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    4 か月前

2010年5月17日月曜日

間違えられた男('56)       アルフレッド・ヒッチコック


<非日常の時間の未知のゾーンに拉致されていく心的圧力による不安と恐怖>



1  間違えられた男 ―― その悲劇の始まり



「私はアルフレッド・ヒッチコック。今まで多くのサスペンス映画をお送りしてきた。だが、今回は少し違う。異は事実にあり。これは実際にあった物語である。私が今まで作ったどの恐怖の映画より、奇なることがあるのだ」

映画の冒頭でヒッチコックが語るように、本作は、「ライフ誌」に掲載された実話の映画化である。

ニューヨークのクラブでベースを弾くミュージシャン、マニー・バレストレロは、保険会社の事務所を訪ねた。

愛妻のローズの保険証書を抵当にして、妻の歯の治療代を捻出しようとしたのである。

全ては、この行動から開かれた。

去年、その保険会社の事務所を襲った強盗犯人と間違えられ、マニーは警察署に連行され、拘束されたのである。

その間、筆跡鑑定が実施され、犯人の残した脅迫文の筆跡と酷似していたばかりか、保険会社の事務所の目撃証言とも一致したことで、彼が強盗犯人と特定されたのだ。

自宅への連絡も許可されず、マニーはその日、警察署の留置所に拘束された。

留置所の中で、不安と恐怖の夜を過ごしたマニーに待っていたのは、手錠を掛けられて、拘置所に連行されるという現実だった。

まもなく、マニーは親族の協力で高額な保釈金を支払って、帰宅が許可された。

夫婦は誠実そうな弁護士と会って、弁護を依頼するが、ここから困難を極める夫婦の戦いが開かれたのである。

マニーの無実を証明する証人探しは、想像を絶するほど困難だったからだ。

マニーのアリバイを証明するはずの4人の内の2人は既に逝去していて、残りの2人を探さねばならなかったが、それ自身殆ど絶望的な状況でもあった。

「私があなたを、こんな目に遭わせたんだわ」

この嘆息は、自分を責めるローズの言葉。

彼女は精神的に追い詰められているようだった。

「まるで誰かに意地悪されているようで・・・」

これは、弁護士に語ったマニーの言葉。

残りの2人の証人探しを前に、ローズの自我は無気力感に支配されていた。

摂食もなく、不眠状態の彼女はネガティブな反応をするばかり。

「何をしようと不利に働くだけだわ。いくら無実でも、彼らはあなたを犯人だと思っている。全ては彼らの手の中。逃げられない。仕事もなく、子供も学校へ行けない。それをずっと考えていたの。私たちは家の中に閉じこもるの。誰も入れないの」
「そうだね。必要以上に出るのはよそう。子供たちの面倒は、お母さんに看てもらおう」

マニーの孤立感①
妻の言葉に異変を感じた夫は、彼女をフォローしようとするが、その気持ちが相手に届かない。

「私がおかしいから、子供を外へ?あなただっておかしいわ。狂ってるかもよ。無実だって分らないわ。あなたがしたかも・・・アリバイもなし。彼らは全て潰す。そうよ、潰されるわ」

その直後、妻は自分のヘアーブラシを取って、その土手で夫の額を思い切り叩いたのである。

夫の額から滲み出る血を見て、正気に戻った妻は、今度は自らを責めていく。

「あなたの言う通り、私、おかしいわ。私を何とかして・・・皆、信頼してくれてるのに、私が裏切って」

ローズと精神科医との、シビアな対話。

「いつも、そうでは?」と精神科医。
「違います」とローズ。
「そう思い始めたのは?」
「主人が捕まったとき、私のせいだと」
「なぜです?」
「皆、私を責めようと」
「ご主人を?あなたを?」
「私が罰せられます。私のせいで主人が。私がいけないのです」
「皆はご主人が有罪だと?」
「彼の無実は、皆知っています。罪は私にあるのです。私を捕まえる気なのです・・・何もかも、皆が私を」

その結果、「夫に忍び寄る危険も自分のせいだ」と考え、彼女は精神が衰弱していると診断され、療養所に行くように勧められた。

ローズは、恐怖と罪の意識に押し潰されているのだ。

押し潰された状態に耐え切れず、感覚を鈍磨するという防衛戦略に流れ込んでいったのである。

結局、ローズは精神病院に入れられた。



2  間違えられた男 ―― その悲劇の終焉



マニーの孤立感②
公判が開かれても、マニーの立場は悪化するばかり。

この時点で、裁判をやり直す、「無効審理」という戦略以外に勝訴の可能性がなかった。

それは、陪審員や証人を再び選び直すという「最後の手段」である。

「何も不利になっていませんよ」

弁護士の励ましである。

「ただ、もう一度最初から耐えられますか?」

被告のマニーに対する弁護士の確認だが、この言葉が今後の展開の不利性を物語るものだ。

「やってみます」

マニーは、そう言う外なかった。

しかし彼は、自分の母には本音を漏らしていた。

「有罪になった方がいい。身を砕かれる思いだ。何もできん・・・」

この直後に、「奇跡」が起こった。

別の強盗未遂事件によって、マニーの顔に酷似した真犯人が逮捕されたのだ。

映像のラストシーン。

精神病院に妻を見舞うマニー
精神病院に入院しているローズを見舞うマニー。

しかし、真相を告げても無反応な妻がそこにいる。

「もう一度始めよう。場所を変えてもいい。友だちも沢山いる」

そう言って、妻に近づく夫と、一瞬、離れる妻。

彼女の心は、未だに固く閉ざされているのだ。

「行って」

そう反応する心の扉の堅固さの前で、夫は嘆くのみ。

「私はどうなる?君なしでは生きていけない」

妻を残して、夫は静かに病室を後にした。

「2年後、ローズは全快して退院した。現在、一家はマイアミで幸せに暮らしている。悪夢は終わった」

この余分な字幕が、最後に張り付いていた。



3  トリュフォーの批判、或いは、ヒッチコックの弁明



まず、重要な点を確認しておく。

アルフレッド・ヒッチコック監督①(ウイキ)
ヒッチコック自身がトリュフォーに、「駄作」であると認めさせられたように(「ヒッチコック 映画術 トリュフォー」山田宏一、蓮實重彦訳 晶文社)、頗る評判の悪い本作が、冤罪を告発する映画ではないということ。

次に、実話をベースにした映画であり、大団円に逢着するヒッチコック流の娯楽性を内包する、「1級」のサスペンス映画ではないということ。

ヒッチコック流の、サスペンス的な展開に欠如しているのだ。

従って、面白くないし、暗過ぎる。

しかし、それはどこまでも、「ヒッチコック流のサスペンス映画」というカテゴリーで鑑賞するからであり、この種の枠組み規定を根柢から払拭してしまえば、本作は鑑賞の自在性を得るだろう。

そのためには、冒頭のヒッチコックの「説明」は完全に不要だったと言える。

「私が今まで作ったどの恐怖の映画より、奇なることがあるのだ」などと、ヒッチコック自身が、自作を縛ってしまっているのだ。

これは余計だった。

また有名な話だが、トリュフォーも本人を前に、手厳しく批判していたことが想起される。

以下、トリュフォーの批判。

「ドキュメンタリーのように、あるいはニュース映画のように撮るべきだったのではないでしょうか」(同上)

その一点に関して納得できないトリュフォーの批判は、「ドキュメンタリーの美学」の矛盾を突く論理的なものでもあった。

フランソワ・トリュフォー監督
「わたしが思うに、この映画にはフィクションとドキュメンタリーが水と油のように溶けあわずに反撥しあっているかのようです。劇映画(フィクション)の分野でその完璧なかたちに達したあなたの文体(スタイル)はドキュメンタリーの美学とはまったく相容れないもので、その矛盾が映画全体にはっきりと出ていると思います」(同上)

こんなトリュフォーの批判を受容するヒッチコックの説明は、些か弁明染みていた。

「もとの話に絶対的に忠実にやろうということにあまりにも執着しすぎて、そのために構成にひどい欠陥がいくつか出てしまったと思う。その第一は、妻が錯乱状態になっていくところを描かざるを得なかったために、その間ずっと夫の物語が中断されてしまって、肝心要の裁判のシーンにきたときには、すっかりドラマティックな盛り上がりに欠いてしまったということだ」(同上)

それでも、ヒッチコックの以下の説明には、本作の特徴的主題を言い当てているように思える。

「外の世界は何もかも正常で、何一つ変わったことなど起こらなかったかのようにいつもながらの生活がつづいているのに、彼だけは刑事たちの車のなかで囚われの身になっている。映画全体が主観的な演出になっている」(「ヒッチコック 映画術 トリュフォー」山田宏一、蓮實重彦訳 晶文社)

「映画全体が主観的な演出になっている」のは、「彼だけは刑事たちの車のなかで囚われの身になっている」心象世界を描くためだったということだ。

私は、この簡潔な説明で充分であると考える。

アルフレッド・ヒッチコック監督
トリュフォーの批判に代表される指摘の根柢にあるのは、「ヒッチコック流のサスペンス映画」というカテゴリーで鑑賞する態度形成が変らないからだ。

「ドラマティックな盛り上がりに欠いてしまったということ」に、特段の違和感を覚えない私のような鑑賞者には、本作に対する必要以上の不満を感じないのである。

ここで、もう一度整理しよう。

何より、本作は何を描いた映画だったのか。

次稿で、私の主観的な把握を書いていく。



4  非日常の時間の未知のゾーンに拉致されていく、心的圧力による不安と恐怖 ―― まとめとして



本作を括るとすれば、以下の文脈に要約されるだろう。

ごく普通のレベルで、平和で穏健な家庭を築いていた男と、その妻の日常性が、自分の意志で未来を決定できないような非日常の時間の未知のゾーンに拉致されていく心的圧力の、その名状し難い不安と恐怖を主題にした映画であるということ。

その日常性と最も隔たった距離にある、非日常の未知のゾーンとの圧倒的な落差感。

人間は果たして、このような圧倒的な落差感の出来にどこまで耐えられるかについて、リアルな感覚で痛感させられるような映像だった。

映像はその辺りの描写に多く時間を取ることによって、夫婦が拉致される原因となった強盗事件に対する、サスペンス的なアプローチが相対的に削られていたことは、ヒッチコックのファンを大いに失望させたかも知れないが、本作のような救いの見えない映画を最も好む私にとって、この映画は、作り手が自嘲するような「駄作」ではないと確信する次第である。

被疑者となった男の不安を極限的に描き出すシークエンスは、既に映像が開かれてから20分後に現出した。

以下、その辺りについて、詳細にフォローしてみる。

クラブの仕事が終わって、男は自宅に戻る直前だった。

突然、パトカーにいる刑事たちから呼び止められた。

男はそのままパトカーに乗せられ、妻への連絡も許されることなく、権力機関の心的圧力を充満させた空気感の中でパトカーは発車した。

男の視界には、シルエットで映し出された妻の姿形が収められていたが、それとの距離感をなお推し量れない感情が未だ小さく騒いでいた。

車内での男の表情に不安が過(よ)ぎるが、それは、自分が現在捕捉されつつある理由を了解できない恐怖感でもあった。

署に連れて行かれた男は、初めて強盗事件の容疑者であることを告げられ、その検証のために、市内の2軒のストアーの中を歩かされるのだ。

最初は酒屋、その次は雑貨屋。

その心的圧力の中で、「帽子を取って歩いて」などと店主に言われ、従順に遂行するのみ。

犯人の特定のためだ。

男にはその事実が朧(おぼろ)げに理解できたから、余計不安が募ってきた。

警察署に戻ったとき、男の不安と怒りの感情は、なお均衡を保っていた。

「一体、何を強盗した?私も聞きたい」

しかし、自分の未来を自ら決定できない状況に置かれた現実を認知し得たとき、男の不安は怒りの感情を削ってしまっていた。

筆跡鑑定と目撃者の面通しがあり、男の犯行を裏付ける結果だけが出るに及んで、男の立場がますます悪化していくのだ。

調書に捺印する手を、凝視する男。

刑事に連れられ、留置所に閉じ込められていくシーンまで、既に20分を要していた。

映像は、男の不安感情を精緻にフォローしていく。

マニーの孤立感③
留置所の鉄の扉を視認したとき、男は思わず叫んだ。

「妻に電話を」

そう叫んでも、受容する者がいない状況下で、男の不安がいよいよ募っていく。

刑事から背中を押されるように、男は鉄格子の中に入れられた。

男に全く自由がない。

狭い牢獄の部屋にある無機質の風景を、男は視界に収めるが、そこに挿入される機械的な音声は、明らかに男の内面を象徴するものだ。

この時点で、映像は25分を要している。

男の家庭では、妻が事情を知らされ、不安に怯えている。

男の実母は取り乱してオロオロし、二人の息子は、それを部屋の向こうから不安げに覗くだけ。

留置所内に拘留された男を写す画面は、眩暈のように繰り返し回転していく。

この描写は悪くない。

男の心理を的確に表現しているからだ。

翌日、「訴訟者名簿98番」という記号で呼ばれた男は、検事による本人確認を受ける。

マニーの孤立感④
そして、男は手錠を嵌めた男たちと共に、護送車に乗って拘置所に連行された。

巨大な署内での、被疑者たちの喚き声が耳に入り、男は再び鉄格子の中に入れられた。

その直後に保釈して出されるが、ここまでのシークエンスに要した時間は36分であった。

本作が何を主題にした映画であるかについては、ここまでのシークエンスで明瞭である。

少なくとも、作り手がその主題を狙ったものではなかったにしても、観る者は、この映画のサスペンス性が娯楽的な大団円に収まる種類の映画でないことだけは理解するだろう。

前述した主題について、もう一度書いておこう。

本作は、自分の意志で未来を決定できないような非日常の時間の未知のゾーンに拉致されていく心的圧力の、その名状し難い不安と恐怖を主題にした映画である。

それ以外ではないと思う。



5  不安に耐える強さこそ真の強さ



人間の真の強さは、不安に耐える強さである、と私は考える。

本作の主人公は、まさにこの種の心理実験のモデルとされた訳だ。

彼は映像後半において、法廷が開かれてから、自分に都合の悪い状況を目の当たりにして、弁護士から「審理無効」という戦略を聞かされたその夜、実母に対して、思わず、「有罪になった方がいい」などと口走ったのである。

未知なる不安に対する彼の自我の耐性限界は、もうギリギリのところまで追い詰められていたのだ。

映像は、その直後に真犯人の逮捕というドンデン返し劇を用意することで、不安に耐える男の心理実験は中断されるに至ったが、しかし、男の妻は不安に耐える自我のラインを疾(と)うに越えていて、夫の無罪を知らされたときでも、無反応の状態のまま映像は無慈悲に閉じていくのだ。

およそ救いのないこのドラマの圧倒的な冥闇(めいあん)は、ラストのキャプションにおいて、妻の健康回復が伝えられることで一見小さくまとまって見せたが、しかしこのキャプションは余計だった。

一説には、プロデューサー側の「嘘の字幕」とも言われるが、仮にそうでなくとも、この字幕なしに閉じるべき映画だったのだ。

リドリー・スコット監督
プロデューサー主義のハリウッド映画では、伝統的に監督が編集権を持てないので、プロデューサーによる不本意な編集への対抗措置として、リドリー・スコット監督のように、しばしば、映画監督自身による「ディレクターズ・カット版」を出すことが多いという事情を考えれば、「嘘の字幕」説を否定できないのである。

然るに、「救いのない映像の、救いのない終わり方」こそ、「実話」に基づく「真実性」を保証するばかりか、このような事件の、このような不運な男の、このような不運な展開の内に、自分で自分の未来を決定できない最悪の人生が、往々にして出来するシビアなリアリズムこそ、ある意味で、何が起こるか予想し難い社会に生きる私たちの実相であり、それこそ私たちが拾い上げるべき真実であるとも言えるのだ。

かのヒッチコックが、このような作品を作ることに対して違和感を唱える決め付けこそ狭隘な発想であって、同時に、「実話」を映画化するヒッチコック自身の自縄自縛もまた、問われるところであったかも知れない。

しかし、映画の完成度は決して高くないが、多くの者が貶すような駄作などでは決してない。

不安への耐性限界点の際(きわ)まで追い詰められた、ごく普通のサイズの自我が抱える脆弱性を、その内側から捕捉する物語の心理描写は決して完璧ではなかったが、それでも充分な鑑賞に耐えられる作品に仕上がっていた。

人間はそれほど強くないということだ。

不安への耐性限界点の裸形の様態を描いたというその一点において、50年以上前の作品のレベルはほぼ合格点を与えられるものになっていた。

(2010年5月)

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