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2011年5月24日火曜日

山の郵便配達('99)    フォ・ジェンチイ


<「美しきもの」と「善きもの」との不即不離の紐帯のうちに包摂された「至高の価値」>



 1  「全身山里人」と「半身山里人」



 本作は、「半身山里人(やまざとびと)」が、「全身山里人」との、2泊3日の「公務員としての山の郵便配達」の濃密な共有経験を介して、「全身山里人」としての「職業」を選択することで、山里への「定着」を決意していくまでの物語。

 言うまでもなく、「半身山里人」とは「息子」であり、「全身山里人」とは「父」である。

 その「半身山里人」が、「全身山里人」を「父」と呼ぶクライマックスシーンにこそ、本作の基幹テーマが凝縮されているので、そのシークエンスを再現してみよう。

 「郵便物より軽いね」

 これは、父を背負って、河を渡り終えたときの息子の一言。

 その後、飼い犬であるシェパードの「次男坊」(一人っ子政策へのアイロニー)が集めた薪で、暖を取る父と息子。

 「首筋に傷痕があるな」


 昔、自分が息子を背負っていた父は、今や、その息子に背負われながら、息子の傷に初めて気づいたのだ。

 「昔のことだ」と息子。
 「知らなかった。何の傷だ?」と父。
 「15歳のときだった。鋤(すき)を担いで帰るとき、滑って切ったんだ」
 「母さんから聞かなかったな」
 「俺が、そう頼んだんだ」

 そこに、一瞬の「間」ができた。

 父は、息子に初めて、息子が産まれたときのエピソードを語っていく。

 と言うより、息子に吐露する、父の思い出話の一切が初めてのものなのである。

 思春期以降の父子の関係とは、大抵そういうものだ。

 「お前が産まれた頃、転勤で3カ月に一度しか帰れなかった。産まれた日に、母さんが手紙をくれた。配達員をしていて、自分宛の手紙は初めてだった。長い間に、たった一度だけもらった手紙だ。嬉しくて、有り金はたいて酒を買い、皆に振舞ったよ」

 息子は、この話を聞いて、父の表情をまじまじと見詰めている。

 「父さんに嫌われている・・・そう言うと、母は怒った。祭りのときにも帰らない。珍しく帰ったときに、爆竹を買って来た。やはり、父も辛かったのだ」(モノローグ)

 この直後、母の辛さを思い遣る息子は、「父さん、もう行こう」と、初めて「父さん」と呼んだのである。

 「あんた」が、「父さん」に変わった決定的瞬間である。


父子の心が溶融していくのだ。

 その溶融は、父を背負う息子の河渡りの行為が開いた、関係の最近接の瞬間でもあった。

 それは、「半身山里人」としての息子が、「全身山里人」としての父の真情への最近接を意味すると同時に、父の強靭な「職業意識」への最近接でもあったと言える。

 このシークエンスが、本作の基幹テーマを凝縮させているのは、父と息子の初めての共有経験を介して、「山の郵便配達」という「職業意識」のうちに収斂されていく二人の「男」の心的プロセスが、一つの決定的な折り合いを表現し得たからである。

 それは、「過去」をノスタルジックに回想するだけの父の「軌跡」と、回想すべきノスタルジックな「過去」を持ち得ない息子との間に、形成的に累加された距離感が、二人の関係の中枢に介在する「不在」なる「母」の存在性を際立たせることで、そこに、山里での「定着」保証する「家族」の継続力を更新し得たからでもあった。



 2  価値観の相違の問題を相対化した、最初にして最後の同行の旅程



 河渡りののシークエンスは、映像前半で特定的に拾われた、「盲目の老婆」のエピソードが重要な伏線になっていた。

 「10日か半月に一度は、婆さんに会って、手紙らしく読んでやれ」

 息子に語る父。


 これは、大学に合格し、都市に出て行った可愛い孫と会えない寂しさや、重なる不幸で盲目になった老婆への配慮によって、孫からの手紙と称して、何も書いていない紙を手紙らしく読む行為のこと。

 「父は何も求めていなかった。だが、村人の心を得た。彼らは決して父を忘れないだろう」(モノローグ)

 父の最後の郵便配達で知った、「盲目の老婆」の孫の代役まで引き受けるという、「職業意識」の範疇を超えたその親切心に、息子は、村人の心を得た父の存在感の大きさを目の当たりにしたのである。

 そんな悲哀のエピソードがあっても、「半身山里人」としての息子と、「全身山里人」としての父との意識の落差は顕著だった。


 「人家もない道を歩く必要はあるの?」と息子。
 「でも、歩くしかないのだ。不正確なバスより、足の方が正確だ」と父。

 「半身山里人」は、「全身山里人」の非合理の世界に入れない。

 「軌跡」の重量感が決定的に違うからだ。

 最初にして最後の同行の旅程の中で、そればかりは共有経験し得ないのである。

 しかし、「言っておくが、愚痴はこぼすな」と語る「父」の強靭な「職業意識」に最近接することで、形成的に累加された距離感を縮めることは可能であった。

 山里での「定着」保証する、「家族」の継続力を更新することは可能なのだ。

 それだけで充分なのだ。

 同行の旅程を終えて、疲労ですっかり熟睡する息子を慮(おもんばか)って交される、ラストシーンの父母の会話。

 「支局長は、あんたの達(たっ)ての願いを聞いて、息子さんを入れたけど、あんな辛い仕事をさせるのは忍びないと言ってたわ」
「他に誰がやると言うんだ。息子なら、安心してできるからな」

 「息子なら、安心してできる」という父の言葉は、世代間に横臥(おうが)する価値観の相違による確執の問題が、如何に末梢的であるかということを如実に示している。

 それは、父と子の、最初にして最後の同行の旅程が、この言葉のうちに収斂される成果を得たことを意味するだろう。



 3  「美しきもの」と「善きもの」との不即不離の紐帯のうちに包摂された「至高の価値」



 まず、この映画で眼を瞠(みは)るのは、抜きん出た映像の美しさである。

 美し過ぎると言っていい。

 この美しさは、「全身山里人」が定着するに相応しい生活拠点としての自然情景を、その最も美しい季節の、「美しきもの」のみを特定的に切り取って、それをまるで誇示するかの如く提示して見せるのだ。


 「美し過ぎる映像」は、そこに棲む者の「善きもの」と濃密に睦み合って、物語の「美しさ」のうちに昇華されていくのである。

 そこには、「美しきもの」と「善きもの」との不即不離の紐帯を、さらりと映し出す工夫が施されているので、取り立てて大きな事件・事故を「映画の嘘」の中に拾いあげることなく、それらの「虚構性」を確信的に削り取っていく。

 確信的に削り取った物語構成の「自然さ」を、決して声高に叫ぶことなしに、敢えてさりげなく強調する表現の中で、「美しきもの」と「善きもの」が柔和に溶融していく印象が強いので、殆ど目立たないメッセージに包摂された「至高の価値」を、観る者は素直に受信することになるだろう。


 本作の作り手であるフォ・ジュンチィ監督(画像)は、作品の基本モチーフを、以下のように語っていた。

 「この映画の筋は人間の誰しもが持っている人間の善良な気持ち、感情を基本にして物語が進行していきます。ですから、この映画を通じて人々が人間の『善良な気持ち』というものを思い起こしていただけるなら私の一番の幸せだと思います」(公式HP)

 本作は、この作り手の意図が完璧に成就した作品となっているかについては、意見の分れるところだが、少なくとも、「美しきもの」と「善きもの」との濃密な紐帯によって表現された価値を、観る者に静かに訴える思いだけは伝わってきたことは事実である。

 「盲目の老婆」のエピソードに象徴されるように、このメッセージによって、「都市生活の荒廃感」を、些か強調含みで提示する効果だけは、否が応でも認めざるを得ないだろう。

 それ故、物語構成の中で、「盲目の老婆」ののエピソードの持つ意味は大きかった。


 それは、「盲目の老婆」の心にピタリと寄り添う、「全身山里人」の「善さ」を強調するばかりでなく、「都市生活の荒廃感」をも炙り出したのである。

 以上が、私が把握する物語の構造であるが、「善きもの」との濃密な紐帯の表現への拘泥に象徴されるように、瑞々しい自然情景の「美しきもの」のみを、敢えて特定的に切り取っていく映像美の連射の過剰さを除けば、物語の内実は決して粗悪なものではなく、敢えて押し付けがましい印象も見られない。

 それ故、「奇跡譚」と「感動譚」を怒涛のように垂れ流していく、昨今の映像文化の有りようのように、ツボを得た落とし所で「一気の勝負」を賭ける、ハリウッド的な過剰な演出によるパワフルさが不足していたのは事実だが、寧ろ、特段に飾り気のないこの種の映像のうちにこそ、キラーコンテンツとしての映像文化が削ぎ落した何かを拾いあげることで、再確認させられる価値の鮮度の高さを感受する人たちも多いに違いない。

 そのような受容の有りようも、当然、あっていい。



 4  異なった国の、異なった文化の、異なった環境に生きる人々の物語




 登場人物が限定的な本作の物語の中で、私が最も印象に残っているのは、物語の父子の関係の精緻なクロスの中で描かれた心理的緊張感である。

 父子の間に生まれる緊張感の描写がいいのだ。

 この緊張感を作っているものは何か。

 それは、直截な対話を避けてきた父子の関係に張り付く、言語交通の澱みであると言っていい。

 そして、それ以上に重要な因子は、「全身山里人」としての父にとって、単に「日常」であった「山の郵便配達」の時間と、未だ「半身山里人」である息子にとって、「非日常」の領域にある未知のゾーンへの自己投入への時間が微妙にクロスし、声高にならない程度で確執を生むときの緊張感であるだろう。


 この父子の緊張感は、少数民族であるトン族(画像は、着飾るトン族の人々)の娘との出会いと、その祭礼によって浄化されながらも、「仕事」としての旅程を繋いでいく。

 そして、この旅程を繋ぐ「日常」、且つ「非日常」の時間の向こうに待機する河渡りのクライマックスシーン。

 このシークエンスの中で、「半身山里人」としての息子が、「全身山里人」としての父を背負うことで、父から息子へ世代の継承と命のリレーを、高らかに結んで見せたのである。

 これが、ラストシーンにおける、息子の「自立行」の最も重要な伏線となって、このような山里では今までもそうであったように、連綿と歴史を繋いでいくというメッセージが、余情のうちに語られるのだ。

 私は、このような文句のつけようのない映画を観るとき、常に、「これは、異なった国の、異なった文化の、異なった環境に生きる人々の物語である」という風に、限りなく相対化するように努めている。

 「運動靴と赤い金魚」(1997年製作)の映画評論でも書いたが、その国の文化・経済的条件・地理的条件・教育観・家族観・私権意識・民度・相対主義の浸透度・自由の達成度と実感度、等々、指摘すれば切りがない程の、様々な落差が存在する現実を無視して、このようなヒューマンな感銘譚を「普遍的価値」の、それ以外にないモジュールとして受容する愚だけは避けたいからだ。

 文明の恩恵に浴しながら、それに感謝する気持ちを蹴飛ばして、安直な文明批判にのめり込む欺瞞性だけは御免蒙りたいものである。

(2011年5月)

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