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2011年4月23日土曜日

運動靴と赤い金魚('97)     マジッド・マジディ


<順位を予約して走る少年の甘さにお灸を据えた適性なるリアリズム>



1  弱さを持つが、それが全く欠点にならない「純粋無垢」の子供の物語



弱さを持つが、それが全く欠点にならないような人格造形され、且つ、そこで人格造形された主人公が「純粋無垢」の子供であったら、殆ど批評の余地のないと思えるような典型的な映画 ―― それが、「運動靴と赤い金魚」だった。

私が高く評価している、厳しいリアリズムで描き切った、同じ作り手による「太陽は僕の瞳」(1999年製作)のような明瞭な主題提起を含む映像は、国内で受容されにくい現実が存在することは、知る人ぞ知る、イラン映画の国情の看過し難いアポリアの一端。

だから、多くの優秀な映像作家は、子供を主人公にした映画を作ることで、限りなく社会的な主題提起性を希釈化させ、それが一見、「人畜無害」の印象を与えるヒューマンドラマのうちに無難にまとめ上げる技量に優れている。

従って、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞した、ジャファール・パナヒの「チャドルと生きる」(2000年製作)は、当然、イラン国内で上映を禁止されたばかりか、近年の民主化デモの影響下で本人も逮捕・仮釈されるという生臭い情報が届いたばかりだから、本作の「運動靴と赤い金魚」のような作品によってしか、国内外で支持されないという現実を無視できないのである。

マジッド・マジディ監督
そんな本作でも、明らかに、反米的イスラム原理主義の体制下にあっても、「貧富の格差」の看過し難い存在を物語の中に巧みに挿入しながらも、一切は「Children of Heaven」(楽園の子供たち)という原題を持つ、「純粋無垢」の子供の物語に収斂させたが故に、大上段に振りかぶって、文句を言わせないような作品を仕上げる辺りが、如何にもマジッド・マジディ監督らしい映像構成の妙であったと言わざるを得ないのだ。



2  相当に厄介なテーマとしての「打算的計略」の「全面展開」



簡単に、物語の梗概を書いていく。

この日、小学校高学年のアリ少年は、八百屋で買い物をしているとき、修繕したばかりの妹ザーラの運動靴を紛失してしまう。

八百屋の前を通りかかった屑屋さんが、ゴミと一緒に、運動靴の入った袋を持っていってしまったのだが、そんなこととは露知らず、アリ少年は八百屋の主人に叱られながらも、近辺を必死に探すものの、遂に見つからずに悲嘆に暮れていた。


貧しい家庭ゆえ、当然、アリ少年は親にも打ち明けられる訳がない。

それどころか、遅く帰宅したことで、腰痛で難儀する母を手伝えず、怖い父に怒鳴り飛ばされるばかり。

そんなアリ少年が考えついた結論は、殆ど崩壊寸前の自分の靴を、妹と共有すること。

「これ、あげる」

そう言って、アリ少年がザーラに出したのは、未だ使い古されていない一本の長い鉛筆。

妹の短い鉛筆の代りに、自分の新品の鉛筆を提供し、まんまと「買収」したのだ。

無論、親に内緒にするという妹との約束をも取り付けていた。

この辺りの兄妹の遣り取りが、父母の前で勉強する振りをして、ノートに思いを書き合う方法で遂行されたのである。

妹と共有されるアリ少年の、一足の運動靴。

それは、妹がまずアリの運動靴を履いて登校し、妹の下校を待つ兄が、それを履いて走って登校するという具合。

疾走する二人。

兄は遅刻しないために、妹は兄に怒られないために疾走するのだ。

「遅刻しなかった?」と妹。
「ギリギリだ。もっと早く帰れ」と兄。
「急いで帰って来たのよ。そんな汚い靴、履くの恥ずかしい」
「じゃ、洗おう」

一足の運動靴を洗う兄と妹。


洗いながらシャボン玉を作り、それを吹いて、笑みを交換する兄と妹。

そこから、運動靴を手に入れられなかったという、幾つかの印象的なエピソードが繋がった後に待機していた、地域の小学校の合同マラソン大会。

3位入賞者には運動靴が付与されると知ったアリ少年は、体育教師に半べそをかいて強引に頼み込んだ甲斐あって、出場OKということになった。

かくして、アリ少年は、妹のために4Kmマラソンに臨み、全力を尽くして必死に走るのだ。

と言っても、3位入賞を狙うという些かハードルの高い競争だから、当然、そこに小賢しい「打算的計略」が求められる。

然るに、たとえ成績優秀のアリ少年であっても、「純粋無垢」の少年のキャラの範疇では、「打算的計略」を「全面展開」させるのは相当に厄介なテーマであった。

観る者の予想通りの結末が待っているのだ。


ラストの直線コースで、5人がデットヒートを繰り広げた挙句、あえなく(?)優勝してしまうのである。

結局、妹の運動靴を手に入れられなかった少年の無念が、赤い金魚が遊泳する池に疲れ切った足を沈めるという、見事な構図で決めたラストシーンに結ばれていていく。



3  「日本人の忘れたひたむきさ」という欺瞞性



殆ど完璧な仕上がりだった、と評価し得る一篇だった。

さすが、マジッド・マジディ監督の力量が眩いまでに輝き放っていた。

しかし、それでも私は思う。

少年は妹のために、物語の全篇を通じて疾走し、妹も兄を遅刻させないために疾走した。

そしてマラソン大会では、兄の計算された疾走の勝利を祈って待ち続けるが、それが叶わず、帰宅した兄の履いている運動靴を目視し、失望して家の中に入っていくという括りの見事さ。

しかし、それとは無縁に、本作で一貫して描かれていたのは、兄妹の「純粋無垢」の発現の基本モチーフが、貧しさ故に、子供に運動靴を買ってあげられない家族にあって、「怖い父」と「病に伏す母」という〈状況性〉が、無言で迫ってくる「心理圧」にあった現実を否定できないのだ。

貧しさの中では、「子供を持つことのコストとベネフィット」の問題が重要な要素になることを、ここで想起したい。

「子供を持つことのコスト」が「養育費」であるのに対して、「子供を持つことのベネフィット」には、「愛情」、「労働力」、「老後の世話」という要素が包含され、且つ、「養育費」も抑制し得るので、所得水準の低い開発途上国では合計特殊出生率の平均値が高いという経済学の仮説である。

本作の兄妹の家庭では、貧しいながらも子沢山ではなかったが、しかしアリ少年が、貴重な「労働力」として期待されている実情には変わりなかった。

アリ少年もまた、この現実を存分に感じ取っていた。

「9歳はもう子供じゃない。父さんは9歳で親を手伝ってたぞ!なぜ、父さんを怒らす!お前はオツムが悪いのか!」

アリ少年と妹
こんなことを言われても反駁できない「弱さ」が、アリ少年にはある。

しかし、その「弱さ」が絶対的であるが故に、必死で走る「ひたむきさ」の身体表現が、全く何らの人格的欠点にならない物語に対峙するとき、豊かな国に住み、平気で廃棄する習慣を持つ私たちには、とうてい文句のつけようのない現実を認知させられるのだろう。

「モノがあふれてる世の中に慣れてしまって自分が不幸に感じました」

これは、私が呼んだユーザーレビューの一つ。

「善意」の御仁なのだろうが、これだけは書いておきたい。

「モノが溢れている不幸」の代名詞である、「物質的豊かさ」を獲得することは難しいが、「モノが溢れていない幸福」の代名詞である、「貧しい生活」を「選択」することはとても簡単なことなのだ。

自分が不幸に感じる位なら、「貧しい生活」を「選択」すべきではないのか。

この国では、「貧しい生活」を「選択」する「自由」が法的に規制されている訳ではないのだから。

但し、「断捨離」という言葉があるように、「その気」になる覚悟さえあればの話だが。

奇麗事は言わないことです。

人の思いにケチをつけるのは止そう。

ここでは、本作の物語から離れて、「日本人の忘れたひたむきさ」というテーマに引き寄せて言及したい。

「日本人の忘れたひたむきさ」などと、一見、万人受けするような、単純に比較することの無意味さ。

なぜなら、その国の文化・経済的条件・宗教的背景・教育観・家族観・兄弟意識・私権意識・民度・相対主義の浸透度・自由の達成度と実感度、等々、指摘すれば切りがない程の、様々な落差が存在する現実を無視して、このようなヒューマンな感銘譚を「普遍的価値」の、それ以外にないモジュールとして受容するのは、あまりに短絡的であり、粗雑過ぎる論法であると言わざるを得ないのだ。

大体、「日本人の忘れたひたむきさ」とは、一体何を根拠に言っているのか。

本当に、日本人は「ひたむきさ」を忘れてしまったと言えるのか。

仮に、この「床屋談義」の議論を認知したとしたら、では、いつからそうなってしまったのか。

そして、いつの時代に、日本人は「ひたむきさ」を持ち得ていたのか。

戦前の「軍国主義」の時代なのか。

それとも、遥か以前の「江戸時代」の爛熟した文化のことを基準にしているのか。

ロナルド・ドーア
確かに、ロナルド・ドーア(イギリス の社会学者)によると、「江戸時代」の労働倫理は、「勤勉」、「倹約」、「孝行」という概念によって説明されてはいたが、農村の生活には「祭礼行事」の方が多かったという指摘もある。

或いは、高度成長期のとば口を背景にした、「ALWAYS 三丁目の夕日」(2005年製作)の時代の関係の濃密さを言うのか。

しかし、CG盛り沢山の件の映画で出会う風景は、不必要な描写と過剰な情緒の洪水、そして、およそリアリティを持ち得ない嘘臭い会話の氾濫が認知されるだけだろう。

そもそも、「ひたむきさ」とは何だろう。

それは、「一生懸命さ」であると言っていい。

「一生懸命さ」は、無論、人間の本能ではないが、人間の基本的能力の一つであることは間違いない。

その意味で「ひたむきさ」は、万国共通の普遍性を持つ。

但し、その発現様態が異なるのだ。

「一生懸命さ」を発現させる努力目標を設定し、それに向かって人並みに自己運動を繋ぐ思いには個人差はあれども、そのような能力は、大抵、人間に内包する重要な能力であることには変わりがないのである。



4  文明の恩恵に素直に感謝しつつ、相応の覚悟をもって時代と付き合っていく覚悟



奇麗事の文言をうんざりするほど捨てていくくせに、その実、自分の生活スタイルだけは変えようとしない、その「天晴れ」なるダブルスタンダードの見事さ。

結局、人々は、「もっと快適で、豊かな生活実感」を求めて、今はまだ朧(おぼろ)げにしか見えないが、やがてくっきりとその「魔性」の姿を現わすであろう次なる「快楽装置」を作り出していくに違いないのである。

「快楽装置」を作り出す、私たちの欲望の稜線を広げていく行程は、「豊かさ」→「自由」→「私権の拡大的定着」→「相対主義」という流れを必然化していったと言えるだろう。

言わずもがなのことだが、「豊かさは共同体を破壊する」という命題を、私たちは確認しておく必要がある。

家族が豊かになるほど、個食化、個室化がすすみ(ニワトリ症候群)、その個室にテレビや電話、そしてバストイレとガスレンジが入れば、家族はビジネスホテルになるだろう。

それでも、「愛情イデオロギー」が求心力を持つ「血縁・疑似血縁家族」は簡単に解体されないだろうが、その時代に見合った果実を強(したた)かに含有させながら、少しずつ、しかし時にはドラスチックな変容を遂げていくに違いない。

どうやら、ストレス発散の場としての家庭の中に、不必要なまでのプライバシーが入り込むほど、家族の情緒的結合力が稀薄になるという宿命だけは回避できないようである。

高度成長の象徴である三種の神器・「白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫」
高度成長によって私たちが得たものは眩いものに満ちていたが、それを背景に体力を強化したものの価値を要約すれば、「私権の拡大的定着による、匿名性と相対主義」という風に括られるだろうか。

誰にも知られることなく、人格を転がして空間を漂流するときの愉悦感は、自我の閉塞を突き抜けるほどに快適なものであるに違いないのだ。

しかし、快楽は常に、より高いレベルの快楽によって相対化されるから、どうしてもこのゲームはエンドレスになり、欲望のチェーン化は自我を却ってストレスフルにしてしまう。

未踏の、豊饒な満足感に充ちた快楽との出会いは、それを知らなかったら、それなりに相対的安定の秩序を保持したであろう日常性に、不必要な裂け目を作るばかりか、それがまるで、魅力の乏しいフラットな時間に過ぎないことを、わざわざ自我に認知させ、自らの手で日常性を食い千切っていく秩序破壊の律動は、しばしば激甚であり、革命的ですらあるだろう。

毒気に溢れた快楽は、充分に革命的なのである。

だから私たちは、安直に、自然との困難な共存を強いられている人たちの、その圧倒的な生活の厳しさに共感しない方がいい。

過剰に共感するのは、もっとたちが悪い。

私たちに共感される人たちは、人がどう思おうと、単に自分のサイズに合った日常性を、ごく普通に繋いでいるに違いないのだ。

どうやら私たちは、過剰な視覚文化の中で想像力を貧弱にさせた結果、様々な意味での距離感を失ってしまったらしい。

環境や状況における自分のサイズが測定できなくなって、正確な自己像を描けなくなっているのだ。

だから、いつまでたっても等身大の生き方に逢着できないのである。

近代文明社会に呼吸する私たちは、その文明が必然的にもたらした過剰な快楽と塵芥の中に、せめて自分に見合った日常性を構築するしかないのだ。

私たちは、このリスキーだが、しかし快楽の種子が存分に詰まっている社会に呼吸する。

これはもう避けようがない。

いつでも私たちは、「いま」と「ここ」に生きていて、これも避けようがない。

避けようがない私たちの運命は、多分、人類史の運命そのものだろう。

散々甘いものを摂取して肥満になった責任を、社会に押し付けるのは止めたほうがいい。

文明の恩恵に素直に感謝しつつ、相応の覚悟をもって時代と付き合っていくしかないのである。



5  欲望に駆り立てられて動く人間の自己運動の普遍性



確かに、今、以上で述べたように「豊かさは共同体を破壊する」かも知れないが、それでもバラバラになった個人が自分の中でそれぞれの欲望の稜線を広げていく様態を否定するものではない。

豊かになった者でも、どこかで欠乏感を感じ、それを補填する可能性が視野に入ったとき、それを手に入れようと、「一生懸命さ」を発現させて努力する行為が身体化する行程は至極自然なことである。

これが人間の性(さが)であり、この能力ゆえに人間は文明を構築し、都市という、あらゆる「快楽装置」が詰まった、信じ難い「お伽話」の空間を作り出したのである。

そんな中でも、人間は欲望の稜線を限りなく広げていく。

未知のゾーンに霞む欲望の稜線の尖端を弄(まさぐ)って、「一生懸命さ」を発現させて努力する者の価値と、本作で描かれたような、「欠乏感による努力行程」に関わる価値は基本的に異質のものではないのだ。

欲望に駆り立てられて動く人間の自己運動は普遍的であるが、ただそれが、万国共通の様態を表現し得ないということに過ぎないのである。

私たちは、このことを決して履き違えてはならないだろう。

本作の物語の少年の「ひたむきさ」が、豊かな国で呼吸を繋ぐ者たちの「ひたむきさ」より、遥かに「倫理的」であるが故に「善」であり、「絶対的価値」と決め付けるのは傲慢であるばかりか、愚かであるに違いないのだ。




6  順位を予約して走る少年の甘さにお灸を据えた適性なるリアリズム



 最後に、もう一度映画に戻る。


毎日、継続させざるを得なかった妹との、運動靴の交換のための疾走それ自体が、マラソン大会での、本作の少年の完璧な疾走の、それ以外にない決定的な「予行演習」になっていたということ。

それが既に、物語構成の勝利を殆ど約束させていたのである。

だから、弱さを持つが、それが全く欠点にならないという少年を主人公にした、殆ど完璧な映像を構築し切ったのだ。

そして同時に、この映画の真髄は、マラソン大会に向けて努力し、真剣に優勝争いをする少年たちと、初めから順位を予約して走る主人公を対峙させることで、後者の少年の甘さにお灸を据えた適性なるリアリズムにこそあると言っていい。

中には、アリ少年の走行を邪魔をして転倒させる少年が含まれていたにせよ、真剣に努力して走っている多くの少年たちと、適度に力を抜いて打算的に走る少年との落差を強調することで、マジッド・マジディ監督は、少年の心情世界の中に、予定調和の甘いロマンティシズムが過剰に侵入する愚を斥けたのである。

即ち、いつも泣きべそばかりかいている少年が、土壇場で「スーパーヒーロー」に変貌することを拒んだのだ。

それは、自校の体育教師に胴上げされても、更に、カメラマンのワンショットの笑みを求められても、遂に沈んだ表情しか身体化しなかった、「泣き虫ヒーロー」の限定性のうちに物語を閉じていったシーンに象徴されるものだった。


これが、赤い金魚が伸びやかに泳ぐ池に、「敗北の優勝」という自家撞着を見せた主人公のラストカットの意味を際立たせたのである。

それでも、我が子に運動靴を買って来る父のシーンを挿入することで、困難な課題を自己解決しようと努力したアリ少年への、マジッド・マジディ監督の極上の贈り物であったという風に理解しておこう。

(2011年4月)

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