何か、より刺激的なる快楽装置を新しく作り出していくことの方に常に振れていくから、既に不要と化した様々なアイテムをスクラップ処理することに、余りに不器用な習性を持つように見えるのだ。

どうやら、循環型の社会システムの知恵を手放しつつある現代人には、自ら作り出した快楽装置を廃棄することが相当に苦手であるらしい。あまりに当然の摂理であると言っていいか。

不夜城
欲望自然主義の稜線の広がりは、そこに呼吸する人々の感情の多くを、一見無秩序に吸収しながらも、その暴走を認めない制度の構築によって、ある意味で、様々な快楽を上手に処理していくシステムが有機的に機能しているようにも見える。

ただ、このサイクルの消費の構造が、個々のライフサイクルの中で、多くの場合、厖大なエネルギーを費やして手に入れる困難さを随伴することが余りに少ないので、その消費サイクルには、自己完結感や自己達成感、更には、自己成就感と言ったような感情文脈が濃密に媒介されることが稀有である。一つの快楽アイテムの取得の価値意識が、常に確かなる重量感を保証し難いのである。

快楽の価値が相対的に重量感を持ちにくくなることによって、そこで手に入れた快楽が、持続的幸福感の内に浄化される心理的サイクルを確実に削り取っていく。人はそのジレンマを解消するために、欲望の稜線を漫然と広げていくしかなくなるのだ。

快楽を手に入れたときの重量感の不足は、間違いなく人間の免疫機能を無化していくだろう。免疫能力の劣化と感覚鈍磨の日常によって、少しずつ自我耐性が削り取られていくとき、人間はその日常性の内に何かポッカリと穴が開いてしまったような空洞感を出来させることで、その劣化した意識を埋めるべき何ものもない時間に拉致されて、恒常的な秩序の構築を困難にさせていくに違いない。

過剰な時代であるが故の、「価値の喪失」という問題もまた存在するのである。

そもそも、人間の幸福感とは何だろうか。

それを「持続的精神的満足感」と言う風に簡単に括るなら、人々は快楽の価値が絶対的に逓減(ていげん)していく欲望自然主義の時代の中で、その日常的保証を困難にさせていく文化状況と地続きになっていると言えようか。

「生きることの意味」を普通に実感できる人生は、殆ど至福の感情ラインの中で呼吸しているであろう。「生きることの意味」の実感を確保するものは、時代と上手に付き合うことができることの証左でもあるからだ。

では、「生きることの意味」の内実とは何だろうか。

こんな風に考えられないか。

それは即ち、「自分が今どこにいて、自分が今、何によって満たされているのかという命題に対して、上手に表現できなくとも、自分なりの確かな解答を身体提示できるような実感」であるという風に。

この実感の継続が、人々の幸福の稜線を未来に繋ぐ絶対的な何かであると思われる。

それ故、「生きることの意味」を特段に意識することなく日常内化している者こそ、声高に叫ぶことのない幸福の稜線を自己実現している者である。

自分がイメージし得る未来に対する不安感を媒介することがないからこそ、敢えて過剰な蕩尽への身の預け方を回避できるのである。

逆に言えば、「生きることの意味」の実感を欠落させてしまうことは、自分が今どこにいて、自分が今、何によって満たされているのかという命題に対して、自分なりの確かな解答を身体提示できない者である。

まさに、本作の二人の主人公がそれであった。




5  肥大化しつつある空洞感



―― ここで映像に入っていこう。


先ず、この映像を一言で要約しておく。

それは、「生きることの意味」を実感できない者の危うさと、そこからの脱出の可能性について、極めて現代的な問題提起をした一篇であった、と私は把握している。

―― 以上の文脈によって、映像を論じてみたい。


主人公のキャリア官僚は、何か四六時中酩酊している。「アルコール依存症」と言っていい。

柳田国男
かつて柳田国男は、『酒の飲みようの変遷』(「木綿以前の事」所収 岩波文庫)で書いたように、この国の飲酒の文化の本質が、酔って裸になることで共同体内の関係を円滑にしようと考えた、言わば、社交を基本的モチーフとするものであったと指摘していたが、その把握を前提にする限り、明らかに「アルコール依存症」は、この文脈と完全に切れている。

それは、酩酊それ自身が自己目的化したかのような、一種の精神病理と言っていい何かである。アルコール依存症者は、社交の故ではなく、酩酊するためにこそアルコールの世界に没我していくということだ。没我しなければならない理由があるからである。

本作の主人公もまた、この種のアルコール依存症者であった。

彼は酩酊それ自身を求めて、アルコールにのめり込んでいた。

そうしなければならない内面的世界が、彼の中に広がっていたということだ。それは多分に、彼の中で「肥大化しつつある空洞感」の問題に淵源するものであると思われる。

「肥大化しつつある空洞感」―― それこそ、本作の中枢的モチーフである。

水商売の恋人の言葉(「廉司さん、お母さん失くしてから変わったね」)を通して、本作で簡単に映像化されていたが、男は恐らく、母の死を契機にアル中になり、それでなくても面白味のない官僚生活の中で、本来的な「人生の意味」を見つけられずにいたことと重なって、彼の心の中の空洞感は一気に肥大化していったのではないか。

そして、その空洞感が肥大化したピークに、「万引き事件」が惹起したのである。

男はこれで全てを失ったわけではないが、少なくとも、男の中で「生きることの意味」の実感を、安定的に確保する基盤が崩されてしまったことは間違いない。

実家との関係も疎遠になっていて、既に戻るべき故郷を持たない男には、もうその空洞感を埋めるべき何某かのツールさえ危うくなっていた。

そんなとき、男が立ち寄る場所が、風俗のシンボルとしてのピンサロ店くらいしか存在しなかったという寒々とした荒涼感は、キャリア官僚として表面的な体面の中で生きてきた独身男の、その人生の様態を露呈するに充分過ぎる流れ方であったと言えるだろう。

一方、危ういキャリア官僚を応対した女もまた、愛児との5年間の別離の中で、心の中の空洞感が顕在化しつつあった。

しかし女には、その空洞感の拠って立つ何かが特定的なものだったので、その状況を改善する一縷(いちる)の希望がなお内包されていた。空洞感を埋めるための一縷(いちる)の希望の中に、「生きることの意味」を復元しようと図る可能性が、女には不安含みの中で残されていたのである。

なぜ男は、あの夜、女と出会うことになったのか。もう一度確認していこう。

繰り返すが、男にとって、風俗の中にその身を委ねる過剰な思いがあったわけではない。女の身体との、濃密なクロス(セックス)を必要とする内的条件があったわけでもない。

それ以外に身を預ける場所がなかったのだ。

要するに、その自我に累積した不快情報を一時(いっとき)消去するために、それに相応しいと思える貧困なる経験値の狭隘なフィールドから、風俗の脱秩序的な特定空間に、男はその身を預けたのである。

何のことはない、事件後にオーバーフローとなった自我が既に臨界点を超えていて、紛れもなく男は、酩酊のみを目的とした時間の蕩尽を図ったのである。それ以外ではなかった。

何もかも、唯それだけのために、男はあの店に流れて行って、そんな男の心情ラインに相応しいと思える女と出会ったのである。

女と出会った男は、過剰な酩酊の中で意味のないことを語り、吐き出し、それが女のリアリズムと接触したことで、男は女との旅の、そこに生まれた小さな必然性の外堀を埋められてしまったのである。

当然ながら、外堀を埋められた男は、目的的意識の中で女との旅を選択したのではない。現に男は、彷徨と化した北海道での旅の過程の只中で、女を初めて特定できたのである。

従って、男の旅の選択のモチーフは、風俗からの女との、吐瀉物のような会話の流れの延長上に出来したものではなかったということだ。

ただ単に、男はここでも、酩酊に入り込む感情文脈のモチーフの延長上に、女との旅を選択したのである。

男にとって、自分の郷里である九州(唐津)と最も隔たった距離に在る「辺境」への旅こそ、「流刑」をイメージさせる空虚なる心の流れ方であったということだ。


―― それ以外にない流刑的な破れかぶれの男の旅と、それ以外にない、「アイデンティティの奪回」という女の旅が、物理的共存を結ぶことになったとは言え、本来的に交叉し得ない異質な文化の繊細なクロスを、この苛烈な映像はリアルに、且つ、シビアに蹴飛ばしてしまっている。

その潔さが、作り手の真骨頂であった。

「北帰行」の旅のノスタルジアは、この映像には全く存在しないのだ。

航空機によるモダンな旅の描写の無機質性も初めから削られていて、映像が映し出した世界は、都会の感覚を延長させたに過ぎないような、ピンクのレンタカーを利用してのドライブであった。

それは、雪を被った山が時折映像に挟まれるだけで、そこが広大なる北海道という、最北の土地であることを示す会話が挿入されない限り、観る者には、一貫してその感傷を預けにくい、殆ど無機質でフラットな風景でしかなかった。

だから映像は、無機質なアスファルトの上を無感情に流れていく、「都会」そのものが空間移動していくイメージのレンタカーと、その車内にあって、外部風景の荒涼感に見合ったような男女の会話のみを、何か狙ったようにフォローしていくばかりであった。

ロード・ムービーのノスタルジアが削られてしまった後に残された世界は、適正な距離感を定めれらずに、浮遊する魂の空洞感であった。

二人の内面世界には、この浮遊する魂の空洞感が一貫して張り付いているのだ。

映像の骨格は、二人の浮遊する魂の振幅を記録するものであるが故に、映像の商品価値を刺激的に高める邪道な付加価値を狙った、それ以外の無駄な描写は殆ど捨てられていて、気持ちがいいほどの潔さに脱帽する思いであった。

そんな映像の中の、浮遊する二つの魂。

「自分が今どこにいて、自分が今、何によって満たされているのか」という基本命題に対して、自分なりの確かな解答を提示できるような実感の僅かな乖離がそこに存在していたが、それでも、全く社会的立場も価値観も異にする二人の内側に、「肥大化しつつある空洞感」のリアリティに於いて繋がり得る何かが、そこに横臥(おうが)していたのである。

思えば、北海道育ちの女と九州育ちの男が、その両端の距離を縮めた極め付けの空間は、この国の中枢である首都東京であった。

その東京での「夜の風俗」という、如何にも現代的な脱秩序的な空間で、双方の目的的な思いが限定的に重なっても、価値観を異にする者たちの感情のクロスは殆ど絶望的であったが、以上の感情のシフトの中で微妙に交叉した時間から、「北帰行」の旅が開かれたとき、「距離」を特段に意識することさえない感情世界の中に、旅の過程で出来した事情によってそれを意識し、その意識の流れ方が、「距離」を縮める思いを抱かせる内的世界の限界状況を感受させる時間を作り上げてしまったのである。

執拗な物言いだが、その辺を丁寧に書いていこう。本作の中枢的テーマであると思えるからだ。

偶発的な事情で、束の間時間を共有することになった二人だが、一方はそれ以外にない「一縷(いちる)の希望」によって、他方は、殆どそれ以外にない「失意」によって重なり合ったのである。

「一縷の希望」と「失意」は、ドライブ行の序盤では軽快な笑いと、それを素直に受容できないシニシズムの、あまりにフィットしない関係を繋いでいった。

肥大化しつつある空洞感。

なお人生の意味を持ち得ない男と、人生の意味を懸命に拾おうとする女が偶然出会い、男は心の空虚感を埋めるためにのみ、相手を特定できない女との不定形な旅を開いていって、そのドライブの中で、少しずつ女との関係が特定できるに及んで、女の絶望に共感的に触れたとき、遂に男は、「人生の意味」を掴み取れなかった女の気持ちの中に入り込むことができたのである。

このとき男は、意味を持ち得ない人生の極限的な空洞感によって、その感情の視線をようやく合わせることができたのだ。

目的を失った絶望的なドライブは、まさにそれを検証するかのようにして、深い闇に包まれた迷妄の森の中を、当て所なく彷徨した挙句、そこだけは特別に異彩を放つかのような宴のスポットに流れ込んでいった。

一軒の温泉宿の存在は、映像の明と暗を鮮やかに隔てるに足るシンボリックな役割を担ったが、実際は、人間の普通の世俗の体臭をプンプン放つ、際立って等身大の日常的空間だったと言えるだろう。

その空間が、絶望と地続きの心境下にある二つの魂を吸収し、呑み込んでいったのだ。

この描写の創作的設定は、しばしば、「肥大化しつつある空洞感」を感受させる過剰な消費社会の中で、それでも、そんな社会と心地良く折り合いを付けて呼吸を繋ぐ者たちの存在を浮かび上がらせていて、極めて示唆的な描写であった。

その特殊な空間の、特殊なスポットで演じられた即興芝居の滑稽感は、世俗のパラダイスを天晴れなほどシンボリックに映し出していて、自然に心和む時間を作り出したのである。

然るに、絶望感を更に一歩深めつつあった男には、そんな世俗の普通の振舞いの中に、もはや入り込む余裕すら持ち得なかった。

男だけが宴から取り残されている。男はもう、アルコールの世界にすら逃げ込めないのだ。目的的な酩酊を重ねられないのである。

素面な男のリアリズムだけが、そこに晒されてしまうのだ。

だから男は一人、宴の場を捨てて、誰もいない風呂場の中で、一見、普通の温泉宿の泊り客のように、少しばかり疲弊した肉体を浄化させていくのである。

男の捨てた記憶がフラッシュバックのように甦ったのは、風呂場で洗髪しているときだった。自分のの脚を見て、そこに刻まれた、自殺を予言するような女の言葉を確認したのである。

既に女を特定していた男が、そのとき、女の放った最もた重要な言葉を想起したのだ。

「北海道は?死ぬのにいいとこ、いっぱいあんのよ。睡眠薬飲んで、雪の上に仰向けになるの。眠りながら凍死」

女と初めて会ったピンサロ店で、女は確かにそう言ったのだ。

男の中で、何かが大きく騒ぎ始めた。

その後の男の行動は、今までの映像の中で、男が全く見せたことのない真摯なる振舞いだった。

とうに男は、女が愛児との再会を果たせないでいたことを察知していて、その絶望的な感情のラインを決して表面に出すことなく、無理に装う態度に心のどこかで同情さえしていたのである。だから、男は動いたのだ。

しかし、男が戻った二階の部屋に、女はいなかった。

男の中に焦りが生まれた。男が外に出る前に立ち寄った食堂では、まだ世俗の宴が繋がっていたのである。

そしてその宴の中枢に、絶望とは無縁な表情を垣間見せる女が、ヘラヘラした愛想笑いを存分に振り撒いていたのだ。まるでそれは、風俗に欲望を蕩尽しに来る男たちの相手をする、一人のピンサロ嬢そのものであった。

男は女を捨て、一人で部屋に戻って、そこで冷蔵庫の中からウィスキーを取り出すや否や、一口胃袋に含んだのである。

しかしここでも、男はアルコールに逃げ込めない。一貫して男は、素面でいるときの普通の青年の人格を表現しているのだ。

ウィスキーのボトルを棚に置いて、男はそのまま布団の上に身を投げた。

そこに女が戻って来て、先述したプロットの紹介のように、内面を複雑にクロスさせる葛藤を出来させたのである。

しかし女の内面世界は、些か嫉妬含みの男の視線とは埒外の場所にあった。

宴の中での女の振舞いと、その後の「プロの女」としての振舞いの継続性は、紛れもなく、「プロの女」の目的的な制約性を逸脱するものではなく、女はそこでも必死に、内側の崩れゆく自我のラインを封印していただけだったのだ。

女の中の「肥大化しつつある空洞感」は、このときピークに達していたのである。

月明かりの眩い雪原を彷徨(さまよ)った女は、そこで一人で点火して戯れる、線香花火の一瞬の輝きのように、不思議なる舞いを演じていた。女の全人格を「風花」が幻想的に揺蕩(たゆた)って、その落下地点を定められずに舞っていく。

女の舞いと自然の舞いが渾然一体となって、映像の決定的な構図を定めるが如く表現された描写は、本作の根柢的なモチーフにオーバーラップされて、蓋(けだ)し圧巻であった。

そして、希望を失った人生を自ら閉じようとした女の感情ラインに、痛々しくも触れてしまった男は、その思いが自分の思いとも重なったことで、まさに全人格を賭して、異界に昇天しようとする女を、「面白くないことを重ねて生きていく」世俗の世界に救い出したのだ。

そうしなければ、自分だけが、「無意味なる人生」を晒す世俗に置き去りにされてしまうのである。

男の行為は、絶望を深めていくだけのアナーキーな時間を、少しでも削り取る作業でもあった。

「人生の意味」を完全に失った女を助けることで、そんな危険な時間の流れ方をなぞっていく時間の只中に於いて、男は自ら救い出したのである。それは束の間、自分の中の「肥大化しつつある空洞感」に、断崖を背にして歯止めをかける行為でもあったと言えるだろう。

女を救い出した男が、誰もいない小屋の中で放った一言は、本作の中で最も重要な台詞の一つであったに違いない。男はそのとき、こう言ったのだ。

「お前のお陰で、俺、酒止められるかもな」

それは、食堂でくだを巻いて殴られて以来、浴びるほど酩酊する自己から離れていた素面の人格を、改めて再編し、遂に括り切っていく時間の中に、自然体で昇華していく物語の始まりを決定付ける描写であった。

因みに、食堂で酩酊し、「120年賭けて作った町の貧困」を嘲った挙句、見知らぬ住人に殴られた男が、無人の診療室で女に傷の手当てを受ける描写は、作り手の得意なワンカット・ワンシーンの独壇場である。

相米慎二監督
この描写に集約される男の孤独と、女の絶望的な独白のカットは、映像の中でも鮮烈なインパクトを刻んでいて、際立って印象深い構図であった。

女もまた、娘との決定的な再会を果たすことで、「肥大化しつつある空洞感」を埋めていく手がかりを掴んでいた。

敢えて言及するならば、「実の母」への形成的な感情を持ち得ない幼女との、淡い「感情交歓」の描写のリアリティについて、若干気になる点があったのは事実である。

しかし、その描写の導入が如何にも上出来過ぎる物語のラインをなぞるものであったとしても、それ以外に軟着点を手に入れられない映像の、覚悟を括った落とし所であったことを思えば、映像総体の骨格の中枢を削り取るほどの瑕疵であったとは言えないであろう。

件の描写の導入がここでは特段に気にならないのは、女の命を救った男と、その男によって救われたことで、我が子との決定的な「感情交歓」を具現した女との、過剰なクロスを回避したラストシーンの不明瞭な描写に於いて、まさに映像的決定力を持ち得たからであると思われる。

最後まで判然としない二人の関係の行方は、あの淡々とした流れ方で正解だったのだ。



6  余分な描写を削り取って



―― 実は、この映像の原本となったシナリオには、あまりに余分な描写が加えられていたのである。

些かルール違反の読み方とも思えるが、それを要約すると、以下の通りである。

一年後、相変わらず女は風俗嬢を継続していて、男に手紙を書いている。届くかどうか不明な手紙である。

一方男は、日本語学校の教室で、教鞭を執っている。彼は15、6人の各国の外国人に、日本語の授業を施しているのだ。

文部省を退官した彼は、それなりに自分の人生を選択して、恐らくそれを「意味ある人生」に近づけるべく生きているのである。

そして、そんな男と女が、東京の街路で偶然出会ったのだ。女は小学生になったであろう娘と共に生活していたのである。('01年鑑代表シナリオ集「風花」森らいみ シナリオ作家協会編 映人社 参照)

以上が、シビアに繋いでいった本作のドラマの、如何にも予定調和的な括り方であった。

これでは、薄っぺらな安物ドラマで片付けられてしまう類の映像でしかない。

しかし作り手は、この脚本のラストシーンを採用しなかった。正解だったのである。



7  「セックス」の復活



同時にこの映画は、かつて付き合っていた水商売の女から、「インポ」、「マザコン」と罵倒された男が、「セックス」という「人生の意味」の一つを復元させていく時間の奪回の可能性を示唆した物語でもあった。

誰もいない小屋で、蘇生した女を全人格的に受容した描写こそは、キャリア官僚という商品価値を、今なお持つ記号の中でのみ生きてきた男の、その小さな復元を、感傷を削り取って描き出した見事なる絵柄であったと言えようか。

「セックス」の復活は、単なる下半身の処理のために、女と付き合っていたに過ぎない男の中で、「人を本気で救いたいと願い、そこで救った魂との繊細なクロスを求める感情」が生まれてきたことを示唆するものである。

それは、男の中で真に、「人生の意味」の復元のシグナルを感じ取った何かであるに違いないのだ。

「人生の意味」を見つけることが難しい過剰な時代の中で、その意味を模索することの困難さと可能性を描き出した本作の秀逸さは、完璧に近いほどの物語の構成によって際立っていたのである。。



8  「距離」についてのの映画



―― 余稿として書けば、本作は、「距離」についてのの映画であったとも思われる。


ケチなエリート官僚と我が子を思う風俗嬢という、その人生のポジションに於いて殆ど対極にある二人が、些かステレオタイプ的な関係の括りの中で、日常性ではクロスし得ない状況下にあって、唯一、「風俗」という非日常的な時間でのみクロスする関係の様態は、双方とも明瞭な目的的な感情の枠内で、身体器官の出し入れを介して、蕩尽する感情と、蕩尽される身体が極めて限定的に振れ合うだけであった。

男は酩酊の時間の中でのみ、女の感情世界の一端に近づくことができるが、素面になってしまうと、そこに晒された関係の距離は、絶望的なほどクロスすることがないのである。

しかし、女の「希望」が反転して、「絶望」の境地に堕ちていくとき、酩酊する男は素面のときでも、その「絶望」の片鱗に近づくことができたのである。男もまた、「絶望」の空洞感に捕捉されてしまっていたからである。

だからこれは、「距離」についての映画であるとも言えるのである。

正確に言えば、「距離」についての映画としても、成就した一級の映画であるということ。それに尽きるのだ。

(2007年5月)

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