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2008年11月8日土曜日

七人の侍('54)       黒澤 明


<黒澤明の、黒澤明による、黒澤明のための映画>





 序  黒澤明の、黒澤明による、黒澤明のための映画


 正直なところ、私は「黒澤映画」があまり好きではない。

 それは、小津安二郎や溝口健二、木下恵介、大島渚、篠田正浩、増村保造等といった著名な映像作家の作品が、それぞれの理由であまり好きでないように、私は所謂「黒澤映画」なるものを、自分なりの理由で好きになれないのである。

 私にとって、「黒澤映画」は暑苦しくもあり、声高でもあり、そして多くの場合、格好良く描き過ぎるのだ。何よりも彼の作品は、あまりに過剰なのである。

 黒澤は何かいつも、これだけは言っておきたいというものを持っていて、それを映像の中で叫んで止まないように思われるのである。そのようなところが、私にはいつまでも黒澤ワールドに馴染めない理由になっていると言っていい。

 普通の感覚で、そこに特段の視覚的な描写を鮮烈に刻んでいく手法が、私の皮膚感覚と合わないのであろう。それは単に「好み」の問題である。
 
 それにも拘らず、「黒澤映画」の中に「これだけは外せない」と、私が高く評価し、愛好している作品がある。

 多くの黒澤作品の中で、私が最も気に入っているのは三作に尽きる。

 それらは、「野良犬」であり、「羅生門」であり、本作の「七人の侍」である。
 
 「野良犬」は時代の息吹を濃密に伝えた傑作であり、「羅生門」は、人間の心の奥に澱む世界を描いた稀有な傑作だった。

 そして「七人の侍」は、映画という総合芸術のエッセンスを殆ど全て活用して成功した感のある、娯楽要素ふんだんのリアル時代劇の最高傑作と言うべき作品だった。
 
 何よりも本作は、登場人物の一人一人を、「描写のリアリズム」で活き活きと表現し切った作品だった。

 その完成度の高さからいってナンバーワンの黒澤作品だと思うが、スーパーマンの登場を嫌う私の好みからいって、「描写のリアリズム」だけでは、暗い映画館の中で得たその場限りの感動に終わりやすい。だから何度もそれを味わいたいと思わないのだ。せいぜい二回観たら、記憶の彼方に封印されてしまうから困りもの。そこが成瀬作品と決定的に分かれるのだ。

 それにも拘らず、三船敏郎という男の、些か過剰だが、しかし存分に魅力的な演技がここでも眩しいくらいに輝いていた。  

黒澤明キ)
同時にこれは、「黒澤明の、黒澤明による、黒澤明のための映画」だったと思える程、一人の映像作家の個性が表出された、極めて個性的な作品だったと言えようか。

 また、それは日本映画全盛期に雄々しく立ち上げられた映画史上の、その一つの到達点を示す記念碑的な映像でもあった。私はそう思っている。

 

 1  兵農未分離で、階層分化が極めて流動的な状況下にあって



 ―― 物語を詳細に追っていこう。

 
 「戦国時代― あいつぐ戦乱と、その戦乱が生み出した野武士の横行。ひづめの轟(とどろき)が、良民の恐怖の的だった。その頃・・・」

 これが、映画「七人の侍」の冒頭の説明文である。
 
 時は15世紀、室町時代の後半、所謂、戦国時代である。

川中島の戦い(キ)
この時代、この国は著しく荒廃していた。この国の歴史の中で、これ程この国が様々な面で荒んでいた時代は他にない。

 室町幕府の権威と権力が失墜し、国の全土で、異常極まる「国盗り物語」が各地で噴出し、お陰で農閑期の農民が半ば武装化を強いられルケースもあった。

 また、有力百姓(土豪=地侍)は被官百姓(隷属性の強い百姓)を引き連れて、合戦に参陣すること等で領国の守護大名(注1)、または戦国大名の軍団に組織され、「国盗り物語」への参加を主体的に選択することもあったのである。

 つまり、後の江戸時代のように身分制が未だ確立せず、階層分化が流動的だったということである。

 元来、争いごとを嫌う農耕民族が、お互いに殺戮し合い、奪い合うような、殆ど常軌を逸する生活が日常化していた百年間、それが戦国時代だったのだ。

 そんな狂乱の時代の中で、多くの村々は自らを守るために様々な工夫を凝らし、自村防衛に努めていたのである。

 繰り返すが、この時代は兵農未分離で、階層分化が極めて流動的な状況下にあって、例えば、「農民層の上下方向関係への分解が進行し、その上層部の人々が地主ないし小領主化し、或いは、武家被官となるという傾向」(『戦国時代・上』永原慶二著 小学館ライブラリー刊「惣・一揆と下克上の社会状況〈農村経済の不安〉」より)を示していて、又有力名主や地侍は土豪として武装化し、数ヶ村を支配する自治能力を保有する「逞しさ」を誇示するほどだった。

 この時代、決して民衆は逃げ惑い、殺戮されるだけの軟弱な存在であったとは言い切れないのである。

 しかしそんな時代だからこそ、強固に武装化されていない弱小の村を狙って、彼らの耕作した穀物を奪い盗るアウトローの輩も存在したのであろう。

 絶対的秩序が確立されていないそんな時代故にこそ、農民たちは、アウトローたちの圧倒的暴力に対抗する防御手段を作り出す必要に駆られていたとも言えようか。彼らもまた、戦う集団に変貌せざるを得なかったのである。
 

京都市・「応仁の乱勃発地」の石碑(ウィキ)
(注1)封建領主化した守護。室町時代、守護は、半済(はんぜい)(=室町幕府が、特定の国の荘園の年貢の半分を、一年に限って守護に与えた制度)や守護請(=守護が荘園や国衙)領の経営を一任され、豊凶にかかわらず毎年一定額の年貢収納を請け負う制度)などによって荘園・国衙領(こくがりょう)(=国有地のこと)を侵し、段銭賦課(たんせんふか)(=朝廷・幕府・守護などが一定地域に公田の面積に応じて一律に課した臨時税)なども行うに至ったが、応仁の乱以後は下剋上によって没落する者が多かった。(「大辞林」をベースに、筆者編集す)
         
 

 2  蹄の轟と共にやって来る野伏せりの恐怖に対して



 ―― ここから、映画の物語世界に入っていく。
 

 この物語の舞台となった村もまた、そんな時代の宿命を負っていた。

その村は去年も野伏(のぶ)せり(野武士のこと)たちに襲われて、甚大な損害を受けていた。その村に、今年も彼らは襲って来るに違いなかった。
 
蹄の轟と共にやって来た野伏せり
「待て、待て!去年の秋、米をかっさらったばかりだ。今行っても、何にもあるめぇ」
 「ようし!麦が実ったら、また来るべぇ!」
 

 野伏せりたちは、今年も蹄(ひづめ)の轟と共にやって来た。

 しかし麦の収穫にはまだ早かった。彼らは村を襲うことを確認して、その場を去って行く。

 そして、その言葉を隠れ聞きした一人の農民が村に戻って、迫り来る危機を伝えたのである。

 村人は一箇所に集まって、その対策を話し合っていた。去年のこともあって、村人の中に諦めのムードが漂っていて、泣き出す農婦もいた。

 
そんな中で、一人の若い村人が立ち上がり、檄を飛ばしたのである。
 
 「皆、突っ殺すだ!二度と来ねえように、皆、突っ殺すだ!」

 声の主は利吉(りきち)。彼だけは戦う気持ちでいた。しかし、他の村人は違っていた。

与平
「おら、やだ!」と与平。かなりの年配である。
 「できねえ相談だ、そんなこたぁ」と万造。村のリーダーらしき男である。
 
 以下、利吉と万造の激しい議論が続いていく。
 
 「自分の家の牛は突っ殺せるが、野伏せりは突き殺せねってのか」
 「野伏せりと戦って、十に一つも勝ち目はねぇ。負けたときはどうなる?村中皆殺しだぞ!腹ん中の赤ん坊まで、突っ殺されるれだぞ!」
 「もう沢山だ!このまま生きていくよりも、いっそ一思いに、突っ込ますか、突っ込まされるかだ!」
 「百姓には、我慢するしか方法がねぇだよ。長(なげ)えものには捲かれるだよ。野伏せりが来たら、おとなしく迎えるだよ。麦も黙って渡すだ。そして、おらたちが何とか生きていかれるだけ残していってもらうだ。それだけは、何としても、地べたに額を擦(こす)り付けても頼むだよ」
 
 結局、議論に結論が出なかった。

 そこで村人は、長老である儀作(ぎさく)の元に集まって、その意見を聞くことにした。
 
 「やるべし!」

長老・儀作
それが儀作の答えだった。長老は、侍を雇って共に戦うべきだと言うのである。それに反発する万造に対して、長老は言い切った。

 「おらぁ、この眼で見ただよ。おめぇらの生まれた村が焼かれたときのことだ。この土地さ、逃げて来るときに見ただ。燃えていねぇのは、侍を雇ったその村だけだった」

 更に反論する万造に、長老は改めて言い切った。

 「腹の減った侍探すだよ。腹が減りゃぁ、熊だって山降りるだ」
 
 これで全て決まった。万造は、利吉、与平、茂助を伴って、“空腹の侍”を捜す旅に出たのである。



 3  “空腹の侍”を捜す旅の中で



月代の髪を切った武士
万造、利吉らは町に出て来て、必死に“空腹の侍”を捜すが、思うようにいかなかった。たとえ浪人でも、侍としての意地があるから、「百姓如きの世話にならない」という身分意識が邪魔をして、彼らの誘いに乗る者はいなかったのである。

 諦めかかった万造らの前に、一人の武士の存在が眼を引いた。

その侍は、子供を人質にとって立てこもる男から、知略を駆使して子供を救い出したのである。

武士の誇りでもある月代(さかやき=頭の中央の部分まで剃った髪型)の髪を一人の僧侶から切ってもらうことで、自らを出家に見立てて興奮する男を安心させ、その隙を突いて、男を一刀の下に斬り捨てたのである。


 このあまりに見事な救出劇に、周囲の見物人たちはヤンヤの大喝采。

島田勘兵衛
そんな空気を無視して、坊主頭になったその侍は、一人黙々と街道の向こうに消えて行った。

 それを追う万造たち。

彼らは、この侍こそ頼るべき存在であることを確信したのである。

侍を追う万造たちが声を掛けるのを躊躇(ためら)ってる間に、その侍の前に一人の若い武士が突然跪(ひざまず)き、土下座した。
 
 「お願い致します。是非、門弟の一人にお加えを!」
 「門弟?わしは島田勘兵衛という見かけどおりの浪人でな。別に門弟などおらんが・・・」
 
 ヒーローの名は島田勘兵衛。戦国内乱の歴戦の勇士らしい。若者の名は、勝四郎。純真無垢な若侍の印象が強い。

 勘兵衛は歩きながら、勝四郎に自分が門弟を持つ身分でないことを説諭し、きっぱりと断った。

 その二人に先程から纏(まと)わりつく一人の男がいた。

男は何も語らず、ただ勘兵衛に山犬のように取り付いて、その回りをウロウロするだけ。男はやがて離れていくが、遂に農民の一人が勘兵衛の前に現われて、土下座した。利吉である。

 彼は勘兵衛に「お願(ねげ)えがあります」と言って、彼を引き留めた後、用件を説明したのである。
 
 「できん相談だな」と勘兵衛。ここでも、彼は断った。
 「私なら、百姓に竹槍を持たして・・・」と勝四郎。彼はまだ勘兵衛から離れない。

 「それも考えての上だ・・・これは戦(いくさ)遊びとは違うでな。相手は野武士とは言え四十騎だ。侍を二人、三人集めても、防ぎはつかん・・・守るのは攻めるより難しいでな。後ろは山と言ったな?その山は馬も通えるのか?うーん。前は畑、田に水を引くまでは、どこからでも馬で攻められる。四方に備えるだけでも四名、後詰(ごづめ)に二名。どう少なく見積もっても、わしを入れて七名・・・」
 
百姓の依頼を断った勘兵衛だが、農民たちの熱意を前にすると、男の気持ちも揺らいでくる。彼はそんな人格者として、この映像で最初からリーダーとしての役割を与えられているようだ。

 彼は知略を駆使することに長けた、ある意味で、戦国武将の生き残りの侍のイメージが強い。

私には、信玄に仕えた山本勘助や、秀吉に仕えた竹中半兵衛、黒田勘兵衛といった歴史に名高い軍師を彷彿させるのである。この島田勘兵衛なる男は、偶(たま)さか良き主君に出会えなかっただけの有能なる侍であると言っていい。
 
 「頼むに足る侍をそれだけ集めるのは容易ではない。しかもただ、飯を食わせるというだけではな。余程の物好きではない限りこれは勤まらん。それにな、もうわしも戦には厭きた。年だでな」
 
 決断し切れない素振りを見せる勘兵衛の前で、一人の百姓が啜り泣き始めた。これも利吉である。彼には今、村を守るために野武士と戦うことしか頭にないのだ。

 啜り泣く利吉を、周囲に屯(たむろ)する無頼の徒はせせら笑って、馬鹿にした。
 
 「ああ、百姓に生まれなくて良かったな、全く。犬の方がましだ。畜生!死んじまえ、死んじまえ!早く、首、括っちまえよ」
 「下郎!口を慎め!貴様には、この百姓たちの苦衷(くちゅう)が分らんのか!」
 「笑わしちゃいけねえよ。分ってないのは、お前さんたちよ。そうじゃねぇか。分ってたら、助けてやったらいいじゃないか!」
 
 百姓上がりの無頼の徒に詰(なじ)られて、勝四郎は刀を抜く勢いで、彼らの前に立ち塞がった。それを勘兵衛は必死に止めた。その勘兵衛に向って、一人の無頼は、てんこ盛りの白米を入れた丼を右手に抱えて、更に責め立てたのである。
 
 「おい!お侍、これを見てくれ!こいつはお前さんたちの食い分だ。ところが、この抜け作どもは何を食ってると思う?稗(ひえ)食ってるんだ!自分たちは稗食って、お前さんたちに白い飯食わせてるんだ!百姓にしちゃ、精一杯なんだ!何言ってやんでい!」
「よし、分った。もう喚くな。この飯、疎(おろそ)かには食わんぞ」
 
 無頼の徒の本音が分って、勘兵衛はもう逃げられなくなった。彼は百姓たちの村を守るための戦いを決意したのである。

その言葉を聞いて、利吉は手を突いて、勘兵衛に深々と頭を下げた。

 万造と茂助は先に帰村した。報告のためである。

 万造は長老の儀作に、侍がやって来ることを報告したが、自分の娘の身が心配でならない。

 「野伏せり、来るだぞ。首が飛ぶっちゅうのに、髭の心配してどうする!」

 長老に説諭された万造の親心が、垣間見えた描写だった。
 


 4  島田勘兵衛の同志集め



 一方、利吉と与作は町に残って、勘兵衛の仕事を見守っていた。勘兵衛の仕事とは、仲間を集めること。これは、百姓たちには見守るしかない仕事だった。

 勘兵衛の、同志集めの困難な仕事が始まった。

 自分を含めて七人。 

だからあと六人の侍を集めなければならなかった。勘兵衛が小屋の中に居て、誘い込んだ侍を、戸口で隠れて待つ勝四郎が、棒切れを上段から振り下ろす。それで相手の侍の腕前を試すのである。

 次々に侍が入って来て、勝四郎の棒切れで打ちのめされる侍がいたり、或いは、それを見事に払って、勘兵衛の眼鏡に適(かな)う侍もいた。

しかし多くの侍は、飯を食わしてもらうためだけに命を賭ける仕事に対して、拒否反応を示すばかり。彼らには百姓の村を守るために、自らを犠牲にする気持ちなど到底起らないのである。当然のことだった。

 そんな中で、一人の侍が勘兵衛と意気投合することになった。無論、勝四郎の不意打ちをクリアした男である。

五郎兵衛
その奇特な侍の名は、五郎兵衛。
 
 「やりましょう。しかしこれは・・・わしにも百姓の苦しさは分る。お主が百姓のために立った気持ちも分らんではないが、わしはどちらかと言うと、お主の人柄に惹かれて付いてまいるのでなぁ。いやぁ、人間、ひょんなことで知己を得るものでござるなぁ」
 
 この五郎兵衛が、まもなく勘兵衛の片腕となっていく男である。勘兵衛は早くも副リーダーを獲得したのである。

 次に勘兵衛が獲得した仲間は、七郎次(しちろうじ)。彼は勘兵衛の昔の部下であった。

 映像はここで一つ、偶然性に頼ることになったが、決して不自然ではない。この当時、巷では浪人がゴロゴロしていて、絶えず街道を行き来していたからである。

 四人目の侍は、平八。

 人の好い男で、誰からにも好かれるタイプの侍だった。彼のような存在が、このような戦には不可欠な役割を果たすのである。何よりも彼らは、元来、侍を疑ってかかる農民たちと深くクロスし、そこに一定の信頼関係を作る必要があるのだ。そんなときこそ、平八の人柄の良さが潤滑油になっていくのである。しかし五郎兵衛の評価によると、「腕は中の下」。

 五人目の侍は、久蔵(きゅうぞう)。

久蔵
果し合いで、相手を一刀の下に切り倒した男だ。

 勘兵衛の評価によると、「腕は上」。しかし久蔵は、「自分を叩き上げる、それだけに凝り固まった奴」というイメージを持たせる孤高の剣士。

 「七人の侍」の中に、当然自分が入ると思っていた勝四郎が、勘兵衛の構想の中に入っていないのを知って、若侍は勘兵衛に猛烈に抗議した。勘兵衛はその若者に、諭すように話し始めた。
 
 「腕を磨く。そして、戦に出て手柄を立てる。それから、一国一城の主になる。しかしな、そう考えている内に、いつの間にか、ほれ、このように髪が白くなる。そしてな、そのときはもう、親もなければ、身内もない・・・明日は国へ発て。ここ四、五日は、いい修行になったはずだ。土産はそれで充分」
 
 勘兵衛は、勝四郎の将来を案じているのである。それは、親心と言っても良かった。

しかし勝四郎は納得できない。この若者は、あまりに純真無垢なのである。そんな若者の性格を知る者たちが、次々に勘兵衛の説得にかかる。

 「お願えします。あの方も是非・・・」と利吉。
 「まあ、いいではないか。お主は子供、子供と言うが・・・」と五郎兵衛。
 「子供は大人より、働くぞ」と平八。
 
 この仲間たちの助言で、勘兵衛の気持ちは固まった。

 そこに、意志をまだ固めていなかった久蔵が現われたことで、「六人の侍」が誕生したのである。

勝四郎
予定より一人足りなかったが、これで勘兵衛は村に入ることを決めた。時間的余裕がなかったからである。

 七人目の菊千代が、最後の一人として一党に参加することが決まったのは、彼らが村に入ってからまもなくのことだった。

 それまで菊千代は、例の勝四郎の不意打ちによる腕試しの洗礼を受け、脳天を打ち抜かれていた。それは明らかに、酩酊していた菊千代の不覚だった。

それでも勘兵衛たちは、その腕力と執念深さを評価していたが、この時点ではまだ除外されていたのである。

 いよいよ翌朝の出立(しゅったつ)のときになっても、菊千代は彼らの後に付いて来る。彼は勘兵衛の武勇伝を目撃して、密かに彼の下で働きたいと考えていたのだ。

 因みに、菊千代とは、勘兵衛に取り付いていたあの山犬のことである。勿論、菊千代という名前は本名ではない。彼がどこかで盗んできた家系図から、その名を借りたもの。


 こうして、一応形だけは、「七人の侍」が誕生したのである。

 戦場の村へ向う彼らの旅に、執拗に菊千代は付き纏(まと)う。一人で戯(おど)ける菊千代の存在は、まるでピエロだった。

彼らの旅は、とても戦場に向かう者たちの緊張感とは無縁な滑稽感に満ちていた。



 5  七人の侍の誕生



 「六人プラス一人」の侍たちの旅は、ようやく辿り着くべき場所に這い入った。しかし彼らを迎える村の空気は冷え冷えとしていた。誰も迎える者がなく、村人たちは皆、自分の家に閉じこもってしまっていたのだ。

 「これは一体、どういう訳かな?」

 この勘兵衛の言葉に反応して、利吉が村人に事情を聞きに行った。取って返した利吉の言葉は、侍たち自身で村の長老に事情を聞きに行って欲しいとのこと。予想外の反応に、穏健な勘兵衛は一党を連れて、村の長老の元に出向いて行った。
 
 「全くどうも、叶わないでなぁ。百姓は、雨が降っても、日が照っても、風が吹いても、心配ばかりなり。つまり、びくびくするより能がねぇ。今日のことも、ただ、びくびくしているだけのことだで」

 この長老の説明に、勘兵衛は逆に問い質した。その言葉は、一貫して温和である。

 「しかし老人、村の者は我々の何を恐れているのかな?我々に何をしろというのか」
 
 このとき、村内を板木(ばんぎ=半鐘用の板)の音が木霊(こだま)した。その音に反応した侍たちは、刀を取って、村の中枢を疾風の如く駆け抜けた。村民たちも広場に集まって来た。その表情は恐怖感に引き攣(つ)っている。野伏せりの襲来を恐れたのだ。

左から平八、勝四郎、利吉、五郎兵衛、勘兵衛、久蔵、七郎次
右往左往する群集と化した村民たちを仕切ったのは、ここでも勘兵衛だった。
 
 「狼狽(うろた)えずに、はっきり申せ!まず、野武士の来た方角を言え!では野武士を見た者は、前に出ろ!では、板木を打った者は誰か!」
 「俺だ!」
 
 その声の主は菊千代だった。

 彼は村民たちを外に出すために、板木を打ったのである。野武士の襲来に恐れて、恐々表に出て来る村民たちに向って、菊千代は痛罵した。

その痛罵に、長老の儀作は、その老いた体を杖に預けながら、菊千代に近づいた。

 「爺(じじい)、何か文句あるか」と菊千代。
 「いや、これでええ」と儀作。

 長老の意志は、一貫して変わらない。

 その意志を感じ取った菊千代は、満面に笑みを浮かべて、一党の笑いを誘ったのである。

 「何とかと鋏(はさみ)は使いようで切れる。これで七人揃いましたな」と平八。


 菊千代が七番目の侍に迎えられた瞬間だった。
 


 6  涙と共に閉じていった菊千代の独演会



 翌日から、「七人の侍」による村民に対する戦闘訓練が始まった。

 ぎこちない動きをする村民に対する指導は困難を極めたが、侍たちの根気強い入念な指導によって、一つの村は少しずつ要塞の機能を呈しつつあった。

 勘兵衛と五郎兵衛は、作戦参謀となっている。彼らは丹念に村の隅々を廻り、その地形を把握し、防御体制を整えつつあった。

 一方、若武者の勝四郎は、万造の娘志乃と出会っていた。

 彼女は父によって髪を切られ、男装させられていたのである。

志乃
勝四郎は、花畑にいた志乃を折檻するために彼女を押さえつけたことで、彼女が女であることに気づいた。志乃から手を離した若侍は言葉を失って、その場を立ち去るしかなかったのである。

 また、志乃の父の万造の家から、多くの鎧兜(よろいかぶと)や武具が見つかったことで、侍たちは初めて、この村で拒否反応を示した。菊千代だけが例外だったが、他の侍は武士としてのアイデンティティを蹂躙された思いで一杯だったのである。

 「落武者になって、竹槍に追われた者でなければ、この気持ちは分らん」

 この勘兵衛の言葉が、彼らの心情を代弁していた。

 「おらぁ、この村の奴らが斬りたくなった」と久蔵。

 これも、武士としてのアイデンティティを直接的に代弁する言葉だった。しかし鎧兜で身を固めた菊千代だけは、この侍の言葉に激しく反発する。
 
 「こいつはいいやぁ。ハハッ!やい、お前たち!一体、百姓を何だと思ってたんだ?仏様だとでも思ってたか?ふん、笑わしちゃいけねぇや!百姓ぐらい悪擦(わるず)れした生き物はねえんだぜ!米を出せと言っちゃぁ、ねえ。麦を出せって言っちゃぁ、ねえ、何もかもねえと言うんだ。ふん、ところがあるんだ。何だってあるんだ。床下引っぺがして掘ってみな。そこになかったら、納屋の隅だ!出てくる、出てくる、(かめ)に入った米、塩、豆、酒!正直面して、ペコペコ頭下げて、嘘をつく!何でも誤魔化す!・・・・よく聞きな!百姓ってのはな!ケチん坊で、狡くて、泣き虫で、意地悪で、間抜けで、人殺しだ!チクショウ!涙が出らあ!だがな、こんな獣作りやがったのは、一体誰だ?おめえたちだよ!侍だろう!田畑を踏み潰す。食い物は取り上げる!人夫のように扱(こ)き使う!女は漁る!手向かえや、殺す!一体、百姓はどうすればいいんだ!チクショウ!チクショウ!」
 
 菊千代の激しい独演会は、彼の涙と共に閉じていった。

 「貴様、百姓の生まれだな・・・」

 勘兵衛のこの一言に、菊千代は否定することなく、そのまま外に出て行った。勘兵衛の眼には、熱いものが滲んでいた。

 菊千代の独演会は、他の六人の侍たちの身分意識の尖りを完全に封印してしまったのだ。これで何もかも終ったのである。

菊千代は、自分の母屋を侍たちに譲り渡して、自分だけは馬小屋で寝る利吉の元に行き、寝場所を確保したのである。

 「あいつらといると、どうも窮屈でいけねぇや」

おどける菊千代
百姓出身の菊千代は、侍たちとの共同生活では心が落ち着かないのである。それでも菊千代の中では、百姓たちの狡猾さにも馴染めないものがある。

彼はまだ身分が固定されていない社会にあって、自分だけは侍の身分を手に入れたいという思いが捨てられないでいるようだった。

 そんなとき、平八が一党の旗を作った。

 その旗には、六つの丸と一つの三角、そして一番下に“た”のマーク。

平八は、旗のマークの説明をする。

下の“た”は、田圃の“た”のことで、百姓を表している。

六つの丸は、「六人の侍」を意味するマークであった。

三角の意味を問う菊千代に対して、平八は「お前のことだ」と答えた。菊千代は不貞腐れるばかりだった。



 7  戦闘集団のコミュニティ



 
一方、勝四郎は志乃と雨中の逢引をしていた。

 彼は自分の米飯を握り飯にして、彼女に届けたのである。

彼女は若侍の意に感謝するが、久衛門(きゅうえもん)のお婆あに食べさせたいと答えて、それを懐(ふところ)に入れて戻って行った。


 この二人の逢引を、居合いの稽古をしていた久蔵が目撃した。久蔵は、自分の食事を節約する勝四郎の思いを深く理解し、二人の問題を自分の心の中に封印することにしたのである。

ニヒルな剣士のイメージの色濃い久蔵の人間性が、そこに映し出されていた。

 
農民の生きざまや生活のリアリズムを貫流させてきたリアルなドラマの内に、何かそこだけが造花的な作り物になっているようなエピソードの導入は、これから開かれる壮絶な戦場のリアリズムを前にして、観る者にコーヒーブレイクのサービスを作り手が添えたかった何かであったと考えれば、許容範囲を逸脱するものではなかったと言えようか。


 苛酷な戦場が開かれつつあった。

 村民たちの中には、自分の家を犠牲にしてまで野伏せりと戦う体制に協力を拒む者たちが現われた。

当然の如く、戦闘前の秩序の破綻は許されない。戦闘を仕切る勘兵衛は、自ら抜刀して、状況離脱者を斬り捨てる態度を示す必要があった。まさに、勘兵衛がリーダーシップを発揮したのはそのときだった。

 彼は村民を前にして、叫ぶように言い放ったのである。
 
「離れ家(や)は三つ。部落はの家は二十だ。三軒のために、二十軒は危うくはできん。また、この部落を踏みにじられて、離れ家だけの道はない。いいか、戦とはそういうものだ!人を守ってこそ、自分を守れる。己のことばかり考える奴は、己をも滅ぼす奴だ・・・」
 
 この言葉で、戦闘集団のコミュニティがそれなりに確立されたのである。

 侍たちが見守る中、麦の刈り入れが早々と収穫されていく。野伏せりの襲来に備えて、刈り入れの作業は迅速に行われた。

 農作業の描写は入念に描かれていて、菊千代の落馬のエピソードなど、物語にふんだんの笑いを織り交ぜた描写が持つ意味は、まさに嵐の前の静けさを印象付けるものだった。それは本来、野伏せりの恐怖さえなければ、この国の村々の、その平和で長閑(のどか)な日常的様態を際立たせるのに充分な映像的効果を持つものであった。

 「皆、楽しそうだのう。麦打ち(麦の穂を打って実を落とすこと)が済んだら、まだ野武士が来ん。もう来んのではないか。皆、そのように言っているが・・・」
 「いや、そう考えたいところでな。しかし、もう大丈夫、そう考えるときが一番危ないときでな・・・」


 勘兵衛と五郎兵衛の会話である。

 無論、後者は勘兵衛の発言。彼だけは、状況を楽観的に見ることは決してしない。そして、その予想は外れていなかった。



 8  重い一本の鍬を抱えた老婆の復讐    



 三人の野武士が、村の物見にやって来た。

 農夫の格好をしてやって来た物見の野武士を、菊千代と久蔵が追尾して、彼らの二人を倒し、一人を生け捕りにしたのである。その生け捕りを、村人たちは寄ってたかって嬲(なぶ)り殺しにしようとした。それを勘兵衛は必死に止めるが、村人たちの積年の恨みは、臨時雇いの侍たちの想像の範囲を遥かに越えていたのである。

 一人の老婆が、重い一本の鍬を抱えて、儘(まま)ならない歩行を刻んでいく。

 久衛門の妻であった婆さまである。

 彼女は野武士によって、身内を全て殺された暗い過去を持つ女性である。以前、志乃が勝四郎から受け取った握り飯を届けようとした老婆こそ、この女性だった。

 今、その老婆の視線は生け捕りにされた野盗に向っている。

仇を討つ久衛門の妻
それは何とも異様で、凄惨な風景だった。何よりも老婆の死霊のような面立ちと、その憎悪に満ちた表情が、空気を暗鬱に支配する圧倒的存在感を炙り出していた。その光景は、今や麦刈りの、平和で牧歌的な描写とは完全に切れていた。
 
 「よし、倅の仇を討たせるだ!誰か!手を貸してやれ!」
 
 この長老の一言で、利吉が飛び出した。

 映像はその先を映し出さなかったが、そこで何が起こったかについて、観る者は容易に了解できるものであった。
 


 8  「七人の侍」の最初の犠牲者



 生け捕りの情報を得ていた勘兵衛は、野伏せりのアジトへの夜討ちを決断した。利吉の案内で、久蔵、菊千代、平八が敵の中枢に乗り込んで、そこで火を放ったのである。


利吉の妻
戦端が開かれた瞬間だった。

敵のアジトには、野盗の集団に似つかわしくない一人の美女がいた。

彼女は利吉を見た瞬間、驚愕の表情を浮かべるや否や、咄嗟に火の海の中に飛び込んだのである。

利吉は女を救い出そうと踠(もが)くが、燃え盛る火の粉に弾かれて狼狽(うろた)えるばかり。

 その利吉を救おうと平八が飛び出して行ったとき、一発の銃弾が放たれた。

その銃弾に平八が倒れて、動かなくなった。それは、「七人の侍」に最初の犠牲者が出た瞬間だった。

 平八を喪った怒りを、菊千代は利吉にぶつけた。利吉は叫喚した。
 
 「俺の女房だった!」
 
 利吉の叫びは、盗賊に奪われた女房を取り返そうとして叶わなかった無念の思いを、渓谷に激しく刻むものとなった。

利吉
ここで、利吉の今までの行動心理が初めて観る者に理解されたのだが、映像はその伏線を充分に描いていたと言える。
 
 平八の遺体が土饅頭(どまんじゅう=土を盛って作った墓)になって、丘の上に立てられた。菊千代は、平八の刀をその土饅頭の天辺(てっぺん)に突き立てた。

 「お主、苦しいときには、重宝な男と言ったのう。苦しくなるのはこれからだが・・・」

 勘兵衛は、傍らの五郎兵衛に向って呟いた。その呟きを、利吉の慟哭が切り裂いた。

 「泣くな!泣くな!」

 菊千代は一人で、土饅頭の周りを野犬のように走り回っていた。

 辺りには村人たちが囲んでいて、多くの哀しみが静かに束になって捨てられていた。菊千代は、それが我慢し難かったのだろう。彼は平八が作った党旗を村の屋根に翳(かざ)して、そこで哀しみを必死に堪えていた。



 9  「六人の侍プラス農民軍」VS「三十二騎の野伏せり」との戦闘が、本格的に開かれて



 村人たちには哀しんでいる時間がなかった。野伏せりの集団が村を襲って来たのである。

 「小道を通って北に二十騎、南に十三騎」

 歩哨(見回り)に出ていた勝四郎の報告。 

 「種子島は?」と勘兵衛。勿論、“種子島”とは火縄銃のこと。
 「全部で3挺」
 「南を見てくれんか。種子島に気をつけてな」

 勘兵衛の指示を受けて、五郎兵衛は仲間を率いて敵の様子を探ることになった。

敵はまだ自軍に侍がいることは知らない様子だった。五郎兵衛は、敵の一騎を弓で倒したので、南に残る敵は十二騎となった。(この辺の描写のディティールは、殆ど完璧である)


勘兵衛と勝四郎
「六人の侍プラス農民軍」VS「三十二騎の野伏せり」との戦闘が、本格的に開かれたのである。

 敵は種子島を放ち、火矢(ひや=焼き打ちのために放つ矢)を放った。水車小屋が焼かれ、離れの三軒が延焼し、村人たちに動揺が走った。

母親が弓矢で殺され、そこに赤ん坊が置き去りにされた。

 その赤ん坊を抱き上げた菊千代は、号泣するように叫んだ。

 「こいつは、俺だ!俺もこの通りだったんだ!」
 
 赤ん坊を胸に抱いて慟哭する菊千代の姿は、これまでの剽軽(ひょうきん)で、野生児のような男の振舞いとは完全に切れていた。

 この鮮烈なカットは、観る者の想像の範囲を逸脱するものではなかったが、それにしても、このカットの重量感は娯楽映画の限界を超える程に際立っていた。

このカットによって、観る者は、菊千代の人間性の内面深くに思いを届かせることが可能になったのである。それは些か声高であったが、本作が良質な人間ドラマの次元にまで辿り着いた証左となる極めつけの描写でもあったと言える。

 菊千代の怒りは、一歩ずつ狂気に近づいていった。

狂気に近づく菊千代の怒り
彼は弓を放ち、刀で敵陣に雪崩れ込んでいく。激しい戦闘は収束し、敵は這う這うの体(ほうほうのてい)で退散して行った。既に、闇が村を支配していた。

勘兵衛は明朝の決戦に備えて、入念な軍議を怠らなかった。
 
 「恐らく明日の朝、奴らはここに力攻めで押して来る。そこで、奴らを村に入れる。奴らを村に入れると言っても、まず一騎、せいぜい二騎だ。そいつを村に入れたら、ビシッと槍襖(やりぶすま・注2)を閉める。村へ入った一騎や二騎は袋の鼠だ。どうにでも料理ができる。まぁ気長に、一つ一つ頭数を減らして、それから勝負だ・・・」

 「それにしても、種子島が気がかりだのう」
 
 勘兵衛の知略の秀逸さが印象的な軍議だったが、鉄砲に怯える五郎兵衛の慎重な性格が、まさに勘兵衛のブレーンとしての役割を印象付けていた。


(注2)一斉に槍を突き出すように構え、前進する戦法のこと。


 再び戦端が開かれた。

 敵を一騎ずつ囲い込んで、狙い撃ちする勘兵衛の作戦は完璧だった。農民たちの「槍襖の戦法」が功を奏したのである。これで昨夜から、合わせて六騎の敵を倒したのだ。

 敵が再び襲って来た。

 今度は敵も「槍襖の戦法」に警戒して、簡単に倒されることはなかった。多くの野伏せりが村に侵入し、村人たちも必死の防戦を試みた。

種子島の犠牲となって戦死した五郎兵衛
それでも仲間の中に犠牲者が多発する。菊千代と親しい与平が弓矢で斃された。

そして種子島を最も恐れていた五郎兵衛が、その種子島の犠牲となったのである。

 七人の侍は、これで五人になった。

 その腹心の死を弔った勘兵衛は、残った仲間に呟いた。
 
 「残るは十三騎。しかしこの七つ。高く付いたのう」

 相手を七人殺したが、自分たちの陣営の犠牲も大きかった。勝負の決着の行方を明朝と考える勘兵衛は、仲間たちにその覚悟を求めたのである。村民たちも覚悟せざるを得なかった。家族との最後の別れを告げに、それぞれの家屋に戻って行ったのである。

 勝四郎にとっても、最後の別れだった。相手は、万造の娘志乃である。

 「明日、皆死ぬんだべ?」
 「死ぬとは・・・」
 「でも、もしかしたら死ぬんだべ!」
 
 勝四郎は頷くだけだった。

 その若武者に、女は身を預けたのである。

娘の身を案じた万造は、密かに二人の関係に疑いを持っていた。万造は娘を必死に探し回る。そしてその逢引の現場を目撃して、激昂した。娘に対する折檻が止まらないのだ。

 「百姓の女が、侍(さむれえ)とくっ付いてどうするんだ!」

 この騒ぎに勘兵衛と七郎次が近寄って来て、事情を察知した。

若侍への恋に悩む娘・志乃
一人号泣する娘と、呆然と立ち竦む若侍。

包容力のある七郎次は万造に寄り添って宥(なだ)めるが、万造の心はそれを退けるばかりだった。

 一方、菊千代は仲間の土饅頭の傍らで沈んでいた。

 いつまでも思いを残す菊千代というピエロの内面性が、映像後半になって、その皮膚感覚の辺りまで、一枚一枚剥ぎ取られていく描写は、観る者の感情移入をより深化させていく効果を持っていた。

 こうして、侍と農民によって仮構された一大コミュニティの最後の夜の帳(とばり)が、降り始めた雨の中に、弛緩することなく下りていったのである。





 10  豪雨の中の殲滅戦



その日がやって来た。
 
 外は雨。激しく降り頻っている。雨音が農民たちの武装された心を冷たくしていた。

 「皆、固くなっている。少し溶かさんといかんな」

 勘兵衛は、久蔵に一言言い添えて、村民たちに向って最後の檄を飛ばした後、彼らの心を、今日の戦いに必要な分だけ溶かしたのである。

 「皆、いよいよ決戦だぞ!どうだ勝四郎、今日は存分に働けよ!お前も夕べからもう大人だ!」

 ここで、村民たちの間に哄笑(こうしょう)が起った。彼らの心の溶解は、それで充分だった。勘兵衛の、指導者としての才能が如何なく発揮された描写だった。

 「残るは十三騎。これは全部村へ入れる!この前を通り過ぎると同時に、追い討ち駆けて、村の辻で挟み撃ちだ!勝負はこの一日で決まる!」


この勘兵衛の一言が合図になって、侍たちは抜刀して、野伏せりを待ち受ける。

野伏せりの集団が馬の地響きを立てて、村内に雪崩れ込んで来た。

 一騎、又一騎、次々に疾走する集団もまた命懸けなのだ。

村民たちも覚悟を決めて、戦場に命を投げ出していく。

 弓で撃たれる者、落馬して農民たちの竹槍で突き殺される者、そして女だけの納屋に侵入する野伏せり。

そこに種子島の発砲の音。倒れたのは久蔵だった。

それを介抱する勝四郎。

 その種子島に向っていく菊千代。

菊千代の戦死
彼もまた、種子島の犠牲になった。しかし懸命に起き上がり、種子島の射手に向っていく。そこは女たちが閉じ込められた納屋だった。

必死の形相の菊千代は、その鎧で纏(まと)った敵の胸を一突きにして、息絶えていった。

 泣き叫ぶ勝四郎。うな垂れる勘兵衛と七郎次。

そこで戦が終ったのである。何もかも終ったのである。

 「また、生き残ったな・・・」

 勘兵衛は、傍らにいる七郎次に向って呟いた。

 翌日は、打って変わったような晴天だった。

 村民たちは、まるで昨日のことがなかったかのように、豊作を祈願する田植えの祭りに身も心も預けていた。
 
 「今度もまた、負け戦だったな・・・勝ったのはあの百姓たちだ。わしたちではない・・・」
 

 勘兵衛は、生き残ったかつての家来である七郎次に、思わずそう洩らした。

 映像は、この戦で命を落とした多くの土饅頭を映し出して、静かに閉じていった。

      
                       *       *       *        *



 11  三つの選択肢


 
 「七人の侍」を繰り返し観ていく中で、私がこの映画から受け取った思いを二点に絞って書いてみる。些か辛口批評になるが、どうしても気になった点だけを書いておく。

 その一。

 それは、法体制による統治能力が衰弱して、それでもその時代を生きねばならない人々にとって、自分の力で手に入れられない秩序を構築していくためにはどうしたらいいのかという問題である。

 同時にそれは、人が無秩序なる時代や空間と呼吸を繋いでいくとき、その者たちに与えられた選択肢は限定的であるばかりか、いずれも負荷の高い状況性を引き受けざるを得ないということを意味するであろう。
 
 その選択肢を大雑把に分ければ、以下の三つになると考えられる。

 

戦国時代・信玄公祭り(イメージ画像・ブログより) 
第一に、自分で自分の身を守り抜くことである。第二に、自分の身の安全と生活を他人に守ってもらうことである。第三に、状況に任せて何もしないこと、或いは、そこで何かを為したとしても、その保障を偶然性に委ねてしまうことである。

 一つ一つ考えてみよう。



 12  自分で自分の身を守り抜くこと



 ―― まず、自分で自分の身を守り抜くこと。 

 この選択肢が最も理想的だが、しかし、それを選択し得る主体には多くの制約が随伴する。何よりも財力とか、腕力というものが絶対的に求められる。まして時代が流動的であるとは言え、身分制社会であったならば、その主体が支配階級に属するか、それに近い立場に身を置かない限り、自己防衛など思いも因らないだろう。

 例えば、映画の舞台となった戦国時代には、特段の知力と腕力を備えた人物が、下克上の風潮に乗じてある程度の権力を掌握することが可能であったに違いない。或いは、始めから守護大名とか、その有力な家臣の家柄を背景にすれば、アナーキーな戦国時代でも生き残る術は充分にあると言える。

 それにも拘らず、彼らの権力的推進力の行き着く先には、その権力と矛盾する別の権力との暴力的な抗争が不可避となる。それがアナーキーな時代の、絶対的な負荷を回避できない宿命であると言っていい。

 このような権力的推進力とは無縁に、自分の腕力のみで、その時々の日銭を稼ぐ戦国浪人的な生きざまも又可能である。しかし彼らとて、年を重ねれば自らの腕力の劣化を防ぎ切れず、その将来の保障は万全ではないのだ。

 本作の侍たちの将来も又、同様である。これは本作で、勘兵衛が勝四郎に向けて、その浪人生活の将来の不安について悟り聞かせた言葉が、説得力をもって想起されるところであろう。

弓矢で斃された与平
即ち、どのような状況下に於いても、自分で自分の身を守り抜くことの艱難(かんなん)さは容易ではないのである。



 13  自分の身の安全と生活を他人に守ってもらうこと



 ―― 第二に、自分の身の安全と生活を他人に守ってもらうことである。
 
 これはまさに本作の農民たちの選択した手段だった。

 実際、戦国時代にこのようなケースがどれ程実在したか、個人的にいくら調べても不分明なので、本作の「展開のリアリズム」を検証することは困難である。

 ただ時代考証的に言えば、「雇われ侍」によって農民が自村を守るという史実は殆ど記録が残っていないらしく、本作のモデルとなったケースも、共同脚本者の一人である橋本忍が、古い記録の中に僅かに発掘した事例を膨らませて、それをドラマ化したという程度の情報が残っているのみである。その意味で、とりあえず、「展開のリアリズム」への拘泥は止めておこう。

 しかし、この時代に生きた農民の選択としては、このような状況に直面した場合、「雇われ侍」が存在したであろうことを無視しないならば、本作のストーリーラインのように、彼らを白米や住居の提供によって、土下座してで迎え入れようとする農民たちの心情はとても良く理解できる。

しかし、農民たちの土下座がどれ程の効果を持ったかについては、依然として疑問が残るのだ。

稀有なスーパーマン侍・島田勘兵衛
恐らく、橋本忍が手に入れた資料の中に、本作の農民たちのような勧誘の仕方で、「雇われ侍」が村に集結した事実が詳細に記録されていなかったのであろう。だから、そんな稀有な村は、稀有なスーパーマン侍に奇跡的に出会わない限り、存在しなかったように思われるのだ。

 ただ当時の侍も、後述するように、明日の糧の保障のない輩がゴロゴロしていたらしく、そんな連中が白米の勧誘に託(かこつ)けて入村する事例がなかったとは言い切れないのである。しかしそんな輩が、野伏せりたちと命を懸けて戦う覚悟を持って入村したかについては、やはり疑問の残るところである。

 従って、本作で、菊千代が農民たちの狡猾さを指摘するシーンに裏付けられるような史実がなければ、到底、「雇われ侍」を手に入れることは難しいとしか言えないのだ。

 それにも拘らず、農民たちが自分の身の安全と生活を他人に守ってもらう歴史的必然性は充分にある。しかもそれは、継続的に保障されねばならない事態であるはずだ。安全保障は、常に一回的なものではないからだ。

 そうなれば、「雇われ侍」は、村の中に身分的にも、人格的にも吸収されねばならなくなる。果たして、それだけの覚悟を持った侍が存在したであろうか。

仮に存在したとしても、例えば本作で描かれたような、志乃という娘に惚れた勝四郎が、自らの身分を捨てて村民化するというようなケースが考えられるが、たとえ下克上の時代と言っても、そのようなケースは稀有な事例と思われる。
 
 では、本作のラインと離れてこのテーマを考察すれば、そのリアリティは多分に増すであろう。


 例えば、湾岸戦争時のクウェート(画像は、炎上するクウェートの油田)は、あの時点では、自国の防衛について全く問題意識を欠落させていた。肝心のクウェート国王はサウジアラビアに逃げ、首都がイラク軍に呆気なく占領される始末だったのだ。それでこの国は、石油の財力によって、アメリカという帝国的な国家に身の安全を委ねざるを得なかったのである。

 翻って考えれば、わが国の防衛もまた、本質的にはアメリカによる核抑止力に依存する現実が続いている。

2006年6月の国際状況下の時点で、果たしてこの国を、「逞しい」国と信じている国民がどれ程いるだろうか。かつてこの国は、ハーバード大学で教鞭をとり、後にCIAのアジア分析官となったエズラ・ボーゲルに、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言わさしめた国である。1979年のことである。

 その頃、この国は確かに、経済的には世界の市場を席捲する勢いだった。

エズラ・ボーゲル
その経済力の豪腕さを評して、エズラ・ボーゲルは、この国に「ナンバーワン」との称号を与えてくれたのである。

しかしこの国の「逞しさ」は、冷戦状況下で相対的な安全保障を確保していた時代の中で、他国によって守られた「逞しさ」でしかなかったのである。現在に至って、その負荷意識が顕在化してきたのは、あまりに自明のことであった。

 当時のクウェートがそうであり、今でもまだそうであるように、自分の身の安全と生活を他人に守ってもらうということは、結局、そういうことなのだ。

それは、とうてい「逞しさ」と言える何かでは決してないのである。

 
然るに、「七人の侍」を評価する論評の中には、農民たちの「逞しさ」を挙げる内容のものがあまりに多い。

果たして、あの農民たちは、ラストシーンの勘兵衛の決め台詞に象徴される「逞しさ」を持っていたと言えるのだろうか。


 彼らが「雇われ侍」を、白米と住居の保障のみで味方に引き入れた強(したた)かさを、「逞しさ」の概念の内に収めれば確かにその通りだが、その歴史的検証が稀薄な現在、彼らの「逞しさ」のリアリティは充分な説得力を持たないのである。 

一歩譲って、映像の中で彼らを仔細に観察したとしても、彼らの「逞しさ」は、一回的で継続力を持たない「雇われ侍」によって、奇跡的に表現された何ものかでしかなかったと言えるだろう。

 つまり、他人の力を借りて維持し得たその「逞しさ」は、この映像の中で描かれた特定の農民たちのある種の「逞しさ」であって、あの限定的な狂乱の時代を生きたこの国の農民たちの、一般的な「逞しさ」ではないということなのだ。

彼らの置かれた状況は、まさにその本来的な「逞しさ」を発現させる以前の、絶対的な負荷環境からの自由を全く保障できない条件下にあったということである。

 だからこそ、彼らは土豪をリーダーとする真に「逞しい」連中によって自村を守り、それぞれの村が連合して「国」を作ったりすることで、この苛烈な時代を生き抜いていったのである。

 この事実を無視して、恐らく、この時代を語るのはあまりに感傷的過ぎるとも言えるのだ。逆に言えば、自分の身の安全と生活を他人に守ってもらうことの負荷の方が、却って困難を極めるということに尽きるだろう。

 だからこの時代、貧しい農民たちは真宗の教えの下に一向一揆に走らざるを得なかったし、また加賀の一向一揆(注3)のように、有力農民が地侍化することで自ら武装を果たし、時の守護大名を自刃に追い込むという極めて過激な歴史を刻んだりしたのである。

自らの王国を構築するというくらいの覚悟を持たない限り、そこに農民の真の「逞しさ」を表現することは出来なかったに違いないのだ。


蓮如影像(ウィキ)
(注3)1474年ごろから1580年にかけて、加賀国の本願寺門徒らが中心となった一向一揆。蓮如は1471年から1475年までの間、吉崎御坊(福井県あわら市)に滞在した。蓮如は親鸞以来の血脈相承(けちみゃくそうじょう・浄土真宗で、法主が親鸞の子孫によって継承されていること)を根拠として、北陸の浄土系諸門を次々と統合していった。1473年には富樫政親(とがしまさちか)の要請を受けて、守護家の内紛に介入し、翌年には富樫幸千代を倒した。

 その後、政親が加賀の一国支配の認知を目指して足利義尚(あしかがよしなお)による六角氏遠征に従軍したが、それに伴う戦費の拡大により、国人層が反発。1488年には、代わりの守護を擁立して、政親を高尾城に滅ぼした。以後、加賀に宗主(そうしゅ)代理の一門衆が在住し、次第に国人層から本願寺による加賀支配に移行していった。

 1546年に尾山御坊(おやまごぼう・金沢御堂)が建設され、それを拠点として北陸全体に一向一揆を拡大させた。1555年、1564年に朝倉氏と、1570年代前半は上杉氏と、その後は織田氏と対立した。しかし、石山本願寺の降伏、尾山御坊の陥落により一揆は解体された。御山御坊を攻略したのは佐久間盛政だった(一揆を沈静化させたのは前田利家だった、という説がある)(ウィキペディア「加賀一向一揆」より:筆者加筆)



 14  状況に任せて何もしないこと



 第三の選択肢。

 それは状況に任せて何もしないこと、或いは、そこで何かを為したとしても、その保障を偶然性に委ねてしまうことである。

 この選択肢は、初めから無秩序な状況をそのまま受け入れてしまうことである。これは、その無秩序の中で自らの身の安全と生活を守り切れない事態に陥ってもなお、事態に対して能動的にアクセスしていかないことを意味するだろう。その結果、自分の身が守り切れなくても諦めるしかないということになる。

非戦論者の万造(左)
例えば、本作に於ける冒頭での村民会議の中で、戦うことを選択しようとする利吉に対して、「長いものには捲かれろ」と反対した万造の立場こそ、その典型と言えるだろう。彼は一貫して、野伏せりとの戦いに対して消極的だった。

それでいながら、自分の娘の身を絶えず案じていた。それは、「七人の侍」たちに対する恐怖感が中和されたときでも殆ど変化しなかった。

今度は、若侍との禁断の愛を案じたのである。この親心は、観る者に普遍的に理解し得る範疇にあるだろう。
 
 しかしこのような観念は、本作で描かれた状況下にあるとき、決して説得力を持つものではない。なぜなら、麦の刈り入れが終了した頃に、野伏せりたちの襲撃が避けられなかったからである。その襲撃に対して戦うことなく屈するという万造の考えは、自分の娘を相手の慰み者になる危険性を高めることにしかならないのだ。

 従って、このような選択肢は、洪水になるのは分っていても、自分の家屋が未だ床上浸水しないことによって手に入れられる安堵感でしかないということである。この安堵感は、まもなく訪れる危機に対して何も力を持たないであろう。それでも多くの人々は、このような根拠のない安堵感に過剰なほど思いを預けてしまうのである。

 「今はまだ大丈夫だから、もしかしたら、明日も大丈夫かも知れない。そして、この状態がずっと続くかも知れない」という内実を伴わない物語を仮構することで、人はしばしばこのような稚拙な幻想に逃避してしまうである。それが最も怖いのだ。

 もし、本作で描かれた村が万造の選択肢を採ったなら、この村は確実に滅び、荒廃し、復元不能な状況に陥った可能性が濃厚であった。

百姓出身の菊千代
確かに、「七人の聖なる侍たち」の獲得は困難であったかも知れないが、それでも、何もしないよりも数段ましであっただろうという把握は充分可能なのだ。



 15  それ以外にない最良の選択だった村民たちの判断



 以上、三つの選択肢について考えてきた。

 それらの選択肢の中に是非論を挿入させると、その答えはもはや自明である。

 自分の力で手に入れられない秩序を法治統制力によっても保障し得ないならば、何としてでも「自らの身は自ら守る」という方向に向って努めていくしかないであろう。

 確かに今は、覚束ない秩序の中に置かれている。しかし現状を放置すればそのリスクは加速的に増幅していくであろう。これは絶対に阻止しなければならない。少なくとも、リスクの加速的増幅を阻止していく方向に向って、安定した秩序を手に入れられない状況下に置かれた人々であればこそ、まさに動いていかねばならないのだ。

 動くこと。それを継続すること。継続し続けること。

 自分の力で叶わなければ、その状況下に置かれた者たちの知恵と腕力を見定めて、それを少しでも安定的な防衛システムに近づくように画策し、組織し、一つの有機的な形にまで設(しつら)えていかねばならない。それが緊要なのだ。それ以外に方策はないのである。
 
 翻って、本作の舞台となった村の実情を慮(おもんばか)れば、少なくとも、以上で記述した方向性へのラインに沿って防衛体制を形成することは、確かに困難であったと思われる。

 「やるべし」という長老の檄に、強い感情含みのダイレクトな反応を示したのが、愛妻を野伏せりに奪われた利吉のみであった現実を考えれば、自力で村を守る可能性は皆無に近かったと言えるだろう。しかも長老の提案は、「侍に守ってもらう」という他者依存的な内容だった。この長老の認識の内には、村の現実をしっかりと見据えた上での把握が充分に垣間見える。それは、このときの、この村の自己防衛能力の限界を把握した限りでの決断だったのだ。

 そして、この決断によって村民たちは重い腰を上げることになるが、その状況下に至っても、利吉の執念のみが自村防衛に動く推進力になっていたに過ぎないのだ。この利吉にしても、本来は侍の助けを借りずに戦うつもりだったが、彼をサポートする体制が皆無な事情の中で、彼は長老の提案の方向に流れていったのである。その選択だけが、彼にとって最も実現可能な選択であったからである。


 そして、彼らが獲得した「七人の侍」。

 彼らは、まさに「聖戦士」以外の何者でもなかった。

 そこに、展開上のリアリティが欠落する部分が垣間見えるが、如何せん、このドラマは「聖戦士」の存在なしに成立しない物語になっているのだ。だから、どうしても作り手には、勘兵衛や五郎兵衛が必要だったのである。

 彼らなしに成立しない弱みこそ、一級の娯楽映画が内包する、言わば予定調和劇への妥協というラインに落ち着かざるを得ない何かだった。やはり、この映画は「最高傑作の娯楽時代劇」と呼ぶに相応しい作品であったということだ。

 ともあれ、以上のような条件を考えるとき、「自分の身の安全と生活を守る」ということの艱難さの中で、村民たちが為し得た判断は、それ以外にない最良の選択であったということになるのだろうか。

 彼らは間違っていなかったのだ。

 武士と農民との一回的な、仮構のコミュニティが、一つの大きな目的の下に形成され、それが「自分の村を守る」ための戦いで真価を発揮したということ、まさにその点こそが重要な把握であるに違いないであろう。

 しかし何度も繰り返すようだが、当時の農民は自らの村を焼き払われ、這う這うの体(ほうほうのてい)で逃げまくるだけの圧倒的弱者ではなかったということだけは押さえておきたい。無秩序が極まるほど、人間は自らを守るために戦う覚悟を持ち、その日常的な継続力によって心身共に強靭になっていくのである。

 言わずもがなのことだが、当時、本作を批判する観点の中に「自衛隊の礼賛」という批評が存在したが、本稿はそのような次元で、このテーマについて言及したのではない。
 
 

 16  あまりに綺麗に役割分担された性格の類型化  



 この映画から、私が受け取った感懐の二つ目。 


 それは、本作が集団を描いたドラマでありながら、それぞれの人物描写が細密に描かれていて、人間ドラマとしての完成の域に達している部分を内包しているということである。

しかし残念ながら、それぞれの人物描写は些か類型化されていて、その辺りの作り物性が正直、気になってしまうのである。
 
 例えば、菊千代のラストに流れる哀切を強調するためにか、そのキャラクターの過剰なる「剽軽(ひょうきん)」さは、しばしば観る者に目障りな印象を残したと言える。

 そして勝四郎は、その典型的な「純粋無垢」なる青春を青臭く駆け抜けて行った。

 またリーダー格の勘兵衛は、その強靭な指導力と「潔癖な人格性」に於いて抜きん出ていた。

 更に、侍たちの格好良さを独り占めした感がある久蔵は、ニヒリズムの内側に甘美なヒューマニズムが同居する、「求道者」然とした道修行の徒という美味しい役割を表現し切っていて、その人格に張り付けられた美徳こそ、最も日本人受けする「寡黙なる清冽」さであったに違いない。本作を初めて観た者の多くが、久蔵に計り知れない魅力を感じたのも宜(むべ)なるかなである。

 因みに、久蔵を演じた宮口精二は、私の印象から言えば、成瀬巳喜男の「流れる」に於ける“鋸山”(自分の姪を出しにして金を集る男)の役どころが鮮明過ぎるので、どうしても「格好良さ」のイメージとは縁遠いのである。

七郎次
ついでに言えば、スーパーマンの勘兵衛を演じた志村喬は、同じ成瀬の「あらくれ」という作品では、金持ちの助平親父の役どころで、また「包容力」のある七郎次を演じた加東大介は、やはり成瀬作品では、その役どころの殆どが駄目親父か、詐欺師か助平親父、良くてもせいぜいブローカーといったところか。余計なことだった。

 しかし、このような名バイプレーヤーたちは、本作の中ではそれぞれに高潔な役どころを得て、それぞれなりの微妙な個性の役割分担を演じ分けていたのである。

 しかし、私にはそれがどうしても気になるのだ。

 「七人の侍」を私なりのキャラクター・レッテルで分けていけば、それぞれ、「潔癖な人格性」、「剽軽」、「純粋無垢」、「寡黙なる清冽」、「包容力」、「明朗闊達(かったつ)」(平八)、「誠実」(五郎兵衛)というような類型性をなぞっていたのである。あまりに綺麗に役割分担された性格の類型化が、私の中で無視し難い印象を持ってしまったということである。
 


 17  「七人の聖戦士」に象徴される、善悪二元論的人物類型化の安直性



 そして、何より気になったのは、この「七人の侍」が私欲を動機にしていないところである。彼らはまさに、「七人の聖戦士」だった。勿論、勘兵衛がその辺の動機を基準して、仲間を選択的に選んだ節(ふし)がある。それは理解できる。

 繰り返すようだが、この時代に、白飯を食わせてもらうという理由のみで、農民のために命を預けることを決断する侍が果たして存在しただろうか。仮に存在したとしても限定的であるに違いない。

橋本忍
事実、橋本忍が手に入れた資料は、稀有な例証であったと思われる。

 その辺が娯楽時代劇の制約であることは理解できるが、しかし、それにしてもそれぞれに異なった個性の侍を描き分けたにも拘らず、そこに一片の私欲が媒介されないのは不自然なのでである。

 例えば、野武士と戦う名目で村に入った侍の中に、その村が貯えている穀物を横取りしたり、女を漁ることを目的としたり、野武士と通じる意図を持った侍がいたとしてもおかしくないのだ。

 ここで描かれた六人はあまりに人格が優れていて、勝四郎に至っては、聖フランチェスコを髣髴(ほうふつ)させる純粋無垢そのものの青年武士である。

一体この時代に、勝四郎のような若武者が戦国浪人として徘徊するリアリティが検証できるのだろうか。もっとドロドロした関係模様が、菊千代を除く六人の中にあっていいのではないか。

 つまり、七人とは一対六であって、「菊千代とそれ以外の六人」という対立図式ということになる。

菊千代は、侍と農民を繋ぐ接着剤としての決定的役割を負わされているから、当然、彼のキャラクターの内に農民としての生活臭を大いに含ませる必要があった。それであのような特異なキャラクターを造型したと思われるのだ。

 それでも彼らは、「七人の聖なる戦士」であった。

 そして彼らに敵対する野伏せりの集団は、「私欲のために農民を甚振(いたぶ)り、殺戮する大いなる悪党」であった。

 従って、当然の如く、悪党たちには特別なキャラクター設定は不要であった。彼らは単なる悪人であって、「七人の聖なる戦士」と「甚振られる農民」たちによって退治されねばならない何者かであって、それ以外ではなかったのだ。

悪党たちの中に、少しでも農民に同情を寄せる者を描く必要がなかったと言うのだろう。

 私はこの辺に、黒澤映画の善悪二元論的人物類型化の性格が透けて見えるのである。そしてその性格が、彼の映像を通して極めて声高に、且つ、堂々と吐き出されてくるから、私には今一つ、この巨匠の作品群に馴染みにくいものを感じてしまうのである。

 以上の二点について、「七人の侍」への現在の私の正直な感懐について言及してきた。なぜこんな言及をしたかと言えば、多くの人が殆ど無前提に、本作を賞賛して止まない声が引きも切らないからである。

 それは私には、本作が、「世界映画史上のベストワンに値する作品であると同時に、多くの映画人に決定的な影響を与えた原点的な名作」というような評価が定着し、その評価が離れ難い先入観となって、本作と付き合うスタイルが既に確立されているように思えるからである。


 そこに「世界のクロサワ」がいて、その「クロサワ」が作った最高傑作がここにある。

この過分な思い入れが、映像の激しさと凄まじいリアリズムの内に収斂(しゅうれん)されてしまうのではないか。それが気になるのだ。

 しかし、それにも拘らず、私は以上述べたような不満を抱きつつも、「七人の侍」という作品の秀逸さを賞賛することに吝(やぶさ)かではない。

 確かにこの作品は、「七人の聖なる戦士」の物語であったが、その物語自体が存分に満喫できる内容を含んでいたのは否めない。優れた時代考証による、当時の農村の厳しい現実を映し出してもいたのである。

 

 18  地方農民の生活の実態



 因みに、当時の地方農民の生活の実態について、簡潔に触れた一文があるので、参考のためにここに引用する。
 
 「・・・米と大麦・小麦・粟・稗などを合わせてつくっているが、農民たちはおおむね春までに米を食いつくし、春にはわらびや草の根を掘って食べ、夏から秋にかけては麦などを食べている。すなわち収穫期の異なる穀物を手から口へと食い、それぞれの端境期には自然採取の三菜などでなんとかくいのばしている(山梨県南都留郡河口湖町にある常在寺に残されている『妙法寺記』による室町時代の文正元年から永禄四年までのこの地方の政情・世相・豊凶・物価などの分析による)」(『戦国時代・上』永原慶二著 小学館ライブラリー刊「惣・一揆と下克上の社会状況〈農村経済の不安〉」より)

戦国時代の研究者・永原慶二
「・・・『その時分は、軍(いくさ)が多くて何事も不自由なことでおじった。(中略)あさ夕雑炊を食べておじゃった。(略)さて衣類もなく、おれが十三の時、手作りのはなぞめの帷子(かたびら)一つあるよりほかには、なかりし。そのひとつのかたびらを、十七の年まで着たるによりて、すねが出て難儀にあった』(『あおむ物語』という戦国時代をいきぬいてきた女性の回想記より)

 ・・・この女性の父はのちに石田光成に仕え三百石の禄をはんだ山田去暦という人であるが、その程度の武士ですら食料が不足して雑炊しかとれず、『ひる飯など食ふという事は夢にもないこと。夜に入り、夜食という事もなかった』のである。育ちざかりの娘時代に、着たきりすずめだったとは、たいへん意外だが、そもそも商品経済が未熟の上に、交通条件や戦争によって、物資の流通が円滑を欠いていたことを考えれば、それが事実であったろう・・・」(同著より)
 
 この報告を読む限り、大変だったのは農民ばかりでなく、支配階級である武士の生活もまた同様の艱難さを抱えていたことが分るのである。



 19  娯楽時代劇の最高傑作



米と麦の水田二毛作・イメージ画像
それが、戦国時代の人々の平均的な生活様態であったと言えばそれまでだが、少なくとも、生産力の向上に於いては、既に13世紀以来二毛作の発達があり、米と麦の水田二毛作が全国的に広まっていて、農機具の改良、とりわけ鉄製農具の普及や管理技術の発達により顕著なものがあった。

本作でも、米と麦の水田二毛作の様子が描かれていて、この時代の農業水準の向上を検証するものとなっていた。

 しかし、保障されなかったのはただ一つ。

 それは「安全保障」であった。

 人間にとって最も肝心なものの一つが保障されなかったことによって生まれた悲劇こそが、本作の枢要なバックグラウンドになっていたということだ。

 
そうした時代考証に基づいた、その辺りの描写のリアリズムは本作で余すところなく映し出されていて、蓋(けだ)し圧巻だった。

又、終盤の戦闘シーンのリアリズムも群を抜いていて、とてもそれが1950年代に作られたCG抜きの映像とは思えない程の描写の迫力は、他の追随を許さないパワーに満ちていた。

 それは、ここまで描かれてしまうと、殆ど文句の言いようがないレベルの高さに達していたと言わざるを得ないのである。

やはりこの映画は、「娯楽時代劇の最高傑作」という評価が最も相応しいのである。



 【余稿】  〈「あるべき日本人」を描いた黒澤明〉
 

 黒澤の描く主人公の多くは、彼の理念系の具象化された稀有な人物ばかりである。ここで描かれた人物は明らかに、私たち平均的日本人のそれではない。その意味で彼は、「あるべき日本人」、または「理想的人物像」を描いた映像作家であるが、決して、「ありのままの日本人」の生態を描き出した映像作家ではなかったと言える。

 「七人の侍」のような最高の娯楽時代劇に於いてこそ、彼の理念系は益々その勢いを自らの表現に鏤刻(るこく)させていった感が強い。だから彼の作品から、一般的な日本人論を分析的に導き出すのは不可能ではないが、極めて厄介な作業となるだろう。
 
 これは好みの問題に過ぎないが、「あるべき日本人」を描いた黒澤明よりも、私は「ありのままの日本人」を描き出した成瀬巳喜男にこそ深い愛着を覚える者である。私は「叫んで止まない作家」よりも、「叫ぶことを捨てられる作家」の方に強く振れてしまうのである。
                               
(2006年6月)

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