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2010年12月6日月曜日

スウィート ヒアアフター('97)      アトム・エゴヤン


<コミュニティの治癒力によるグリーフワークの遂行>



1  コミュニティが内側に持つ固有の治癒力という「特効薬」



都市生活の中で「他人の不幸」に無関心でいられるのは、その不幸が自分に直結しないからである。

人間が自然から離れ、その欲望の稜線を伸ばして構築した、「お伽話」(養老孟司の言葉)としての都市の人工空間で手に入れられる「私権」の快楽は、その有難さを知った者にとって、決して手放せない何かである。

「他人の不幸」に無関心でいられることは、都市住民の「心の荒廃感」とは無縁なのだ。

その例証に、「老人の孤独死」の問題を挙げてもいいい。

この問題の底流には、2005年4月から全面施行された「個人情報保護法」という、「私権」の拡大的定着の結晶とも言うべき壁がある。

単に、「連絡先」などの個人情報を、本人の同意なく提供できないのだ。

「老人の孤独死」の問題がメディアで取り上げられるようになって、この類の「他人の不幸」に対応すべく、都市住民の努力が集合し、「お伽話」のような人工空間である都市内部で、「声掛け・集い・語らい」の「隣人祭り」(フランスに本部あり)に象徴される「都市コミュニティ」が仮構されるに至ったのである。

隣人祭り(イメージ画像・一条真也のハートフル・ブログ
都市での「他人の不幸」への無関心=「都市住民の『心の荒廃感』」ではないことは、殆ど自明である。

しかし、「他人の不幸」に無関心でいられなくなる程度のコミュニティに住む者が、その程度の差こそあれ、そこで「他人の不幸」に無関心でいられなくなるのは、結局、それが自分の不幸に直結してしまうからだ。

自分の不幸に直結してしまうリスクを回避するが故に、都市と乖離した空間に住む者が、地域コミュニティを守り抜き、そこにしがみ付こうとするのは必然的なのである。

そこでは、「外部侵入者」に対する排他性が散見されるものの、コミュニティが内側に持つ固有の治癒力という「特効薬」が潜在するのだろう。



2  「楽園追放」への反逆



さて、本作のこと。

これは、長い時間を要すれば、コミュニティが内側に持つ固有の治癒力によって、「対象喪失」という「不幸」に対するグリーフワーク(悲哀を癒す仕事)が遂行されていくかも知れないにも関わらず、その類の「不幸」と無縁に、「他人の不幸」を金銭に換算することで見過ぎ世過ぎしている者が、外部から唐突に侵入することによって、コミュニティが内側に持つ固有の治癒力を破壊させる危うさを持つ男の偽善性と、その男が吹く笛の妖しい音色に誘(いざな)われ、追随する者たちに対して、なおコミュニティ内部に出来した「不幸」の中で生き残った者が、「自分の不幸」を金銭に換算する屈辱に抗して、「もう同じ町の人間ではない」(ラストシーンのモノローグ)と化した絶え絶えのコミュニティを復元させた映画である。


以上が、本作に対する私の把握である。

スティーブンス

笛を吹いた者の名は、スティーブンス。


アメリカに数多いる「アンビュランス・チェイサー」(救急車 を追い駆け、訴訟を起こさせる弁護士の蔑称)の如き嗅覚によって、「他人の不幸」を金銭に換算する経済合理主義の文脈のうちに、成功報酬目当てで、このコミュニティで出来した「不幸」の「解決」を、「社会の倫理観」というような欺瞞的な言辞を放って、提訴者を束ねる「営業」を請け負った男である。

そして、絶え絶えのコミュニティを復元させるために、「不幸」の中で生き残った者の名は、ニコール。


更に、コミュニティで出来した「不幸」とは、22名の子供の犠牲者を出した「スクールバスの転落事故」(以降、「事故」)のこと。

ニコールは、父親との禁断の睦み(インセスト)の「楽園」に誘(いざな)われて、彼女なりにロックシンガーになるために幸福な日々を送っていた。

しかし、「事故」によって車椅子生活を余儀なくされた結果、父親との関係に亀裂が生じていく。

「事故」によって手に入れた補償金が僅かであったため、父親は明らかに金銭目当てでスティーブンスと接触し、訴訟に対する積極的な推進者となっていくのだ。

ニコールは、自分の下肢障害が金銭で換算されていく世俗原理に対して、反旗を翻すに至った。

彼女は嘘の証言をするのである。

彼女は、娘の障害を金銭で換算させるという父親の裏切りが許せなかったのだ。

或いは、父親が娘との間に結んだ禁断の睦みの事実を知られたくないために、自分の事故死を望んでいたのかも知れないとも、彼女は考えたのか。

ここに、嘘の証言の際の、ニコールのモノローグがある。

「嘘の訳は彼(父)だけが知っている。全ては私の嘘から起こった。笛を吹いていた彼の唇は、冬の月のように凍った」

スティーブンスとニコール
ニコールは、父親を「笛吹き」の仲間とみなしたのだ。

思えば彼女が、父によって納屋に誘(いざな)われるときにも、2人の子供たちに「ハーメルンの笛吹き男」を読み聞かせる、ニコールのモノローグが重なっていた。

「笛吹きは約束した。楽園に案内しようと。誰もいない楽園」

まさにニコールにとって、父との睦みは「楽園」だったのである。

従って、ニコールの嘘の証言とは、「娘の不幸」を金銭に換算する屈辱を全人格的に受け止めた彼女の、「楽園追放」への反逆でもあったのだ。



3  外部侵入者としての「笛吹き」が抱えるアポリア



一方、スティーブンスは、紛れもなく「笛吹き」だった。

同時に彼は、外部侵入者の「笛吹き」でありながら、既にドラッグ漬けの日々にあり、今やエイズに冒されて救いを求める娘がいた。

娘の名は、ゾーイ。

なぜゾーイが、そんな不行跡に走るか、映像は全く語らない。

ヒントはあった。

「事故」の2年後に、たまたま乗り合わせた機内で、かつてのゾーイの友人のアリソンに語ったシークエンスが、それである。

スティーブンスの家族
夏の山小屋でのバカンスで、毒クモに刺された乳児のゾーイを、父親のスティーブンスが遠距離にある医者に連れて行く前に、医者から気管切開する覚悟まで求められて、運良く生命の危機を免れたというエピソードである。

更にスティーブンスは、不行跡を繰り返す成人期のゾーイについても語り継ぐ。

「私は麻薬中毒の子供に手を尽くした。だが、2週間後には退院。金をせびる電話がかかってくる。“パパのところへ戻るわ”だが、一度も戻ったことはない。10年間、出まかせの嘘・・・怒りと絶望で、愛は変質する・・・」

スティーブンスがアリソンに語った話の内実には、その間のゾーイの更生に触れるものが全く含まれていなかった。

ここで考えられるのは、乳児期の不幸に見舞われたゾーイに対して、必要以上に保護する養育の流れで、父であるスティーブンスが過剰にスポイルしてしまったことであるだろう。

スポイルされた挙句、ゾーイがドラッグ漬けに走ったと認知したとき、既にもう手遅れだった。

自分の手に負えなくなったスティーブンスは、幾つかのクリニックや施設に、娘を強制的に送り込んだのだろう。

そんな娘の不行跡が原因なのか、彼は妻とも離婚し、アダルトチルドレン(機能不全家族)を常態化させてしまった。

スポイルされた娘が、父親の金を無心するだけのコレクトコールを止めない心理の奥には、自分を施設送りにした父親への恨みがあるのかも知れない。

殆ど我が子を喪ったと括っているそんな男が、「事故」の町にやって来て、「事故」で我が子を喪った親たちに、社会正義の名において提訴を求めたのである。



4  永遠の十字架を負う男、金銭に換算する不埒な行為を拒絶する少女



「スクールバス転落事故」直前の車内・中央がニコール
以下、「事故」の町に外部侵入したスティーブンスが、社会正義の名において提訴を求めたときの会話。

「子供が死んだから?」

これは、スティーブンスが弁護人契約を結ぶことになるオットー夫妻を訪ねた際、インディアンの養子を亡くした妻のワンダが、訴訟目的を聞いたときの言葉。

「怒りからです。お子さんを喪った悲しみは別です」

これが、スティーブンスの答え。

「悲しみは何が癒すの?」とワンダ。
「あなたも怒ってる。私はその怒りに声を与えます。それを武器にして、事故の責任者と闘います。例えば、バスのメーカー」
「事故の責任者がどこかに?」とワンダ。
「“事故”なんて言葉はないんです。私に言わせれば、どこかで誰かが手抜きをしている。体質の腐った企業が、金をケチって、10セントのボルトを使い、事故が起これば賠償金。人命の犠牲など二の次。何度も見てきました。それが現実なんです。社会の倫理観を問いただします。私は未来を見ています」

「社会の倫理観」とまで語ってみせるスティーブンスは、その後、弁護費用を聞かれて、「勝訴なら、1/3を成功報酬として得て、敗訴なら無料」と言い添えた。

「事故」の町に外部侵入するや、スティーブンスは、最も信頼できる犠牲者の親たちを訪ね、提訴の承諾を求めていった。

「外部侵入者」としての男の行為は、「事故」によって絶え絶えになった人々の心を分断させ、攪乱させていったのである。

訴訟が起これば、小さな町のコミュニティの内側で守られてきた、「相互扶助」のルールが壊されてしまうと考えて、スティーブンスに敵対視する者も出現する。

言うまでもなく、「相互扶助」という概念のうちには、町の人々が暗黙の了解事項としている、様々に絡み合った「秘密の共有」という関係も当然含まれているだろう。

スティーブンスに敵対した自動車整備士のビリーもまた、モーテルのミストレスと不倫の関係を持っていた。

ビリーは、自分に関わる、その類の世俗的な「秘密の共有」も含めて、一切が露にされる訴訟世界のうちに、既に絶え絶えと化していた小さな町のコミュニティが、丸ごとインボルブされる不孝な事態を断じて防がねばならない、などと考えたに違いない。

スティーブンスとニコール
そして、最後の証言者になったニコール。

前述したように、彼女は嘘の証言をすることによって、自分が負った障害を金銭に換算する不埒な行為に対して、決定的な拒絶を身体化するに至るのだ。

それは、「アンビュランス・チェイサー」の如き弁護士のスティーブンスとラインを合わせて、一緒に笛を吹く父に対する異議申し立て以外の何ものでもなかった。

2年後、空港に到着したスティーブンスは娘の友人と別れ、思わず両手で顔を覆った。

2年経っても変らない娘に会いに行く男は、永遠に娘を保護しなければならない十字架を負っているのだ。

その十字架の重みを想起して、彼は思わず堪らなくなったのだろう。

この男には、殆ど「対象喪失」を常態化している地獄から解放されないのだ。

ふと見ると、「事故」の女性ドライバーは、他の町で社会復帰を果たしていた。

彼女に戻った笑みが、この男には未だ手に入れられないのである。

映像の中で、この男の、そんな心境を象徴するシーンが、冒頭近くのシークエンスに拾われていた。

男は故障した洗車機のために車から出られず、関係機関に助けを呼ぶが、全く埒が明かなかった。

そのとき、娘からかかってきたコレクトコールに男は十全に対応できず、娘から見捨てられたと決め付けられ、一方的に切られる始末。

ハーメルンの笛吹き男(イメージ画像・ウィキ)
それは、男が「事故」の町に侵入していくことによる困難さの象徴であると同時に、永遠の十字架を負う男の業をイメージした何かであったかも知れないのだ。

引き続き、娘の救済の問題を抱えた男だけが、「Sweet Hereafter」の心境を手に入れられず、置き去りにされてしまったのである。



5  コミュニティの治癒力によるグリーフワークの遂行



ニコールの、ラストシーンのモノローグ。

自動車整備士のビリーに頼まれて、彼の二人の子供に読んで聞かせていたときである。

即ち、車椅子生活に入る前の「事故前夜」の時間設定だが、モノローグの内実は、「スィートヒアアフター」(The Sweet Hereafter=「いつまでも、いつまでも幸福に暮した」・注)の日々の中でのもの。

「あれから2年後の彼女を見ると、お分りでしょう。あの事件に関わった全ての者、ドロレス、私、生き残った子供たち、亡くなった子供、もう同じ町の人間ではない。その町には独特のしきたりと、独特の法があり、人々は穏やかな日々を生きている」

そこだけが光を被浴する、ニコールの「穏やかな日々」が切り取られて、映像は閉じていった。

    アトム・エゴヤン監督
このモノローグこそ、作り手のメッセージであったのだ。


「外部侵入者」に対する排他性が散見されるものの、コミュニティが内側に持つ固有の治癒力という「特効薬」は、なお有効であったのだ。

「もう同じ町の人間ではない」だろうが、長い時間を要することで、コミュニティの治癒力によって、「対象喪失」という「不幸」に対する個々のグリーフワークが、個々の流れ方のうちに遂行されていったのである。



(注)原作の著者、ラッセル バンクスによる「The Sweet Hereafter」の和訳書は、「この世を離れて」という表題になっていて、訳者の大谷豪見は、「天国」の意味で把握している。また、その主題も「誰しも突然経験しうる形で肉親の死」(訳者あとがき)に据えていて、グリーフワークこそ中枢のテーマであったのに対し、映像は、そこにグリム童話の「ハーメルンの笛吹き男」の話などを挿入し、グリーフワークの問題に膨らみを持たせていた。


(2010年12月)

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