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2011年2月26日土曜日

花様年華('00)      ウォン・カーウァイ


<最近接点に達した男と女の、沸騰し切った〈状況〉のうちに>



1  「映像性」の排除を意味しない「批評の前線」の可能性



映像が提示したものを、観る者は想像力を駆使して読み解いていく。

映像が提示したものと、提示されたものについて想像力を駆使する者が、観念の世界で結ぶ幻想の中枢を「批評の前線」と呼んでもいい。

「批評の前線」にあって、想像力を駆使する者の読解の「かたち」は、件の者の感性・知性・経験則を含む「マインドセット」(経験、教育、先入観などから 形成される思考様式)の性格に大きく関与するだろう。

しかし、それはどこまでも、映像が提示したものの範疇のうちにのみ、「批評の前線」が形成されるという暗黙のルールを保持する限りにおいてである。

無論、そこで形成される「批評の前線」の可能性は、直接的に絵柄の提示を媒介することのない「映像性」の排除を意味しない。

「映像性」が内包する「含み」を、観る者がどのように把握し、受容していくかによって、様々に伸ばされた批評の稜線が存在することをも排除しないのだ。

だから、観る者は映像が提示したものを、いかようにでも解釈することが可能となる。

それが、映像批評の規範性であると言っていい。

本作を解釈するに当って、私は以上の文脈について改めて感受し、認知した思いである。



2  男の人格的侵入を心地良く受容する女 ―― 「2046」という「秘密の共有」




物理的距離を近接させた、男と女がいる。

右手にポットを下げて、麺や惣菜等を買いに行く、チャイナドレスが眩い女と、キャリアウーマンの妻を持つが故に、夕飯を食べに行く男が出会う屋台での、日常的な交叉がリピートされ、物理的距離を近接させていくのだ。

男と女の交叉の場面で流れるのは、クラシックな雰囲気を醸し出すストリングスによる、「夢二のテーマ」(鈴木清順監督の「夢二」に使用された梅林茂 による楽曲)。

映像とストリングスの哀愁が見事に溶融するのだ。

殆どコミュニティと化したかのような、60年代の狭隘な空間で妖しく絡む社交の累加によって、そこに心理的距離の近接感が生まれていった。

心理的距離の近接感が招来した親和動機の相乗効果のうちに、相互に引き寄せ合う男女感情が生まれていくのは殆ど必然的だった。

親和動機の相乗効果を分娩した直接的契機は、あろうことか、お互いの伴侶が不倫関係にあると信じる「秘密の情報」を共有したからである。


海外出張が多く、留守がちの自分の配偶者の裏切りに対する意地が、対象人格への反発力を作り出したのか、女への最近接を求める男の侵入を、女は、「一線を越えられない」と答えて封じていく。

手を握る辺りまではいくが、男はもう、その先に進めない。

そこには、裏切りに対するリベンジとして、スワッピングへの爛れに流れ込めない社会規範の空気が読み取れる。

それでも、「秘密のスポット」(ホテル・2046号室)を共有した二人は、それもまた、伴侶の裏切りへのアンチテーゼであるかのような、格好の具象的な目標を構築するに至る。

作家志望の男の創作活動に関わる共同作業が、それだった。

いつしか、小説の世界と現実がシンクロし、女は内側に蓄えていた情感を丸ごと自己投入していく。

赤いコートを着込み、カーテンの赤の色彩が眩い「秘密のスポット」に潜り込むことで、明らかに、男の人格的侵入を心地良く受容する女が、そこにいた。

これには伏線があった。

伴侶に愛人ができたことを難詰する女と、難詰される男。

創作の世界を視野に入れた、ロール‐プレーイング(役割演技法)である。

その役割演技を、リアルに演じる二人。

小説と現実がシンクロする、極めてスタイリッシュな映像の独壇場の世界だが、それは、敢えて物語を複雑化させる作り手が観る者に仕掛けた、「出入り口」を見えにくくする表現トラップでもあった。

「女がいるんでしょ。誰でもいい。いるんでしょ」と女。

一瞬の「間」ができる。

「いない」と男。
「とぼけないで。正直に答えて」と女。

ここでも、「間」。

「ああ・・・」

食事をしながら、答える男。

しかし、女からの相手が答えない。

「どうした?」と男。
「苦しいほど哀しい・・・」と女。


女は咽び泣きながら、男の胸に身を預けるのだ。

「練習しているだけなのに。彼は簡単に認めない。あまり深刻に考えたらダメだ」

ロール‐プレーイングという名の「仮想危機トレーニング」に情感投入する女と、それを相対化しない男との心理的距離が、その先にある肉感的ゾーンに届き得る辺りにまで最近接したことを意味するのだ。

それは、小説の世界のうちに、甘美だが、非日常の危うさがねっとりと張り付く、「禁断」の印を被った現実が溶融した瞬間だった。



3  運命的な豪雨の夜が襲来してきて



「禁断」の印の心理圧を感受する、女の感情が沸点に達しつつあった。

以下、その辺りを再現する。

「夫婦は一緒にいるべきよ」


屋台に行くときでも化粧する女の日常に、浮遊する危うさを感じた管理人からの物言いだ。

噂を気にする女。

「あまり会わない方が良い」

女からの男への電話である。

そして、運命的な豪雨の夜がやってきた。

寂しさが募ったのか、豪雨の中で、女は男を待っているようだった。

「長くここに?」と男。
「少しだけ・・・」と女。

傘を取りに帰って、男は女に一緒に帰ることを誘うが、ここでも女は防衛的自我を開いていく。

「見られたくない。あなただけ先に行って」
「じゃ、僕もここにいる」

男がシンガポール行きを切り出したのは、このときだった。

「なぜ、急に外国へ」と女。
「気分転換さ・・・噂は嫌だ」と男。
「何もしていないのに?」と女。
「僕もそう考えて、特に気にしてなかった。不倫はしてないし、でも本心は・・・君は夫と別れない。僕の方が去る」と男。
「本気になるなんて」と女。

ここで、男は女に心情を正直に吐露していく。

「僕も意外だ。最初は単なる興味で、今、分かった。次第に思いが募る。冷静なつもりが、君の夫が戻ると思うと、無性に腹立たしくなる。悪いのは僕。お願いがある」
「どんな?」と女。
「心の準備を」と男。

またしても、長い「間」ができる。

映像は、豪雨に晒された電灯を映し出す。

女は、男のパーソナルスペースから逸脱しない程度に、緩やかに、小さいサークルを描くように徘徊する。

いつしか、弾丸の雨は勢いを失って、周囲に静寂な空気を戻していた。。

「会わない方がいい」と女。
「ご主人が帰国?」と男。
「そうよ。臆病な女ね」と女。
「違うさ・・・もう会わない。ご主人を大事に」

そう言って、男は女の手を握った。

この夜ばかりは、女は男の手を握り返すのだ。

去って行こうとする男。

内側で封印したいたものが噴き上がってきた女は、嗚咽の中で、男の胸に顔を埋めていく。

「帰りたくないわ」と女。

車内で手を取り合う二人。

女は、男の体に身を預けて寄り添うのだ。

終始、無言の二人が、そこにいる。

ここで、最も重要なシークエンスが閉じていった。

映像は、もう何も語らない。

逢瀬を禁じた二人の重い表情を、映像は映し出すのみ。

ラジオから、オクターブの高い声が、空気を裂いていく。

「出張中のチャンさんが奥様の誕生プレゼントにリクエストです。では、チャウ・シュエンが歌う『花様的年華』を」

花のような魅力的な年
月のように輝く心
氷のように清い悟り
楽しい生活
深く愛し合う二人
満ち足りた家庭
でも急に闇に迷い込み 辛い日々になる
愛する故郷よ
もう一度・・・

その歌を、壁に凭(もた)れて聞く二人の寂寞だけが置き去りにされていた。 



4  最近接点に達した男と女の、沸騰し切った〈状況〉のうちに



明らかにこの夜、女は、男との濃密な心理的絡みを超えて、肌の触れ合いを求めていた。

男もまた、女の情感に寄り添い、肌を合わせることを求めていた。

映像が観る者に提示したものは、男と女の深々とした睦みの描写以外の何ものでもなかった。

しかし、映像はそれを映し出すことをせず、シンガポールに行く前の男と、逢瀬を重ねられない女の寂しさをフォローするだけだった。

1963年、男はシンガポールに旅立った。


置き去りにされた女の哀しい表情を、映像は拾い上げていく。

そして女は、遂に我慢を切らして、男をシンガポールにまで訪ねていく(スリッパの紛失のシーン)。

しかし会えない。

常に、男と女は擦れ違うだけなのだ。

「切符がもう1枚取れたら、僕と来ないか?」

実行に移されることがない、男の言葉である。

「切符がもう1枚取れたら、連れてって?」

これも実行に移されることがない、女の言葉である。

実行に移されることがない男と女の振幅の物語のエッセンスが、ここに収斂されると言っていい。

このように、「擦れ違いの美学」をなぞっていく定番的なメロドラマが、男と女の振舞いと、精緻な感情の機微を特定的に切り取って、極めてセンシブルに繋がれていくのだ。

この辺りのシークエンスは、性交描写を確信的に削り取った作り手のハイセンスで、重層的な表現技法という手品によって、官能的なまでのエロティシズムを、決して長尺にならないフィルムに刻んでいくのである。

1966年の香港。

息子を随伴した女が、かつてのアパートの管理人に会いに来るタイミングに合わせるように、男も香港に戻って来るが、このときもまた擦れ違いに終わった。

そして、カンボジアの石造寺院遺跡、アンコールワット。

男は、アンコールワットの壁穴に、内側に封印していた秘密を永久に閉じ込めたのである。

しかし、この印象的なラストシーンには伏線があった。

1963年のシンガポールに遡る。

「知ってるか。昔の人のやり方だ。大きな秘密を抱えている者はどうしたと思う?山で大木を見つけ、幹に掘った穴に秘密を囁くんだ。穴は土で埋めて、秘密が漏れないように永遠に封じ込める」

飲み屋で、友人に語った男の言葉である。

男は、「秘密が漏れないように永遠に封じ込める」ために、アンコールワットでのセレモニーを遂行したのである。

ここで、観る者は置き去りにされるかも知れない。

なぜ、アンコールワットにまで行って、男がこのようなセレモニーを遂行する必要があったのかと。

決定打を放つ寸前に止めるという、言わば、「寸止めの美学」とも言える「究極のプラトニックラブ」の括りにしては、この設定は些か過剰過ぎないか。

単に、「精神恋愛」でしかなかった男と女の、一時(いっとき)の濃密な絡みの物語の終焉を、このような大袈裟なラストシーンを必要とするほどに、本作は、「究極のロマンティシズム」への回想に酩酊したかったのか。

そんな突っ込みを入れたくなるほどの映像構成を考えるとき、作り手がどのような思いで本作を構築しようとしたか不分明だが、少なくとも私には、豪雨の夜に、「一線を越える」ほどの深い睦みが、遂に最近接点に達してしまった男と女の、沸騰し切った〈状況〉のうちに存在しない限り、とうてい説得力を持ち得ないラストシーンであったとしか思えないのだ。



5  純化された最高の想像力によって分娩される最高のエロティシズム



あの日、明らかに二人は、「一線を越える」時間のうちに、全人格的な投入を遂行したのである。

それでも男は、女を振り切った。

しかし、女からの無言の電話と、女のシンガポール訪問の行動様態を見る限り、観る者に、「精神恋愛」という「寸止めの美学」を垣間見せる効果の範疇を超える、極めて肉欲的な情感濃度を体現させる何かであったのだ。

女が随伴した息子が、男との不倫の関係の中で儲けられたか子供であるか否か定かではないが(注)、少なくとも本作を、「究極のロマンティシズム」としての「究極のプラトニック・ラブ」という把握で括るには、相当程度、無理があると考えざるを得ないのである。

本作の印象形成は、「女は顔を伏せ、近づく機会を男に与えるが、男には勇気がなく、女は去る」という余分で、説明的なキャプションの凡俗性によって固められていたが、このキャプションで決定付けられた「映画の嘘」が、提示された映像に張り付く「曖昧さ」と矛盾しないからと言って、提示された映像に対する解釈の多様さもまた否定されたことにはならないだろう。


私としては、映像の力技のみだけで、最後まで走り抜けて欲しいという潜在願望が、キャプションが張り付く冒頭から挫けてしまったほどである。

然るに、キャプションの張り付けが、その後に展開される、男と女の精緻で寡黙な内面描写の秀逸さを希釈化させるほどに、決定的な瑕疵と断じる印象に雪崩れ込まなかったが、それでも映像構成の独善性が些か気になったのは否めない。

ここでは、エロティシズムについて一言。

豪雨のシークエンスに象徴されるように、禁断の印を負った「精神恋愛」の様態が、最も感覚濃度の深いエロティシズムを分娩するに至るのは、そこだけが特化された、全人格的に最近接した男と女が作りだす、息苦しいような「間」の中に、観る者の想像力が容易に侵入しやすいからである。

即ち、最高のエロティシズムは、純化された最高の想像力によって分娩されるということだ。

そこだけを特化させるために、末梢的な描写を削り切った本作は、この一点において、殆ど一級の完成度を保証したと言えるだろう。

あとは、観る者の「好みの問題.」に尽きる。

私に関して言えば、スタイリッシュな映像の描写の切り取り方に過剰な表現技巧を見せることで、却って、男と女の回想的な、「究極のロマンティシズム」に流れていったように思わせてしまう映像構成に、正直、馴染めないものがあった。

男と女の息苦しいまでの、濃密な絡み合いを描いたに違いない、本来の主題性が希釈化されてしまったように見えるからだ。


(注)仮に男との子供であれば、全く異なった展開を必然化するだろうから、映像提示の余地なき、この仮説の設定は意味がないと思われる。



6  「禁断の愛」の艱難さ



ここでは、拙稿の「人生論的映画評論」の中の「乱れ雲」(1967年製作)から、「禁断の愛」についての一文を引用する。

そのテーマは、「禁断の愛の艱難(かんなん)さ」としたい。

以下、本稿のテーマに則して、加筆しつつ引用する。

「禁断の愛」は、堅く封印された扉を抉(こ)じ開ける愛である。

その扉を抉じ開けるに足る剛腕を必須とする愛、それが「禁断の愛」である。

そして、その扉を抉じ開けた剛碗さが継続力を持ったとき、その愛は固有なるかたちをそこに残して自己完結する。

そう思うのだ。

果たしてそこに侵入する魂に、その愛を自己完結するだけのエネルギーを持ち得るか。

扉を抉じ開ける剛腕さと、その愛を継続させる腕力は別個の何かである。

一回的な剛腕さが継続力を持つには、その時間を保証するに足る極めて難度な能力を必要とするだろう。

果たして、人はそれを持ち得るか。

時間を継続させるエネルギーが充分に用意されても、それを上手に駆動させるには、腕力や体力のみならず、そこに、それらの魂にとって殆ど未知なる膨大な精神力というものが求められるのだ。

「禁断の愛」の大胆な飛翔の継続は、それほど困難な何かなのだと思う。

「禁断の愛」の継続は、単に、その継続を妨害しようとする者たちとの果敢な闘争の持続力を意味しない。

寧ろ、それを妨害しようとする力が大きく作用するほど、そこに防御しようとする者のエネルギーの再生産が可能となるだろう。

「魔性の愛」は、寧ろそれを妨害する様々な因子が絡みつくほど、却って、その愛の継続力を保証する方向に向かっていくのである。

「魔性の愛」の破綻は、寧ろ内側から分娩され、肥大していく。

それは防御するエネルギーの枯渇によってではなく、それを固めて、そこに新しい価値を創造していくエネルギーの不足によって起こると言っていい。

「魔性の愛」は抉じ開けることに容易で、継続することに艱難(かんなん)なる愛なのだ。


その怖さを二人の時間の中で存分に味わって、そこに立ち竦み、狼狽し、やがて闘争の出口を模索することになるのではないか。

それほどまでに危険な愛を、なぜ人は目指すのか。

それを手に入れようと、なぜ人は、時には命を賭けるのか。

簡単である。それが禁断なる愛であるからだ。

禁断なる愛は「魔性の愛」なのである。

「魔性の愛」はその内側にたっぷりと蜜を含んでいて、その香りに誘(いざな)われし者たちが、次々と飽きることなく、そこに魔境を作っては壊していく。

その魔境の継続力の不足によって自壊するのだ。

「禁断の愛」は壊れるのに易く、そこを突き抜けて王宮に辿り着くのは極めて難しい。

それでも懲りない人々のラインがどこまでも続いていて、途絶えることはない。

魔性の蜜の香りの起爆力の激甚さは、そこに集合する様々な因子の劇薬性に因っている。


視覚的に際立った一つの愛に禁断の印をつけて、それを厭悪し、排除しようとする因子こそ、「禁断の愛」を「魔性の愛」に変えてしまうのである。

―― 以上の文脈で把握すれば、本作の男と女には、堅く封印された扉を抉(こ)じ開ける愛があっても、その愛を継続させる腕力において決定的に不足していた言わざるを得ないのだ。

何より彼らには、時代や社会環境の制約下もあって、「禁断の愛」の継続を妨害しようとする者たちとの果敢な闘争の持続力が欠如していたが故に、防御するエネルギーを固めて、そこに新しい価値を創造していくエネルギーの不足によって自壊してしまったのである。

「この映画の中で私が演じた役がまずマギーに近づいた動機とは何かと考 えると、マギーの旦那さんが私の妻を奪った事への復讐という動機を持 っていたと思います。しだいにストーリーが展開して行くに連れて、だ んだん彼女を好きになりました。そうすると自分自身がもっている動機 を考えると、自分のしたことは彼女に対して本当に申しわけないと言う 気持ちになります。するとしだいに彼女に直面することができなくなり、 離れて行くしかないだろうと、そういうふうに認識しています」

以上のコメントは、「男」の役を演じたトニー・レオンが、自らが演じた男のキャラの脆弱さを分析した内実である。

 ウォン・カーウァイ監督ウィキ
まさに、この脆弱さの故に二人の愛が破綻したということだ。

詰まる所、二人には、「禁断の愛」を継続させる腕力など初めから全く持ち得ていなかったのだ。

従って彼らには、「魔性の愛」の蜜を程々に翫味(がんみ)してから、切りの良いところで「魔境の前線」から退却すべきだったのだろう。

シンガポールに逃げた男の行動が、二人にとって最良の退却という選択肢だったかどうかについては、一概に断言できないが、しかし男がカンボジア行きを必要とせざるを得なかったことを考えれば、前述したように、どうやら彼らは、「寸止めの美学」を貫徹できなかったということになると言っていい。

要するに彼らは、「魔性の愛」に関わる一切の「美学」とは、殆ど無縁であったと把握すべきなのだ。

(2010年3月)

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