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2011年1月22日土曜日

ガンジー('82)      リチャード・アッテンボロー


<「世界中のならずものに対しても寛容過ぎる」男が、拠って立つ観念・情感体系>



1  「正しい神の道を進む」男



この映画は、自分の信念に揺るぎない確信を抱懐して生きた男の物語である。(トップ画像は、暗殺直前の映像のワンショット)

恐らく、作り手が描きたかったのは、その一点にあると思われる。

そして、この男の揺るぎない信念の内実が極めて個性的で、独自の観念・情感体系を持ち得ていたので、それを身体化させる男と近接する者たちを、その「体系」の一貫性によって驚かさせずにはおかなかった。

「我々の抵抗は積極的でなければならない。彼らの心を変えるのだ。殺すのは我々が弱いからだ」
「では、どんな抵抗を?」
「国民に呼びかけ、その日を祈りと断食の日とする。仕事は止める。バスは動かん。工場も。行政は止まる。国が止まる」

以上の会話は、インド国民会議派(1885年に結成)の幹部会での男のスピーチだが、この端的な表現のうちに男の思想のエッセンスが検証されている。

男の名が、後に「インド独立の父」と呼ばれる、マハトマ(偉大な魂)・ガンジーであることは言うまでもない。

ともあれ、インドに対する、言論、集会等の自由を抑圧したローラット法の適用を実施した、大英帝国への政治闘争の方略が、この会議で決定され、遂行されるに至ったのである。

しかし、その結果は、英国軍隊の暴力的弾圧という、予想を超える激越な事態を惹起した。

ガンジーの逮捕と、インド人民の反英運動の異様な盛り上がり。

そして、1500人以上の死傷者を出すに至った、戒厳司令官ダイヤー将軍による、「アムリツァールの虐殺」という英国軍隊の過剰な暴虐的展開。

この事件に端を発して、インド人民の反英運動も暴力的展開を惹起した。

このような暴力的連鎖を嘆くガンジーは、断食という、彼にとって、それ以外にないプロテストに打って出ることで、一時(いっとき)の鎮静をみた。

「私は失望するといつも思う。歴史を見れば、真実と愛は常に勝利を収めた。暴君や残忍な為政者もいた。一時は、彼らは無敵にさえ見える。だが、結局は滅びている。それを思う。いつも。それが神の道かと迷った時、世界が進む道かと疑った時、それを考え、正しい神の道を進むのだ」

これは、断食中のガンジーが、養女のミラベンに語った言葉。

 マハトマ・ガンディー(ウィキ)
ラストシーンの括りでも使用されていたように、この言葉が本作の基幹メッセージであると言っていい。

  

ガンジーの自叙伝の中の言葉であるのは、言うまでもない。



2  「世界中のならずものに対しても寛容過ぎる」男が、拠って立つ観念・情感体系



「非暴力(アヒンサー)・不服従」という男の観念体系が人々を動かし、動かした人々との協力によって歴史を変えるパワーを持ち得たのは、ある意味で、様々な偶然性の集積であると言えるかも知れない。

独立運動を戦う相手国が、戦勝国であっても、国力の衰退が顕著であり、まして、本国から遠く離れているばかりか、3億5千万の人口を抱えるインドという人口大国を、高々、10万の英国人が統治することの難しさに直面していた英国であったこと。

これが大きかった。

そして、露骨な帝国主義的政策を受容しないような国際的世論が形成されていた、「時代状況」という妖怪の凄み。

これも大きかった。

加えて、ガンジーの戦略が、この英国の統治の難しさの弱点を衝き、且つ、暴力的連鎖の悪循環による「力の論理」の行使によって、大英帝国があっさり敗北を来たさないような戦術を駆使したこと。

半ばジョーク含みで言えば、その戦略・戦術の駆使で、7つの海を支配した「栄光の大英帝国」の誇りをギリギリに守ったのではないか。

穿(うが)って見れば、この要素も小さくなかったに違いない。

「非暴力(アヒンサー)・不服従」の具現化である、土着商品の愛用奨励(スワデーシー)による英国製の綿製品の不着用の呼びかけや、英貨排斥(イギリス商品のボイコット)、そして、アフマダーバードからダンディ海岸までの380kmに及ぶ「塩の大行進」、等々に代表されるガンジーの戦略・戦術(第一次、及び、第二次「非暴力・不服従運動」)は、恐らくそれ以外にない有効な方略として、まさに絶妙のタイミングで遂行されていったのである。

このガンジーの戦略・戦術は、主に米国のジャーナリストを介して国際的世論を動かしたのだ。

「塩の大行進」
これが最も大きかった。

この「驚かしの戦術」のインパクトを内包した「初頭効果」の威力は、「力の論理」の行使の現実しか知らない人々に、歴史の変容の実感をもたらしたのである。

この一点において、ガンジーという人間が、類稀な戦略家であったことを検証すると言っていい。

歴史の偶然性の集積と、ガンジーの天才的戦略の最適結合が、歴史に大きな風穴を開けたのである。

然るに、声高に雪崩れ込まない抑制的映像は、男の揺るぎない信念・観念・情感体系の限界性をも描き出していた。

インドとパキスタンの分割独立と抗争に発展する、ヒンズー教とイスラム教の対立を克服できなかったことである。

「私は回教徒で、ヒンズー教徒であり、キリスト教徒で、ユダヤ教徒だ」

それこそが、多宗教・多民族国家の内部矛盾を多く抱えた、インドという人口大国の最大のアポリアだったのだ。

「何もできない・・・」

思わず吐露する男の孤独の悲哀を、映像は容赦なく提示して見せた。

男にはもう、「死の断食」以外の「自己顕示の方略」を持たないのだ。

それでも解決できない内部矛盾の甚大さ。

「あなたは、どんな戦士でした?」

「ライフ」の女性記者が、「死の断食」に踏み込む男に発問した。

「強くない。世界中のならずものに対しても寛容過ぎる」

男は、そう答えたのだ。

「失敗したのよ」

両脇に抱えられ、歩いて行く男を見て、養女のミラベンは一言放った。

「なぜ?彼は大成功したじゃない」と女性記者。
「愛は盲目と言うわ。地獄から抜け出る道を教えようとしたけど、ダメだった。地獄は続くわ」

それが、ミラベンの辛辣な反応だった。

以上の文脈の延長上に、「非暴力(アヒンサー)・不服従」」という、男の観念体系の具現化の困難さについても、映像は提示して見せるのだ。

「ヒトラーにもこのやり方で?」と件の女性記者。
「非暴力運動は苦難の連続だ。この戦争にも苦難はついて回る。ヒトラーの不正を受け入れてはいけない。その不正を明かすのだ。そのためには死も覚悟する・・・」

これが、マハトマ(偉大な魂)・ガンジーと畏敬された男の答えだった。

「私は失望するといつも思う。歴史を見れば、真実と愛は常に勝利を収めた。暴君や残忍な為政者もいた。一時は、彼らは無敵にさえ見える。だが、結局は滅びている。それを思う。いつも。それが神の道かと迷った時、世界が進む道かと疑った時、それを考え、正しい神の道を進むのだ」

ラストシーンにおいても、この極めて個性的で、男の独自の観念・情感体系のうちに括るしかなかったのである。



3  「信条の強要」という信念居士の瑕疵が垣間見えて



このガンジーをして、私たちの多くは「偉人・聖人」と崇めるが、そんな幼稚なレッテルだけは貼らない方がいい。

「20世紀最大の偉人」などという言い方になると、私から言わせれば、言語道断。

なぜなら、「偉人・聖人」とは、些か誇張して言えば、一個の人間から人格性を剥ぎ取った分だけ、そこに神格性を貼り付けてしまう危うい行為だからである。

ここに、本作の中で印象的な会話がある。

「ライフ」の女性記者と、ガンジー夫人(カストゥルバ)の会話である。

「女性の生活もそうですわ。バプー(注・「父親」の意味)の話では2種類の奴隷がいた。女性と最下層の人たちです。その両方のために戦う・・・と」

ガンジー夫人の言葉に受けて、女性記者は直截に発問した。

「別居生活は辛いでしょう」
「ヒンズー教の教えでは、神への道は物欲からの解放です。情欲からも。夫は神への道の発見に努めました」
「結婚生活を諦めたのですか?」
「4回試みたけど、失敗して禁欲を誓い(注)ました」
「守ってます?」
「今のところ・・・」


(注)所謂、36歳のガンジーの「ブラフマーチャーリアの誓い」である。


「偉人・聖人」―― それは、多くの宗教指導者や成功した実業家、芸術家、為政者などに対して多用される呼称だが、一個の人間から人格性を剥ぎ取ることが、そこに纏(まつ)わる世俗性の一切をも削り落してしまう、傲岸で不埒な人間観が露わにされてしまうという事態に最近接する危うさについて、私たちはよくよく肝に銘じるべきである。

〈生〉ある限り、一片の誤謬を犯さない人間が存在すると考えること自体、既に信条・信念の域を超えて、過剰なまでに信仰の神々しい世界にまで踏み込んでいるのだ。

自分に必要以上に厳しい男は、他人に対しても寛大であったが、しかししばしば、身内に対して、自分に強いたストイシズムを求めたことで、確執を生じさせたという話は有名である。

そこに、「信条の強要」という、信念居士の瑕疵が垣間見えるのだ。

インド独立に際してのガンジーの、殆ど殉教的な行為を高く評価することと、ガンジー個人への神格化とは無縁であるが故に、彼を「偉人・聖人」扱いすることは、ガンジー自身が最も嫌うことであった。

それ故、ガンジーの菜食主義や禁欲主義の実践は、一部の修行僧と同様に、たとえそこに西洋文明批判の思想の媒介があろうとも、それ以外にないと信じた彼の選択的生き方であって、「趣味」と考えてもいい何かなのである。

ただ、ガンジーという男の選択的生き方としての「趣味」の内実が、特段に、常人が真似をできないほどの「世俗離れ」していたという事実を幻想し、自分勝手に想像し得るだけである。

私にとって、それ以外ではない。



4  「映画の嘘」を前提にした「映像評論」への視座



“将来の人たちはとても信じないだろう。このような人間が、地球上に実在したことを”

ガンジーの死に際して紹介された、このアインシュタインの冒頭の言葉が、本作を観る者の感情傾向を些か誘導する嫌いがあって、これは削除すべきだったと私は思う。

ただ、映像総体を通して言えるのは、必ずしも本作が、「不滅の偉人伝」という情感的把握で映像構成されていないことが了解できる。

偉人伝の印象度を決定付けるBGMを排除する姿勢は、この作り手が明らかに、観る者に、「不滅の偉人伝」という情感的把握の押し付けを強要していないことによっても判然とするだろう。

説教臭さを削ぎ落したという一点においても、充分に評価し得る一篇だったと言える。

それでも、この作品がどこまでも、「ガンジー自伝」を読んで映画化を思い立ったことを契機にして、その自伝の中から、この作り手によって特定的に切り取られたエピソードが中心になって構成されている事実を見逃してはならない。

リチャード・アッテンボロー監督
本作は、リチャード・アッテンボロー監督の視線を介して描かれたガンジー像であり、そのガンジー像による印象度の深さを、自然に吸収する事態から回避されにくい「関係性」のうちに、一定のインスパイアー効果が形成される心理現象を無視できないのである。

少なくとも、私が若き日に読んだ「ガンジー自伝」の中で拾った、ガンジーの教育に関する過誤については全く触れられることがなかった。

勿論、本作が一篇の映像である限り、そこで表現される作り手の思いとメッセージが、堂々とフィルムに刻まれることは当然のこと。

この「映画の嘘」を、非難すべく何ものもない。

そこに「実録」と銘打ちながら、全く誤った情報を垂れ流す愚昧さが最低限回避されていれば、一向に問題がないだろう。

だから私たちは、「映画の嘘」を前提にした、「映像評論」を心がければいいだけのことだ。



5  求める者がいて、放つ者がいた それを繋ぐ舞台があって、空気が生まれた



どれほど善行を積んだ人間にも、語られたくない闇の記憶を持ち、悪行の限りを尽くした凶悪犯にも微笑ましいエピソードの一つくらいはある。

人間をこのように把握できない人は、自分にない他者の抜きん出た能力を誇張して捉え、根拠なしに天才と呼んだりもする。

また逆に、自分にない欠陥を他者の中に見ると、その他者が理解不能の欠陥人間であると決め付けたりもする。

人間の多様性を理解していくパンフォーカスな能力を持たないと、他者を部分部分で切り取って、そこに過剰な思い入れをした果てに、勝手に失望したり、勝手に心酔したりする主観のゲームをいつまで経っても克服できなくなるであろう。 

求める者がいて、放つ者がいた。

それを繋ぐ舞台があって、空気が生まれた。

外に逃げない空気がそこに滞留し、見知らぬ魂を繋いでいった。

それがラインとなったのである。

伝説が生まれたとき、もうラインは伝説を広げる者たちの枠組みのうちに早々と吸収されていったのである。

偉人伝が待望される時代の中でこそ、いつも巧みな話し手が出現する。

英雄を求める激情的喚声の継続力と切実さが、神懸かった物語を分娩してしまうのだ。

「偉人・聖人」のいない、「偉人・聖人」を欲しない世の中が一番良いのである。

偉人伝が必要以上に読まれることのない社会が、最も健全な社会なのだ。

(2011年1月)

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