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2010年10月10日日曜日

ウェディング・バンケット('93)        アン・リー


<新世代の観念系の氾濫と、「異文化」を受容せざるを得ない旧世代の宿命的関係様態>



1  「コメディ」から「シリアスドラマ」への「風景の変容」



観る者が木戸銭を払って「予約」した、柔和な軟着点を不可避にする、所謂、ハートフルな「ヒューマンドラマ」に張り付く甘さが、この映画にもある。

しかし、本作で提起された主題が抱える困難さと、そこに関わる者たちの精緻な内面描写によって、「ヒューマンドラマ」の甘さを相殺し得る映像構築をも、本作は可能にしたと言えるだろう。

提起された主題が抱える困難さとは、そこにしかアイデンティティの基盤を拾えない「異文化」を確信的に生きる者と、その「異文化」のマイナー性(=非正常性)にとうてい理解を示し得ない者との葛藤であり、その葛藤が作り出した〈状況〉のうちに、同時に主体的に関与する者たちが引き受けざるを得ない問題のアポリアでもあった。

提起された主題が抱える困難さを抱える当事者が親と子であり、そして、その異文化の内実が同性愛であるという物語の軟着点が、予定調和のラインに辿り着く困難さであるとき、当然、家族ゲームの複雑なる謎解きもまた厄介なものになっていくだろう。

この際どい家族ゲームを物語にするとき、「確信犯」を思わせる作り手の選択した手法が、近年の映画で頻繁に見られる「風景の変容」という表現技巧だった。

アン・リー監督(ウィキ)
一言で言えば、本作は、「コメディ」から「シリアスドラマ」への劇的なドラマ展開を構成するものであった。

「ウェディング・バンケット」(結婚披露宴)のシークエンスを、コメディラインのピークアウトにする筋立てに依拠した物語構成が成功したか否かは、「ウェディング・バンケット」以降で集中的に描かれた「シリアスドラマ」の内実が、どこまで観る者の琴線に触れる精緻な内面描写に昇華したかによって検証されるだろう。

一見、単純なハートフルムービーのように決め付けられやすいが、実際はそのような難しい映像を、アン・リー監督は構築したのである。




2  中枢の部分で壊れゆく偽装結婚の仮装性




ここで、コメディラインを繋ぐ前半のプロットを簡潔に書いておく。

マンハッタンで、恋人のアメリカ人男性、サイモンと「同棲」するウェイトンは、不動産業を成功させた台湾人青年。

しかし、「適齢期」を過ぎても結婚しない一人息子の身を案じるウェイトンの両親は、痺れを切らして台湾から渡米するに至った。

当然の如く、自分がゲイであることを告白できずにいたウェイトンの悩みを、一過的に「解決」する手段として、二人は偽装結婚を思いつく。

左から、サイモン、ウェイトン、ウェイウェイ
その偽装結婚の相手として選ばれたのが、友人であるが故に安い倉庫を住居代わりに貸していた、画家志望のウェイウェイ。

アメリカ滞在のためのビザの期限が迫っていた彼女は、グリーンカード(永久居住権)を得る目的のみで二人の話に乗ったことによって、コメディラインの物語が動いていく。

偽装結婚を演じる行為それ自身をフォローしていけば、当然、物語はコメディ調に展開していくのである。

まもなく、満を持して、ウェイトンの両親が渡米して来た。

台湾で育ち、旧世代の古い考え方を抱懐するウェイトンの両親は、一人息子の「晴れの舞台」を見るために、台湾式の賑やかな結婚式をするように迫り、結局、それなしに済ませようとした3人の思惑は外れ、「ウェディング・バンケット」(結婚披露宴)を催す事態に至ったのである。

そして、物語は「ウェディング・バンケット」の長いシークエンスに流れていった。

この些か長尺なシークエンスに、観る者は驚かされるだろう。

何しろ、「ウェディング・バンケット」自体の騒ぎ方が文化として定着している台湾の実情に、近年その内実に変化が見られながらも、バンケット自体を「報恩のセレモニー」として把握する、我が国の形式的な様態との顕著な落差を印象付けられるのである。

二人きりになった「新郎新婦」の個室に、仲間たちが大量に押しかけて来て、麻雀したり、泥酔したり、あろうことか、招待客の前でベッドインを強制した挙句、「新郎新婦」はそれを遂行したりするという具合なのだ。

「台湾の結婚披露宴に招いていただきました。日本の披露宴とは随分違います。何が違うのか?それは主役が招待客であると思える点かもしれません。日本の披露宴に多い新郎新婦のショ-のようなイメ-ジはありません。勿論、来て下さった方々に2人を披露するわけですから、その要素はあって当然なのですが、雰囲気は随分違いますね。硬苦しい挨拶は勿論ありません。席が決めれているわけでもありません。時間を守らないといけないわけでもありません。時間になればポツリポツリと人が増えていく。こんな楽しい披露宴は初めてでした」(「台湾の結婚披露宴」ブログ)

これは、ネットサイトで拾った「台湾の結婚披露宴」ブログの一文だが、なるほど本作が決してオーバーアクションの産物ではないことを立証し得るものだった。

ともあれ、この「ウェディング・バンケット」をピークアウトにして、紛う方なく、本作は「シリアスドラマ」に踏み込んでいく。

「ウェディング・バンケット」の流れでの形式的なベッドインが、「新婦」のリビドーを惹起させたのか、彼女は懐妊してしまうのだ。

偽装結婚の仮装性が、最も中枢の部分で壊れた瞬間だった。

と言っても、「新婦」に結婚の意志がある訳でないし、「新郎」に結婚を受容する思いが存在する訳ではない。

しかし、このような「ルール違反」を目の当たりにして、恋人のサイモンは嫉妬する。

当然のことだ。

この葛藤のシークエンスが、食事中の両親の眼の前で露呈されたが、英語による会話で推移したことで、当人たちは、単なるコミニュケーションの行き違いとして処理したはずだった。

しかし、片言の英語を理解する父親は、事態の本質を見抜くに至り、遂には痼疾(こしつ)の心臓疾患の発作で倒れてしまうのだ。

明らかに、真実を知ったことによる衝撃が、父親の疾病を誘導するに至ったのである。

入院した父親を見舞いに行くウェイトンは、遂に母親に真相を告げるが、当然の如く、「異文化」の受容を拒む母親は嘆くばかり。

彼女の自我には、「同性愛者の一人息子」という観念のほんの一片でも拾い上げる文化的土壌が、全く張り付いていないのだ。

サイモンとウェイトンの父
また、「新郎」の父親に付き添っていたサイモンは、その父親が偽装結婚と「同性愛者の息子」という真実を知っていることを確認し、彼から「秘密の共有」を約束させられた。

こうして、本作の主要登場人物である5人は、個別相互間に「秘密の共有」を作り出していったのである。

「シリアスドラマ」に入ってからの物語展開の切迫感は、些か浮薄な、それまでのコメディラインの基調音を確実に削り取っていくのである。



3  新世代の観念系の氾濫と、「異文化」を受容せざるを得ない旧世代の宿命的関係様態



本作の基本ラインは、「異文化」の受容を不可避としつつある先進国で現出する、未知であるが故に、「旧来の陋習(ろうしゅう)」を強行突破していく、新しくも危うい家族像のうちにインボルブされた旧世代と、「異文化」の当事者である新世代とによって構成される親子の葛藤であり、そこに関与する者たちの複雑な関係の様態であると言っていい。

ここで由々しきことは、旧世代である親たちが、新世代である一人息子との血縁系の継続を切望する限り、彼らには「旧来の陋習」に囲繞された「異文化」を受容せざるを得ないという厳然たる事実である。

それは、「異文化」の家族像を確信的に選択した一人息子の、その観念系の変りにくさを前提としているからである。

ここで提示された問題解決の困難さが、本作の5人の主要登場人物たちの中で、個別相互間に「秘密の共有」が形成される原因となった文脈である。

「同性愛は一時的なものだわ。女性に裏切られて、心が閉じているだけよ。赤ん坊を見れば、正常に戻ると思うの」

これは、ウェイウェイに語った母親の言葉。

そのようにしか考えられない母親は、恐らく、「同性愛者としての一人息子」を観念として包括的に受容するとはできないであろう。

しかし、「無限抱擁」を本質とする「母性」豊かな彼女の中で、「息子を愛し続ける母」という自己像だけは壊れないに違いない。

そんな母親は、軍人出身の夫が、「同性愛者としての一人息子」という観念を受容することに耐えられないと考えている。

だから、告白した息子との間で「秘密の共有」が形成された。

「見て、話を聞いて、そして分った。ウェイトンは私の息子。君も私の息子だ」

ところが、偽装結婚を察知した父親は、サイモンにこう語ることで、理性的には、「同性愛者としての一人息子」という観念を受容することの障害を乗り越えていくことを暗示させていた。

あとは、感情が観念に追いつく時間を待つだけである。

いつしか、この理性的な父親が、「異文化」受容に対する「最も理解ある人間」として立ち上げていく可能性を、映像は必ずしも提示している訳ではないが、観る者のイメージには、それを感受させるに足る、元軍人の精緻な内面描写によって補填されていたことを認知するだろう。

そして、その父親もまた、サイモンとの間で「秘密の共有」を形成させるに至った。

要するに、この夫婦には、大事な一人息子の受容に関わる一点において、既に「秘密の非共有」を成立させてしまったのである。

思うに、「秘密の非共有」の延長が崩れゆく近未来の関係像をも、観る者が捕捉・了解することで、本作で提示された、先進国に現出する新しい家族像の有りように関わる問題解決の困難さだけが突き付けられて、帰国の別離のうちに閉じられていったということだ。

「私、幸せよ」

嗚咽の中で、この言葉をラストシーンで結んだ母親の思いには、感情のラインで受容し切る女の強さが垣間見られていたが、しかし、それはどこまでも包括的な観念的理解に届くものではないことをも示していた。

このようなテーマが映像化される時代が出来して久しいが、先進国の現状については、「異文化」の受容を不可避とする流れをいよいよ予約させつつある感がある。

アン・リー監督の問題提起は正解だったのだ。



4  「相互の思いやり」による物語の柔和な軟着点



最後に、本作が拾い上げていた、「世代間断絶」というテーマについて言及したい。

以下、本作での会話の断片。

「夫や子供が何より大事だわ」と母親。
「違います」と「新婦」のウェイウェイ。
「若いからまだ分らないのね」

「知らぬ振りをすれば、孫を見ることができるのだ」と父親。
「分りません」とサイモン。

そんな中で、偽装結婚の罪深さを感受して、自己のエゴイズムを責めた後に、堕胎を翻意した者がいた。

ウェイウェイである。

「自分のために偽装結婚して、サイモンやあなたの両親を傷つけ、小さな命まで奪うなんて・・・もうこんな生活を止めるわ」

その後、ウェイトンとサイモンが、ウェイトンとの間に産まれるウェイウェイの共通の「父親」になることを、3人で確認するシーンが挿入され、予定調和の「ヒューマンドラマ」の甘さを露呈するが、少なくとも、 このウェイウェイの表現のうちに、「旧世代」であるウェイトンの両親の誠実な振舞いが与えた影響を読み取ることができるだろう。

それは、「世代間断絶」を克服する唯一の手立てが存在することを暗示するものだった。

「相互の思いやり」であり、「誠実な振舞い」の大切さであり、そのことによる「自己相対化」の必要性であるだろう。

以上の文脈によって把握し得るならば、サイモンやウェイウェイに関する内面描写を包括して、アン・リー監督が描く物語の柔和な軟着点が、そこに垣間見えた次第である。

(2010年10月)

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