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2009年12月7日月曜日

十二人の怒れる男('57)           シドニー・ルメット


<「特定化された非日常の空間」として形成された【状況性】>



序  プロット展開の絶妙な映像構築



「17歳の少年が父親殺しで起訴された。死刑は決定的と見えたが、12人の陪審員のうち8番の男だけが無罪を主張する。彼は有罪の根拠がいかに偏見と先入観に満ちているかを説いていく。暑く狭い陪審員室での息苦しくなるような激論、怒り。互いに名も知らぬ男たちは、虚飾をはぎ取られ、ぶつかり合う。全編、陪審員室だけの密室劇にもかかわらず、一分のスキもない緊迫感をもって描き切る人間ドラマの秀作」(ワーナーホームビデオ解説より)

これは、本作のビデオのジャケットに書かれた解説文。

映画の内容も紹介されているから、以下、事件についての詳細な言及を避け、本質的なことだけを書いていく。

確かに本作は、室内劇という特定的状況の中で展開する人間ドラマの白眉で、シナリオにも全く無駄がなく、ほぼ完璧過ぎる映画であると言っていい。

少なくとも、そのような評価が定着した一級の名画だが、私にはその「完璧性」を保証したのが、6日間の法廷を費やした一つの殺人事件を評決する密室的空間内において、12人の陪審員が丁々発止と渡り合う限定的な描写の中で、緊迫感をもって事件の本質に肉薄していく<状況>を作り出した、そのプロット展開の絶妙な映像構築の超弩級の腕力にあると考えているので、その辺りの問題意識によって、本稿を進めていきたい。



1  「特定化された非日常の空間」として形成された<状況>



「早く、片付けようぜ」

陪審員の一人のこの言葉が、評決に参加する者たちの空気を代弁していた。

「本件は第一級殺人事件だから、有罪と決まったら、必然的に被告は電気椅子に送られる」

夏の暑さで評決を簡単に済ませるために、投票することを確認する陪審員の性急な結論を抑制する、この陪審員長の言葉が投げられても投票行為が決議されたのである。

決議の結果、11人が有罪で、一人が無罪。

「私が賛成したら、簡単に死刑が決まる・・・人の生死を5分で決めて、間違ったら?・・・あの子はひどい人生を過ごした。スラムで生まれ、9歳で母が死んだ。父親が服役中は、1年半を孤児院で過ごした。不幸な子供だった。反抗的な少年になったのも、毎日、誰かに頭を殴られたからだ。惨めな18年だった。少しは討論してやろう」

これは、被告の無罪を主張した陪審員の一人(第8番)の正攻法の弁舌。

一切は、この穏やかな口調の中にも、凛とした態度を崩さない男の異議の提示によって開かれたのである。

そこにこそ、この映画の最も重要なメッセージがあった。

そこから開かれた、評決のプロセスの中で展開される様々な人間模様、そこに作り手は映像における最も重要な価値を見出したのである。

それについての言及が、当然、本稿のテーマになる。

こういうことだ。

第8番の陪審員による、非難の余地のない弁舌が包含する意味は、決して彼が、被告である「反抗的な少年」の無罪を確信したからではなく、「惨めな18年」を送ってきた被告の裁判で印象付けられた、「電気椅子に送られる」確率の高い陪審による評決を、5分で決めてしまう事務的処理の安直さに対して、「推定無罪」の原則(疑わしきは罰せず)に拠って立つ法の原点を捨てずに、少しでも「討論してやろう」という正攻法のアピールだった。

要するに、事件の背景に横臥(おうが)するだろう問題の複雑さを考えるとき、有罪への合理的な疑いが僅かでも存在するなら、「推定無罪」の原則に拠って立つ法の原点を決して捨ててはならないということだ。

まさに、その態度こそが、陪審員室での安直な評決を防ぐ唯一の方法論である。

第8番の陪審員は、こう言いたかったのである。

この問題意識によって、彼は有罪への合理的な疑いについて、一つずつ提示していったのだ。

因みに、公判から評決のプロセスを通して、陪審員は一貫して記号で呼ばれる。

それは、固有名詞の開示を必要としない者たちによる陪審の評決が、「非日常」であることを意味している。

それ故にこそ、と言うべきか、この裁判に関わった陪審員たちの多くは、この「非日常」への主体的アクセスを望んでいなかった。

彼らの一人は、ホームのNYで行われる、名匠ケーシー・ステンゲル監督が率いて、ミッキー・マントルを擁する、黄金期を謳歌するヤンキースの試合観戦の方が気になるのである。そこにこそ、彼らの「日常性」が存在するからだ。

だから彼らは、固有名詞として生活を繋ぐ「日常性」に、一時(いっとき)でも早く帰還したかったのである。

ところが、陪審員第8番の提議によって、彼らの安直な目論見が壊れてしまった。彼らは、その直前に結審した裁判の現実に向き合うことになったのだ。

一言で言えば、陪審員第8番によって、大人が10人も入れば窒息しそうな密閉された空間が、「特定化された非日常の空間」として形成されたのである。即ち、そこに<状況>が作り出されたのだ。

<状況>が作り出されたということは、12名の陪審員たちの「日常性」への帰還が延長され、否が応でも、彼らは陪審員番号で呼ばれることで、彼らが当初、単純な親殺しの事犯として処理していた事件と対峙し、そこで、何某かの個人的見解の表明の開示を要請されることを意味する。

陪審員第8番によって作り出された<状況>は、彼が提示する、事件に関する様々な問題点によって、被告の有罪性の根拠が曖昧とされ、稀薄になっていくことで、その内実において、より深化していくに至った。

<状況>の深化の内実は、事件を評決する陪審員たちの態度を徐々に変容させ、いつしか、彼らの人生観や裸形の人間性が露わにされていく事態によって説明できる何かであった。

陪審員による一つの事件の評決という、「非日常」の現象が炙り出したのは、まさに個々の陪審員たちの態度の変容と、その変容の中で洩れ出してしまう極めて人間学的な様態だった。

本作の作り手のメッセージの中枢は、以上の文脈に集約される問題意識にこそあったと言える。



2  「特定化された非日常の空間」の中で開かれた人間模様



陪審員第8番の論理的な議論による事件の検証によって、被告を有罪とした11人の男たちの意識に変化が訪れたとき、陪審員第3番は遂に声を荒げて、自分の感情を爆発させた。

「皆、正義の裁きを与えようと集まったのに、お伽話を聞いた途端、涙もろい腰抜けになってさ。どうしたんだ!奴は有罪だ!電気椅子さ!」
「君は死刑執行人か」と陪審員第8番。
「その一人だ」と陪審員第3番。
「君がスイッチを?」と陪審員第8番。
「入れてやるさ!」
「よく、そんな気持ちになれるもんだ。社会の復讐者を気取ってんのか!個人的な憎しみで殺したいのか!サディストだ!」

相手の感情剥き出しの怒号に、陪審員第8番もその感情を合わせてしまった。彼もまた、「十二人の怒れる男」の一人だったのだ。

この二人の感情剥き出しの確執の直後、一人の陪審員が、本作の中枢のメッセージの一つである言葉を紡いだのである。

「こんな争いのために集まった訳ではない。我々には責任がある。これが実は、民主主義の素晴らしいところだ・・・郵便で通告を受けると、皆がここへ集まって、全く知らない人間の有罪、無罪を決める。この評決で、私たちは損も得もない。この国が強い理由は、ここにある」

このように正論を堂々と述べる陪審員がいる中で、初めからヤンキース戦の観戦のみを気にしていた一人の陪審員は、その人間性の浮薄さを露呈する言葉を吐いたのである。

「面倒臭いから、無罪に転向だ。もう、うんざりだ。自分のことだけ、気にしてりゃいい」

陪審員第8番
この言葉に、アメリカ民主主義の素晴らしさを説いた陪審員は、激しく反発した。

「あんた、人の命をそんなに軽々しく扱えるのかね。無罪に投票したければ、無罪を確信してからにしろ。有罪なら有罪でいい。正しいと思うことをしろ」

反発された男は、「無罪だ」と答えるのみ。

顔から汗が噴き出ていた。しかし、件の陪審員は、更に迫った。

「理由を言う義務がある!」
「有罪とは思えないから・・・」

ヤンキースファンの陪審員は、もう、そう反応するしかなかった。

暫くの沈黙の後、陪審員第8番は、今度は冷静に正論を語った。

「個人的な意見を排除するのは、いつも難しい。しかも、偏見は真実を曇らせる。私は真実を知らないし、誰にも分るまい。でも、疑問がある限り、有罪にはできない」

すっかり孤立した陪審員第3番は、自分を凝視する11人に向かって、一人で抵抗して見せた。

「皆、涙もろいヘナショコだ!俺を脅迫する気か、意見は曲げないぞ」

散々怒号した後、彼は自分が叩きつけたメモ帳の中に挟んであった、一枚の写真に向かって、今度も怒号して見せた。

「ドラ息子め。この親不孝が!」

彼はその写真を矢庭に取って、破り捨てた後、テーブルに身を伏せて、最後の一言を嗚咽しながら言い放ったのである。

「無罪だ・・・」

密室化した陪審員室での、重くて激しい評決が終わった瞬間だった。

<状況>と化した真剣な評決のプロセスが、当初、予想だにしなかった結論を導き出したとき、全てが終焉したのである。

この「特定化された非日常の空間」としての<状況>から解放された12人の男たちは、本来戻るべき「日常性」に帰還したのである。

その際、逸早く陪審員第8番の異議に同調した高齢の陪審員は、その陪審員第8番の主と自己紹介し合って別れるというシーンが挿入され、これが実質的なラストシーンとなっていったが、その行為が示唆するものは、記号で呼ばれた「非日常」の時間から「日常性」の時間への帰還を意味する以外の何ものでもないであろう。

以上の把握が、本作に対する私の集約された問題意識の中枢的部分である。



3  アメリカという特殊な文化風土が生み出したヒーロー譚



評決についての詳細は言及しなかったが、次に、本作の中で私が最後まで気になった問題点について触れておきたい。

それは、「1vs.11」の対立関係が、紆余曲折を経て、「11vs.1」になり、最後に、「12vs.0」になるというドラマの流れがあまりに出来過ぎていて、心理学的文脈においてどうしても納得できないところであった。

どう考えても、一人の陪審員の説得によって、他の全ての陪審員の意見を反古にさせるという<状況性>を構築するのは、心理学的に見れば、相当程度、困難であると言わざるを得ないのである。

なぜなら、有罪を確信する11人が形成した暗黙の空気が状況を制するとき、既にそこには、無形の心理圧を有するルールの如き縛りが形成されているからだ。

最初から確信的な根拠を持てない陪審員第8番が、そこに彼をサポートするフォローが介在されたにしても(逸早く、彼の側に付いた老人陪審員の「メガネ」の一件等)、被告の有罪を信じる11人を相手に、凶器となったナイフの問題(注)に象徴されるように、被告を有罪にすることへの疑義を提示し、しかも検察側の不充分な立証責任の遂行を覆していくという離れ業を演じるのである。

その際、有罪を信じる11人の中から、陪審員第8番の合理的な説明に納得して、「1vs.11」の対立構図が「2vs.10」、「3vs.9」、「4vs.8」、「6vs.6」、「9vs.3」、「10vs.2」、「1vs.11」になるといった風に、評決のプロセスで対立の構図に劇的な変容が見られるが、そのことは、「関係の相対性」を形成する<状況性>に心理的な要因が大きく関与していることを意味するだろう。

その「関係の相対性」が、陪審員第8番の提議に影響を受けることで、彼にとって、有利な<状況>に推移していく流れが定着するという予定調和を約束するプロットラインの骨格が、本作を根柢において支えているが、どこまでも陪審員第8番の有利性を前提にしているという点を斟酌する限り、無形の心理圧を逆転させるという「関係の相対性」の劇的な変容を具現する説得力には、相当程度、無理があったと言わざるを得ないのである。

要するに、本作が、その人格性を評議の中で少しずつ露わにする陪審員の行動変化を介して、個々の「人生」の一端を描き出すことが狙いであったという観点から考えれば、「1vs.11」の対立の構図を前提化した関係性を起点にする、ある種の予定調和の物語の設定が容易に導き出されてきてしまうのだ。

本作のラストシーンで、陪審員第3番が、一貫して事件の被告を電気椅子に送る意志を変えなかったのは、自分の家庭事情とのネガティブな脈絡が潜んでいた事実に起因しているという、見え見えのプロット設定が露わになって、どうしても、その辺りに映像構築を上手にまとめ過ぎたスキルの過剰性が感受されてしまったのである。

主観的には、このような巧妙なプロット設定なしにドラマを終焉させていく方が、よりリアルに感じ取れたのではないかとも思えるのだ。

いつの時代でも、どこの社会でも例外ではないが、偏見の濃度の深い人間がそこにいて、それが、このような<状況>の中で単純に暴露されるという作り方で充分だったように思われるのである。

この一級の社会派ドラマは、陪審員第8番に真っ向から対峙した、「悪役キャラ」としての陪審員第3番の家庭の事情まで挿入させることによって、この映画が事件を評決するサスペンス映画ではなく、その評決に携わった陪審員の人生観や人間性、更に偏見の奥にある家庭の事情まで描き切ることで成就した作品であったとも言えるが、それにしても、これほど見事にドラマをまとめる必要があったかどうか、最後まで疑問が残るところであった。

結局、この映画は、ハリウッド好みのスーパーマン映画ではなかったのかということだ。

陪審員第8番が提示した疑義が、悉(ことごと)く真実性を帯びていくというプロット展開は、<状況>が終始、この陪審員第8番の支配下に置かれていることを確認するとき、物語のお膳立てが決まり過ぎていなかったのかと言わざるを得ないのである。

以下、筆者の「人生論的映画評論」の「エイトメン・アウト」から、本作に言及した一文を書き出してみる。

「一人の強靭な意志と勇気と判断力を持った男がいて、その周り11人の個性的だが、しかし、決定的判断力と確固たる信念による行動力に些か欠如した、言ってみれば、人並みの能力と感情の継続性を保有するレベルの者たちがいた。

その中には、理屈に偏向する者や、感情や経験に大きく振れていく者もいたが、しかし決定的局面では、決定的判断力を示した一人の男の、その一貫した主張のうちに吸収されてしまう継続力の脆弱さを、まるで敗者の如く露呈してしまったのである。

しかしよくよく考えてみれば、11人の者たちが示した人間的な思考や感情こそが、通常の生活次元での表現であったと言っていい。

なぜならば、状況に応じて振れていくのが人間であり、その状況が展開した変化のうちに真実が見えてくれば、その真実に対して肯定的に反応していくのが、人間の平均的な行動の様態であると言えるからだ。

従って、この映画が抜きん出た傑作であることは否めないが、しかし一人の『平凡』な顔をしたスーパーマンによって、極めて困難な空気を決定的に洗浄させてしまった、ハリウッド好みの英雄譚の範疇を逸脱する作品にはならなかったのである。

それは、常に強い指導者を希求して止まない、アメリカという特殊な文化風土が生み出したヒーロー譚と言って良かった。

裏返せば、アメリカという、多くの民族を束ねる帝国的な国家に住む者たちが、そのようなヒーローを必要とせざるを得ない欠陥性を、いつもどこかで抱えていることを物語っているとも言えるのだ」

何より、この陪審員第8番の生き方こそが、「アメリカ人」の理想形をなぞっているということなのだろう。


(注)陪審員第8番が評決の場に、町で買ったナイフを持参して、それを他の陪審員の前に提示するという違法行為である。映像で、陪審員第3番にその違法性を指摘され、本人もその行為を認知していた。



4  <状況>の心理圧の中で身体化された裸形の人格様態



然るに、先述したように、あくまでも作り手の狙いが、評決の中で少しずつ露わになる陪審員の行動変化を通して、個々の「人生」の一端を描き出すことであるなら、本作は複雑な人間心理の振れ方を描いた映像として、ほぼ完璧であったと言える。

就中、「1vs.11」の時点での<状況>の心理圧が、最終的に「11vs.1」に変容した際に、最後まで自分の「意見」を曲げなかった陪審員第3番の男に一挙に覆っていくときの行動の振れ方が、最も興味深いシークエンスであったと言えるだろう。

「あんななモウロク爺さんに何が分る?」

陪審員第3番の男がこう言い放ったとき、一瞬、空気が凍りついた。

評決のプロセスで、徐々に「自らの陣営」から「仲間」が減っていく苛立ちが、男にこんな下品な言葉を吐かせたのである。

因みに、ここで言うところの「モウロク爺さん」とは、殺人事件の現場となった部屋の真下に住む老人のこと。この老人が、事件の夜、父親をナイフで刺殺したとされる被告の少年が、「殺してやる!」という叫び声を聞いたとされたのである。

映像はその後、脚の悪い老人の歩行の実験をすることで、その矛盾を例によって、陪審員第8番が検証して見せた。

以降、簡単に映像の流れをフォローしていく。

陪審員第3番の男と陪審員第8番との喧嘩が出来したのは、このシーンの後である。

アメリカ民主主義の素晴らしさを説いた陪審員の演説。

「6vs.6」の評決

どしゃ降りの雨によって、窓を閉め完全な密室状態に。

空調の故障が既に出来し、蒸し暑さが増す状況が陪審員の心理を、完全に「娑婆」である「日常性」への帰還を遠のかせる効果を形成させた。

ナイフの刺し方の実験検証

ヤンキースファンの陪審員の無罪変更と、その安直さへの糾弾。

「9vs.3」の評決

陪審員第8番の偏見発言(「偏見は真実を曇らせる」)

無罪に投票したある陪審員に対する、論理的整合性故に「有罪」説を崩さない、「理論家」陪審員の逆襲発言(「なぜ無罪に投票した?」)によって、「証拠が複雑だから・・・」としか答えられない件の陪審員の「寝返り」があり、その評決が「8vs.4」に逆戻りする。

ところが、その「理論家」陪審員が、目撃者の女性が眼鏡をかけていたにも拘らず、裸眼で目撃したことの問題点を指摘した高齢の陪審員の説明に納得し、「無罪説」に主張を変更するに至り、この時点で、「11vs.1」の評決となった。

以上の映像の複雑な展開の中で、陪審員第3番の男が置かれた、「11vs.1」という<状況>の心理圧の大きさが把握されるであろう。

オセロゲームのような心理圧の劇的な逆転現象によって、男は完全に孤立してしまった。

男の孤立状況の背景を考えるとき、他の陪審員に対する男の不遜な態度や、事件を証言した老人を愚弄する下品な言動等の振舞いが関与していなかったとは言えないが、そこに偶発的な要素が含まれていたとは言え、それ以上に、陪審員第3番による論理的整合性を踏まえた議論展開の必然的帰結が、その核心を占有していた事実は動かし難いだろう。

それにも拘らず、男は「無罪説」を変更できない。

映像は、最後にその理由を丁寧にも描き出してしまったが、最も偏見の濃度の深い男の行動心理の基幹に伏在していたのが、男自身の家庭の事情に因るものであったということが露呈されたのである。

この時点で、既に男は、自らが固執していた「無罪説」が、自壊を遂げていたのを認知できていたはずである。且つ、それが自分の偏見感情に起因していた心理もまた自己了解済みであったに違いない。

それでも男が、今や自分に敵対する11人の陪審員に対峙したとき、怒号による愁嘆場を開いてしまったのは、圧倒的な心理圧の逆転現象の中で、簡単に主張の変更を開示する態度において、誠実になり切れない類の人格性を有していたと考える他ないだろう。

事業で成功して富を得ていたと思われる男は、詰まるところ、論理的思考よりも、より強い感情傾向によって行動決定を形成してきた人物であったということだ。

だからこそ、この男は、「無罪説」に変更する障害が存在しなくなってもなお、そこに身を預ける唯一の方法が、怒号と嗚咽混じりの愁嘆場に収斂されていくという振舞い以外に、その態度決定が残されていなかったということになるのか。

或る者は、早く帰りたい一心でいとも簡単に寝返り、或る者は、空気の劇的な変容の中で、自分の主張をその<状況>に合わせるように変更し、或る者は、落ち着かない<状況>が分娩した論理的整合性の混乱の中で精神的に疲弊したが故に主張を変更し、また或る者は、論理的破綻を認知したが故に主張を変更させる誠実さを身体化した。

然るに、陪審員第3番の男だけは、空気の変容に流されたり、論理的整合性で動いたりするタイプの人間ではなかったということ ―― そのことが、裸形の人格様態を晒すという態度の表出によって、評決の最終局面で露呈されてしまったのである。

この陪審員第3番の男の心理の振れ方に象徴されるように、本作の中枢のテーマであると思われる、沸騰した<状況>下における「人間の行動変化」の様態を描き出す映像構築は、ほぼ完璧な成功を収めたと言っていいだろう。

従って、一貫して主張の変更を拒んだ陪審員第8番の態度の様態は、他の11人の陪審員たちの心理の振れ方を相対化させる基準としてのみ、その役割を表現し切ったとも言えるのではないか。

それ故、私は彼を、「スーパーマン」という「記号性」のうちに把握した次第である。

だから彼には、本来的に「帰還」する「日常性」など存在しないのだ。「スーパーマン」には、「日常性」という世俗的な概念は似合わないからである。


(2009年12月)

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