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2011年4月28日木曜日

津軽じょんがら節('73)     斎藤耕一


<「外部装置」に捩じ伏せられた物語構成の脆弱さ>



1  自我と〈生〉のルーツを持たない男の空洞感が埋められたとき



誰から生まれ、誰に育てられ、どこで育ったかという、自我と〈生〉のルーツを持たない男にとって、内側に巣食う空洞感を曖昧にさせてくれる場所で呼吸を繋ぐことで、そこに、その男の応分に見合ったアイデンティティを手に入れることが可能であるだろう。

しかし、そんな男が、自我の〈生〉を曖昧にしてくれる格好の「お伽話」の空間だった、大都市・東京から遁走するに至ったとき、男にはもう、自己のルーツを曖昧にさせることで空洞感を封印する手立てを失ってしまったのである。

極道の世界で生きたその男が、東京で組幹部刺殺事件を起こしたために、「お伽話」の空間を捨て去るに至ったのだ。

そんな男を、一人の女が救った。


男のヒモであるその女は、自分の故郷である北方の地に男を随伴し、その生活の一切の面倒を見ることを約束したのである。(画像)

女が男を随伴した北方の地とは、冬の季節風がびゅんびゅんと吹きつけて来る、荒涼とした津軽の大地。

自我と〈生〉のルーツを持つ女には、戻るべき故郷があったが故に、曖昧にさせねばならない程に、内側に巣食う空洞感が張り付いていなかった。

そんな女の、もう一つの帰郷目的は、出漁中に事故死したと信じる、父と兄の墓を建てること。

しかし、真紅のコートが眩しい女の出で立ちは、既に、「お伽話」の空間での生活に馴染み過ぎた者の極彩色の煌(きら)びやかさを放っていて、灰色の濁った色彩に覆われた、北方の厳しい自然で呼吸を繋ぐ人々の土俗的なる心象風景と切れていた。

それでも、男のヒモであることのアイデンティティによって辛うじて繋ぐ〈生〉は、盲目の娘との「純愛」に振れていく男の変容の中で、その根柢において崩れてしまうのだ。

更に、不幸の連射が女を襲いかかった。

今や、女の帰郷目的であった墓の建立のための資金は、女が当てにした死亡保険金の入手の望みが断たれていたばかりか、働いていた飲屋に預けた貯金通帳まで持ち逃げされることで、計画倒れに終わってしまったのである。

自我と〈生〉のルーツを持つ女にとって、戻るべき故郷の存在は、もう、その悲哀を吸収してくれる特別な何かではなかったのだ。

自我と〈生〉のルーツを持たない男が、その空洞感を癒すに足る「純愛」に振れていくことで、不運な女の人格の総体を受容し得る何ものもなく、「男の観念」と「力の論理」という情感体系に拠って立つはずの、極道の世界の「非日常」の異臭を脱色させた25歳の男に向かって、遂に女は別離を告げた。

「あんた、良かったわね、ふる里が見つかって・・・」

女と別れた男が真っ先に向かった場所は、祖母に養われた盲目の娘の、今にも朽ち果てそうな棲家。

漁師生活にアイデンティティを手に入れていた男には、自我と〈生〉のルーツを持たないが故に、その空洞感を埋める作業には、殆ど立ち塞がる壁が存在しないのだ。

ズームを少し変えれば、何もかも新鮮に映り、何もかも、自己の再生の契機に成り得るのである。

しかし、人生は甘くない。


冬の津軽の海
男を抱擁すると信じた風土だって、盲目の娘との「純愛」のうちにのみ自己完結する幻想の小宇宙でしかないのだ。

「純愛」の継続力も、恒久の至福を約束してくれるものではないだろう。

だが、「純愛」の継続力が検証される前に、外部圧力によって、飯事(ままごと)遊びのような二人の関係は破壊されるに至ったのである。

大都市からの刺客によって、腹部を刺された男の遺体は、暗い河口に浮いていた。

自我と〈生〉のルーツを持たない男の空洞感が埋められたとき、一切が終焉したのである。




2  「外部装置」に捩じ伏せられた物語構成の脆弱さ




守るべきものを持つ女が、守るべき対象人格である男を失ったとき、女にとって戻るべき場所は、自分が生まれ育った辺境の大地ではなく、自我と〈生〉のルーツを曖昧にさせる大都市以外ではなかったということ。

そして、女によって守られ続けた男が、腐れ縁のような女との関係を切り捨てて、自分が守るべき別の対象人格を持つに至ったとき、男が初めて手に入れた「故郷」という幻想の至福は、男が遁走する起点であった、大都市からの刺客によって破壊されてしまったこと。

男にとって、このとき、その自我と〈生〉のルーツを曖昧にさせてくれる幻想の「故郷」も、都会という名の「お伽話」の空間も、何もかも喪失するに至るという、形式的な物語構成によって成る一篇が、本作の「津軽じょんがら節」だった。

しかし、男と女の関係の爛れた振れ方を、絡み合い、縺(もつ)れ合うような濃密な絵柄や、内的交叉を希薄にさせてしまったことで、物語の基本骨格の脆弱性だけが露わにされることになり、それが、その女との断ち難い未練が拾われることのない映像総体の脆弱性となって、その男が守るべき別の女との、「至高」の「純愛」の生命感・律動感が浮薄化してしまったのである。

圧倒的な映像美の内に、一切が呑まれてしまう物語の基本骨格の脆弱さの根柢に、極道の世界の「非日常」の異臭を嗅ぐことのない、フラットな表面的演技に終始した男の、その心象風景の密度の希薄さが横臥(おうが)していたことは否めないのだ。


斎藤真一の瞽女絵

「津軽三味線」のはち切れるような音色と、斎藤真一の絵画のインパクト、そして、それらを支え切る厳しい風土が放つ、主題提起のイメージ喚起力の強靭さに、本作の主人公となった男の表現力が子供のように捩(ね)じ伏せられてしまったこと、それが観る者に、粘着力を張り付かせた本作の叙情性を充分に伝え切れなかった瑕疵だった。


加えて、私が最も気になったのは、人を疑うことを知らない盲目の、無垢な娘の人格造形の脆弱さである。


彼女は一貫して依存的で、「自分を『地獄』から救い出してくれる『天使』」を待つばかりで、最適のタイミングで、その「天使」と出会って心を通じ合わせたと思ったら、騙されて娼婦にされる危機を招来するエピソードに象徴される不幸を、全人格的に負っているのである。


何より、この娘こそ、真紅の色彩を背景に描き出す、斎藤真一の「瞽女(ごぜ)」の絵画と、「津軽三味線」が喚起するイメージに重なり合わせていながらも、その強靭さとの落差に戸惑うばかりである。

斎藤耕一監督
その落差を埋める情感こそ、「悲哀」ということになるのか。

結局、本作は、イメージが喚起する「内的表現力」の決定的不足を、三味線と絵画に代弁される「外部装置」に依存することで生まれる、「悲哀」の情感をフィルムに鏤刻(るこく)する映画以上のものではなかったということだ。

思えば、この娘もまた、「インセスト」という「負の十字架」を背負うことで、自我のルーツを崩されていたのだ。

同様に、自我のルーツを持ち得なかった男の内側に、「故郷を持たせる」という役割を演じる制約性の中で造形された人格像は、詰まる所、「故郷を持たせた」男から庇護される運命を免れ得ない脆弱性を必然化させてしまったのである。

それは、圧倒的な映像美に依存し過ぎた物語構成の脆弱さということに尽きるのだろう。

(2011年5月)

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