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2011年1月4日火曜日

ノーマンズ・ランド('01)       ダニス・タノヴィッチ


<〈状況〉が分娩した憎悪の鋭角的衝突を相対化した男の視座のうちに>



1  塹壕内の空気を支配する力関係の微妙な振れ幅



1992年に出来したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争下で、ボスニア軍の交代班が夜霧の中で迷った末に、セルビア軍の猛攻撃を受け、「ノーマンズ・ランド」と呼ばれる「中間地帯」に辿り着く。

生き残った兵士は一人。

その名は、チキ。

「ノーマンズ・ランド」の塹壕偵察のために、セルビア軍は二人の斥候を派遣した。

ベテランの中年兵と、新兵である。

塹壕に辿り着いた二人は、そこでボスニア兵のチキと交戦し、ベテランの中年兵は戦死し、新兵も負傷した。


負傷した新兵の名は、ニノ。

交戦直前に、ボスニア兵の死体の下に、セルビアの中年兵は地雷を仕掛けていた。

所謂、「ブービートラップ」(敵が油断するような対象物に仕掛ける殺傷兵器)である。

ところが、死体と思われたボスニア兵は気絶していただけで、意識を取り戻したのだ。

意識を取り戻したボスニア兵の名は、ツェラ。

中年兵の相貌である。

今や、この塹壕には、3名の兵士だけが取り残されたのである。

1対2の敵対関係を構成するが、実質的には兵力にならないツェラがいるので、1対1の敵対関係が、「ノーマンズ・ランド」の塹壕内に形成されていた。

しかし厳密に言えば、「ブービートラップ」の対象物と化した、ツェラの面倒を看なければならない立場にあるチキの方が、セルビア新兵のニノよりもハンディがある分だけ不利であるだろう。

チキの方が不利でなかったのは、彼の持つ自動小銃のお蔭だった。 

ニノとチキ(右)

そんな力関係の微妙な振れ幅が、この「中間地帯」と呼称される塹壕内の空気を支配する構図のうちに形成されていたのである。



2  「ブービートラップ」の対象物と化した男が点景となったとき



チキの自動小銃の恫喝によってニノは裸にされ、塹壕の上で白旗を掲げさせられるに至る。

その後、セルビア新兵のニノが、塹壕内の力関係の微妙な振れ幅を利して、チキの自動小銃を奪い、一時(いっとき)権力関係を逆転させるが、そのような〈生〉と〈死〉を共存させる〈状況〉を回避したいツェラのアドバイスもあって、結局、両者とも自動小銃を所有することになったのである。

このような〈状況〉の形成こそ、「中間地帯」で形成された微妙な力関係が内包する危うさだった。


まもなく、塹壕の上で白旗を掲げるチキとニノがいた。(トップ画像)

「中間地帯」で対峙する両軍は事態の内実を理解し、国連防護軍に連絡するに至った。

この辺りから、「中間地帯」の塹壕内の微妙な力関係の中に、外部権力の侵入が顕在化してくるが、それでも物語の中枢を支配するのは、塹壕に閉じ込められた3名の兵士の動向であり、映像はその動向を緊張感溢れる筆致で切り取っていく。

徒(いたず)らに時間を消費するだけの埒が明かない状況下で、フランス軍が担当する国連防護軍のサラエボ本部の、明らかな任務の怠慢に業を煮やしたマルシャン軍曹は、自らの独断的意志で塹壕に閉じ込められた者たちの救出に乗り出していく。

テレビ局の女性レポーター
更に、そこにテレビ局の女性レポーターが情報を探知して、「中間地帯」の塹壕に赴くマルシャン軍曹に随伴していくことで、事態は大掛かりになっていった。

マルシャン軍曹は、チキとニノから、「ブービートラップ」の対象物と化したツェラの〈状況〉を把握し、やがて地雷処理の専門家であるドイツ人を派遣するに至る。

この間、マルシャン軍曹が介在することで、塹壕内の力関係の微妙な差が動き出す。

防護軍の装甲車に乗り込もうとしたニノを、チキが自動小銃で撃ち抜くが、運良くニノは新しい負傷を累加させることで命を保った。

まもなく、ドイツ人の地雷処理の専門家がやって来た。

しかし、周囲30メートル離れさせて開かれた、ドイツ人の地雷処理の作業の結果、地雷が土に埋もれていて、その種類が判明できないというものだった。

慌てて、防護軍の兵士が同タイプの地雷をドイツ人に見せるが、地雷処理の専門家の答えは戦慄すべき内容だった。

「このタイプは、一度仕掛けると除去できません。彼は助からない」

防護軍の兵士は諦め切れず、素人提案する。

「体と地雷の間に何か入れるとか・・・」

「誰でも呼んで下さい。でも、あの状況での地雷除去は、誰が来ても不可能です」

これが、地雷処理の専門家の確信的な答えだった。

マルシャン軍曹と大佐(右)
そこに、本部の大佐がヘリでやって来て、状況を聞いたときの反応はもっと戦慄すべき内容だった。

「記者たちの前で、作業するふりをしろ」

作業するふりを満足にできない、如何にも真面目な地雷処理のドイツ人。

その傍らに、家族の写真を左手に持つツェラが横たわっている。

事件が起こったのは、その直後だった。

ニノに刺された恨みを持つチキが、死体から密かに抜き取っていた銃でニノを撃ち、自らも防護軍の兵士に射殺されるに至ったのである。

一切が終焉した瞬間だった。

本部の大佐の命で、事態の形式的な処理を果たして、帰還することになった。

「彼はどうなる?」

ツェラを見遣った、マルシャン軍曹の言葉だ。

「諦めろ。我々の管轄外だ」

これが、上官の答え。

諦め切れないマルシャン軍曹は、大佐に声をかけられ、止むなく軍用車両に乗り込んでいく。

土塊に張り付くツェラ
震撼すべき映像は、塹壕の中枢に置き去りにされたツェラを俯瞰ショットで捕捉していって、それが点景となったとき、フェードアウトしていった。



3  〈状況〉が分娩した憎悪の鋭角的衝突を相対化した男の視座のうちに



二つの戦争暴力が最近接しながら、セルビア兵とボスニア兵が存在することによって、辛うじて維持されている〈生〉。

しかしそれは、「ノー・マンズ・ランド」(ボスニアとセルビアの中間地帯)という名の、戦争暴力が直接的に交叉する最前線であるが故に、〈死〉とも同居する危ういゾーンである。

その危ういゾーンの中枢にあって、〈生〉と〈死〉を共存させる〈状況〉を最も内化している男がいる。

ツェラである。

本作は、塹壕の土塊(つちくれ)に張り付くツェラの視座によって、暴力交叉の最前線の〈状況〉を仰ぎ見ることで、戦争暴力の怖さと無意味さを訴える映像だったと言っていい。

ツェラの視座は、明らかに作り手の視座である。

セルビア軍の中年兵によって仕掛けられた「ブービートラップ」に捕捉されたツェラは、既に自分の意志で全くコントロールできない〈状況〉下にあって、〈生〉と〈死〉が被膜一枚で繋がっている戦争暴力を突沸(とっぷつ)させる〈状況〉から、完全に置き去りにされているのだ。

寧ろ、そのことによって、男は戦争暴力の最前線の〈状況性〉を相対化することができたのである。

男の視野に捕捉される、セルビア兵とボスニア兵の危うい対立の〈状況〉は、「交流と対立」を繰り返す二人の交叉のうちに象徴的に映し出されていた。

ニノとチキの論争
二人の会話は、「ボスニア内戦」と呼称された戦争暴力の縮図と言っていい。

以下の通り。

「そっちが始めた戦争だ」とチキ。
「そっちさ」とニノ。
「違う。お前らは戦争しか頭にないんだ。偉大なセルビアは平和主義者だと?勘弁しろ。世界の見方は逆さ」
「“お前らの世界”だろ?セルビアの村を焼いて、自分らの領土だと主張する」
「じゃ、あの砲撃は?セルビア軍は聖者か。死体に地雷を仕掛ける奴らが」
「別問題だ」
「お前らは無法の限りだ。略奪に殺戮に強姦」
「誰のことだ。そんな光景は見たことない」
「俺はある。俺の村も焼き討ちにされた。」
「知らない」
「俺は見た」
「俺の村はどうだ。誰が村人を殺した」
「多分、セルビアだ。今もお前を撃った」
「それは、俺がいるのを知らないからだ」
「埒が明かない。なぜ、お前らはこの美しい国を破壊した?」
「僕らが?呆れた。独立を望んだのは、そっちだぞ」
「お前らが戦争を仕掛けた」
「それは、あんたらの方だ」
「俺たちが?バカ言え」
「あんたらだ」

ここで感情が沸点に達したチキが、自動小銃をニノに突き付け、恫喝する。

「誰が戦争を仕掛けた?」
「僕らだ」

ニノの答えには、それ以外の選択肢がなかった。

「そうとも。俺を怒らすな。神経に触る奴だ」

そう言って、チキはニノを外に追い遣った。

「ふざけやがって。俺たちが仕掛けたなどと」

自動小銃を持つチキ
チキの捨て台詞である。

しかし、形成の逆転も早かった。

チキがツェラに近寄っている間に銃を手にしたニノは、チキの行動をなぞるのだ。

「誰が戦争を仕掛けた?」

チキを恫喝するニノ。

「俺たちだ」

チキの答えにも選択肢がなかった。

このときのツェラの言葉こそ、本作のメッセージの一つであっただろう。

「どっちが仕掛けたのでもない。両方とも泥沼だ」

仲間同士での、こんな短い会話も拾われていた。

「奴は俺を殺そうとした。必ず殺してやる」とチキ。
「お前の話もうんざりだ」とツェラ。

左からチキ、ツェラ、ニノ

ツェラにとって、戦争暴力を背景にして、チキとニノの二人が作り出した〈状況〉は、その〈状況〉が分娩した憎悪の鋭角的衝突でしかないのだ。

彼は今や戦争暴力のみならず、それによって分娩された憎悪感情をも相対化し切ったのである。

憎悪感情を無化し切った男が、物理的に遺棄されていくラストシーンは、非暴力の強靭な思いを抱懐する作り手が、温和なゾーンで本作を観る者への毒気含みの挑発的メッセージと受け取ることもできる。

それは、情緒的な「平和主義」でしか本作を把握できない者への揶揄ではないのか。

或いは、配給会社の大仰な宣伝に嵌って、それを「ブラック・コメディ」のカテゴリーに閉じ込めることで、本作の挑発的メッセージから距離を置く者たちへのアイロニーのようにも見えるのである。

詰まる所、地雷を背負うことなしに体現できない事態に象徴される、かくも震撼すべき戦争暴力の恐怖に耐えるためにこそ、ここで拾われたような「ユーモア」を必要とせざるを得ない実感的なリアリズムの凄み ―― それが本作のうちに脈打っているのだ。



4  空に浮かぶ雲しか見えない男の魂を絞り上げて



そんな〈生〉と〈死〉を共存させる〈状況〉に最近接した二人の人物がいる。

マルシャン軍曹

一人はテレビ局の女性レポーターで、もう一人は国連防護軍のマルシャン軍曹。

前者は、チキに「ハゲタカめ!俺らの悲劇は、そんなに儲かるか!」と面罵される描写に見られるように、先進国の商業的メディアの欺瞞性を象徴するものとして描かれていた。

「塹壕は撮らないのか?」とカメラマン。
「ええ。何もない。ただの塹壕よ」とテレビ局の女性レポーター。

ラストシーン近くでの、この短い会話の中に、作り手の商業メディアへの視座が読み取れる。

地雷を背負った男を物理的に遺棄していく者たちのラインの中に、商業メディアのあざとさと欺瞞性が捕捉されているのだ。

しかし、マルシャン軍曹の場合は、国連軍の中にも〈良心〉が存在することを示して見せた。

「もう傍観者はごめんだ。イカれた奴らが、この国を破壊するのを食い止める。殺戮に直面したら、傍観も加勢と同じだ」

女性レポーターに放った、このマルシャン軍曹の言葉が推進力となって、彼は〈状況〉の只中にその身を放り込もうと努力し、彼なりに格闘する。

しかし、それでも悲劇を止められない。

一人の軍曹の良心的投入によっても処理できない事態の大きさが、そこに横臥(おうが)するのである。

「君の気持は分るが、君が尽くしても何も変わらん」

これは、ツェラを救えずに地団駄を踏むマルシャン軍曹に放った、サラエボ本部からヘリで乗り付けて来た大佐の言葉。

件の大佐こそ、体裁ばかりを取り繕うだけの国連軍への批判を被浴する対象人格であり、本作において最も欺瞞的な存在として描かれていた。

商業メディアを徹底的に揶揄し、国連軍の無力さを指弾して止まない作り手の視座は、どこまでも地雷を抱く男の内側に潜入していくのだ。

〈生〉と〈死〉を共存させる〈状況〉の一切を相対化し、無化し切る男の視界から捕捉された「世界」の内実は、鋭角的に捩(よじ)れて、爛れ切った人間の脳天気な生態であり、欺瞞の極点と化した先進国文化の度し難き腐敗の様態であった。

土塊に張り付く者のプライオリティーの筆頭は、どこまでも「国家の威信」より「便の処理」なのだ。

土塊に張りつくことによって限定された価値観の流れゆく先は、「今、ここにある命」の延長であり、その稜線が延ばされた先には、かつてそうであったような、ごく普通の生活の日常的継続以外ではないのである。

作り手のそんな憤怒が、空に浮かぶ雲しか見えない男の魂を絞り上げていくのだ。

そういう映画だった。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争



5  「戦争広告代理店」という「現代の闇」



「そっちが始めた戦争だ」とチキ。
「そっちさ」とニノ。


これは、本作の中で、ボスニア兵のチキとセルビア兵のニノが、塹壕内で「言葉の戦争」を開くときの端緒となった会話。

果たして、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争において、「侵略者」はいずれの「国家」だったのか。


本作では、その辺りの「犯人捜し」には興味がないようだったが、「国際世論」では、「民族浄化」や「スレブレニツァの虐殺」等々を惹起させたが故に、「セルビア=悪」、「ムスリム人=善」という図式が定着し、現にハーグで「旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷」が開かれ、「人道に対する罪」などで、ミロシェヴィッチ(獄死)やカラジッチが逮捕され、係争中である。


ところが、高木徹の「戦争広告代理店」(正式には、「ドキュメント戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争」 講談社)という著書によると、ボスニア政府の依頼によって契約したルーダー・フィン社(米)の 「宣伝広告」の世論誘導が功を奏し、「民族浄化」がセルビアによって遂行されたという図式が定着したというのである。

一切は、「戦争広告代理店」の巧妙な情報戦略の結果であるという報告は、この書を読んだ者の心胆を寒からしめるものだった。

私もまた、「セルビア=悪」という「国際世論」を疑うことがなかっただけに、多くの意味で忸怩たる思いがある。

なお「闇の中」というのが実感だが、そのような現実が存在することを認知したからといって、戦争の原因を究明する努力を継続させることを何ら否定することにはならないだろう。

「一切の戦争暴力反対」という名の下で、「戦争の犯人捜し」を含む、そこに至るまでの詳細で正確な経緯への究明の努力を無意味なものとする極論に振れることを、私は拒みたい。

映像で提起された作り手のメッセージは、内戦にインボルブされた者でなければ分らない困難さが横臥(おうが)ている現実の重量感を実感しつつも、私はなお、「絶対反戦」の名の下で、「侵略者」の存在をも曖昧にさせる「絶対平和主義」の風潮には与しないという立場を今後も堅持していこうと思っている。

以上の文脈とは無縁に本作を観るとき、その「完成度の高さ」を多いに評価する私のスタンスは全く変わることがないだろう。

〈生〉と〈死〉を共存させる〈状況〉に捕捉された人間の心理を、ここまで剔抉(てっけつ)した作品と出会えたことを僥倖(ぎょうこう)であると考えている次第である。

(2001年1月)

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