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2010年8月15日日曜日

ラヴィ・ド・ボエーム('92)    アキ・カウリスマキ


<定着への堅固な意思を保持しない、漂流するボヘミアン性 ―― その「共有」感覚>



1  物語の時間を支配し切れない登場人物 ―― その通奏低音



「冗長」、「情感過多」、「予定調和」、「物語や登場人物の美形ライン」、「華麗」、「大悲恋」「純粋無垢」、「形而上学」、「懊悩」、「自己犠牲」、「明朗闊達」、「深刻」、「英雄譚」、「喧騒」、「饒舌」等々。

同じ原作(H・ミュルジェールの「ボヘミアン生活の情景」)ながら、プッチーニの名作オペラの「ラ・ボエーム」で描かれた、パリの下町の「賑やかさ」と、そこに住む若者たち、とりわけ、美男美女の「恋」を中心にした、「夢溢れる陽気」で、「華やか」な青春感動譚に反発する意図で提示した本作の特徴を列記すれば、以上の概念的イメージを払拭することで見えてくる何かであると言っていい。

「オペラは死んだ芸術だが、いいだろう」

これは、本作の実質的主人公のロドルフォが絵画のパトロンに返した言葉だが、原作のやるせない雰囲気に拘るアキ・カウリスマキには、プッチーニの名作オペラは許し難かったのだろう。

原作に拘ったアキ・カウリスマキが、本作で映像化した物語の基調音を要約すれば、「ユーモア」と「ペーソス」であると思われる。

その意味から言えば、この物語は完全に前後篇に分れるだろう。

マッティ・ペロンパー演じるアルバニア人・ロドルフォ
即ち、アルバニア人であるロドルフォが国外送還されるまでの話と、そのロドルフォがフランスに不法入国して来てからの話の二篇である。

明らかに、前者は「ユーモア」の濃度が深く、後者は、呆れるくらいベタな描写の連射を繋ぐ程に「ペーソス」の濃度が深い。

それにも拘らず、全く基調音が異なる印象を与える物語の通奏低音は、「登場人物が、自分の状況下で形成されていく物語の時間を支配し切れていない」ということである。

「物語を支配し切れない登場人物」の、間延びするような日常的振舞いの只中に作られる「間」こそ、物語の「ユーモア」と「ペーソス」を醸し出す推進力になっているということ。

これが、この際立って個性的な映像に対する私の批評の本質である。

「物語を支配し切れない登場人物」の典型例を、ロドルフォとミミの「恋模様」における会話の中から拾ってみよう。

そこでは、「空転するダンディズム」が滑稽感の内に露呈されていたのである。

「送ってくれるのは嬉しいけれど、家は遠いの」とミミ。
「モスクワだといい。北の果てまで一緒について行ける」とロドルフォ。
「遠過ぎるわ」
「いつかは着くさ。不思議だ。いつの間にか、僕の部屋に着いた。犬に会って行かないか?」
「それじゃ、少しだけ」
「コーヒーを入れる。その間、窓から街の風景を眺めているといい」

ロドルフォの恋①
プライドのみが高く、貧困極まる生活を漂流する男が張る「虚栄の前線」では、まさに根拠の希薄な男のダンディズムが、滑稽なまでに物語を支配していた。

それから暫くしてからの、レストランでのデートでの会話。

今度はロドルフォの絵が売れ、鑑識眼の欠如するアホなパトロンから、偶然手にした大金を懐に入れた男のダンディズムは、いよいよ全開するのだ。

「僕と一緒に暮さないか?僕は独身主義だが、君とならうまくやれる。仕事は止めろ。僕が絵を売って食わせるよ」
「じゃ私は何を?」
「犬の散歩、それに掃除や家事も」
「扱き使うの?」
「いや、僕が掃除する。君は窓から公園を見ていればいい。夜はオペラ見物だ」

これ以上ない気障な台詞を放った直後、あろうことか、「自称芸術家」の財布が掏られて、レストランの客に支払ってもらう始末。

折角の殺し文句も台無しになるが、却ってロドルフォのキャラが際立つ場面だった。

結局、いつもこんな調子で、「物語を支配し切れない登場人物」の「ユーモア」が炸裂するのだ。


思案が浮かばぬ貧乏一直線の3人組
然るに、この「ユーモア」の基調音は、後半に入って、俄に「ペーソス」の基調音を濃密に醸し出していくが、「物語を支配し切れない登場人物」という通奏低音には変化がなかった。

女の重篤な疾病という「風景」の変容を機に、物語の基調音から「ユーモア」が消失し、代って「ペーソス」の基調音が全開していくのである。

「ペーソス」を基調音にする物語のラインに張り付くのは、ベタな描写の連射と、「情感過多」に陥らない程度の感傷濃度の増幅であった。

「雪の降る街を」を挿入する作り手の豊饒な作家精神が、最後はセンチメンタリズムに雪崩れ込んでいったのは、H・ミュルジェールの「ボヘミアン生活の情景」の心象風景に添えるメンタリティの睦みということなのか。


19世紀の仏の作家・H・ミュルジェール
映像構成において特段の違和感がなかったものの、私には「作り過ぎ」の印象を拭えなかった。



2  定着への堅固な意思を保持しない、漂流するボヘミアン性 ―― その「共有」感覚


他のアキ・カウリスマキの作品同様に(と言っても、まだ4作しか観ていないが)、彼が尊敬する小津安二郎的な固定カメラに捕捉される人物たちが醸し出す、「余白の美」(と言ったら大袈裟だが)の如き、そこはかとなく漂う「間」の中で形成される空気感は、台詞の極端な少なさによって生まれるシンプルさによって「ミニマリズム」の極北とも言えるもの。

その台詞の少ない作品の中で、限定された台詞で勝負する、極めて作家性の強い監督であるということ。

それが、「アキ・カウリスマキの映像の生命線」という把握は殆ど常識であるだろう。

要するに、台詞に依存することなく、映像のみで主題を語り切ろうとするアキ・カウリスマキは、「映画」という表現媒体の力を信じているのだ。

そのような映像作家の構築した本作を、「ユーモア」と「ペーソス」を醸し出す物語の登場人物の、その際立って個性的な人間臭さについて、ここでは「友情」というキーワードで考えてみたい。

「友情」が成立する絶対条件 ――それは「自我の武装解除」という語に尽きる。

その把握から、私は友情の成立の基本条件を、「親愛」、「信頼」、「礼節」、「援助」、「依存」、「共有」という心理的な因子の集合と考えている。

共同生活をする貧乏一直線の3人組
以上の把握に則って、本作の三人の「自称芸術家」たちの関係構造を俯瞰すると、「親愛」、「信頼」、「礼節」という要素の希薄さと、「援助」、「依存」、「共有」という要素の濃度の高さとの不均衡感が特徴づけられていて、まさに「可笑しな関係の中で漂流するボヘミアン」という印象だけが浮き上がっていくのである。

とりわけ、「援助」感情が全開する、後半の物語の基調における、「ミミを愛するロドルフォへの男の友情」の場面は出色だった。

作家のマルセルは書籍を売り、音楽家のショナールは自家用車を売って、ミミの治療費の扶助にしたのである。

このような行為に象徴される「援助」感情こそが、「友情」を含む「愛情」の基幹感情であると考える私は、マルセルとショナールのロドルフォへの「友情」に関わる描写は、後半の物語の「ペーソス」の基調音を支え切る端的な表現だったと思っている。

「可笑しな関係の中で漂流するボヘミアン」という印象は、このような「健全」な軟着点に逢着することで、物語の前半における、プライドのみが高い「自称芸術家」たちの悪ふざけの不均衡感を希釈化させる効果を持ち得たのである。

そんな彼らの、滑稽感溢れる会話の一例を挙げてみる。

当然、「ユーモア」を基調音にする、物語前半でのシークエンス。

「女性に貧乏暮らしを強いるのは酷だ。だが、男はもっと強い。挫折してもメゲない。毎日、ボロを着ても落ち込んだりしない。だが、女はそうはいかん。ドレス一枚に歓喜するのが女だ。そのうち、俺たちも稼げるだろう」

これは、売れない作家のマルセルの言葉。

彼らの日常性の様態を、彼はダイレクトに表現しているのだ。

「そうだ。芸術品を売れば、パン代になる」

ロドルフォの恋②
これは、売れない画家のロドルフォの言葉。

彼は自分の絵が「芸術品」と確信し、且つ、それが「商品価値」を持つと信じているのだ。

「そこでだ。明日、女たちを買い物に連れてってやろう。日曜は田舎にピクニック」

マルセルの意図は、彼らの日常性と無縁な時間の内にその身を預けたいのである。

決して彼らへの強い思いで繋がっているとは思えない「恋人」を連れて、彼女たちの機嫌を取ろうという 「戦略」しか思いつかない脳天気さこそ、まさに彼らが「定着」への堅固な意思を保持していない証左でもあった。

「俺は?」

これは、売れない音楽家のショナールの言葉。

この男だけには、特定の「恋人」がいないのだ。

「日曜までに恋人を作れ。そのツラじゃ、女も引っかかるまいが。たとえダメでも来い。運転手役だ」

マルセルの辛辣な言葉の直後、直ちに電話をして、仮の「恋人」を作ってみせるショナールの振舞いもまた、いかにも「可笑しな関係の中で漂流するボヘミアン」の真骨頂と言っていい。

その直後の映像は、プライドのみが高く、貧困極まる生活を漂流する3人が恋人を随伴して、長閑なピクニックを愉悦するシークエンス。

以上のシークエンスにおいて、長閑な時間を強引に作り出した、貧しくともプライドだけは高い、「自称芸術家」たちの友情感覚の裸形の様態が、「突き抜けたユーモア」の内に描き出されていたのである。

要するに、「自称芸術家」たちの友情感覚を考えるとき、友情の構成条件の一つである、「共有」という心理的要素の有りように刮目せざるを得ないのだ。

即ち、「秘密の共有」こそ友情感覚の濃度のモジュールと考える私には、どうやら「自称芸術家」たちの関係性の中では、この「秘密の共有」という名の友情感覚が末梢的な価値しか保持されていないようなのである。

「自称芸術家」たちの相貌も表情も一貫してぶっきらぼうだが、それでも彼らの自我は決して閉鎖系になっている訳ではない。

単に、「社交」をセールスする人格ではないということだ。

アキ・カウリスマキ監督
以上の文脈で考えれば、まさに「自称芸術家」たちの友情感覚における「共有」という心理的要素の有りようは、「『定着』への堅固な意思を保持しない、漂流するボヘミアン性」という「似たもの性」の「共有」感覚において繋がっていたのである。

そんな彼らが、物語の後半で、「ミミを愛するロドルフォへの男の友情」のシークエンスを作り出したのだ。

だからこそ、物語の後半の基調である「ペーソス」を濃密に表現し、観る者に深い感銘を残したのである。

恐らくこの辺りが、アキ・カウリスマキの作家性溢れる人物造形の妙であると言えるのだろう。

そのような印象を強く持つ本作に対して、別に特段の思い入れをすることのない私としては、至極客観的に付き合えた一篇だった。

(2010年8月)

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