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2008年10月29日水曜日

蝶の舌('99)      ホセ・ルイス・クエルダ


<穏やかさを剥ぎ取られた「風景の変色」>



序  時代の風が激越に巻き込んで



様々な彩りを持った風景を、時には牧歌的に、時には世俗的に、或いは、軽快な律動感によって見せながら、最後には、そこにいる全ての人々を時代の風が激越に巻き込んで、そこで容赦なく裸にされる残酷極まる現実が晒された。

これは表面的には穏やかだった風景が、ある瞬間を機に、その穏やかさを剥ぎ取られた風景に変色する厳しい映画である。

風景の変化は空気の変化だった。

空気の変化はそれを嗅ぎとる者たちの生きざまの変化だった。これはその生きざまに翻弄され、置き去りにされた幼い自我の哀切なる物語である。



1  「風景の旅」が開かれて



――  映像に入っていこう。

少年モンチョは不安な夜を過ごしていた。その思いを、就寝中の兄に吐き出さざるを得なかった。

「アンドレス、アンドレス、起きて」
「どうした?」

半醒半睡状態の兄は、その顔をベッドに埋めながら答えた。

「学校で叩かれた?」
「もちろんさ」
「行きたくない」
「どこへ?」
「学校だよ。もう字も読める。おじさんみたいにアメリカに行きたい」

この言葉を耳にした兄は、その眼を薄く開けて弟を見た。

「何、言ってるんだ」
「叩かれるのは嫌だ」
「誰にだ?」
「先生にさ。怖そうな顔をしている」
「もう寝ろ。でないと学校で居眠りするぞ。だから眠れよ」

兄のアンドレスはそう言い放って、深い眠りに就いていった。

翌朝、モンチョは母に連れられて、息子の担任のグレゴリオ先生に会うことになった。

「子スズメが、初めて巣から出るようなもので・・・」

モンチョの母はそう言って、息子を先生に引き渡したのである。引っ込み思案のモンチョは、いつまでも母の顔を見ながら、まるで引き立てられるようにして、自分の手を先生の手の中に預けていった。

教室に入る早々、その場面を見ていた級友たちに、モンチョは「スズメだ、スズメだ」とからかわれることになる。少年は緊張のあまり、混合学級の教室内で小便を漏らしてしまうのだ。

その屈辱に耐えられず、少年はそのまま教室を出て行った。その手には、持病の喘息のための吸入器が握られていた。それが、 持病の喘息のため、一年遅れで小学生になった八歳の少年モンチョの、生まれて初めての登校日の出来事であった。

この失態で山の中に逃げ込んだモンチョは、船に乗ってアメリカに行こうなどと考えたのである。結局、兄によって連れ戻されたモンチョの心を、定年間近のグレゴリオ先生は優しく包み込み、少年は翌日から学校に通い始めた。繊細な少年の、半年間に及ぶ「風景の旅」が始まったのである。

学校に通い始めた最初の日に、モンチョはグレゴリオ先生に対する不安感をすっかり払拭してしまった。学校から帰って来るや、モンチョは家族に、その思いを多少の興奮を込めて伝えていく。

「叩かれなかった」
「本当?」とアンドレス。
「それに先生は、もらった鳥を返したよ」
「誰に聞いたの?」と母。
「あのおじさんの息子が言ってた。あの人は町長より偉いみたい」
「鳥とは?」と母。
「息子に勉強させるための贈り物だよ。でも、その子は勉強しなくても平気だってさ。イモはどこから来る?」
「畑に決まってるだろ」と兄。
「アメリカからさ」
「バカなことを」と母。
「ほんとさ。先生が言ってた。コロンブス以前にはジャガイモはなかった」
「何を食べてたの?」と母。
「栗だ。コーンもない」
「いい先生みたいね」と母。
「好きだよ」とモンチョ。
「でも噂では、先生は“アテオ”だとか」
「アテオ?」とモンチョ。
「神を信じない人」と母。
「パパみたいに?」とモンチョ。
「何でそんなことを?」
「神の悪口を言うよ」
「そうね。確かにそれは良くないことよ。でも、パパは神様を信じるわ」
「悪魔は?」
「もちろん、いるわ。天使だったのに神様に背いて、地獄に追いやられたの。だから死の天使なのよ」
「では、なぜ神様は殺さないの?」
「神様は殺さないのよ」

何気ない母子の会話だった。

モンチョとグレゴリオ先生
因みに、その会話の中には、本作のテーマ性に関わる多くの要素が伏線となって提示されていた。

それを簡単に整理してみる。

その一。モンチョとグレゴリオ先生の、親密度の深まりを感じさせる予感である。

その二。町長より偉いと言われる人間からもらった賄賂の如き鳥を、先生が突き返したこと。既にそこに、大人同士の対立の関係図式が見え隠れしている。

その三。先生の授業に興味を見せるモンチョの好奇心。これは一と絡んで、更に少年の感性を膨らませる確かなモチーフになっていく。

その四。アテオに対する母の微妙な反応。父をアテオと考える息子を制する母の態度は、本作の困難な軟着点を示唆するものとなっている。

以上の要素が複雑に絡んで、叙情的で繊細な律動でステップした本作が、その風景を劇的に変貌させていく展開に繋がっていくのだが、まだ映像はその片鱗しか見せていない。

即ち、本作の歴史的ステージが、1930年代の、あの最も熱い季節を作り上げたスペインであったということ。それが、風景の変貌に繋がるバックグラウンドになていくのである。



2  蝶の舌の驚異



グレゴリオ先生
グレゴリオ先生の授業は、一風変わっていた。

算数の授業を熱心に聞かない生徒たちに対して、先生は形式的に注意するが、それでも騒ぎを止めない生徒たちをそれ以上干渉することなく、先生は一人で窓の外を眺めて、教室が静まるのを待っている。

モンチョだけは授業を聞こうとするが、それでも教室の騒ぎは収まらなかった。

その夜、モンチョは兄にそのことを報告した。

「学校は?」と兄。
「図画を習った。先生に悪いことをした」
「何で?」
「授業中に皆で大騒ぎした。でも先生は、怒らずに黙ってた」
「それで?」
「生徒もだんだん静かになった」
「先生は何と?」
「“ありがとう”と」

そんな会話の中に、グレゴリオ先生に関心を持つモンチョの感性の高さが窺える。

翌日のこと。

親友のロケを守るために、取っ組み合いの喧嘩をしたモンチョは、先生に強く注意された後、授業を受けるため教室に入ることになった。

元気のいい生徒たちが教室の空気を支配するが、やがて始まる先生の授業に、彼らはあっという間に引き寄せられていく。

「分っているだろうが、もうすぐ春が来る。天気が良く、暖かい日には郊外へ出て生物の勉強をする。生物は好きかね?君らは知らんらしいが、自然は私の親しい友であり、人間が見ることができる最大の興味なのだ。蟻がミルクや砂糖を得るために、家畜を飼っているのを知っているか?水蜘蛛が何百万年前に、潜水艦を発明したのを知っているか?蝶に舌があるのを知っているか?蝶の舌は長く伸び、象の鼻のようだが、細くてゼンマイの鋼のように巻かれているんだ」

先生のこの話に、モンチョは眼を輝かせた。

その夜、モンチョは街路で遭遇した兄に、その感動を話した。

「オーストラリアのある所は?」とモンチョ。
「アメリカ」と兄。
「オセアニアだ」とモンチョ。

次に、モンチョは兄に「ティロノリンコ」の話をした。

「ティロノリンコって知ってる?オーストラリアの鳥さ。繁殖期になると、メスに蘭の花を贈る。きれいだけれど高い花だ」

そんな弟の話に、兄は殆ど無関心だった。

思春期の彼には、音楽のことしか頭にないのだ。

偶然、街路で出会った町のオーケストラの仲間に誘われて、兄弟揃って楽団の一員に加わることになったからである。

それでもモンチョには、兄の関心対象より先生の話す生物の授業の方により関心を示していく。

思春期の前後を分ける、二人の年齢の開きがそうさせているのである。

子供の好奇心を刺激するようなグレゴリオ先生の授業は、少年にとって新鮮な驚きに充ちていた。

とりわけ、蝶に舌があって、普段は渦巻状になっているためその観察は難しいが、蝶が花の蜜を吸うときにその舌を伸ばしてくるという話に、少年の瞳は一層の輝きを増した。

自然の驚異に素直に反応する子供の心は普遍的だが、モンチョにとってのそれは、慈父のような包容力を持つ老教師との出会いをモチーフにすることによって、格別な意味を持ったのである。



3  共和主義者の同志



生物の課外授業の中で、モンチョ少年が喘息の発作で倒れてしまったことがあった。

その日の小さなエピソードのこと。

それを知った先生はモンチョを湖の中に体を漬けて、応急処置をしたのである。

ズブ濡れになった二人は、その後モンチョの家で濡れた服を乾かしていた。

「水の中に入れたのが良かった。前にもそんなことが」とモンチョの父。
「最初の聖体拝領のとき、ちょうどその瞬間に発作が起きたのです。奇跡です。聖水をこの子の顔にかけたとたん、発作が止まりました」

これは、信仰熱心なは母の言葉。

「彼女は信仰家」と父。先生に言葉を添えた。
「あなたは共和派だ」とグレゴリオ先生。
「私はアサーニャ(注1)支持です」と父。

頷く先生に、モンチョの父は好感を持って反応した。

彼はグレゴリオ先生に服を新しく仕立てて上げることを勝手に決めて、遠慮する先生の体のサイズを測ったのである。

「仲間内で、原則はなしにしよう」

この父の一言で、スーツの新調のお礼を素直に受けるグレゴリオ先生。このエピソードによって、二人の関係がスペイン人民政権を支持する共和主義者の同志であることが判然とする。

その夜、モンチョの父は、ベッド中で機嫌の良い妻にその理由を尋ねた。

「何を考えている?」
「先生のこと。とても良い人。お礼ができて嬉しいわ」
「先生の給料はえらく安い。共和国の柱なのに」
「共和国?アサーニャ政権で大丈夫なの?」
「彼のどこが悪い?説教では彼の悪口を?」
「教会には行くわ」
「行くのはいいが、神父の説教はどうもな」
「でも怒らないで。モンチョも元気だしね」

夫婦の会話はグレゴリオ先生の話から、彼も支持する人民戦線政府の話にまで及んだ。

モンチョの両親
明らかに共和主義者の夫に対して、信仰心厚き妻は政治的には反共和派らしいが、それ以上にリアリストであるという印象が強い。しかし未だ映像の風景は柔和であり、牧歌的だった。


(注1)王政の崩壊に伴って成立した、スペイン共和国政権の首相。貧富の顕著な格差の是正を推進しようとしたが、その政策に反発するブルジョア層や軍部、教会などとの確執が、遂に「スペイン内戦」となって、人民戦線政府の崩壊を将来した。アサーニャは内戦の敗北によって、国外亡命を果たすに至る。



4  “空のベッド 曇った鏡 虚ろな心・・・”



ところで、同一の原作者による三つの短篇を上手にまとめた本作には、幾つかの、一見脈絡のないエピソードが淡々と挿入されているが、しかしそれらは、風景が一変する終盤のハードな展開への欠かせぬ伏線となっていることがやがて判然とする。

それは陽から陰への、光から闇への、即ち、ファンタジーからリアリズムへの風景の劇的展開を印象付けるために、作り手たちが巧妙に仕掛けた表現技法であった。

そして様々に展開する風景の中心に少年がいて、その少年が最も慕う、孤独を愛する老教師がいた。

少年と老教師との印象深い会話がある。父親の愛人の葬儀を、恐々と覗いた少年が問いかけていく描写でのこと。

「人が死ぬと、一体どうなるの?」
「どうなると思う?」
「善人は天国へ、悪人は地獄へと。ママは言っている」
「パパは何と?」
「最後の審判で、金持ちは弁護士を雇うと。ママは嘘だと言う」
「君はどう思う?」
「何だか怖い」
「人に言ってはならん。これは秘密だ。あの世に地獄などはない。憎しみと残酷さ、それが地獄のもとになる。人間が地獄を作るのだ」

作り手のメッセージを伝えるような老教師の最後の一言に、当然ながら少年は反応できない。

一切が驚異に映る幼い自我には、人生のゴール間際に近づいた大人の重い垂訓も、即物的な情報の価値にすら達しないのである。

自宅の書斎を訪ねた少年に読書を勧める老教師が、一度手に取って、元に戻した本の名は「パンの略取」。

かの有名なアナーキスト、クロポトキン(注2)の主著である。

老教師が8歳の少年に、それとなく伝えようとするメッセージの性急さ。難解で、複雑なる人生観の一端に触れさせたいと感じさせる何かが少年にある、と老教師は思い込んでいたのであろうか。

因みに、そのときグレゴリオ先生は、少年に自分の現在の心境を語っている。

「“空のベッド 曇った鏡 虚ろな心・・・”」

ある詩人の言葉によって代弁された老人の心境は、暗鬱なる時代を投影するものであったばかりか、22歳の若さで逝った妻の写真をいつまでも自分の書斎に置いていることでも分るように、孤独の陰影を感じさせるものであった。


ピョートル・クロポトキン
(注2)ピョートル・クロポトキン。モスクワで生まれた、貴族出身のロシアの社会思想家。無政府主義(アナーキズム)の理論家として著名。その著には、「パンの略取」の他、「近代科学とアナーキズム」、「相互扶助論」などの思想書がある。         


また、先のモンチョの夫婦の会話では、信仰心厚き母と、コミュニズム故の不信心者(アテオ)である父の価値観の相違が、ここでも明らかにされていた。

カトリック信仰の強い国土を支配していたかのようなインターナショナルな風が、仕立て屋を本業とする一家の中にも吹き込んでいたのである。



5  高台で手を振る中国娘



時代の風は小さな村の其処彼処で沸々としていたが、その背後に迫る反動の風も勢いを増していた。

二つの風が坩堝のような空間に、無秩序な波動を見せていく。

しかしまだこの村を吹きぬけていく風には、演奏旅行やピクニックを謳歌できる温もりがあった。

そんなエピソードの中で、最も印象に残る描写があった。

演奏隊の一団が、ある村人の家に厄介になったとき、モンチョとその兄アンドレスは、その村人の娘が幼少時に経験した惨い話を聞くことになった。

彼女は狼に噛まれた傷を、その背中に深く抉(えぐ)れるように負っていて、以来その恐怖感から言葉を失ってしまったということ。

その話を聞いて、アンドレスは娘に特別な感情を抱いていく。

かねてから憧れていた中国娘のイメージに、その娘の寡黙な態度が重なったことも起因していた。

アンドレスはその娘を意識するようになるが、その娘が年の離れた村人の妻であることを知って悄然とした。

村祭りの夜、彼はその娘の前で懸命にサックスを演奏し、彼女を喜ばせようと努める。

後方の大木の陰から、この演奏を聴くために着飾ったかのような娘の寡黙な振舞いに、アンドレスは思いを込めて応えようとしたのである。

彼女はアンドレスをじっと見つめていて、彼の演奏に一筋の涙を流しているのだ。

しかし彼女が、無骨な夫に連れ去られて行く姿を見て、アンドレスのサックスは止まってしまった。

サンティアゴ・デ・コンポステーラへの道(イメージ画像)
翌日、演奏隊はその村を去って行った。

トラックの荷台には、アンドレスとモンチョもいた。

そして演奏隊を見送る娘の視線を捉えたモンチョは、それを兄に告げた。

アンドレスが仰いだ高台には、自分に向かって手を振る中国娘がいたのだ。

アンドレスは何も反応できず、そのまま固まってしまった。

思春期を迎えた男の子の複雑で、繊細な感情が裸にされて、一つの悲しい別離がそこに置き去りにされたのである。

隣りに座るモンチョだけが、未だ兄の世界に届くことができないでいた。



6  「自由に飛び立ちなさい」



まもなく、グレゴリオ先生が退官することになり、その別れの儀式が教室内で細(ささ)やかに開かれた。

その席には、モンチョもいて、多くの他の生徒もいる。

そして生徒たちの父兄がいて、学校関係者がいる。共和主義者がいて、王党派もいた。その中で、先生は別れの挨拶を刻んだ。

「春になると、野鴨が愛を交わすため、古巣に帰って来ます。誰もそれを止められません。羽を切ったら、泳いで来ます。足を切ったら、嘴(くちばし)を櫂(かい)にして、波を乗り越えます。その旅に命を賭けているのです。今、人生の秋を迎え、どんな希望を持てるのか。実は少し懐疑的です。狼はきっと羊を仕留めるでしょう。しかし私は信じます。もし我々に続く一つの世代が、自由なスペインに育つことができたら、もう誰もその自由を奪えないことを・・・」

老教師がここまで話したとき、王党派の町の有力者は子供の手を引いて、そのまま怒りの感情を露(あらわ)にして教室を立ち去った。

それを確認した先生は、なお子供たちに伝えるメッセージを繋げていく。

「誰もその宝は盗めないのです。自由に飛び立ちなさい」

それがグレゴリオ先生が、この映像に残した、最も印象深い最後の言葉になった。

この描写を機に、熱い季節の凄惨なる終焉を予感させつつ、穏やかさを剥ぎ取られた「風景の変色」が、少しずつ映像を尖らせていったのである。 



7  「人間が地獄を作るのだ」



嵐は、突然やって来た。

それは、村に住む人々の空気を一変させるに足る圧倒的な暴力だった。

1936年7月、スペイン内乱(注3)の勃発である。

それまで内紛を抱えながら、辛うじて維持されてきたスペインの人民戦線内閣が、王党派や教会、資本家に依拠するフランコ将軍の軍事クーデターによって倒壊し、以後、三年に及ぶ激しい内戦がスペイン全土で展開されたのである。


スペイン内戦で廃墟と化したゲルニカ
(注3)1936年から39年に渡って戦われたスペインの内乱で、人民戦線政府の打倒を目指した反乱軍 (指導者はフランコ将軍) が蜂起し、国際義勇軍(「国際旅団」と称された)の援助を受けた人民戦線政府は、内部的な党派抗争もあって崩壊するに至った。反乱軍のフランコを、ドイツ、イタリアのファシズム国家が支持したことが大きく、その後の大戦の流れを必然化したとも言える。人民戦線派の残党に対するフランコ政権の弾圧は、凄惨を極めた。             


少年の兄を楽団に加入させた演奏家たちや飲み屋の主、そして、少年モンチョが敬慕するグレゴリオ先生、仕立て屋を稼業とする少年の父もまた、人民戦線派の共和主義者だった。

内乱の勃発によって、彼らの住む村から牧歌的風景が消えていく。

印象派の絵画のような橋と川があり、そこで洗濯する女性が点在する長閑な風景が消え、蝶を追う子供の風景が消え、明るい歌声とステップが消え、楽団の男たちが演奏する軽やかな風景が一瞬にして消えていったのである。

しかし、映像は内戦を映し出さない。

内戦に呑み込まれた人々の混乱と動揺、嘲罵と沈黙、狂気と卑屈だけを映し出していく。

映し出されたものは例外なく表情を持ち、その表情によって、踏みつける者と踏みつけられる者との間に、明瞭なラインが引かれたのである。

踏みつけられる者が一人一人、彼らが捉われていた所から両手を縛られた状態で、罵倒が渦巻く外側のラインを、鈍い足取りで抜けていく。

それは恰も、ゴルゴダの丘を重い十字架を担いで登る、あのユダヤ人の受難の足取りにも似ていた。

その重い行進の最後を這っていく者、それは、退任して間もないグレゴリオ先生だった。

「アテオ!アテオ!」
「人殺し!」
「アカ!裏切り者!」

容赦なく飛び交う罵倒の中に、少年の母がいて、兄がいて、最後に罵倒する側に寝返った父がいて、そして少年モンチョがいた。

家族を必死に守ろうとする母は、僅か八歳の息子に「政治犯」への罵倒を強く促した。

理屈を呑み込めない子供でも、空気に反応する術くらいは心得ている。

濁った空間を支配する空気が母親の感情を搦(から)め捕って、その感情のラインに、少年の自我が素直に反応するのだ。

当然過ぎるほどの心理的文脈である。

母親との情緒的関係の強さは、束の間形成された他者との親愛関係の記憶を、呆気なく無化してしまうということだ。

同志であった仕立て屋の家族に嘲罵された老教師は、彼らの視線を静かに、しかし重苦しく受け止めるようにして、無言のまま離れていく。

その視線の中に、少年モンチョがいた。

自分の孤独な境遇を語り、秘密の教えを垂れた愛すべき少年がいたのである。

少年を見る老教師の表情は、必死に感情を押し殺して冷酷なる時間の中で凍りついているようにも見えた。

「人間が地獄を作るのだ」

老教師が少年に語った言葉の世界が、今ここにある。

少年の父が泣きながら、「人殺し!裏切り者!」と叫んでも、それを許容する世界がここにある。

人間の心の弱さ、狡猾さ、卑屈さを観念的に知り尽くしてきたであろう老教師の魂は、恐らく、その鈍い歩行の中で見せつけられた、人間が作り出した地獄のさまに震えていたのだろうか。

重い十字架を背負い切れずに震えるイエスと、そのイエスを「知らない」と叫んで逃げ延びた、愛弟子ペトロ(注4)の涙。

自分の息子モンチョの敬愛する老教師と、その老教師にスーツを新調した仕立て屋の構図は、恐らく、聖書の世界をなぞっている。

聖書を信仰する国の人々が、聖書を守るべき教会と組んだ軍部の側に立って、処刑されるであろう共和主義者たちに向かって、一人また一人、走り寄って石を投げつける。

これもまた、売春婦に投石した者たちを非難した新約聖書をなぞっているのか。聖書の国で、聖書を読まない者を魔女狩りにする歴史に終りが来ないのか。

映像の括りは、これ以上ない哀切と凄惨な描写によってフェード・アウトしていった。


(注4)イエスの最初の弟子になったと言われる、シモン・ペトロのこと。弟のアンデレと共に、ガリラヤの漁師であったとされる。弟子たちのリーダー的存在であったが、イエスの処刑の受難に際して、自らの捕捉の危機に直面し、イエスを否認したエピソードは有名で、度々映像化されている。イエスの死後、精力的に福音の宣教に尽力するが、ネロの迫害によって殉教したと説明されている。「天国の鍵」をイエスから受け取ったことで、カトリック教会では初代の教皇とされ、崇拝の対象になっている。         



*       *       *       *



8  完璧に嵌った、作り手の狙った表現トリックのツボ



映像は限りなく残酷だった。

石を投げつけたのは大人ではなく、村の子供たちだった。

その中に少年モンチョがいる。

トラックに乗せられて、「虐殺の丘」に向かうであろう人々の中に、老教師グレゴリオがいる。投石しながらトラックを追い駆けていくモンチョと、トラックの最後尾から彼を見つめ続けるグレゴリオ。

映像を澎湃(ほうはい)する緊張がうねりを上げ、炸裂する。しかし炸裂するのはまだ早かった。

映像の最後に、少年の放った一言が待っていたのである。

「蝶の舌!」

この一言を、主人公の少年に言わせたいための映画だった。

観る者はどこかで決定的な一言を期待しながらも、予想し難いラストシーンに衝撃を受け、落涙した者もいたに違いない。私もまたそうだった。

それは、映像が炸裂した瞬間に立ち会った者の自然な反応だったと言える。作り手の狙った表現トリックのツボに、完璧に嵌ってしまったのである。

これほどまでに気の利いた言葉が、少年から吐かれた不自然さが気になって、私はこの映画を四度観た。その結果、了解できた。このラストシーンが必ずしも不自然でなかったことを。

「政治犯」が画面に現われてから、トラックに乗り移っていくまでの緊迫する描写は、そこで束ねられた一齣(ひとこま)一齣に、心理的文脈に於いて説得力を持たせると同時に、映像のテーマ性が集約された見事な風景を作り出していたのである。

少年モンチョの最後の一言も、劇的に暗転する映像の心理的文脈の流れの中に溶け込んでいて、それだけが浮いたような決定的な感動を狙った厭味な描写には見えなかったのだ。



9  心の糸の小さな実感的確かさを象徴する言葉として



―― それを簡単に検証してみる。

前日、少年の母は、夫が共和派である事実を必死に隠滅しようとした。夫の党員証を燃やし、モンチョに対しても、グレゴリオ先生との親密な関係を否定するように言いくるめたのである。

その後、武装した共和派の同志が父親を誘いに訪問した際、母は居留守を使って、彼らを体よく追い返す。こんなとき、女は本当に強い。

守るべきものを持つ母は、リアリズムのラインを決して崩すことなく、何よりも強いのだ。

そんな母の、これまでにない懸命の行動を目の当りにしたモンチョは、子供ながらに家族が抱えた危機感を感じ取っていたのだろう。

モンチョは老教師から渡された、「宝島」という夢溢れる冒険譚のページを開いて、それをすぐに閉じてしまった。少年の心に名状し難い感情の振幅が垣間見えていたのである。

その夜、兄弟は窓越しに、共和派の人々が王党派の兵士に暴行を受け、逮捕される現場を目撃する。

このとき少年は、母親がとった行動の意味を初めて理解したに違いない。

自分の父もまた、今、眼の前で連行されていく人々の中にいたかも知れないのである。

映像が突然暗転する、この重苦しい一日の非日常的な流れが、翌日の家族の行動の文脈を決定づけたのである。幼いモンチョの自我も、この流れの中に翻弄されていったのだ。

そこに、石を投げる少年がいる。駆けていく少年がいる。

その眼差しの先に、自分を愛した老教師がいる。幾分歪んだ老人の表情は、少年が今まで見てきた敬慕する教師のそれではなかった。

実は少年は、老教師が夜の街路で吐瀉している姿を既に目撃していたのである。

共和派が集まる酒場で飲んだ酒に酔いつぶれて、老教師は、心の不安をそのまま吐き出しているかのような表情の歪みを見せていたのだ。

その表情が何かを訴えているのか、或いは、何も訴えていないのか、少年は何も知らない。何も知らないが、そこに崩れるように揺らいでいた老人の風貌は、「自由に飛び立ちなさい」と言い放った、包容力溢れる先生のイメージとは縁遠い孤独感を漂わせていたのである。

その先生が今、より強い権力に引き立てられる者の敗北者にも似た、何か無残な寂寥感を引き摺っているのだ。

しかしそれでも、少年の記憶から、蝶の観察を熱心に勧めたグレゴリオ先生との細(ささ)やかな触れ合いの時間を消し去ることはできなかった。

感受性の強い少年の幼い自我の中で、それだけは恐らく簡単に捨てられない何かであったに違いない。

少年と老教師を結ぶ心の糸の中枢に、驚異なる生物の観察があった。

少年は老教師から虫取り網もプレゼントされている。

それは、蝶を採るための網でもあった。しかし蝶を採って、その舌を顕微鏡で観るという約束は、二人の中で未だ果たされていないのだ。

未だ果たされていない約束だからこそ、少年の心に残された生物の世界の神秘さが、なお延長された未知のゾーンとなって、思春期を抜ける以前の幼い自我の内に刻まれていくであろう。

そしてそこで刻まれていく対象イメージこそ、グレゴリオ先生という名の固有なる人格性であったのだ。

「蝶の舌」―― それは、二人を結ぶ驚異なる生物観察を通して、その心の糸の小さな実感的確かさを象徴する言葉だったのである。

その言葉が少年から放たれて、映像は完結した。少年の表情は、最後にモノクロの映像の中で固まっていたのである。



10  花の蜜を吸うための舌を持つ蝶のように



ヨーロッパの映画は、概して残酷である。

醜態とも思える人間の生きざまを容赦なく描き出す。

ペレ」より
とりわけ、純粋で父思いな少年「ペレ」(注5)が、小銭を与えて友だちを殴らせてもらう描写や、「八日目」(注6)のダウン症の子が性的感情を露(あらわ)にするシーンなど、子供の描写にも容赦がないのである。

リアリズムで駆け抜けた描写を、簡単にファンタジーに引き渡したりはしないのだ。

ありもしない奇跡や偶然に逃げ込む怖さを、ヨーロッパの一部の映画監督は知悉している。

残酷で始まり、残酷で終わる映像を拒まない勇気と潔さ。それもまた、ヨーロッパ映画の意地でもあるかのようだ。


(注5)1987年、 デンマーク・ スウェーデン製作。ビレ・アウグスト監督。19世紀、スウェーデンからの移民親子が、荒涼たる海を渡ってデンマークにやって来る。二人は、「パンにバターを塗って食べる生活」を夢見るが、年老いた父と少年の労働能力は貧弱で、農園の牛小屋で寒さを凌ぐ厳しい生活を余儀なくされる。この苛酷な物語が訴えるリアリズムの力強さが、映像の骨格を支えていた。88年にカンヌ映画祭グランプリ、89年には、アカデミー賞外国語映画賞受賞作としても名高い傑作。

(注6)1996年、ベルギー・フランス製作。ジャコ・ヴァン・ドルマル監督(「トト・ザ・ヒーロー」で注目)。一人のサラリーマンと、ダウン症の青年との友情をハートフル、且つファンタジックに描きながらも、人生の苛酷さをリアルにまとめた個性的な作品。96年カンヌ国際映画祭で、主役の二人は主演男優賞をダブル受賞した。


「蝶の舌」という作品は、その手の映画とは少し違うが、基本的枠組みはさして変わらない。

牧歌的展開の風景が、ある日突然、政治のリアリズムの風景に化けたとき、狭い空間に生きる人々の多様な生きざまが裸にされた。

そのモデルになった仕立て屋の一家を通して、映像は容赦なく自己保身のための裏切りと卑屈さを描き出し、その負性の感情に呑み込まれた子供の残酷さをも抉(えぐ)り出したのである。

この描写に嘘はなかった。

思うに、私たちが「子供の純粋さ」を語るとき、そこに、人を傷つけることに無頓着で鈍感な自我が含まれていることを、多くの人は認めない。

しかし「子供の純粋さ」とは、未だ大人になり切れていない自我が、状況にストレートに反応する感情傾向のことである。

絶対に実現不可能な「夢」を語り続ける大人を、私たちは「純粋なる者」とは呼ばず、「未熟なる者」と呼ぶだろう。

懐かしき子供の時代を永遠に定着させたいが故に、私たちは子供一般に対する純粋信仰を捨てられないのだ。

それは、現実にしばしば妥協して生きざるを得ない普通の自我を持つ大人が、過剰な思い入れたっぷりに描いた物語でしかないだろう。

従って、子供の純粋さは、平気で残酷さとも同居するのだ。

それは異常なことではない。他者に対する濃密な思いやりの感情は、自我の健全な発達過程なしに形成されようがないのである。

少年モンチョもまた、喘息という身体の負荷を抱えながらも、愛情豊かな家庭に普通の自我を育んできた。

優しくも厳しい母と弟思いの兄、そして愛人を持ちながらも、家族に人並みの生活を保障する働き者の父。

そんな普通の家庭環境に囲まれて、少年は普通に育ち、普通に感動し、普通に走り抜けた。

そして異常な環境と出会い、その環境が求める普通の残酷さを表現した。

この文脈が分らない限り、恐らく、この映画は理解できないに違いない。

ホセ・ルイス・クエルダ監督
映像は、一家の行動を決して責めてはいない。

映像を観る私たちもまた、その環境に自ら身を置くことを仮定したら、一家と同じ行動をとらないと確信的に言い切れるだろうか。

人間が地獄を作り出し、その地獄の中で人間はどこまでも愚かになり、果てしなく卑劣になる。

だからこそ、地獄に繋がらない社会を作るしかないのだ。恐らくこれは、グレゴリオ先生の信条であると同時に、作り手のメッセージでもあるだろう。

そのメッセージがモンチョのような子供たち一般に仮託されるとき、退官の際に放った老教師の一言に結実されたのである。

「自由に飛び立ちなさい」

花の蜜を吸うための舌を持つ蝶のように。

その隠された舌は、自分の生命と自由な飛翔を保障する魔法の道具。

それを君たちの成長の中で手に入れて、地獄に繋がらない社会を作って欲しい。

映像からこんな解釈を勝手に読み取って、とりあえず、この切なくも、厳しい一篇から我が身を解放することにしよう。 

(2006年10月)

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