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2008年11月20日木曜日

乱れ雲('67)    成瀬巳喜男


  <禁断の愛の畔にて>



 序  メロドラマの最高傑作



 「乱れ雲」は、「乱れる」に続くメロドラマの傑作である。と言うより、それは私の独断的評価の中では、日本映画史上に於けるメロドラマの最高傑作である。

 当然そこには、メロドラマ一流の通俗性が張り付いている。美男美女の主人公がいて、その関係を媒介する通俗的な設定が映像の内に幾つか仕掛けられていて、そこに滅多に起こり得ないような偶然への依存が平気で罷(まか)り通っている姑息さをも内包している。

 従って映画の完成度としては、成瀬の幾つかの秀作と比較すると、極めて物足りないという評価を下さざるを得ない。

 それにも拘らず、私はこの作品が好きである。感動もする。成瀬作品にしては珍しく、「泣ける映画」でもあった。「泣かせる映画」を最も嫌う私だが、この映画に関しては例外だった。

 なぜなのか。

 映像の内実が、「成瀬ワールド」のカテゴリーを大きく逸脱していなかったからだ。やはりそこは成瀬らしく、奇麗事の描写で流すことをしなかった。当然ながら、ハッピーエンドで片付けることもしなかった。「薄幸のヒロイン」はそこで必死に呼吸を繋いでいたが、特段に抜きん出たヒーローはいなかった。一時(いっとき)だが、「残酷さの中の温もり」もあった。そして何よりも、「人生は思うようにならない」という現実の内に、どうしようもない「やるせなさ」が、そこに存分に内包されていた。

 やはり、成瀬は成瀬だった。


 特に、ラスト20分の映像の緊張感は、メロドラマの通俗性を突き抜けていた。そこでの心理描写の巧みさが、映像の完成度を充分に補完していたのである。

 

 1  絶対拒絶と無限に続く債務感



 ―― ストーリーを追っていこう。

 
 一人の女が幸福の絶頂の中で、その持ち前の美貌に磨きをかけるような微笑の日々に包まれていた。

 彼女の名は由美子。

 新妻である由美子の夫は、通産省輸出促進課に勤務するエリート官僚。その出世も際立っていて、米国派遣の辞令を受け、近く渡米することになっていた。既に夫の子を身篭っている妻の日々は、渡米の準備に明け暮れる闊達(かったつ)さの中で、至福の表情を映像に存分なほど映し出していた。

 しかし、その眩し過ぎる新妻の至福に充ちた微笑が、突然、暴力的に奪われることになった。夫の江田が交通事故によって、一瞬にして、その尊い生命を喪う羽目になってしまったのである。

 例によって、成瀬は人の死を描かない。

 夫の遺体が安置されている閉ざされた空間で、「あなた・・・」と嗚咽を刻む妻の表情を短く映し出して、その後の描写は、既に葬儀の場面にシフトしていた。その中枢に、幸福の絶頂から転落した新妻と義父母が肩を落として座っている。

 そこに一人の男が、場違いな空気の中に入り込んで来た。

 男の名は三島。商社マンである。

 そして何よりも、由美子の夫を車で轢いた張本人なのだ。男は自らを名乗り、遺族の前で深々と頭を下げた。

 そんな男に、義父の罵声が飛んだ。
 
 「あんたが家の息子を殺したんやな!何しに来たんや!あんた、家の息子殺しとって、ここへ何しに来はったんや!」
 
 義父の隣に小さく座る未亡人の表情も、憎悪の感情をストレートに炙り出していた。深々と頭を下げた後、男は立ち去ろうとした。

 「あんた!」

 再びそう叫んで、男に向かっていこうとした義父は、傍らの義母に止められて、男はそのまま静かに玄関に進んでいく。

 そのときだった。

 今度は未亡人となった由美子が、男に向かって、凄い形相で追い駆けていく。

 それに気づいた男は振り向いて、頭を下げるのみ。

 そこに置き去りにされた女は、全身を貫流する憎悪感を、理知的な音声に結べない辛さの内に重々しく刻んだ。それが全ての始まりだった。

 最愛の夫を交通事故で喪った被害者の新妻、由美子と、その夫を自らの過ちで事故死させた加害者の若き商社マン、三島。

 裁判で無罪になったとは言え、彼は由美子への贖罪を果たすために、何とか彼女に接近しようとするが、傷心の女は加害者の顔など見たくもない。言わずもがなのことだ。

 「お金なんか要りません。返せるものなら、主人を返して下さい」

 これが、女の心の全てだった。

 結局、由美子の姉が、三島との間に契約書を交わして、彼女の元に男から送金されることになったのである。

 由美子は三島の存在すら認めようとしない。だから、彼の金を受け取ることを最後まで拒むのだ。義父母との関係を既に絶って、亡夫との間に孕んだ我が子を中絶した病院に、青森転勤を伝える当の三島が訪ねて来た。男は示談契約書を届けに来たのである。

 「帰ってもらって!もう来ないように言って!」

 病床で嗚咽する絶対拒絶のメッセージを聞き取った男は、もうそれ以上近づけなかった。男はまもなく、青森行きの列車に飛び乗ったのである。

 男を許さぬ女の気持ちは、一貫して変わらない。それでも青森から、金を送り続ける加害者。女はその金を仕方なく受け取って、生活資金の足しにした。     

 「嫌だわ。人に頼って生きていくなんて・・・」



 実姉に漏らした女のこの言葉は、自分が置かれた立場の無念さを象徴するものだった。

 それでも男には、自分が為すべき行動は限定されている。ひたすら、被害者の妻に送金することのみ。彼にできることはそれだけなのだ。そんな自分に歯痒い思いがする。三島は次第に心の重荷に耐えられず、無限に続くような債務感にしばしば押し潰されそうになる。せめて由美子から、免罪に近い反応を引き出したかったのである。この心理が、三島をして由美子にアプローチさせていく背景としてあった。



 2  確信的に遮断する女、置き去りにされた男



 
青森県の観光・十和田湖(ウィキ)
由美子は江田家からの戸籍が抜けたことで、郷里の十和田に帰っていた。

 そこには、彼女の義姉が旅館業を営んでいる。彼女はそこで、仲居として手伝うことになったのである。そして由美子は、戸籍を変えたとこを機に、三島の送金の受け取りを打ち切りたいと、自ら本人に切り出したのである。

 「本当にもうお忘れになって下さい。私も忘れたいんです。あなたからお金を頂いていると、いつまでも過去に縛られているような気がして・・・長い間、ありがとうございました」
 「・・・でも、何だか寂しいですね。さっきあなたを見たときに、僕は久しぶりに、何て言うか、自分でも説明のしようがないんですが・・・肉親に会ったような、そんな気がしたんです」
 「じゃあ、あたしはこれで・・・」
 「そうですか。じゃあ、お元気で・・・」

 三島の如何なるアプローチをも、確信的に遮断する女がそこにいる。男の寂しい心が、そこに置き去りにされたのだ。

 置き去りにされた男が、すっかり酩酊して、自分の寂しい部屋に戻って来た。

 そこには、息子を心配する母がいた。その母に、息子は思いの丈を吐き出していく。

 「許しちゃくれやしないよ。もっと苦しめたいんだ・・・人を殺して金で済むとは思ってやしないよ。でも幾らかでも、償いはしたかったんだ。他にどんなことができるって言うんだ。忘れようったって、忘れられることじゃないんだ」
 「母さん、お前が可哀想で・・・」

 母は、息子の傍らに寄り添って上げるしか術がないのだ。その母を心配させまいと、息子は、そこだけは酩酊気分ではない意志を刻んだのである。

 「大丈夫だよ。きっと立ち直るよ」

 しかし、母は分っていた。それが息子の精一杯の強がりでしかないことを。

 翌朝、母は由美子の旅館を訪ねた。

 「・・・可哀想で、見ておれなくて。お詫びして、許してもらえることでないのは、よく分ってますが・・・」
 「もう、過ぎたことですから・・・」

 女もまた、そんな反応しかできなかった。

 青森支社に転勤となった男の荒んだ心を、自分を許さない女の存在が圧倒的な重圧感となって、日々に蝕んでいく。栄転の道を閉ざされた男の心を、寂しい北国の風土が優しく慰めることもなく、男はただ与えられた日常的な雑務を消化するだけの日々を送るしかなかった。



 3  誠意を受容できる隙間が生まれたとき



青森県の観光・弘前城(ウィキ)
時の移ろいが、次第に由美子の傷心を癒していく。

 三島の変わらぬ誠意を受容できる隙間が、由美子の心の中に生まれつつあった。

 二人の若い男女に横臥(おうが)している決定的な溝は簡単に埋まらないが、女の男に対する敵意の感情は僅かずつ和らいでいった。男がそうであるように、女もまた、未来を創り出そうとしつつあるのだ。自分に残されたあまりに多くの自由なる時間を捨てる程に、女のトラウマは、自らの自我に深々とその致命的な痕跡を晒すものにはなっていなかったのかも知れない。

 男の心の中に、女に対する慕情が生まれてきたのは、ある意味で自然なことだった。傷心を癒そうと努める女の表情は、常に男にとって魅力的なのだ。勿論、男には分別がある。しかしそこに禁断の印がついているからこそ、しばしば男は、暴走への衝動に駆られるのである。これは、女が美女であるということ、更に、女が懸命に耐えているという事実とも無縁でないが、同時に、禁断の印を関係が内包しているという一点が迫る解放への衝動は、恐らく、決定的なまでに重大であったに違いないのである。

 男がいて、女がいた。

 その間に禁断の印が固く、鋭利に施錠されていた。禁断の印が初めにあったのだ。関係の微妙な進展は、いつも禁断の印を意識していく中でこそ孕まれる。禁断の印がそこにあるから、そこから早く解放されようとして、関係が急速に立ち上げられてしまうということが、人生で間々起こるのである。これは経験した者だけが知る、人生の真実の一つであると言っていい。

 三島はいつしか、この禁断のラインの内側で由美子を愛するようになっていく。

 由美子もまた、三島の誠実な人柄に惹かれていった。関係の内に禁断の体臭を嗅いでしまったからこそ、二人は急接近してしまったのだ。由美子は煩悶する三島の中に、許し難き事故の加害者であるという定まったイメージではなく、少しずつ、加害者であるが故に煩悶する、一人の同情すべき被害者像を見てしまったのである。

 こうして、禁断のラインを固めていた危うい錠が緩んできた。

 禁断の印がそこに明瞭に立ち塞がっていたからこそ、そこに関わった二つの若い意識が、それとの不可避な格闘を性急に開いてしまったのである。その格闘の中で、二人の若者は禁断のイメージを次第に中和していって、事故以来深々と抉られた空洞感を埋めるために、惹かれあう魂が寄り添う者の如く近づき合ってしまったのだ。

 そこには伏線があった。

 三島はかねてから要望していた転勤願いが受理され、こともあろうに、伝染病の蔓延する西パキスタンのラホール(注1)行きの辞令が下ったのである。

 三島の心に動揺が走った。それでも彼はそれを引き受けた。「自分の前から姿を消してくれ」と由美子に言われていた三島は、彼女に対する慕情と共に、自らの身体を彼女の前から消してしまうことを決断したのである。


 青森の営業所に訪ねて来た由美子に、三島は別れの記念に十和田湖畔の観光を嘱望した。由美子は夫の籍から抜かれて、夫との間に孕んだ胎内の子を堕ろし、十和田湖畔にある実家の旅館に戻って来ていたのだ。由美子と三島の再会を妨げる要素が、既に稀薄化されていたのである。

 そんな由美子が三島の転勤を知って、彼の願いを珍しく素直に受容したのである。三島の表情に、珍しく笑みが浮かんでいたのは言うまでもない。


(注1)インドとの国境付近にある大都市で、ムガール帝国時代の遺跡も多い。2007年現在、「外務省海外安全ホームページ」の情報によると、「イスラマバード、ラホール、カラチ等大都市を含むパキスタン各地において爆発事件も頻発してい」て、とりわけ、「ラホールでは、日本人旅行者を油断させ薬物入りの飲料水を飲ませて意識を失っている間に金品を強奪する、いわゆる『昏睡強盗』事件も発生しています」とのこと。

 更に、「全国的に上下水道が未整備で、また補修も行き届いておらず、水道および井戸水の中にウィルス、細菌、アメーバ、その他の原虫類、寄生虫卵等が混入していることがあるため」(略)「経口伝染病として、コレラ、赤痢、腸チフス、その他の細菌性食中毒、ウイルス性肝炎(A型、E型)、ウイルス性胃腸炎等があります。また破傷風、狂犬病等の接触感染の病気やさらに蚊が媒介するマラリアもあります」、という注意が旅行者に求められている現実。

 
ラホールの車窓から・ラホールの写真ブログより
増して、当時の治安・衛生環境の粗悪さは、ドラマで恐れられていたイメージに近いものがあったと思われる。歴史的背景の確認をしておけば、映画制作当時(1967年)は、「東パキスタン」であったバングラデシュが独立(1971年12月)を果たしていなかったので、ラホールは西パキスタンの都市として知られていた (「外務省海外安全ホームページ」参照)




 4  弄る男の左手を、自らの体温で包み込んで



 その日、二人は辺りに誰もいない曇天の十和田湖畔に、一艘のボートを浮かべていた。

 しかし、そんなロマンチックな風景にそぐわず、ボートを漕ぐ三島の顔から血色が消えていた。連日の疲れからか、彼はこの日、朝から微熱気味だったのである。


 ボートを降りたとき、十和田湖畔は既に雨に濡れていた。


 
一つの傘の下に、具合の悪そうな男を庇うようにして、女は休憩処を目指す。バスの発車時刻までの時間を、地元の観光旅館で休むことにしたのだ。

 労わりあう二人を、土地の者が怪訝な視線を投げかけてきた。

 「あいつら、さっきから何を見てやがるんだ!僕たちが何を悪いことしてるって言うんだ!」
 「何も悪いことしていないわ。だから平気でしょ。ね、行きましょう」
 「嫌です。これ以上あなたを晒し者にするのはごめんだ」
 「そんな大げさなことじゃないわ。行きましょう」

 それでも譲らない強情な男に、「あたしも強情なんです」と言い放って、女は自分のバスを見送った。

 結局二人は、知る者のいない旅館に落ち着いた。

 彼はここで、その転勤先が外国であることを話した。それを聞いて、女は少し表情を暗くした。

 「あなたを置いてきぼりにして、僕だけ幸せになっちゃうかも知れませんよ」

 男は不毛な皮肉を口にする。女はそれに何も反応しなかった。反応する言葉を持っていなかったからだ。

 旅館の部屋で、男は高熱で苦しんでいる。女は必死に男を看病する。

 「何も心配しないで、ゆっくり眠るのよ」

 氷嚢をおでこに当てて病床に就く男に、女は母のような、妻のような優しい言葉で包み込む。

 外は叩きつけるような豪雨。雷光が走る。部屋の電気が一瞬消えた。その闇の中に、病んだ男と、それを見守る女がいる。


 まさにメロドラマの、ある種の通俗性の極みのような描写だった。それでも成瀬が演出すると、そこに何ともいえない余情が漂って止まないのだ。

 「手を握って下さい。どっか、遠くへ堕ちていくような気がする」

 弱々しい男の甘えに、女は一瞬躊躇するが、ゆっくりとその右手を差し出した。布団からそこだけ特別にはみ出したように弄(まさぐ)る男の左手を、女は自らの体温で包み込んだ。

 翌朝、男は少し元気を回復し、自分の転勤先がラホールであることを告げたのである。

 三つのステップを踏んで、自分の転勤先を女に語っていく男の表現の具現化は、まさにこの二人の関係の深度のレベルを象徴する描写として際立っていた。

 まず、青森で転勤の事実を語り、次に旅館の食堂でその転勤先が外国であることを語り、稲妻の中での女の献身的な看護を経た朝、その外国がラホールであることを語ったのである。

 二人は僅か一日で、その思いの奥にある部分の一端を、今まさに語り合おうとしていた。

 「何の償いもしないうちに逃げていくようですけど・・・」
 「決まったんですか?」
 「ええ・・・」

 ラホールがかつてコレラの発祥地であることを知っていた女は、逆に男に励まされ、無理に作った男の表情を見守るだけだった。

 転勤を直前に控えた男は、女に会いに来た。

 男にとって最後の別れを告げに来たのである。しかしラホール行きは、女との決別を意味していた。男の中の未練が蠢動(しゅんどう)し、最後の勝負に出たと思わせる訪問でもあった。

 女は裏山で山菜を採っていた。


 冬の保存食となるこごみ(草ソテツの若芽)やしどけ(キク科の多年草で、独特の香りを持つ)を、一人の農婦のように採っていた。そんな女の不相応な格好を笑って、男はそこに自然な会話を作り出す。しかし男の用件は、単なる挨拶ではなかった。

 男は遂にその言葉を切り出した。

 「あなたにはもう分っているはずだ。僕はあなたが好きだ」
 「何を言うんです。遠くへ行ってしまう人が」
 「遠くへ行くから言うんです。旅館で別れてから、僕は眠れませんでした。ずっとあなたのことを思い続けました」

 男は女を自分の元に寄せ、弱い抵抗を試みる女と唇を合わせた。男は女に会いに来た本当の目的を吐き出したのである。

 以下、二人の感情が縺れ合うような会話。

 「由美子さん、僕と一緒にラホールに来て下さい。ラホールは酷いところでも、あなたが一緒に来てくれるなら、僕は必ず幸せにしてみせる・・・僕たちに必要なのは、過去に囚われることじゃない、それを飛び越えることです」
 「帰って!二度と来ないでちょうだい」
 「僕は明日の夜、東京へ発ちます。そうしたら、二度とあなたに会えないんだ。それでもいいんですか?」
 「あたしたちから過去を消すことなんか、できやしないわ」
 「あなたは下らない常識や世間体に囚われているんだ。そんなものは捨ててしまうんだ!」
 「行けないわ!行ける訳ないじゃないの。そんなことしたら、これから先、あたしたちは一生傷ついたまま生きていくことになるのよ。それが分らないの?」
 「分りません!分るもんか」
 「そんな残酷なこと、とても耐えられないわ・・・・帰って!帰ってちょうだい」

 男は、最後通告のような女の拒絶にあって、「さようなら」という言葉を残して去って行った。男にとって、これが由美子との最後の逢瀬になったと考えた。後姿の男をずっと見守って、女はそこに立ち竦み、まもなくしゃがみ込んで泣き伏した。

 それでも煩悶の大きさが、ときめきに振れていく女の感情をギリギリに抑えていた。


 男は自らの存在を消すために、伝染病の蔓延するラホールへの転勤を受託したのだ。そのことを思うとき、女の心は束の間、解放に向かう衝動を抑え難くなっていた。男がラホールに旅立つ直前、女の解放への衝動が遂に開かれた。

 異国に旅立つ三島に、由美子は会いに行ったのである。



 5  一瞬にして凍りついてしまった二つの魂



 男と女の暗い情念の交錯の中に、禁じられているが故に噴き上がってきた感情が、やがてその封印を解いたのだ。男は女に裸の自分を曝し、女もまた禁断の世界を突き抜けようとした。ラストに向かう約20分間の映像は、メロドラマの感傷性を呆気なく砕いていくリアルな心理描写で埋め尽くされる。まさに成瀬の独壇場だった。

 最初にして最後の逢引を果たすために、男と女は急くようにしてハイヤーに乗り込んでいく。


 車内で二人は何も語らない。

 由美子の行動が、全てを説明していたからだ。

 二人を乗せたハイヤーは温泉宿に向かっていく。車内で二人は見つめ合った。そして微笑んだ。幸福を掴みかかっている生身の身体を乗せて、ハイヤーはその幸福を検証する未知のゾーンに向かって、ひた走った。

 そのハイヤーは、今、踏み切りで止まった。

 警報機が、何か必要以上声高に叫んでいる。

 沈黙しあう二人に名状し難い緊張が走り、映像は無機質な音声だけを記録して、ほぼ一分が流れていく。一分という時間の長さを改めて感じさせるほどの空気が、車内に澱んでいるようなのだ。踏み切りで立ち往生する、ハイヤーという名の無機質な媒体が、内側に抱えたデトネーション(爆轟=ばくごう)の恐怖に震え慄いているようだった。

 列車が通過した後踏み切りが開いて、まもなくハイヤーは、解放された思いを込めるかの如く発進していった。

 空気が弛緩したのも束の間、二人の視野に、交通事故の惨劇が唐突に飛び込んで来たのである。そこに決してあってはならない光景が広がっていた。

 
微笑みかけようとした男の顔は引き攣り、女は固まってしまった。二つの魂は、一瞬にして凍りついてしまったのだ。ハイヤーの中では、二人の言葉が意味を持つ音声となって、最後まで吐き出されることはなかった。



 6  思いを込めた男の別れ唄



 温泉宿に着いた二人は、何も語らない。語れないのだ。

 凍りついた魂が言葉を奪ったのである。

 二人は寄り添った。抱擁しあった。しかしそれ以上進めない。その息の詰まる空気を溶かしたかったのか、由美子は窓際にまで離れて行った。

 ところが、窓の外側の世界で異変が起きていたのだ。

 先程の交通事故の被害者が、温泉旅館に運ばれて来たのである。やがて、サイレンを鳴らした救急車が到着して、事故の被害者が担架に乗せられて、あっと言う間に移送されて行った。事故の被害者の妻の号泣が、辺りの静寂を決定的に奪っていた。

 一瞬の出来事だったが、二階の男女には永久なる時間の重みがあった。二人はもう抱擁を重ねることはできない。最も重い沈黙が流れた。この沈黙が、禁断の愛の終りを告げたのだ。

 「ごめんなさい・・・」

 女はその沈黙の中から、ようやく言葉を吐き出した。

 そこに仲居がやって来て、入浴を勧めた。

 「すぐ食事にして下さい」

 男もそんな言葉しか放てなかった。


 食事が運ばれてきた後で、男は自分の感情をようやくの思いで、それ以外にない言葉に結んでいく。

 「許して下さい。二人で一緒にボートを漕いだことも、しどけやこごみを一緒に摘んだことも、病気をしてあなたに看病してもらったことも・・・」
 「許してもらうのは、あたくしの方だわ。ラホールへなんか・・・」

 転勤という、明日に迫った現実に触れられた男は、一瞬言葉を失ったが、女にビールを注いで空気を変えようとした。

 「何に乾杯しましょうか?」

 女はその空気に乗れないで俯(うつむ)いた。男はその空気を変えようとする。

 「困るなぁ、僕は野蛮人なんです。だからヨーロッパなんかより、ラホールの方がいい・・・お別れに、僕の好きな津軽民謡を唄います。この唄を聞いた人は、皆幸せになれるという言い伝えがあるんです。あなたも幸せになって下さい」

 男は正座して、津軽民謡を唄い出す。女は啜り泣いている。言葉が繋げないのだ。


   田舎なれども 南部の国はサァ 西も東も 金の山 コラサンサエー
   沢内三千石 お米の出どこサァ 桝で計らねで 箕(み)で計る コラサンサエー(注2)


 存分な思いを込めた男の別れ唄に、女は運命の厳しさを受容するかのようだった。

 
十和田湖
翌朝、男と別れた女が十和田湖畔に佇んでいる。

 禁断の愛は、湖畔に佇む女の後姿の内に昇華していった。武満徹の叙情的な音楽が、朝の陽光に輝く湖面をいつまでも這っていた。メロドラマを極めたような印象的なラストシーンーそれは、成瀬巳喜男という稀有な映像作家が私たちに残した最後の表現となった。


(注2)この民謡は、「津軽民謡」ではなく、筆者には、「南部牛追唄」と「沢内甚句」の歌詞が混淆されている岩手県の民謡であるように思えた。

 調べたところ、映像で歌われた民謡は、旧南部領で広く歌われていた、「牛方」たちが牛を追いながら歌う「牛追唄」「牛方節」であり、この南部領とは青森県三戸郡辺りを含むことから、隣接する津軽地方にも伝わって歌われていたのではないかとも推察できる。それ故、映像の主人公は「南部牛追唄」を唄う際に、それを「津軽民謡」と紹介しているのかも知れない。

 しかし、青森県郷土資料館に問い合わせたところ、映像の民謡は「津軽民謡とは呼べない」との答えであり、その真偽の程については確信を持てない。付言すれば、「沢内系」として伝わる民謡が、現在「南部牛追唄」と呼ばれているらしい。

 因みに、本作のシナリオ(山田信夫/『年鑑代表シナリオ集 67年版』シナリオ作家協会編 ダヴィッド社より)でも確かめたところ、唄の最後は、「桝で計らねで 箕(み)で計る コラサンサエー」ではなく、「つけて納めた お蔵米 コラサンサエー」となっていた。

 基本的には、この歌詞も「南部牛追唄」の中の幾つかのバージョンに収まっていたので、ここでの指摘と矛盾するものではないことが判然とする。念のため。                

 
                         *       *       *      *

 

 7  堅く封印された扉を抉じ開ける愛



 映像批評に入っていく。

 
そのテーマは、この映像を通して丹念に描かれた「禁断の愛」について。私の中に、それだけがストレートに入ってきたからだ。

 禁断の愛は、堅く封印された扉を抉(こ)じ開ける愛である。

 その扉を抉じ開けるに足る剛腕を必須とする愛、それが禁断の愛である。

 そして、その扉を抉じ開けた剛碗さが継続力を持ったとき、その愛は固有なるかたちをそこに残して自己完結する。そう思うのだ。

 果たしてそこに侵入する魂に、その愛を自己完結するだけのエネルギーを持ち得るか。扉を抉じ開ける剛腕さと、その愛を継続させる腕力は別個の何かである。一回的な剛腕さが継続力を持つには、その時間を保証するに足る極めて難度な能力を必要とするだろう。

 果たして、人はそれを持ち得るか。

 時間を継続させるエネルギーが充分に用意されても、それを上手に駆動させるには、腕力や体力のみならず、そこに、それらの魂にとって殆ど未知なる膨大な精神力というものが求められるのだ。禁断の愛の大胆な飛翔の継続は、それほど困難な何かなのだと思う。


 禁断の愛の継続は、単に、その継続を妨害しようとする者たちとの果敢な闘争の持続力を意味しない。寧ろ、それを妨害しようとする力が大きく作用するほど、そこに防御しようとする者のエネルギーの再生産が可能となるだろう。禁断の愛は、寧ろそれを妨害する様々な因子が絡みつくほど、却って、その愛の継続力を保障する方向に向かっていくのである。

 禁断の愛の破綻は、寧ろ内側から分娩され、肥大していく。

 それは防御するエネルギーの枯渇によってではなく、それを固めて、そこに新しい価値を創造していくエネルギーの不足によって起こると言っていい。

 禁断の愛は抉じ開けることに容易で、継続することに艱難(かんなん)なる愛なのだ。経験する者だけがそれを知るだろう。その怖さを二人の時間の中で存分に味わって、そこに立ち竦み、狼狽し、やがて闘争の出口を模索することになるのではないか。
 
 それほどまでに危険な愛を、なぜ人は目指すのか。それを手に入れようと、なぜ人は時には命を賭けるのか。簡単である。それが禁断なる愛であるからだ。

 禁断なる愛は魔性の愛なのである。魔性の愛はその内側にたっぷりと蜜を含んでいて、その香りに誘(いざな)われし者たちが、次々と飽きることなく、そこに魔境を作っては壊していく。その魔境の継続力の不足によって自壊するのだ。

 
禁断の愛は壊れるのに易く、そこを突き抜けて王宮に辿り着くのは極めて難しい。それでも懲りない人々のラインがどこまでも続いていて、途絶えることはない。魔性の蜜の香りの起爆力の激甚さは、そこに集合する様々な因子の劇薬性に因っている。視覚的に際立った一つの愛に禁断の印をつけて、それを厭悪し、排除しようとする因子こそ、禁断の愛を魔性の愛に変えてしまうのである。

 それらは見える制度であるか、それとも見えない制度であるかのいずれかである。前者は、国民国家の拠って立つ法体系であり、後者は道徳的慣習とか、様々な個々人の負性なる感情を含めた、汎人間的な心情体系の一切である。それは怨念であったり、嫉妬であったり、見栄であったり等、様々だが、そのような否定的な感情に理不尽なまでに包囲されたとき、魔性の愛と化した禁断の愛は、自らの感情の自然な法則を逸脱し、しばしばそれを乗り越えるようにして禁断の時間を突き抜けていくのである。

 従って、禁断の愛の破壊力は、一見、対他的な体臭を放ちながらも、感情の自然な法則を逸脱した余剰のエネルギーが自らにリバウンドし、そこに作られた一時(いっとき)の魔境を壊しにかかるのだ。禁断の愛が、それを突き抜ける突破力によって禁断の印を解き放ったとき、そこに残されたのは二人の裸の感情の自然な姿である。

 元々、この自然な感情から発信された一つの愛に過ぎないが、周囲の様々な圧力によって過剰な思いを膨張させたことで、そこに必要以上の腕力を保持したとする幻想を生み出してしまった。しかし、その愛から禁断の印が解けたとき、そこに纏(まと)わりついていた幻想の肝心な部分はフェイドアウトしていくに違いない。

 幻想が剥がれた愛情は元の自然な感情によってのみ、そこになお魔境を作れるか。魔境の愛を継続できるのか。否であるとは断定できないが、しかしその継続は甚だ困難であると言わざるを得ない。なぜなら、裸にされた愛情が、現実の生活や人生とダイレクトに向き合わされることは、殆ど恐怖であるからだ。

 では果たして、それが本来持っていただろう自然な感情のみで、世俗的な現実原則の秩序に合わせていくのは可能であるのか。

 多くの場合、外圧だからこそ突き抜けることができた感情が一気に褪せてきて、その結果、関係の解体にまで後退するシナリオは、寧ろ、自然の流れと言っていいだろう。禁断の愛だからこそ、駆け落ちの愛は過剰に噴き上がるのだ。

 駆け落ちの愛がようやく辿り着いた桃源郷に、既に禁断の印が風化して、そこに自由な往来が可能になったとき、その愛はもう世俗との遮蔽物を失って、現実原則的な秩序への同化のみが求められる。そこに至って、一切の幻想が消滅し、関係もまた急速に破綻へと向かう外ないのである。禁断の愛は、畔で漂流しているときが一番美しい。一番燃え盛る。一番輝きを放つのだ。
 
 日常性を劇的に更新していく力というものが、男女の愛には確かにある。それは魔力ですらある。しかしそれはしばしば、個々の自我が刻んだ捨て難い航跡を破壊する力をも持つ。時間の連続性が済し崩しになる不安に、自我は耐えられないのだ。


 
禁断の愛の魔力は、その禁断性によって圧倒的なパワーを持つ。しかし、そんな自我の堅いガードに弾かれて、私たちの多くは魔境の杜を抜けられず、体温を奪われて、晒されて、震えながら日常性に立ち返ってくる。私たちの日常は、その体温が維持される条件の下で更新され続け、時間を繋いでいくのだ。日常性の破壊的更新という魔のカードは、私たち庶民の生理に相応しくないのである。繰り返し書くが、やはり禁断の愛は、畔で佇んでいる風景が一番似合っている。
 
 映画「乱れ雲」を観るたびに、私はいつもそんなことを考える。
 
 これは、禁断の愛がその畔で佇んでいて、更にそこを突き抜けようとして、遂に果たせなかった、男女の哀切の極みを叙情的に描き切った秀作である。



 8  「異界」への境界を示す、深くて暗い一本の河



 男と女が禁断の愛を突き抜けられなかったのは、突き抜けようとするラブロードの途上に、「悪魔の踏切」があったからである。

 その踏み切りは、その先を越えてはならないというサインを放つ有機体のような無機物だった。踏み切りの警報音は、禁断の愛の終焉を告げる決定的なサインとなった。踏切が悪いのではない。それは「異界」への境界を示す、決して渡ってはならない深くて暗い一本の河だった。それだけなのだ。
 
 踏み切りの先には、魔性の愛へと成就する魔境が待っているはずだった。しかし男と女を待っていたのは、禁断の愛の、その禁断性を記憶の澱みから引っ張り出してきた悪夢の世界だった。

 悪魔の世界に拉致された女の心は、もう絶え絶えだった。

 男も女をフォローする術がない。

 踏み切りを越え、女がそこで出会ったものは、その心に張りついていた外傷の記憶だった。

 温泉宿に着いてまもなく、フラッシュバックのように蘇った記憶の前で、女の視界から男の存在が消えた。禁断の愛を誘(いざな)うであろう、道行きへの一縷(いちる)の思いも消えた。孤独な男と孤独な女だけが、そこに置き去りにされたのである。



 9  成瀬らしからざる御座なりの物語設定  




 男と女を演じた、加山雄三と司葉子。

 その繊細で内面的な演技が、永遠に光彩を放っている。二人の心情を思うとき、その哀切に胸が詰まってしまうのだ。

 メロドラマの通俗性を好まない私だが、この作品が成瀬の遺作となったという強い思い入れが手伝ったのか、私なりに感情移入できた映像でもあった。

 それにも拘らず、私には不満が残ったのも事実である。

 それを正直に書けば、本作があまりに安直な物語の設定であったということに尽きようか。

 例えば、実家に戻った女の郷里の青森に男が転勤となるという展開がそれであり、また、転勤となった男が営業接待で使う常宿が、女の実家の旅館であったなどという偶然への依拠は、リアリスト成瀬らしからざる御座なりの物語設定であり、明らかに、「展開のリアリズム」への拘泥に欠如した演出でもあったと言えるだろう。
 
 更に、ラストシーンに繋がる事故の目撃シーンなどは、如何にも作り物のメロドラマの範疇を逸脱するものではなかったのは事実。

 然るに、以上の指摘を苦々しく認めるのに吝(やぶさ)かではない私だが、しかし、そこでの映像表現に於ける濃密な心理描写は群を抜いて秀逸であり、まさに成瀬ワールドの真骨頂であると言っていいのである。

 それは、この描写なくして成立しないギリギリの妥協点が生み出した、まさに映像の勝負を賭けた決定的な表現であったということだ。私はそう思う。


 
 確かに美男美女がいて、そこに禁断の愛が生まれ、ある種のメロドラマの典型的な物語展開の中で、痛切なる別離へと至る物語のシンプルさは、それがリアリストの映像作家の遺作として語られるには、あまりに安直過ぎるフィルムであるという謗(そし)りを受けるやも知れないが、それでも観る者に深々と残す余情の圧倒性が、最後まで、人間の深い内面世界を圧縮させた映像展開の内に表現されていたのである。

 ともあれ、世界でナンバーワンの映画監督と惚れこむ男の、その最後の表現に、世紀が変わった今でも、私は拍手を惜しまないのである。
               
(2006年3月)

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