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2008年11月30日日曜日

25時('02)      スパイク・リー


<大いなる悔悟の向こうで――― 選択できなかったもう一つの人生>



序  煩悶し、突破できない状況の重量感を背負う魂の呻吟



2000年5月、交通事故で頚椎を損傷し、脊髄損傷患者となってちょうど6年。爾来、脊髄損傷による身体の麻痺と激しい痺れ、そして、中枢性疼痛という間断なく続く痛みの記憶を日々に刻む生活の中で、私は、この世界に入れば幾分疼痛を緩和できると信じる技術を身に付けて、「非日常なる日常」に馴致するための日常化を一定程度図ってきた。そしてその方略は、少しばかりの達成を得たと言える。

そんな私の脆弱な自我を優しく侵入させてくれた世界は、二つある。

一つは、私の唯一の娯楽であるテレビで、映画やメジャーリーグの観戦を愉しむこと。

もう一つは、詩作したり、このような文章を書き続けたりすることである。とりわけ、心に深く残った映画を繰り返し観て、それについて考え、考えたものを表現するという作業は、私にとって何よりの至福の時間である。

事故以来、私は限りない程の映画を観てきたが、思えば、本当に心の底に染み入るような作品と出会ったのは僅かしかなかった。

その中で、最も私の心に灼きつくような作品は、三作しかない。

それらは、「息子のまなざし」、「殺人の追憶」、そして「25時」である。

いずれも切迫した状況の中で、人の心が追い詰められ、そこで煩悶し、突破できない状況の重量感を背負う魂の呻吟を描いた作品だった。

「息子のまなざし」という映画を観たことから、私のこの作業が開かれた事実については、その評論の中で言及したが、少なくとも私にとって、この三作との出会いは決定的なものだった。

それぞれの作品を観終わったときの衝撃はあまりに大きく、その身震いするほどの感動を表現する適当な言葉が見つからないまでに、この三作が私に残したインパクトは計り知れなかったと言えるだろう。

今でも、このような作品と出会う僥倖を手に入れるためにのみ、私はその何十倍もの映画作品と付き合っていくことを覚悟した次第なのである。


スパイク・リー監督(ウイキ)
「25時」―― スパイク・リーの最高傑作と思われるようなこの作品は、そこに様々な問題提起を孕ませながらも、近代文明の最高到達点である「アメリカ」というモンスターが内包する、陰鬱な現在性を随所に垣間見せていて、それが一人の男の絶望的な一日を追った物語のうちに、多分に社会性を含んだ映像的な深みをもたらした。

従って本作は、グラウンド・ゼロと、ラストシーンの「辿り着けなかった、大いなる家族の幻想」の描写によって、時代と繋がる一級の人間ドラマになったのである。



1  「人生をフイにしやがって。大バカ野郎!」



―― 本作のストーリーを、詳細に追っていく。


様々な廃棄物が捨てられているような汚濁した路傍の一角に、その犬は死にかかっていた。

友人のコースチャと車を飛ばすモンティの視界に、その犬が捉えられたとき、なお本来的な攻撃性を振り絞って見せるかのような、白の斑(まだら)の入った黒犬に近づき、彼はその命を救うことを決めた。

死にかかってもなお、断末魔の如き抵抗を捨てない犬に運命の糸を感じたのか、モンティはその犬を決死の覚悟で捕縛したのである。

「苦しみながら、野垂れ死にするよりましだ」

やがてモンティは、その犬にドイルという名を付け、愛犬として育て上げていく。

その犬はマスチフ種のアメリカン・ピットブル・テリア。

元々、イギリスで闘犬として完成された曰く付きの犬である。

従って、体中にタバコの火を付けられていたこの闘犬ドイルは、恐らく、闘犬としての役割を果たせなくなったが故に、飼い主から捨てられた運命に遭っていた。

「悪くなるものは、悪くなっていく」

アイロニカルな経験則が多いことで知られる、「マーフィーの法則」の有名なフレーズのうろ覚えの知識を例に挙げ、「お前は疫病神。悪運を呼ぶ」と言葉を添えながら、コースチャは闘犬を飼うことに反対した。

しかし、モンティは仕事仲間の忠告を振り切って、瀕死の状態にあったドイルの運命を引き受けたのである。

映画のこの導入部は、作品に描かれた主人公モンティの苛酷な物語の心理的なラインに繋がっていて、非常に鮮烈な描写だった。

―― タイトル・クレジットが映し出されていく背景に、ニューヨークの無機質な超高層のビルがブルーの光に照射され、不夜城と化した摩天楼の異様な風景を不必要なまでに輝かせていた。

ニューヨーク
それはまるで、一つの巨大な生き物のように洋上に浮き上がっているようであった。


ドイツ移民の政治家の名前に由来するるカール・シュルツ公園(イースト・リバー沿いにある、マンハッタンの公園)の一角で、愛犬ドイルを伴って、モンティは長い一日の始まりを重苦しくスタートさせていた。

自分にヘロインを求めて来る男を拒んで、彼は「俺はもうゲームオーバーだ」と突き放すだけ。

彼に今、ドラッグへの関心を切り裂く意識に捉われているようだった。

彼はその足で、母校の高校を訪ねた。

そこには、旧友のジェイコブが教諭として教鞭を執っていた。

モンティはジェイコブを授業中に訪ねたのである。

モンティの用件は、自分の送別会に皆集まるので、フランクを伴っていつもの店に来て欲しいということ。

ジェイコブがモンティの話を承諾したとき、授業の終了を告げるベルが鳴った。

ジェイコブが生徒たちの中に戻ったとき、既に生徒たちは教師を無視して、教室を一斉に後にしたのである。

これが、アメリカのハイスクールの日常的風景なのだろうか。

嘆息するジェイコブのもとに一人の女子生徒が戻って来て、ハニー・トラップの振舞いをチラつかせながら、自分の成績評価を上げてくれるように求めてきたのである。

それに取り合わないジェイコブは、株式ブローカーのフランクに電話して、モンティの件を確認した。

散歩から戻ったモンティを待っていたのは、恋人のナチュレルだった。

恋人と会っても、モンティの表情は浮かなかった。彼には今、恋人を受容できない事情があったのだ。彼はソファで、あの夜のことを回想していた。

―― あの夜、モンティは突然の来訪者に怯えていた。

麻薬取締り局の捜査官たちの、抜き打ちの夜襲が出来したのである。

ソファの中に隠されていた麻薬を取り出した捜査官によって、モンティはその場で逮捕されたのだ。

その後、保釈されたモンティに下された判決は、懲役7年の実刑だった。

この日、モンティは「最後の一日」を迎えていた。

明日、刑務所に収監されるのである。

ニューヨークには、「ロックフェラー法」という麻薬取締法があって、初犯でも収監される厳しいペナルティが科せられるのだ。彼の朝からの暗鬱な表情の理由は、全てそこにあった。

彼にはもう、24時間という時間しかない。

この時間をどう過ごすか。どう生きていくか。どのようにして、娑婆とのケジメを付けていくか。

モンティとドイル
それが定まらないまま、彼の心は揺れている。怯えている。

彼を怯えさせている最大の理由は、刑務所生活で予想される暴力である。

ハンサムな白人に対する性的暴力の現実を免れないと観念しているモンティだが、しかし収監を拒めば、逃亡か自殺しかない。

いずれを選択しても、彼にとって絶望的な状況であることに変わりはないのだ。

この状況の中で翻弄されるモンティの長く重い一日が、少しずつ削られていく。

削られていく時間への焦燥感に加えて、彼にはどうしても決着をつけねばならない一件があった。

それは、誰が自分を裏切ったか、誰が自分を麻薬取締官に売ったかというシビアな問題である。

それが未だ特定できないのだ。

特定できない中で、彼は内心、恋人のナチュレルを疑っているのである。

「今夜は最高の夜になる。生涯最高の夜」とモンティ。
「一日中待ってたのよ。一緒に過ごしたいの」とナチュレル。
「分ってる」
「話をしてよ。私と話をして。二人の最後の夜よ」
「いや、君には最後じゃない。俺の最後の夜。君にはこの先、色んな夜がある。女友だちとクラブやバーへ行けるんだ」
「あなたと私には、最後の夜なのよ」
「君には限りない夜がある」
「なぜ避けるの?」
「今は話をしたくないんだ。静かにして欲しい。何も言わずに」
「話もしないし、私の眼も見ないのね」
「例のバーで会おう」
「どこへ行くの?」
「親父に会うんだ・・・」

モンティとナチュレル
恋人の前でどうしても心を開けないモンティは、恋人を自宅に残して家を出て行った。

玄関を出たところで、仕事仲間のコースチャが彼を待っていた。

「何しに来た?」
「なぜイラつく?」
「考えてみろ、お前はバカか」
「アンクル・ニコライが、“今夜必ずクラブに来い”と」
「別の奴にも言われた。一体、どういうことだ?彼の狙いは?」
「さあな」
「伝言なら、電話で言えよ」

モンティの追い詰められた心情に想像力が及ばないコースチャに、モンティは却って苛立つだけだった。

用件を繰り返すだけのコースチャに、モンティは声を荒げて反応した。

「分った。行くよ。友達とナチュレルも一緒に」
「モンティ、待ってくれ。なぜ彼女も一緒に?」とコースチャ。
「悪いか?」
「前にその話をしたら、怒っただろう?」
「蒸し返すのは止めてくれ。彼女じゃない」
「分らねえぞ」
「理由は?」 
「不法入国かも。メキシコ人だし・・・」
「彼女はプエルトリコ人。お前と違って米国民だ」
「口を割ったかも」
「タレ込んだのは彼女じゃない」
「聞いたのか?」
「いや、聞いてない」
「いいか、収監される前に、確かめろ」
「クラブで会おう」

モンティの中で一番気にしてる点を突かれて、彼は逆に恋人を庇った。

彼の中では、恋人を信じたいという気持ちだけで、この暗黒の一日を抜けようとしているようにも思える。

モンティはその足で、レストランを経営している父のもとに行った。

モンティの父
父には、息子の未来が気になってならないようである。

「出所しても、まだ若い。中では面倒を起こしたりするな」と父。
「心配いらないよ」と息子。
「こんなことになるなんて。医者か弁護士になれたのに」
「止せよ。サルが父さんから金を搾り取ってた頃は、俺に法律を学べなんて言わなかった。俺の金を受け取ってた」
「私が間違ってた。多くの過ちを犯した。母さんが死に・・・」
「頼む、止めてくれ」と息子。

父の話を遮ろうとするが、過去に悔いを残す父には、長く会えなくなる息子に言いたいことがあるようだった。

「11歳の男の子と、酔っ払いの父親。全て私が悪い」
「止せったら。父さんのせいじゃない」

父の話を遮って、息子はトイレの大鏡の前でで自らを責めていた。

「俺も、お前も、この街も、街の奴らもクソったれ!」

彼の自らへの攻撃性は、やがてこの国に住む全ての人種や職種の者たちに向けられて、どんどんヒートアップしていく。

プエルトリコ人、ロシア人、イタリア人、ドミニカ人、韓国人、ユダヤ人、そして偽善的なクリスチャン、ニューヨークに巣食うギャングたち、ブッシュやチェイニー、ビン・ラディンやイスラム原理主義者たち等々。

更に彼の攻撃性は、自分の本音を曝け出すところにまで辿り着く。

モンティの親友であるジェイコブやフランク、そして遂に、恋人のナチュレルに対する怒りが噴き上げていくのだ。

「信じてたのに、俺をタレ込んだ。お前のせいでムショへ。クソアマ!」

次にモンティの怒りは、すぐ間近にいる父に向けられた。

「嘆いてばかりいる親父。カウンターの後ろでソーダを飲み、消防士に酒を出し、ヤンキースを応援する」

モンティの怒りに終わりはなかった。

彼はニューヨークの全ての地域や建物を呪い尽くすのだ。

「地震で崩れろ。炎に飲まれろ。焼け落ち、灰になり、洪水が押し寄せ、ネズミに汚染された街を沈めてしまえ・・・」

ツィンタワーの崩壊(アメリカ同時多発テロ事件)
モンティが呪い尽くすこの街は、既に、2001年9月11日に決定的な崩壊を経験している。

ツィンタワーの崩壊は、この街に住む多くの人々の心の微妙な亀裂や破綻に繋がっていると言えなくもない。

モンティもまた、それを検証するような自我の破綻の危機に陥っているのだろうか。

ニューヨークのケチなドラッグブローカーの、その一人の人生の崩壊の危機に過ぎないが、文明を極めたようなこの街に麻薬を蔓延させた男たちの犯罪は、今や、ビン・ラディンの一派(アルカイダ)から悪の巣窟として狙われ、破壊される対象となったメガロポリスに張り付く、まさしく、「社会毒」の代名詞に他ならないと把握することも可能である。

モンティは最後に、その攻撃性の対象を自らに向ける以外になかったのである。

「いや、クソったれなのはお前だ。人生をフイにしやがって。大バカ野郎!」

トイレから出て来たモンティは、父と暫く会話して、父の店を後にした。今や、彼に残された時間は僅かだった。



2  「選択肢は三つだけ。1.逃げること。2.頭を打ち抜くこと。3.刑期を務めること」



NYマークのヤンキース帽を被ったジェイコブは、フランクの家を訪ねた。

そのフランクの部屋で、ジェイコブは窓越しから俯瞰する異様な風景に絶句した。

夜の闇に、そこだけがブルーに輝くその風景は、あまりに凄惨だった。

「凄いな・・・」

その風景こそ、9・11によって、摩天楼の林立する風景の中に、ぽっかりと広大な空間を作り上げてしまった「グラウンド・ゼロ」だった。

そこは今も、多くの日本人(24人とも言われる)を含む無数の死体を呑み込んでいる。

ワールドトレードセンターの跡地(ウィキ)
夜の闇に照らし出された特異な場所が放つ風景は、不気味ですらあった。

「越すのか?」とジェイコブ。
「バカ言え。大金を払ったんだ。越すわけない。もう一機突っ込んでも、引っ越さない」
「彼に何て言う?」とジェイコブ。

彼は話題を変えた。しかしその眼は、「グラウンド・ゼロ」の無機的な風景から離れられないでいる。

「別に何も。7年間の地獄、幸運を祈るとでも?しこたま酔わせて、楽しい夜にしてやる。それだけだ」
「心の準備はいいか?なぜ、呼んだんだろう?」
「急に何だよ」
「最近は会ってなかった。俺たちは昔の友人だ」
「今の友人たちは大した奴らだよ」
「俺は・・・信じられないよ。密告され、刑務所へ」
「バカなこと言うな」
「つまり?」
「お目出度い言い方だよ。モンティはヤクのディーラーだぞ・・・・彼は捕まり、刑務所に入るんだ。彼は親友だし、大好きだけど、しかしこうなったのは自業自得だ。当然の結果なんだ」
「ドイルはどうなる?」
「知る訳ないだろう。ナチュレルにでも預けるさ」
「ドイルも一緒に行けたら・・・寂しくないだろうに」
「犬を連れてムショには入れないんだよ」
「だから、それができればいいのに・・・」
「まあな」
「彼はタフだ。きっと大丈夫さ。俺は一日ともたないが、モンティなら平気だよ」
「そう思うか?分ってないな」
「何をだ?」
「あいつみたいな二枚目は、ムショでやられちまう。選択肢は三つだけ。1.逃げること。2.頭を打ち抜くこと。3.刑期を務めること」
「出て来たときに、迎えてやるよ」
「まあな。だが言っておく。今夜が過ぎれば、あいつとは終り」
「どういう意味だ?」
「収監されたら、もう二度と会えない」
「会えるさ。面会できるし、出所を出迎える」
「お前って奴は、まるで分ってない」
「俺が?」
「そうとも。出所しても友だちとしてビールを飲み、昔話に花を咲かせられるか?今夜で全て終りなんだよ」

ジェイコブ
これが、旧友モンティについての、ジェイコブとフランクの会話の全てだった。

今でも、アウトローとなったモンティを親友と考えるジェイコブと、そのように決して考えないフランクとの違いは明瞭だった。

これは、「距離」を意識しない者と、意識する者との違いでもあった。株式ブローカーという、資本主義を象徴する現代ビジネスの最前線で生きる男と、裏の世界でしか生きられない男の距離は決定的だったのである。

ジェイコブは再び、「グラウンド・ゼロ」の荒涼とした世界に視線を落とした。

そこでは、クレーン車が静かに旋回し、何かそこだけは夜の闇に入り込めない空間を作り出しているかのように、作業員たちが黙々と瓦礫の撤去作業に従事していた。

「負の世界遺産」として著名な、アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所や原爆ドーム、更に、近年のバーミヤン遺跡などと並び得る何某かの痕跡を残すことすらなく崩壊し去ったため、いつの日か、そこは祈念塔が添えられただけの、単なる一つの歴史的被災の跡地として済まされてしまうのだろうか。(注1)


(注1)9・11の犠牲となった世界貿易センタービル跡地には、本作が製作された2002年に、「フリーダム・タワー」を含む超高層ビルと慰霊場の建設が決まり、起工式を経て工事を着工したが、地下工事中にテロ犠牲者の遺骨が多く見つかり、完成の予定は2012年となった。


ジェイコブとフランクの、二度目の会話。

彼らはモンティの送別会に行く前に、待ち合わせの店で食事を取っていた。

この会話の中身は、些か毒気に満ちたものだった。

ジェイコブがユダヤ系の資産家の息子でありながら、金銭には貪欲でなく、それがフランクには表面的なリベラリストの衒(てら)いのようにも見える。

フランクは、ニューヨークの独身男性のレーティング(評価・格付け)を自分なりに算定して、ジェイコブの評価を低く見積もり、ビジネスの最前線で生きて、高年収を得ている自分の評価を最も高い数値に算定したのである。

それは、この独断的な評価に異を唱えるジェイコブの発想とは、明瞭な一線を画していることを検証するものだった。

フランク
最後にフランクは、モンティの評価をゼロにした。

高校時代の親友たちの、それぞれの未来の人生の軌跡の乖離を際立たせる、何とも寒々とした言葉がそこに捨てられていた。

二人がモンティを待つ店に、ナチュレルがやって来た。

上機嫌のフランクのリードで、三人が下品で他愛のない会話を続けている空気の中に、少し遅れてモンティが合流した。

四人は直ちに、車で乗りつけてクラブに行った。

そこは、麻薬の密売を取り仕切るニコライが経営する店である。モンティはニコライに呼ばれていたのだ。

人々の自我を裸にすることが許容されるかのような場所で、彼は旧友たちとの最後の夜を迎えようとしていた。

ニコライのクラブは、不健全な空気が漂っていた。

街路では、ジェイコブの教え子の女子生徒が屯(たむろ)していて、モンティは彼女をクラブの中に誘い込んだ。

「ヤバイよ。生徒だぞ」
「なぜだよ。キュートな子なのに。喋りすぎるけど、可愛いよ」
「俺はクビになる。分ってるのか?彼女が友だちに話し、友だちが皆に話し・・・」
「だから?クラブで偶然、彼女に会っただけじゃないか。悪いことは、まだ何も」
「まだ?」
「彼女、お前とヤル気だよ」
「彼女は17なんだ。俺の生徒だぞ。彼女に触ってもいけないんだ」
「半年もすれば、俺と出会ったときのナチュレルの年だぞ。少しの辛抱だ・・・冗談さ」
「笑えない・・・」
「悪かった。こんなことでからかったりして。済まない。真面目なお前を。尊敬してるんだ。本当だぞ」

飲み慣れない酒を飲んでいる親友に、モンティは愛犬ドイルの世話を頼んだ。

「あいつを助けたのは、俺の人生で最も素晴らしいことだ。だから、あいつの日々に責任がある。面倒見てやってくれ」
「光栄だよ」

ジェイコブは、モンティの頼みを断れない。モンティもそれを知っている。

最も大切な愛犬をジェイコブに頼むとき、彼の中で、殆ど唯一の親友との深い絆を改めて確認する儀式ともなった。

モンティは、今度はフランクに話を持ちかけた。

モンティにとって、最も憂慮する拘禁生活に関わる現実的な問題をフランクに頼みたかったのである。

フランクとモンティ
「ナチュレルのこと、前に言ったよな。寝た後でも、夢に見た初めての女だ」
「彼女なら当然さ・・・どうした?」
「捕まる半年前、俺はお前に金を預けようと思った。株にでも投資して、金が金を生むのを眺め、二人で大儲けしようとな。もっとヤクをさばき、金を作ろうとした。俺は欲を出し、しくじった」
「もう、くよくよ考えるな」
「俺にできるのは、考えることだけ。耐えられない。俺より強い奴らが大勢いる。ヤクを売るとき、俺にはコースチャがついてるが、ムショでは無力の白人坊やだ。俺はもてあそばれ、始末される」
「そんなことない。お前は奴らより頭がいい。周りを観察し、余計なことは言うな。牛耳っている奴らの名前を覚え、仕組みを把握しろ」
「ムショは人で溢れ、体育館に簡易ベッドがある。200人もいるところに放り出されるんだ。最初の夜、電気が消され、看守は出口で俺を見て笑う・・・扉が閉まり、大男が俺を床に押さえつける。抵抗しても相手が多すぎ、鉄パイプで顔を殴られる・・・7年間行儀良くして、数ヶ月早く出られても、何になる?まともな職には就けない。ヤクの商売にも戻れない。捕まれば、15年から終身刑だ。出所するとき、俺は38歳。義歯だらけの前科者だ」
「38はまだ若い。一緒に事業を始めよう。バーがいい。俺たちアイルランド野郎が二人で。ピッタリの商売だ・・・」
「気持ちは嬉しい。でも7年後、お前は自分の仕事をしている」
「3歳のときから友だちだ。お前との約束を一度でも俺が破ったか?口約束だったことがあるか?俺は出所を待っている。分ったか?必ず待ってる」
「信じるよ。でも、明日はいてくれない。問題は明日なんだ・・・お前に頼みがある。俺の身を守るために力を貸して欲しい」
「いいとも」

モンティは会話の最後に、フランクへの依頼を口にした。

その内容を聞かずに、フランクは安請け合いをしたのである。


フランクとの話が終り、モンティはニコライのもとに出向いて行った。

その間、ジェイコブは酔った勢いで、トイレに行った教え子を追った挙句、感情を露わにして、セクシーなポーズで誘うような仕草の彼女にキスしてしまったのだ。

しかしそれだけだった。

自分の立場を捨てられない小心なる高校教師は、もうそれだけで自分を失ってしまっていた。彼は自分の席に急いで戻ったのである。

また、ナチュレルがフランクのもとに近寄って、彼のことを必死に頼んでいる。

「モンティの傍にいて。眼を離さないで」
「何でだ?」
「今夜の彼、様子が変だから」
「数時間後、刑務所に入るんだぞ」
「でも、怯えてない」
「あいつは怯えてるよ。物凄く」
「バカな真似、させたくない。彼を見張って。彼は私が嫌なのよ」
「なぜ、そう思うんだ?」
「最近、冷たい眼で見る。私を信じてない」
「そうなる理由があるのか?」

それに答えず、ナチュレルは、今日という特別な一日を閉じようとした。

「家に戻るわ。彼のこと頼むわね」
「ああ、分った」

フランクの反応の弱さが気になって、ナチュレルはその場を振り切るように離れたフランクに近寄った。

「大丈夫?」
「あいつは、バカだ。人生を台無しに・・・俺は親友だ。でも止めさせるために何もしなかった。ガキに葉っぱを売り始めても何も言わなかった。彼の商売が学校で噂になって、いつか捕まると分っていた。でも黙ってた。この10年、彼が深みに嵌り、クソどもが彼の取り巻きになるのを見て、“気をつけろ”と俺は言ったか?一言も・・・彼が破滅するのを、ただ見ていた。君もだ。俺たち皆」
「彼は頑固よ。“足を洗って”と100回も言ったのに・・・」
「彼のアパートに越してくる前か?」
「お願い。今夜は止めて・・・お酒、飲ませて」

フランクの攻撃性が自分自身ばかりか、ナチュレルにも及んだことで、彼女はフランクから離れてアルコールに助けを求めた。

ナチュレルとフランク
しかし、フランクの攻撃は執拗だった。

「プラチナのネックレスは?ダイヤのイヤリングは?銀のドレスは?大勢を中毒にして得た金で買ったんだ。ファーストクラスでプエルトリコへ。その金はどこから?彼と会うまでは行ったこともないのに。“足を洗え”と言っただと?君は全て知ってた。まともに働いたことなく、贅沢な暮らしに溺れ、何も言わなかったんだ」
「何様のつもり?あなたは彼を見捨てたのよ。親友のくせに黙ってた。悪いのは私?」
「俺は彼に金をもらってない」
「ずっと、そう思ってたの?あなたは友だちだと信じてた。酔ってるの?酔ってるって言って」
「何を言ってるか、はっきり分ってる。7年後、君は金目当ての結婚をしている」
「何なの?私を悪者にしたいの?いいわ、悪いのは私。ご満足?何て人・・・」
「でも君は、隠し場所を知ってた。ヤクの隠し場所を」
「何ですって?一体、何を言ってるの?」
「分ってるはずだ。彼が君と出会った日、俺は警告したのに。“ナチュレル・リヴェラは金目当てのアバズレだ”と」

この瞬間、ナチュレルの右手がフランクの頬を強く打っていた。

彼女は、その場から直ちに立ち去ったのである。それは、彼女にとって最も触れて欲しくない指摘だったのであろうか。

一方モンティは、ニコライの事務所をコースチャと共に訪ねた。

明日からのモンティの収監を前に、ニコライは自分の経験談を話していく。

「初めてムショに入ったとき、俺は14だった。やせたガキだったから、怖かった。出所したときは、ヒゲの生えた大人だった。故郷に帰り、お袋を探した。キスしたら、悲鳴を上げた。俺が分らなかったんだ。俺は3つの国で、3つのムショに入った。俺が学んだのは、ムショは最悪の場所だってこと。7年は長い。逃れるためなら、何でもする連中もいる・・・・お前の親父が大好きだ。実に働き者だ。だが運が悪い。お前のお袋は皆に愛されていた。親父の力になりたい。働き者は役に立つからな。信用できる人間だ。親父の面倒をみよう。分るな?」

ニコライの話題が自分の父親に及んだとき、モンティはニコライの意図がはっきりと読めた。

彼は、それがニコライに呼び出された理由であると考えたであろう。

自分の父親を人質にされた状況下でなくても、モンティにはニコライを裏切る意志などなかった。

「脅しは必要ない。俺は口を割ってない。親父を巻き込むな」
「俺は質問した」とニコライ。
「よく分ってる」とモンティ。
「親父にいい仕事がある。借金の力にもなれる」
「必要ない」

ニコライの表情がより険しくなって、手持ちの銃をモンティに向けた。

「俺は何も。誓って口は割ってない、ニコライ。麻薬取締局の狙いはあんただ。だから俺は、何も言わなかった」
「お前を信じよう」とニコライ。

銃を下げた後、彼はモンティに忠告する。

「ムショでは力関係を見極めろ。誰にも守られていない奴を見つけて、徹底的に痛めつけろ。お前の狂気を皆に認めさせろ。一目置かせるんだ。二枚目の奴は辛い目に遭う。だが、忘れるな。俺は14でムショに入った。“生き残る”と手に彫った。収監される前の晩にな。俺は生き残った。生き残るためには、すべきことをしろ」

このように言い切った後、ニコライの部下は、モンティの傍らにいたコースチャに殴りかかった。

「コースチャがタレ込んで、お前から7年を奪った」とニコライ。

事件の真実を、ニコライはモンティに初めて語ったのだ。呆然とするモンティに、ニコライの部下は絶叫した。

「当局に脅され、刑を逃れるため、お前を売った!」

ニコライは銃をモンティに渡して、コースチャの裏切りに対する復讐を求めたのだ。

「お前だけでなく、俺も裏切り、7年を奪った男だ!片付けろ!」

興奮するモンティは銃を受け取って、それをコースチャの顔面に突き付けた。

「何も言うな!俺がナチュレルを疑うよう仕組んだな。なぜだ!なぜなんだ!なぜ、彼女と思わせた!なぜだ!言え!」
「仕方なかった!方法がなかった」とコースチャ。

今、この男が最も追い詰められている。

「どうしてだ!」とモンティ。

彼は理由が知りたかっただけだ。

「他に方法がなかった・・・」とコースチャ。

この男はただ、自分の身の保全を図ったに過ぎなかったのである。

それを確認したモンティは銃をニコライに渡して、言い切った。

「あんたの手下を信用し、7年喰らった。後始末しろ。こいつを好きにしろ。俺はもう関係ない。親父もだ」
「愚かな奴だ」とニコライ。

ロシアのボスには、無法者の掟を厳しく守れないばかりか、裏の世界から足を洗おうとしているモンティの決断が愚かにしか見えないのだ。

「行っていいか?」
「それでいいんだな。はじかれ者はきついぞ」

モンティは、自分に助けを乞うコースチャに対して、「見損なった」と一言放って、事務所を後にした。

事務所の扉が閉められて、その奥では、リンチの標的にされているコースチャの叫びが置き去りにされた。



3  「もっと痛めつけろ。徹底的に」



左からフランク、モンティ、ジェイコブ
モンティは、フランク、ジェイコブを伴ってクラブから帰宅して来た。

部屋では、ナチュレルがソファで横たわっている。

モンティは彼女に寄り添って、何かが吹っ切れたかのように、優しい言葉をかけた。

それは、許しを乞う贖罪の思いに充ちていた。

「辛い思いをさせて、済まない。俺はどうかしてた。君を疑ったりして・・・」
「いいのよ」
「悪かった。俺を憎まないで」
「憎むわけないわ。愛してる。傍にいて」
「行くところがある。戻って来る」 

モンティは自分の部屋にナチュレルを残して、フランク、ジェイコブ、そしてドイルを伴って、ニューヨークの澄んだような朝の街路を散策し、まもなくカール・シュルツ公園にやって来た。

ここで映像は、ファーストシーンの場所に戻ったのである。

しかし、ファーストシーンでヤクの密売を拒んだモンティだが、ここでは、親友たちに夜のクラブでの約束の履行を確認することになった。

「ドイルを頼んだぞ。お前の犬だ」

まず、ジェイコブとの約束。モンティは彼に、その場でドイルを引き渡した。

そして次に、フランクとの約束。

その内容は、クラブでは語られなかった。

左からフランク、ジェイコブ、モンティ
その封印された言葉を今、モンティはフランクに向かって吐いたのだ。

「俺を醜くしてくれ。この顔じゃムショに行けない。最初の日、奴らに眼を付けられたら終りだ。“何でもする”と言ったろう?やってくれ」
「何のことだよ。眼にアザを作るのか?」

あまりの唐突なモンティの要求に、フランクはその意味が理解できなかった。それを理解させるために、モンティは親友を挑発した。 

「もっと痛めつけろ。徹底的に」
「できない」
「殴りたいはずだ。こうなったのは“自業自得だ”と。俺を殴るチャンスだ。さっさとやれよ」
「醜くして欲しいだと?どういうつもりだ?ふざけるな」
「怯えなくてもいい。俺は殴り返さないから」
「どうかしてる。俺に何をさせる気だ!」
「力になると言ったのは嘘なのか?友だち面しやがって!お前にとって好都合だろ?」
「何だって?」
「俺がいなくなれば、ナチュレルに手を出せる」
「俺がそんなことするわけない!」
「彼女の胸や尻を見てた。ずっと、やりたかったんだろ」
「いい加減にしろ!」

ここまできて、それまで言葉で制止してきただけのジェイコブが、不安を昂ぶらせた思いを乗せて身を乗り出していく。

そのジェイコブにモンティは殴りかかったのだ。

これも挑発だった。そしてこの挑発に、フランクは誘導されてしまったのである。

モンティの体を後ろから抑えて地面に押し倒したフランクに、なおモンティの挑発は続いた。

「やれ!やるんだ!殴れ!やれ!腰抜け野郎め!」

それまで懸命に抑え込んでいた感情が切れたように、フランクの拳がモンティの顔面を炸裂した。繰り返し続くフランクの拳の強打に、モンティの顔面から血飛沫が噴き上がった。

カール・シュルツ公園
朝の清澄な公園を裂く非日常な空気の中で、今や闘犬の名残りを見せないドイルの叫びが哀しく響いていた。

「フランク、止めろ!殺す気か!」

ジェイコブも絶叫した。

それでも止まない狂気の氾濫に、ジェイコブは体を張って鎮めようとした。

「許してくれ!」

フランクは号泣しながら叫んだ。

「もう充分だ。止せ」

ジェイコブはフランクを引き離して、モンティを必死に抱き上げた。

モンティはやがて立ち上がり、フランクに無言の別れを告げ、一人傷ついたその体を、匍匐(ほふく)するように、一歩一歩蛇行的な歩行を捨てながら帰路に就いたのである。

自宅の前で待っていたナチュレルは、モンティの異変に驚いた。

彼女はモンティを抱えるようにして、必死に部屋まで運び入れた。

「病院へ連れて行くわ」とナチュレル。

理由を聞いても答えないモンティに、彼女の心配は募るだけ。

「なぜ俺といたんだ。別れるべきだったのに・・・」
「止めて・・・待ってるわ。いつまでも・・・」
「何て俺はバカなんだ。人生を台無しに・・・何もかも全て・・・」

そこにモンティの父がやって来た。父も息子の異変の理由を聞くが、誰も何も答えない。答えられないのだ。

「ここでお別れだ」

息子の言葉に、父は「送らせてくれ」と声をかけた。

「そういうのは苦手だ。ここで別れた方が楽だ」
「楽だと?何も分ってないな。場所を確かめたい。面会に行くときのために。分ったな?頼むよ。分ったな?いいな」

父親の思いを無視できない息子は、二人で刑務所までドライブする旅に出ることになった。しかしこのドライブは、まもなく苛酷なる現実が襲いかかってくる時間への、最も憂鬱なる旅でもあった。

最愛の男との長い別離を余儀なくされるナチュレルにできることは、冷凍庫から氷をビニールに詰めて、モンティに渡すことくらいしかなかった。

最愛の女を失う立場に置かれた男にとっても、7年間にも及ぶ別離の言葉はフラットなものでしかない。

「面会には来るな。俺のことは忘れて、幸せになってくれ」

これが、恋人ナチュレルへの、現実の映像の中での最後の言葉となった。

その言葉に首を振るナチュレル。

二人はこうして魂を繋ぎ合わせたまま、切ない別れの瞬間を迎えたのである。



4  「この人生は、幻かも知れなかったのだ」



モンティは父の車の助手席に座って、その腫れ上がった顔面を動かせないような痛みの中で、その身を父に預けたのである。

「ひどくやられたな。だが、いずれは治る。今はそんなだが、腫れが引けば大丈夫だ。奴らは情け容赦ない。何人いた?」
「さあ、大勢いたよ」
「やり返したか?」
「何発かね」
「一ヶ月もすれば、元通りになるさ」
「父さん、タレ込んだのはナチュレルじゃなかった」
「決まってるとも」

事情を知らない父とナチュレル。事情を話さないモンティ。

そこに、モンティなりの精一杯の覚悟が表現されていた。

モンティを乗せた父の車は、苛酷なる明日に向かって出発したのである。

一方、マンハッタンのアッパーイーストにあるカール・シュルツ公園では、フランクがベンチに座って物思いに沈んでいる。

フランク
彼は自分が為したことの意味を、モンティとの長い親交関係の中で省察しているようにも見える。

またジェイコブは、ドイルを朝の散歩に連れて歩いている。彼には、親友から依頼された役割を誠実に果たすことしか頭にないようだ。

公園で二人はクロスしないが、映像のラストに見せる二人の振舞いの有りようが、この一日で彼らが経験した深い部分を鮮やかに刻んでいた。


モンティの苛酷なる旅立ちは、「選択できなかったもう一つの人生」の幻想を、切々と浮き上がらせていく映像によって表現された。

彼の出発を、ニューヨークに住む様々な人々が微笑をもって送り出していく。

そこには精悍な黒人たちがいて、若いアジア人の夫婦がいて、ネイティブがいて、ヒスパニックがいて、そして一人のあどけない黒人少年がいた。

少年はモンティに手を振り、バスの硝子に“トム”という名を書き込んだ。

それに応えるように、モンティも車の硝子に自分の名を刻んで手を振った。

車はモンティの父の運転で、遥かに続く国道をひた走る。

その間、父は息子に語りかけていく。

収監施設のある場所ではなく、父は「もう一つの道」の可能性を提示していく。

「望めば左折する」
「行き先は?」とモンティ。
「橋を渡って西へ。医者へ行き、また西へ。小さな町を見つけよう。途中、シカゴに立ち寄り、カブス(注2)の試合を観てもいい。お前が望むなら、このまま運転し続ける」
「店を取られる」
「店が何だ。取り上げたければ、くれてやるさ。お前より、店が大事と思うか?“西へ”と言え」
「見つかるよ。いずれ捕まる」
「戻ったところを、警察は狙う。逃げてもまた戻るから、捕まるんだ。だからお前は二度と戻って来るな。二度とな。運転し続ける。どこまでもな。見知らぬ土地を、道が続く限り遠くまで。フィラデルフィアの西・・・とても美しい土地だ。素晴らしい。別世界のようだ。山、丘、牛、農家、白い教会・・・」

―― 以下、息子を思う父の、長い語りが続いていく。

段落で区切りながら、それを記録していこう。

「かつて母さんと西へ。お前が生まれる前、三日間で太平洋側へ行った。ガソリン、サンドウィッチ、コーヒーの金だけ持ってな。

人は皆、死ぬ前に一度は砂漠を見るべきだ。辺りには何もない。砂、岩、サボテン、青い空だけ。人影は皆無だ。サイレンも、車のアラームも、クラクションの音もない。罵ったり、立ち小便する者もいないんだ。砂漠に行けば、静寂と平和が得られて、神を見出せるだろう・・・

我々は西へ向かう。
小さな町に辿り着く。なぜ、彼らはこの地に来たのか。皆、よそから逃れてきたのだ。人生をやり直すためにだ。

モンティと父
我々はバーに入り、酒を注文する。二年ぶりの酒をお前と飲もう。息子と最後のウィスキー。できるだけ長く時間をかけ、香りを味わいながら・・・

決して手紙は出すな。訪ねても来るな。

いつか神の国で、お前や母さんと再び会えるだろう。だが、この世では無理だ・・・・・どこかで仕事を見つけろ。現金で払ってもらえる仕事をな。詮索しないボスがいい。新しい人生を歩め。二度と戻るな。

モンティ、お前は人に好かれる。才能だ。すぐ友だちができる。

真面目に働き、目立たないようにその町に溶け込め。何があろうと、お前はニューヨーカーだ。骨の髄までニューヨーカー。西部で生きようとも、お前はニューヨーカーだ。友だちや犬が恋しくても、お前は負けない。母さんの血筋だ。強く生きていける。その道の人間から、運転免許証を手に入れろ・・・・

昔の人生は忘れろ。二度と戻るな。電話も手紙もダメだ。決して振り返るな。新たな人生を築き、存分に生きろ。約束されていたはずの人生を。もしかして・・・少し危険だが、何年か経てば、ナチュレルに連絡できるだろう・・・

子供を作り、正しく育てろ。

ちゃんとした暮らしをさせてやるんだ。息子にはジェイムズと名づけろ。力強い名だ。
そして、いつか私が天国の母さんの元へ旅立った後、家族全員を集め、真実を話してやれ。お前が何者で、どこから来たのか。全て話してやれ。そして言うのだ。皆でこうしていることが、いかに幸せか。

お前たちは存在しなかったかも知れない。この人生は、幻かも知れなかったのだ」

父の語りは、まもなくモノローグになって、それを息子が聴き入っている。

映像は、この父の語りを鮮烈に表現する描写によって、二人の逃避行の旅を刻んでいくのである。

父子の旅を引っ張っていく車には、いつしか星条旗が掲げられ、彼らの旅の持つ意味を浮かび上がらせていく。モンティは時には砂漠に立ち、そこで地の果てに置き去りにされ、神なるものと出会うのだ。

まもなく、父と息子は小さな町で車を降り、そこでウィスキーを飲み交わす。

やがて、二人は決定的な別離を果たし、息子だけが一人、西部の町で汗水流して働く人生を繋いでいくのである。

ナチュレル
そこで築かれた新しい人生の中から、新しい家族が生まれ、新しい未来が切り拓かれていく。

息子の傍らには、母になったナチュレルがいて、新しく家族になった息子や孫たちがいる。

この人生こそが、息子が本来求めていたはずの人生でなければならなかったのだ。

しかし映像は、その最後のシーンで、腫れ上がった顔面の重みで、シートにその身を預けるモンティの歪んだ表情を無残に映し出して、そのままフェイドアウトしていった。

何もかも幻想だったのだ。

人懐っこい黒人少年の笑顔も、自分を送ってくれた様々な民族の顔を持つ人々の微笑みも、そして父の語りの一切も、全て幻想だったのである。

そこには、「大いなる悔悟」の一日を、あまりに重々しく過ごすことになった男の、「選択できなかったもう一つの人生」のイメージの残骸だけが取り残されていた。男はまもなく収監され、そして「陵辱され、甚振られる白人男性の悲哀」を生きていくことだろう。


(注2)正式な名称は「シカゴ・カブス」。アメリカ・メジャーリーグ、ナ・リーグ中地区に属する人気球団でありながら、1908年以来、約100年間に及んでワールドシリーズ優勝のないチームとして有名。


*      *      *      *



5  「人生最後の日」をどう生きるか



「25時」は含みの多い映画である。

そのことが、観る者に作り手のメッセージを読み辛くさせていることは否めない。

しかし本作から、作り手のテーマ設定や問題意識の所在が特定できにくいということは、この映画の表現的価値を決して貶めるものにはなっていないであろう。

どこからでも侵入可能な本作の着地点辺りには、観る者に深い余情を残す人間ドラマの秀逸性が溢れていて、そこで受けた衝撃は、少なくとも、私には尋常ではなかった。


―― 本作から私が何を感じ、それをどう受け止め、いかに了解するに至ったか。それを書いていく。

本作をじっくり観ていく中で、私が最も感じたテーマ性は二点ある。

その一つ

それは、人がその「人生最後の日」をどう生きるかという問題である。

 しかしこの問題は、あまりに広がりを持ち過ぎているので整理する必要がある。

それは、こういうことだ。

「人生最後の日」と気軽に書いたが、私たちは通常、このような状況下に置かれることはない。一体私たちは、「人生最後の日」を特定できるのか。

それを特定できる者がいるとすれば、死刑囚か、またはそれに近い状況に置かれた者のみである。その他に稀有な例を挙げれば、明日の出撃が決まっている特攻隊か、自爆のテロリストであろう。

しかし、いずれの例に於いても、その死の約束は絶対的でない。

未遂の自爆犯や、離陸にしくじって延期された特攻隊員という例もある。

死刑囚と言っても、その日にならないと執行の感触を得るのは難しいとも聞く。

それでも彼らは、ほぼ約束された死を前にして、「人生最後の日」を迎えることになる。その心境は、到底そのような状況に置かれた者でない限り想像だにできないだろう。

更に、末期ガンを宣告された患者というケースもある。

しかし、この人たちには死の約束はあっても、その約束の履行の日が特定されていないのだ。

だからこの人たちも、「人生最後の日」が内包する未知なるイメージに、何某かの意味を持って臨むのは難しいだろう。

それにも拘らず、以上に列記した人たちは、死の約束という恐怖を前にして、それぞれ自分なりの心の準備をすることが可能である。

彼らは一体、そこでどのような準備をするのだろうか。

少なくとも、末期ガンの患者と死刑囚に限っては身体の自由が保障されていないので、彼らが為し得る心の準備は、身体の自由なる振舞いを前提にしたものにはなり得ない。

彼らは限定された空間で、ひたすら様々な瞑想に耽り、そこで為し得るメッセージの言語化に身を委ねるのだろうか。

一方、自爆テロ犯は確信犯である場合が多いが故に、心の準備は他の者より自覚的に遂行されるはずだ。従って、彼らの「最後の一日」は、彼らの確信的な思いに根ざした、より浄化力を含む時間を通過していくものになるのだろうか。

しかし、幾つかの失敗事例から見ても分るように、自爆テロ犯といえども、そんな甘美なる一日を確信的に抜け切っていくとは言えないようだ。

自我によって生きる人間である限り、そのような迷妄に振られていく心の有りようこそが、真実の姿であるとも言えるだろう。

―― 以上が、「人生最後の日」をリアルに受け止めざるを得ない状況下に置かれた者たちの例証である。

では実際は、「人生最後の日」ではないにも拘らず、その一日を、「人生最後の日」と考える程に追い詰められた者たちのケースをどう考えたらいいのか。

まさに「25時」の主人公の場合がそれに当たる。

彼にとって、収監生活が始まる前日であるその日こそが、「人生最後の日」というイメージに近い絶対的な時間だったのである。

明日から始まるモンティの7年間は、決して彼の生命を奪うものではなかった。

しかし、彼はそこでの生活に酷く怯え、恐怖に慄いている。

彼にとって、そこで約束された生活の内実は、「陵辱され、甚振られる白人男性の悲哀」と言えるものだった。

因みに、アメリカの刑務所の実態に関する色々な情報を、ネットや書物で確かめても、その現状報告の評価には統一性がなく、残念ながら断定的に説明できないというのが現実である。

但し、これだけは言えそうだ。

何から何まで秩序で縛る日本の刑務所に比べると、アメリカの刑務所の実態は、少なくとも囚人たちが、そこで手に入れる権利や自由の裁量の度合いというレベルでは、幾分かは勝っているらしいと言うこと。

そのアメリカと、日本の刑務所の実態の比較についての簡単な報告。

「アメリカの刑務所は、暴力や無秩序状態であると思われており、事実収容者は厳重に監視されてはいるが、それでも日本の囚人達にとっては空想することしかできないような自由を享受している。たとえばもっとも警備の厳しい、カリフォルニア州ペリカン・ベイのMaxi-SHU刑務所においてさえ、囚人達は喫煙でき、定期的に運動をし、読み書きについてもなんの制限もない。府中では、収容者達の犯した犯罪はずっと軽いものであるにもかかわらず、喫煙は禁止され、ほとんどの収容者は1ヶ月に本は6冊、手紙は1通しか許可されない。会話も、夕食後の3時間半の間だけ、静かに行うことしか許されていない」(ネットサイト内・TIME誌1996年10月28日号 「死刑囚の人権」より引用)


「名古屋刑務所では受刑者と刑務官の間でトラブルが多発し、規律を維持するための手段として暴力が用いられることがあった。名古屋刑務所では受刑者の体を締め付ける革手錠の使用回数が他の刑務所に比べて格段に多く、受刑者への暴行で看守長が逮捕される事件も起きた。

名古屋刑務所では非人権的な手段である革手錠の使用を現場に任せており、それが革手錠の多様につながったと考えられる。府中刑務所では定員2600人に対し、現在3000人が収容されている。収容者が多いため、通路で食事を取らなければならない状態である。トラブルを防ぐことよりも収容することで手一杯であり、暴力団関係者の振り分けなどが困難になっている。

受刑者も多くのストレスを感じており、肩がぶつかっただけで喧嘩が起こることもある。また、集団生活から逃れるために、故意に問題を起こして懲罰房へと行きたがる受刑者が多い。懲罰房は風呂や運動を制限されるが、それでも1人になりたいと考えるという」(ネットサイト・立教大学法学部法学科「刑事学 施設内処遇2」2004年6月24日より/筆者段落構成)


少なくとも、以上の報告で見る限り、アメリカの囚人たちの自由の一定の保障が了解されるが、しかし、他の報告を含めた上で言及すれば、国籍や人種の異なる者たちが集合するアメリカの刑務所の実態は、寧ろ、そこで保障された自由の裁量の幅の内に、囚人相互間の暴力が侵入する余地を残すものとなっていると言えなくもないのだ。

明らかに、「25時」のモンティが恐れたのは、そのような自由の空気の中での剥き出しの暴力であった。

彼は白人であり、麻薬ブローカーであり、初犯であり、そして何よりハンサムな31歳の成人男性だった。

まさに彼は、「陵辱され、甚振られる白人男性の悲哀」をストレートに味わざるを得ない立場にあったのである。

従って、収監前日のモンティの心境は、「人生最後の日」という圧倒的な重量感に押し潰されそうになっていたのである。

―― では、「人生最後の日」に、モンティが果たそうとしたことは何だったのか。

彼がこの特別な一日に最も心を配ったのは、二つあった。

その一つは、彼が最も愛するものの保護の継続を保証することである。

彼が最も愛するもの。

それはこの時点では、愛犬ドイル以外ではなかった。そのドイルを預けるのに値する者は、モンティの中では旧友のジェイコブしかいない。

ジェイコブ(右)
彼は小心な高校教師だが、その人柄は誠実この上なかった。

ヤクの売人である自分に対して、常に高校時代の友人のように接触し、軽蔑の感情を抱くことなく見守ってくれている。そんなジェイコブに、モンティが愛犬の世話を頼んだのは必然的だった。

愛犬ドイル。

それはヤクの売人時代に、モンティが路傍で死にかかっているところを助けた曰く付きの闘犬だ。

ピットブルという名で呼ばれるこの闘犬は、恐らく、飼い主に大損をさせたという理由で廃犬化された老犬である。

因みに、アメリカの闘犬についてのエピソードは、「アモーレス・ペロス」(アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督によって作られた、1999年のメキシコ映画)でも描かれていたが、まさに裏社会の人間に、闘犬としての一生を担わされた獰猛な犬たちが賭博の対象となって殺し合いを強いられた挙句、役に立たなくなったら廃用化される運命を負っている。基本的には、サラブレッドと同じなのである。

ドイルもまた、その運命をなぞることになった。

モンティはそんなドイルに過剰なまでの愛情を注いだ。

恐らくドイルの悲劇に、自分の不安な未来の忍び寄る戦慄が走ったのであろう。

彼は、ドイルの中に自分自身を見たのである。

確かにドイルを拾った時点では、モンティはヤクの売人としてフランクと大儲けしようなどと夢想していて、ナチュレルとの関係もタブーの中で濃密な感情関係を形成していた。

しかしそれでも賢明な彼には、未来を見通す眼を持っていたはずだ。

そのイメージは、決して明るいものではなかったに違いない。

元来、彼は家庭環境に恵まれず、奨学金で高校に入り、そこでバスケットボール選手としての記録も残していた。

そこには、一途な青春の爽やかなストーリーがイメージされるが、しかし飲んだくれの父を持ち、母とも死別し、更にその父が、恐らく、ロシア系のアウトローたちと関係を持ち、その繋がりからモンティはその二十代の全てを、ドラッグ・ブローカーとしての不健全な人生を繋いでいったように思われる。

勿論、映像はモンティの前半生を詳細に語ってくれない。

しかし登場人物たちの会話の節々から、予約されたかのようなモンティの転落人生の、その暗い断面を窺うことができるのである。

明らかにモンティの中には、父に対する不満が澎湃(ほうはい)している。

もしかすると、父こそが、自分の人生を駄目にした張本人であると考えていたのかも知れない。

父との話の中で、モンティが過去を振り返ることを拒絶する描写が印象深いのだ。それは飼い主から利用された果てに遺棄される、ドイルの闘犬としての軌跡に、まさに自分の人生を重ねていたと考えるのが自然であろう。

モンティの依頼の二つ目。

それは、自分の顔をボコボコに殴って、醜くしてくれというものだった。

その理由は、明日から始まる収監生活で、彼がその環境に適応するための生存戦略の内にあった。それは、同囚のゴロツキどもから身を守る彼なりの適応戦略とも言える。

全ては、「陵辱され、甚振られる白人男性の悲哀」を極力防ぐための手荒い方法論だった。

そして、モンティはこの苛酷な依頼を親友のフランクに頼んだのである。

モンティにとってその依頼の対象は、恐らくフランク以外に考えられなかった。

なぜなら、彼らは共にグリーンビールの味を知るアイルランド人であり、幼児期からの長い親交関係を結ぶ仲でもあったのだ。

しかしそれ以上に、モンティには、フランクにこの件を依頼する理由があった。

モンティはフランクがナチュレルに横恋慕してることを確信的に疑っている。できれば、ナチュレルを奪いたいとさえフランクは考えている。そうモンティは疑って止まないのだ。

そんなフランクなら、そのことを挑発的に指摘すれば自分を殴ってくれるはずだと考えたのだろう。

そして、このモンティの思惑は、彼のイメージ通りに事が運び、その苛酷な依頼の物理的達成を手に入れたのである。この時点でモンティは、「やはりフランクはナチュレルと関係を持ちたい」と確信したのかも知れない。

いずれにせよ、フランクとモンティの、この寒々とした友情関係の有りように身震いするほどである。

ニコライの店で
彼らはこの十年間で、一つの確かな絆を繋いだた関係を、これほどまでに隔絶させてしまったのである。

一方は、ビジネスの最前線にいて、他方は、子供に麻薬を売り付ける裏社会のダーティな棲家で、人も羨むほどの贅沢三昧な生活を享楽している。

前者は後者を軽蔑し、後者は前者を心のどこかで憎悪している。

それでも、「親友」という名の下に、二人は不健全なクラブの一角で不健全な約束を交わし、その約束が過剰なまでに履行されたのである。

ラスト近くの暴行シーンには戦慄すべきものがあった。

そこで表現されたのは、現代アメリカの表と裏で生きる者たちの、そのギリギリの感情の激発だった。

ジェイコブがあのとき止めなかったら、フランクもまた収監される運命に遭ったのかも知れないのである。

一つの友情の破綻と、その究極の様態を描いたこのシーンは、登場人物たちの孤独な心象世界を抉(えぐ)り出していて圧巻だった。

ともあれ、モンティの以上の二つの依頼は、彼自身の追い詰められた絶望的な心境を、饒舌なまでに露呈するものであったと言える。

彼の「人生最後の日」は、当然ながら、その生命の終焉を告げるものではなく、これまでの悔い多き人生を根底的にシフトさせていく者の、大いなる覚悟のイメージを表現したフレーズであった。

そして、彼の「人生最後の一日」は、「大いなる悔悟の一日」でもあった。

いや寧ろ、悔悟するために、この一日が用意されていたとも言えるのである。

彼にとって最大の悔悟は、ここ10年間にも及ぶアウトロー生活に対する絶望感だった。

彼は映像の中で、繰り返し自己嫌悪し、その誤った人生の軌跡を嘆いていた。

それが本心であることは、ニコライのクラブに呼ばれて、自らが麻薬取締局への密告者であることを疑われた際に、そのことをきっぱりと否定すると共に、完全に裏社会との関係を切る覚悟を示した態度に表れていた。

彼が自分を裏切ったコースチャを殺害することを拒み、その処分を同じロシア系のニコライたちに委ねた点に於いて、既に裏社会との関係の決別が表出されていたのである。

それほどまでに、モンティは自らを恥じ、明日以降開かれるであろう、過酷なる収監生活への覚悟を括っていたのであろう。

当然、ニコライ一派の支援を受けられないので、彼はその撫で肩の白人の身体をそのまま預けるしかないのだ。彼の大いなる悔悟は、大いなる怯懦(きょうだ)のギリギリの噴出でもあった。怯え、慄き、恐れながらも、彼は収監生活に向かっていくのである。

服役を拒んで、逃亡することもできた。

自殺することもできた。

しかし彼は、最後まで収監に向かう意志を変えなかった。

自分を親友に殴らせてまで準備しようとした、彼の収監への覚悟は相当のものだったのである。

彼が収監から解かれたとき、彼の人生が明るい彩(いろど)りを配色する可能性は困難であるかも知れない。

それでも彼は、自らの意志と覚悟で収監に向かったのである。このモンティの心情の奥にあるラインに触れるとき、観る者は切ないまでに、ある種の共感感情を覚えるのであろうか。

モンティの悔悟には、もう一つあった。

それは、恋人ナチュレルを疑い、彼女に対する愛情と信頼感の喪失を悔いたことである。

それは、最後の一日の、ほんの終わりの一時間ほどの時間の中で精算されたが、しかし彼にとっては、恋人を疑った自分の心の弱さを嘆く文脈に繋がっていかざるを得なかったのである。

モンティとナチュレル
思えば、モンティにとって最愛なる者は、ナチュレル以外ではなかったはずである。

しかし逮捕の一件によって、モンティはナチュレルを疑うことになった。

それを直接、本人にぶつけることなく、保釈期間中も自分の心の中で押し込めていたのである。

しかし、「人生最後の日」を迎えて、モンティは自分の中で最も気になっているこの一件を封印し、抑圧し続けるのが極めて辛くなってきた。

だから、できる限り彼女と顔を合わせないように努めたが、それでも接触して来る彼女に対して冷たい反応しか返せなくなっていたのである。

クラブに呼んでも、自らナチュレルに近づくことをしなかったのだ。

当のナチュレルは、このクラブでフランクに一方的に責められて、結局、先に家路に就いてしまったのである。

モンティが事件の真相を知ったのは、彼女が帰った後だった。

そのとき、モンティの中で深い悔悟の念が生まれたのである。

それは彼の悔悟に、また一つ新しく、しかも極めて甚大な悔悟を加えることになった。

彼は最後の夜の、その最後の瞬間に、恋人に対する新鮮な感情を取り戻したとも言えるのだろうか。



6  「選択できなかったもう一つの人生」への幻想



―― 本作を観ていて、私が最も印象深く感じた二点目について。

それは、「選択できなかったもう一つの人生」への幻想である。

モンティの最後の日の「大いなる悔悟」の中で、この幻想の描写の説得力は際立っていた。

このラストシーンが存在することで、映像における主人公の内面の奥行きが深々と語られて、その悔悟の感情の切実さが観る者の胸を突いて止まないのだ。

モンティの父は、息子を収監先までの苛酷な旅のドライブに導いたのである。

父は息子に、「もう一つの道」の可能性を提示する。

それは、息子が手に入れることができなかった、「もう一つの人生」を拓いていく可能性の提示だった。

父は息子に収監を拒んで、逃亡を勧めたのである。

それは、父が借金を抱えながらも、何とか遣り繰りしてきた自分の店を放棄することに繋がるのだ。同時に父は、息子の犯そうとするもう一つの罪の共犯者になることを意味した。父と息子は今

まさに、新たな犯罪を重ねる旅に向かって分け入っていくのである。

彼らは、ひたすら西を目指した。

彼らの西への旅は、新たな人生をリセットする旅でもあった。

無論、父は息子と別れ、戻るべきところに帰っていくだろう。

しかし一人残された息子は、西部のとある小さな町で新しい人生を切り拓いていかねばならない。

汗水流して働いて、人間が本来そうあるべきところの細(ささ)やかな生活を営み、そこで家族を作り、地味なる人生の価値を子々孫々に繋いでいく。このような人生が、モンティには約束されていたのである。

しかし、それはどこまでも、神との約束であるに過ぎない。

モンティは神との約束を破り、幼い少年少女たちに人間を駄目にする悪魔の薬を売りつけて、そこで手に入れた砂の城は、金箔に彩られていたが、しかしどこまでもそれは、一陣の風で吹き飛ぶバベルの塔の、一欠片の堅固さをも持たない幻想の城だったのだ。

同時に彼らが目指した幻想のルートは、この国が本来的に持っていたと信じる、西部開拓魂の浄化を受ける特別なる軌道であった。彼らの旅は、アメリカ史の原点をなぞっていく旅でもあったのだ。

かつて、この国の無鉄砲な開拓者たちが立ち竦んだ砂漠に、一人のニューヨーカーが立ち、そこで神の啓示を受けて、人生の果敢なるリセットに一身を預けていくのである。

人生はやり直せるのだ。
いくらでもやり直せるのだ。

その心が死に絶えて、遂に一滴の血漿をも枯渇させない限り、人生は充分にやり直せるのである。やり直さなければならないのである。

それは、砂漠で神と出会ったアイルランド人の一族の、命運をかけた再生の旅でもあったのだ。

このアイルランド青年がヒスパニックの恋人と再会し、家族を儲け、それが一族の確かな流れに繋がっていくとき、勤労精神のコアが脈々と息づいていれば、人間の細(ささ)やかな幸福の伝承が、底知れない力を持って再生産されていくのである。

しかし、全てが幻想だった。

男はもう立ち返って行く場所を失って、苛酷なる暴力の世界に拉致されていく運命から決して逃れることができない。

男は何もかも失ってしまったのだ。そのことを痛感したとき、男の中に、「大いなる悔悟」の感情が噴き上がってきたのである。

「皆でこうしていることが、いかに幸せか。お前たちは存在しなかったかも知れない。この人生は、幻かも知れなかったのだ」

男はもう、選び直すことが出来ない辺りまで追いつめられてしまっている。

カール・シュルツ公園で
男の中にある「大いなる悔悟」の感情は、「選択できなかったもう一つの人生」の喪失感に打ちのめされて、その哀切をより際立たせてしまったのである。

ちっぽけだが、しかし男が本来懇願したかも知れないその物語は、圧倒的なリアリズムに退けられて破綻し、幻想の闇に葬られてしまった。

果たして本当にやり直しが効くかどうか、それは男の覚悟の重量感と、自我を壊さない程度の、男の収監生活の内実が決めるであろう。

映像は、そんな男の悲痛な表情を観る者に伝えてフェードアウトしていったのである。



7  アメリカの現在性



―― 本作への言及の最後に、「アメリカの現在性」という視座で簡単にまとめてみたい。


思えば、本作の登場人物たちのルーツや来歴は様々であった。

例えば、主人公のモンティとフランクはアイルランド人で、彼らは好まないが、シカゴ川を緑に染めるとも言われる、「セントパトリックスデー」(緑の日)などで、グリーンビールのパーティを享楽する文化をアメリカでも繋いでいる。

セントパトリックスデー・緑色に染められたシカゴ川(ウィキ)
当然、モンティの父も生粋のアイルランド人。

アイルランド移民のアメリカでの様々な苦労は、イタリアマフィアとの抗争などで映画でも描かれているところである。

また、二人の共通の親友のジェイコブはユダヤ人。

しかも彼は資産家の息子として生まれながらも、自らのユダヤ性を稀薄にさせるためか、金銭に拘る貪欲な生活態度とは無縁であった。

しかも彼は映像で窺う限り、それなりに包容力のあるリベラリストでもあったようにも思われる。

そして、モンティの恋人ナチュレルはプエルトリコ人。ヒスパニックである。

現在アメリカでは、「ヒスパニックの不法移民問題」が深刻な社会問題として世論を騒がせていることは周知の事実で、あの忌まわしき、「KKK」の特定的な暴力の標的にされているとも言われている。

更に、ヤクの元締めであるニコライと、その一派はロシア人。モンティを裏切るコースチャもロシア人。

今や、ロシアマフィアの問題が喧しく問われている中で、このニューヨークのど真ん中に、そんなロシアのアウトローが、アイルランド人を使って、この街の青少年に麻薬を蔓延させているのである。

ついでに言えば、麻薬取締局の捜査員は全員黒人だった。

このように、まさにサラダボウルの多民族国家である「アメリカの現在性」が、ニューヨークという究極の大都市の内に、不気味な旋律を奏でながら蝟集(いしゅう)しているのだ。

ニューヨークこそ世界の象徴であり、それが集約された一大文化圏なのである。

そして、この映像のラスト近くの描写では、モンティを送り出す様々な人種や民族が、次々にその笑顔を映し出していくという印象的なシーンは、映像の背景となる、「帝国的な国民国家」の現在性を際立たせていたのである。

本作で印象的に描かれている「アメリカの現在性」を象徴するのは、「グラウンド・ゼロ」のシーンであった。

このシーンが登場するのは、ジェイコブがフランクのマンションの部屋を訪れたとき、その部屋からジェイコブが俯瞰した風景として、まさに「9.11」の傷跡に瞠目する描写の際である。これは、一つのアイロニーでもあった。

なぜなら、アメリカのビジネスの最前線で苛烈な競争を強いられているフランクこそ、「9.11」の犠牲者になっても不思議ではない立場にある人物だったからだ。

グラウンド・ゼロ
そのフランクが部屋のカーテンを明ければ、「グラウンド・ゼロ」の荒涼たる風景が視界に捉えられてしまうという設定は、充分に挑発的だった。

この描写は、恐らく作り手が考えていた以上に、刺激的で、鮮烈な印象を観る者に醸し出す。本作で描かれている世界は、単にニューヨークのしがないアウトローの苦渋の一日を映し出しただけではなく、「9.11」以降の、摩天楼の都市文明の下で仮構された浮薄な現在性を浮き彫りにしているのである。更にいえば、「9.11」の加害者とされるイスラム過激派の文化を髣髴させるような印象を、この挑発的な映像のBGMは多分に内包させていたようにも思われるのだ。

単にこの映像を観る限り、「9.11」の前後の時間を明瞭に仕切られた大都市の変貌性というものを、敏感に感じ取れる描写は稀薄であった。

然るに、ラストシーンにおいて、父子の逃避行の幻想の描写の中に、繰り返し星条旗が逆風を受け、大きく揺らぐ画面が鮮烈に映し出されていて、この国が再び、「アメリカ」という大きな物語を必要とする人々を生み出していることを連想させるのである。

それはまさに今、この国が、「米国愛国者法」( 2001年)とは異なった文脈において、本来的な愛国心の名の下に結束しなければならない切迫感を炙り出しているとも言えようか。

そのことを考えるとき、映像に溢れかえる雑多な人種、民族の怒涛のような呻きや叫びを吸収するには、「アメリカ」という大きな物語=幻想の求心力に頼る以外にないのだろうか、などと深い溜息を洩らしてしまうような異様な不気味さが、そこに横臥(おうが)していたのである。



8  含みの多い現代映画の秀作



  スパイク・リー監督(右)
「25時」は、紛れもなく、一級の現代映画だった。

感銘も深かった。何よりもイスラム的(?)な音楽が素晴らしかった。

物語と全く違和感を持つことのないその旋律は、観る者に深い余情を残して、主人公の腫れ上がった顔面の痛々しさを癒すかのように寄り添って、その苛酷な未来の運命の内に消えていったのである。

そして特筆すべきは、ラストシーンでの父子の幻想的な逃避行の描写である。

長々と語られる、一人のアイルランド移民の血を引く父親の切ないまでの表現の内に、「大いなる悔悟」の一日を閉め括る息子の、その内面世界が充分に透けて見えてきて、哀切極まった。

この描写によって、「25時」という作品は、現代映画史上にその名を刻んだとも言えようか。

本作を、ケチな男の愚劣な犯罪に対する、当然過ぎるペナルティという了解ラインで処理してはいけない。そう思った。

本作の主人公は、その人生の軌跡の何処かで道を誤ったが、しかし徹底した悪人になり切れないある種の繊細さが、この男の覚悟を括った一日を作り上げた。

この覚悟を括った一日こそ、悪人に徹し切れないもう一つの人生を抉(こ)じ開けていく可能性を担保したのである。

いつの時代でもこのような男がいて、このような人生が捨てられている。

それは直接的には、「9.11」とは全く脈絡を持たないが、しかし、こんな男の人生のバックグラウンドには、物質文明の過剰な高速化の下で、いつでもほんの少しずつ、確実に遅れをとっていく人の心の進化のだらしなさが横たわっているのだ。

文明を作った欲望が、いつしか抑制的自我を離れていって、そこに文明との致命的な不均衡を形成させてしまうという恐怖感。

そういう問題が、少なからず、このような男たちの犯罪のバックグラウンドに寝そべっているということ。それが切実なのである。

10代の少年少女が麻薬に手を出す社会の怖さは、まさに過剰なる現代文明の問題のうちに、その負性的因子の多くが包含されていると言えるだろう。

然るに、人間の問題の全てを文明の問題に還元するのは、極めて危険な思考であることは疑いない事実だろう。

だから、いつの時代にもこんな阿呆がいて、そんな阿呆が犯す多くの違法行為があり、その違法行為によって被害を蒙る「善人なる人々」が、その倍くらい出現してしまうのだろう。

どうやら、そんな風に考えた方が無難かも知れない。

エドワード・ノートン
ともあれ、本作はそれほど多くのことを考えさせてくれる刺激的な映像だった。

同時にそれは、実に含みの多い現代映画の秀作であったと私は確信する。

そして、主人公のモンティを演じたエドワード・ノートンの群を抜いた演技力に、私は率直に脱帽した次第である。本作での彼の演技は、その役柄の難しさを突き抜けるほどに、観る者に充分な感情移入をもたらした。

優れた俳優がいて、優れた原作とシナリオがあって、それを演出する優れた映像作家がいた。

当然、作品の映像的表現力の成功は約束されるはずである。そんな映画だった。

(2006年5月)

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