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2009年9月7日月曜日

サッド ヴァケイション('07)  青山真治

<「陰影のスポット」を仕切る、「無限抱擁」への原点回帰>




1  運命



北九州の港で、中国からの密航の手引きをする男がいた。

その男、白石健次は船内で父を病死で喪った少年、アチュンを自転車に乗せて逃げ帰った。

アチュンを引き取り、世話を焼くようになった健次は、5歳のとき実母に捨てられ、精神を病んだ父は首吊り自殺し、過去に起こした殺人事件(「Helpless」)を機に、知的障害者のユリと共同生活を営んでいたが、そこにアチュンも加わったのである。

まもなく、ユリを「つぐみ学園」という施設に預けた健次は、運転代行の仕事で雇われることになった。中国人マフィアからの逃亡が目的である。

―― ここまでの導入で、27分も費やすこの映画の冗長ぶりが目立つが、それ自身が本作の固有な映像世界のカテゴリーに包含されるものと把握するしかないだろう。

間宮運送の社長、間宮繁輝を会社まで送り届けた健次は、そこで自分を捨てた母の千代子を視認し、心中で驚くが、その表情は平静を装っていた。

今度は逆に社長の要請で、小倉まで健次を送り届ける田村梢(こずえ・「EUREKA」の少女)が運転する車の中で、健次はその運命の悪戯に、一人笑い転げるのだ。

運転代行の馴染みの客であるホステスの椎名冴子に、健次はその感情を吐き出していく。

母性を知らない彼の感情を、冴子が受容し、自然の成り行きで彼女との関係が形成されていった。

―― ここまで進んで来て、映像のテーマが顕在化してくる。

田村梢
アウトラインの骨格を成す者の理解が及ぶまで、46分間もの時間を費やす展開には、冗長ぶりが削られていたものの、拘るシーンを多く持つだろう作り手の表現スタイルが垣間見える。

翌日。

雨の中、健次は街路に止めた車内から、間宮運送の様子を窺っていた。

昨夜の一件が、彼の行動ラインを規定していくことになっていくことが、観る者に了解される展開であった。

夫の言葉によってその事実に気付いた間宮千代子は、殆ど直観的に健次を特定し、既にその場から姿を消した場所をじっと見つめていた。

母子の運命の再開の布石が打たれたのである。

「昔、人を殺した。むしゃしゃしてたまらんやった」

睦みの後で、健次は冴子に告白した。

父の自殺を知った彼が、ドライブインの主人とトラブルを起こし、彼らを殺害するに至った狂気を描いた、「Helpless」(劇場用映画監督としてのデビュー作)で描かれた出来事が、健次の中で回想された。高校時代だった。

遂に健次は、母の千代子に会いに行った。

その行動を予測していたかのように、我が子を捨てた過去を持つとされる女が、全く悪びれることもなく、堂々とした態度で健次を待ち、受け入れることさえ辞さなかったのである。

白石健次
そればかりか、一切を受容する態度を身体表現する母は、本気で健次との共同生活を求めるのだ。

当然の如く、健次は強い反発感情を剥き出しにしたが、思う所もあって、彼は間宮運送で勤務するようになる。

この辺りから、映像展開は一定の律動感を持ち始めていく。

異父弟の間宮勇介は、バイクを飛ばし、平気で万引きをして補導される高校生。それを目撃した田村梢が、彼らの行動の阻止に動いたことが大きかった。

所轄警察署から、千代子が勇介を引き取ってきたが、普段は温和な父の繁輝は勇介を殴り、それを母親が庇った。

懲りることもなく、再びオートバイに乗って、夜間に外出する勇介の暴走を曽根、偽医師の木島ら、間宮運送の社員たちが腕づくで止めるというエピソードも拾われて、ここでは、再婚した千代子が儲けたもう一人の子供についての苦労譚が続いていく。

次第に母親の心に、不良化する息子の扱いに手を焼く気持ちが広がっていった。

一方で、運命的に再開した健次に、運送会社を継いで欲しいという気持ちが生まれていた。

「あの子はダメ」と母。
「あんたの子供やろ」と健次。
「もうお兄ちゃんだけが頼り」
「また、見捨てるんねん」
「誰も見捨てたりせんよ」
「見捨てたやないね、あ?」
「そうやね、自業自得やね」

くぐもった声で、殆ど嗚咽に近い母の思いに、一瞬、反発する気持ちも失せたのか、健次は母の傍に近づいて、肩に軽く手を掛けた。

「俺がいなくなったら、丸く収まるやないか」と健次。
「そやないっちゃ。お願いだから、おって」と母。嗚咽している。



2  復讐



健次が、中国マフィアに捕捉されてしまった。

「あの子供はもらいに行きます。日本の人は良くは育たないでしょ」と中国マフィア。
「ちゃんとやってる」と健次。
「ああ、大丈夫。あなた殺さない。日本の母親はダメ。父親はもっとダメ」と中国マフィア。
「中国ならええんか。平気で人を殺す人間がいいんか」と健次。
「人間は一番大事は何?生きようとするは、ことだろ?違う?」と中国マフィア。
「それでええんか?」
「あなた言ってるは多分ね、奇麗のことだけだ。世の中は見て下さい。どこ奇麗なことあるの、見せて」と中国マフィア。
「奇麗ごとやねえ。親、おらんでもいいんじゃ!」

それが、健次の捨て台詞になった。

まもなく、アチュンが中国人マフィアから攫(さら)われて行った。

アチュンを失った健次は、心の拠り所の一つを失ったことで、自我の均衡が崩れる契機になったかのように、一つの継続的なモチーフを実行に移すべく、間宮運送を去る決断を下した。

そのために彼が為した行為は、計画的で確信的な行動だった。

母への復讐である。

健次は勇介の部屋に忍び込んで、寝ている勇介を起こし、オートバイの鍵を渡し、この家から出ていくことを強要した。

それは、母への復讐の極めて間接的だが、最も効果的な行動だった。少なくとも、彼はそう考えている。

「親父もお袋もお前を見捨てたんや…お前のお袋が泣き喚く所が見たいんじゃ…お前も男やろ、一人で生きていけ」

既にこの時点で、憎悪の対象になっていた異父兄から鍵を渡された勇介は、落ち着き所のない「我が家」を捨てる思いを多分に乗せて、それを追おうとする母を振り切って、オートバイで走り去って行った。。

勇介が「我が家」に残した負の遺産、それは健次が世話をするユリをレイプすることだった。

その事実を確認した母は、「しっかりせんね」とユリに言葉を掛けるのみ。

ユリの一件はすぐに健次に知られることになったが、しかしこの一件は、健次にとって織り込み済みだった。

間宮千代子健次(右)
彼と母とのネガティブな会話。

「勇介が出て行ったんやけん、心置きなく、あんたにここの家を継いでもらえるけんね」
「ふざけんな、誰がこんなとこおるか。全部、俺の計画通りよ。勇介にバイクのキー渡したのは俺よ。勇介がユリに手を出すちゅうのも読んどったよ。あんたは自分の育てた子供たちに裏切られて、棄てられて、それで俺はいいんよ。もう出て行くけん、達者での」

存分に悪意を込めた感情を言葉に変え、それを憎悪の対象人格の前に吐き捨てたとき、健次は心の澱が少しばかり楽になったかのようだった。

間宮運送を出た健次は、その足で椎名冴子に会いに行った。

そこで健次は、冴子が妊娠していることを聞かされた。健次の子である。

その健次は、知的障害者の施設である「つぐみ学園」に出かけて行った。

そこの職員に呼ばれたのだ。

彼女が説明するには、間宮運送の千代子がユリを養子にすると申し入れたらしい。

「聞いていないですね」と健次。
「そう。でもいずれにせよ、ユリさん今、ちょっと外に出られる状態じゃないの。状態が落ち着いたら連絡します」

健次はユリを自分が預かることを伝え、相手の不安を払拭しようとした。

例の一件以来、ユリは「つぐみ学園」に預かってもらっていたのである。

健次と冴子
千代子がユリを養子にすると申し入れた理由は、責任を感じた思いが強かったのだろうが、それ以上に千代子の母性が内的に発動したのかも知れない。

その直後の映像は、車で帰路を急ぐ健次の後を勇介のオートバイが追走し、やがて車の前に出て、自ら健次を誘導していくシークエンスを丁寧に描いていく。

まもなく、人気のない砂地の荒涼たる工事現場。

そこで、二人の男は対峙した。

「何か用か?」と健次。
「殺しちゃる」と勇介。
「怨むんやったら、お前のお袋怨め」と健次。

勇介はいきなり、健次に対して鉄パイプで殴りつけた。

健次は相手の凶器を払うや、「止めとけ。どうせ敵(かな)いやせん」と吐き捨てて、勇介を数発殴った。

映像はここで、施設にいるユリの絶叫を映し出す。彼女には、二人の男の暴力の応酬が、霊感によって捉えられているようだった。

勇介の情動優先の児戯的な攻撃力を破砕したことで、健次はそのまま帰ろうとした。

その瞬間だった。

鉄パイプを手に握った勇介が、後方から襲いかかってきたのだ。

健次(右)
口から血を出し、激昂した健次は勇介から鉄パイプを奪っい取って、それを武器にして、彼の頭部に決定的な一撃を加えた。

更に攻撃を加える健次は、完全に常軌を逸していた。

まもなく、動かなくなった異父弟が、そこに横たわっていた。

異父弟の死を確認した健次は、「嘘やろ・・・」と呟いて、その場を去って行った。

異父弟の異父兄への復讐は挫折し、異父兄もまた、母に対する思いもよらない復讐の曲折的な展開に、本来の思いが結べないでいた。二つの挫折が、そこに捨てられていただけだった。



3  受容



勇介の葬儀が、間宮運送で執り行われていた。

映像は、母の千代子の顔のアップを映し出すが、その顔には、我が子を喪った深い悲哀の感情が炙(あぶ)り出されることはなかった。

喪服を着た椎名冴子が訪れたとき、「そんな喪服しかないん?」と微笑む千代子が、そこにいる。

「私の博多織があるけん。妊婦でも大事なときは着物、着らんと」

千代子はそう言って、冴子を導いた。

千代子は冴子を受容しようとしているのだ。

まもなく、博多織に着替えた冴子を、千代子は夫に紹介した。

「健次のお嫁さんになる人。冴子さん、妊娠しとうと。皆で、健次の帰って来るのを待っとかんとね・・・勇介の生まれ変わり」

この言葉を聞いた瞬間、間宮繁輝は妻を平手打ちにした。

こんな状況下で、いつでもこんな対応を繋いできたと思わせるかのように、千代子は特段の反応を身体化することもなく、微笑みの中で受容するばかり。

「男の人らは、好きにしたらええんよ。こっちは痛くも痒くもない。子供がおるけんね」

「死んだもんのことも、生きとるもんのことも、忘れましょっち。これからは生まれて来るもんのことだけ考えましょっち」

これは、夫に残した千代子の言葉。

この話を、間宮繁輝は、田村梢を捜しに来た従兄の秋彦に伝えた。

間宮繁輝の話は続く。

「健次は、それが耐えられんとやったんかの。何も切れたいと思うともひっついて来よる。何でん、許してしまいよる、そげん底知れん懐の深さがね、恐ろしかったとやないか」

超ド級の包容力を何気なしに展開するかのような妻、千代子の性格を知悉する男の言葉には、共に人生を歩んできた者の実感的な説得力があった。

―― 母と子のラストシーン。葬儀の翌日(?)である。

留置施設(?)での、千代子と健次の面会。

しかしその構図は、黒澤明の「天国と地獄」のように、二人の男がシビアに対峙する格好の絵柄には遠く及ばなかった。復讐を完遂できなかった息子と、その復讐の情念を吸収してしまう母との関係構図は、所詮、シビアに対峙する全人格的な状況対峙の絵柄になる訳がなかったのだ。

以下の会話は、その現実の決定的な検証と化していく。

「やっと顔が見れた。何が見えるん?部屋から」と千代子。
「壁」と健次。
「そんね。私もじいっと壁見ようよ。冴子さんに会うた。ええ人やないの」
「冴子に構うな」
「何を、言いよるんね。冴子さんには立派な赤ちゃん産んでもらわんと。出て来る頃にはもう、小学生やね」
「冴子には堕ろすように言う」
「冴子さんにはウチに一緒に住んでもろうて、大事にするけん。それとね、ユリは養子にするけね」
「何、企んどるんか」
「何も企んどりゃせんよ。お父さんが、そうせえっちゅうけえ。施設やらにおろされんち」
「嘘つけ。勝手なことすんな」
「あんたの妹のユリと、冴子さんと赤ん坊と、皆、一緒にあんたの帰り待っとけね」
「何か、それ?」
「知らんやった?ユリは、松村の伯母さんと、あんたのお父さんとの間にできた子よ。それ知って、私はあんたを置いて出て行ったんよ。そうね、聞いておらんやったね」

初めて母の家出の真相を知った健次は、頭を垂れて、テーブルに置いた拳に額を押し付けた。何も反応できず、嗚咽を堪(こら)え、額をテーブルに強く叩きつけた。

「どうでもええ・・・好きにせえ。俺は帰らんけんの」
「あんたは捨てられんよ。ユリも、冴子さんも、子供も。皆、ウチにおるけぇ。あんたは帰って来るんよ。あんたはもう、私のたった一人の子供なんやし。間宮を継いでもらわにゃ、ならんのやけ。しっかりお勤めして、ようっと考えなさい」

一貫して変わらない静かで、落ち着いた口調の中に、母はそこまで言い切って、俯(うつむ)く息子に、その表情も最後まで変わらない柔和な微笑を添えた。

堂々と、凛として、たじろがず、慌てず、どのような不幸をも受容する巨大な母性が、そこに輝いていた。

後藤
―― 映像のラストシーン。

ヤクザの借金取りが会社まで乗り込んで来て、彼らに追われる後藤は家中を逃げ回り、怯(おび)えるばかり。

そんな若者を、一人で困難な旅を繋いできた田村梢が、優しく包み込んだ。

それは、健次を待つ冴子とは別に、血縁系とは無縁な場所にも、巨大な母性がもう一つの後継ぎを作り出したことを示唆する極め付けの構図であった。

間宮運送のゲートで、ヤクザと間宮の社長を筆頭とする社員たちが対峙していた。

男たちの虚栄の前線の只中に、無数のシャボン玉が軽やかなステップを踏むかのように、いかにも楽しげに舞い上がってきた。

ユリ
 そこで出来する状況に無頓着なユリが、事務所の出入口の階段の下で、シャボン玉を吹いていたのである。

既に彼女の表情にも、レイプ事件の後遺症を感じさせない復元力の見事さが、確信的な映像の中に堂々と映し出されていたのだ。

彼女が吹いたシャボン玉の一つが意思を持つ有機体と化して、そこに屯(たむろ)する者たちを呑み込むように大空を舞っている。

見る見るうちに巨大な有機体と化したシャボン玉は、遂に飽和点に達したとき、突然、大きく弾け跳んで、それが大量の水分となって、男たちの尖った感情を覚ますかのようにして、彼らをすっかり水浸しにしてしまった。

なお、この物語に関わる男たちの不安な未来をも予感させつつ、全てが終焉したのである。



4  「陰影のスポット」を仕切る、「無限抱擁」への原点回帰 ―― まとめとして



真紅に眩い若戸大橋を仰ぎ見る、間宮運送という運送会社のそのポジションは、逆に言えば、35kmもの杭州湾海上大橋には及びもつかないが、かつて東洋一の吊り橋であった若戸大橋から俯瞰(ふかん)しにくい位置にあるということで、まさに高度成長の象徴でもあるというその見えにくさこそが、この訳有りの会社に集約される、「陰影のスポット」のアウトサイダーぶりを身体表現するものだった。

この「陰影のスポット」に蝟集(いしゅう)する面々は、医師免許を剥奪された偽医者だったり、多額な負債を負って、借金取りに追われる若者だったり、極道に追われる訳有り者だったり、バスジャック事件に遭遇し、母の家出と父の交通事故によって、今も母を探す娘だったり、殺人事件を犯した後、自殺した兄の幻影を追う知的障害者だったり、更に、万引き常習の暴走息子だったり等々して、そこに実母へのリベンジのため、中国マフィアに追われる主人公が加わっていくという具合。

ここで言う、「VACATION」とは、恐らく、「緊急避難所」というような意味を込めて使っているのだろう。即ち、「間宮運送」=「陰影のスポット」=「緊急避難所」という風に把握すべきだということではないか。

無論、彼らは、社会規範と完全に乖離した独自の行動規範によって生活を繋ぐ、映像の中国マフィアに代表されるようなアウトロー集団ではない。アウトサイダー的な要素を多分に含むものの、彼らは普通の人々と同じように極めて合法的な職業に従事し、そこで働き、身過ぎ世過ぎ(みすぎよすぎ)を繋いでいる。

それにも拘らず、彼らは当該社会のごく普通の生活を営む人々の、その普通の規範を堅持する日常性のイメージラインには重なりにくい人々である。彼らのいずれもが、普通の社会的規範を引き受けて呼吸を繋ぐには、その規範の中枢を堂々と歩行する身綺麗さや、無前提の闊達(かったつ)さと縁が切れているように見えるからだ。

彼らの身体表現は、「陰影のスポット」へのマッチングに相応しいイメージを示唆しているが、そこでの「最適適応」の有りよう以外の選択肢を持ち得ないのである。

だからと言って、この「陰影のスポット」は、英雄・豪傑が蝟集(いしゅう)した典型的なアウトロー集団であった「水滸伝」の「梁山泊」とも切れている。

彼らの自我の内に体制への反発・不満が多いに含まれていたとしても、特段に彼らは、体制に反逆しようとする意図も持たないし、その熱量の継続力も不足しているだろう。だから、件の「陰影のスポット」は「梁山泊」ではないのだ。

しかし彼らの自我は、このような人々に共通して見られるように、どこか常に不安定である。中心が周縁を強力に束ねていく理念・情念系が、圧倒的に不足しているからだ。


間宮運送の社長(右)
何より、この「陰影のスポット」の中枢にいる人物(間宮運送の社長)の人柄は温和であり、包容力もあるが、映像で妻子を殴打する描写が拾われていたにしても、「父性」としての強靭さに欠けているという印象は拭えない。

だからこの「陰影のスポット」は、「去る者は追わず、来る者は拒まず」という、そこだけは特段に開放系になっているが、それ故にこそと言うべきか、組織の秩序は流動的で、良い意味での「権力的推進力」を不足させてしまっている。このような秩序流動的な組織の団結力は当然の如く限定的であり、脆弱ですらあるだろう。

それでも、この「陰影のスポット」が、その生命力を継続させるに足る時間を繋いで来て、近未来に向かって、そこにのみ希望が持ち得る可能性を示唆する最大の理由は、利益追及の機能集団としての性格の脆弱な組織の、その「影の推進力」になっている「母性」の限りない生命力が存在するからだ。

その中心に間宮千代子がいて、それを補完する小さな「母性」が随所に展開しているのである。

①「男の人らは、好きにしたらええんよ。こっちは痛くも痒くもない。子供がおるけんね」

②「死んだもんのことも、生きとるもんのことも、忘れましょっち。これからは生まれて来るもんのことだけ考えましょっち」

③「あんたは捨てられんよ。ユリも、冴子さんも、子供も。皆、ウチにおるけぇ。あんたは帰って来るんよ。あんたはもう、私のたった一人の子供なんやし。間宮を継いでもらわにゃ、ならんのやけ。しっかりお勤めして、ようっと考えなさい」

全て、間宮千代子の言葉。

いずれも笑みを随伴していて、特段に感情を込めない堂々とした態度で語っていた。

①は、喪服を着た椎名冴子に対して、②は、出来の悪い息子を喪って憔悴し切った、夫の間宮繁輝に対してのもの。③は、ラストシーンで、留置施設において健次に語った言葉。

一貫して変わらない千代子の人格は、梢の従兄の秋彦に語った以下の言葉によって止めを指すであろう。

「健次は、それが耐えられんとやったんかの。何も切れたいと思うともひっついて来よる。何でん、許してしまいよる、そげん底知れん懐の深さがね、恐ろしかったとやないか」

間宮千代子
「底知れん懐の深さ」こそが、間宮千代子の真骨頂であり、その人格を根柢において支え切る最も強靭なメンタリティであると言える。

映像は、この間宮千代子を「陰影のスポット」という「緊急避難所」の「影の推進力」を仕切る「大母性」として、そこだけは常に悠々とした律動で展開していくが、そんな「大母性」に後継する「小母性」の誕生を告げていく。

梢の告白を盗み聞きした挙句、「俺には、お前らみたいに話して聞かせる価値あることは、何もない」と嘯(うそぶ)き、何か状況の尖った空気に馴染めず、漂流するイメージを体現するかのような後藤という若者が、ヤクザの借金取りに追われ、「緊急避難所」の狭い空間を逃避するだけの裸形の人格に接したとき、父を喪い、失踪した母を探す自立的な女性として立ち上げる梢が、優しく包み込むラストシーンは、まさに「小母性」の誕生を告げていくものだった。

また、千代子の息子にレイプされ、PTSDの兆候を見せていたユリは、同じラストシーンで、その自我を復元させていく象徴的映像を刻んでいた。

そして何より、母性を知らない主人公の健次に常に温かく寄り添って、その鬱屈する情動系を上手に吸収する役割を演じ続け、そして今、塀の中に拉致された未来の夫を待って、彼との間にできるであろう一粒種を守り育てるイメージの内に、「大母性」の立ち上げを堂々と身体表現するに及んだのだ。

後藤を包み込む田村梢
「EUREKA」、「Helpless」から続く“北九州サーガ”の最終到達点として、この映像が開いて見せたのは、このような「母性」という名の「無限抱擁」への原点回帰であった。


―― ここまで書いてきて、はたと私は思う。

果たして、こんな安直な括りで良かったのかと。


それは、失いつつあるものへの郷愁であり、感傷であり、甘いものを食べて虫歯になった後で、ギャーギャー喚く脆弱な男たちによる我が儘で、途方もない甘え以外の何ものでもないと言えないか。

確かにこの国には、体制によって与えられた権威を傘に着て、男たちがどれほど威張った時代があったとしても、事態に窮するや、そんな男たちが、その過剰な情感系を最後に丸投げするのは、「無限抱擁」への観音帰りという固有の文化的側面が連綿と繋がれてきて、そしてカオスの時代状況下においても、なお安楽死せずに温存されている何かであろう。

しかし、この国の女たちこそが、例えば、この映像で描かれたような、幾分柔和な印象を与える軟着点に逢着するという包容力を持って、いつまでも男たちを慰撫(いぶ)し、持ち上げ、「影の推進力」という役割を好んで選択しているようには思えないのだ。

寧ろ、一群の女たちは、これまでタブーとされたフィールド、例えば、格闘技の世界とか、政府や官僚の要職とか、ホモソーシャル(男同志の連帯感)を堅持する体育会系原理主義のフィールドに能動的にアクセスし、自らを立ち上げ、堂々と、且つ凛として、男たちを領導して、時として、余人を以(もつ)ては代えがたいような兵(つわもの)ぶりを発揮しているではないか。

昨今の女たちは、著しくテストステロンを不足させた「草食系男子」に飽き足らず、マッチョにも届かず、強弁を連射するだけの男にも飽き足らず、寧ろ、限定的だが、強靭な指導者たる「本物」の男たちの出現を待望しているように思えるのだ。


W杯決勝トーナメントでのPK戦で敗退した「岡田JAPAN」
もうこの国の女たちは、五輪等のビッグイベントのスポーツ風景でお馴染みの、「負けて泣く男たち」の有りようを許容しなくなってきているのではないか。

ここに、興味深いレポートがある。

「テストステロンの濃度が高い場合、女性でも高いリターンを求めて金融投機に走りやすいとする新たな研究が発表された。

(略)テストステロンが金融リスクの判断にどのような影響を持つのか調べるため、研究チームはシカゴ大学経営大学院でMBA(経営学修士)取得を目指す男女学生500人に特別なコンピューター・ゲームをプレイしてもらい、金融リスクに対する嫌悪度を測定した。

(略)研究チームは実験の前と後に、各被験者の唾液を採取してテストステロン濃度を測定した。その結果、女性よりも男性の方がリスクを取る傾向があることが判明したが、男性グループにはある種の“天井効果”が見られた。あるポイントまで達するとテストステロン濃度が上昇してもリスクを試す傾向は伸びなくなり、個人間の差が縮小することが確認されたという。

テストステロン濃度が同じレベルの男女間では、リスクに対する嫌悪度に違いは表れなかった。つまり、濃度が高いほど投機行為を好む傾向は男女とも一緒だったということだ」(「NATIONAL JEOGRAPHIC」・2009年8月25日付/筆者段落構成)

この一文は、テストステロンの濃度が低い男たちを見限って、その濃度を逆に高めている女たちの出現を告げる、極めて挑発的な報告であると言えないか。

そんな中で、ナイーブな男たちがもっとナイーブになっているナイーブな状況下で、そこで失ったごく普通のサイズの「男らしさ」の不足を補填すべく、右往左往するナイーブさは、まさに「現代的ナイーブさ」の極点であったのか。

確かに、「ナイーブ」、「繊細」という形容動詞が、情感系映像の世界で、一時(いっとき)、まるで天下を取ったような気分で躍っていたし、今もなお繋がっているだろう。言うまでもなく、それらの「美徳」が修飾する体言は、「女」ではなく、「男」であり、まさに「ナイーブな男」、「繊細な男」という表現が躍っていたのである。

発で破壊されたオクラホマシティ連邦政府ビル(ウイキ)
ティモシー・マクベイによる「オクラホマシティー連邦政府ビル爆破事件」(1995年)や、近年のアルカイダの無差別テロなど、「ポストモダンテロ」(文明破壊テロ)という厄介な言葉に象徴されるように、複雑で多様化し、より「カオス的状況」を深めつつある時代の中で生きる困難さを、「閉塞感」という名の、相当に手垢の付いた簡便な言葉で切り取った後、そこに生じた様々な空洞を補填するかの如く、「愛」、「共生」、「癒し」、「ヒューマニズム」等々といった、今や、解釈の幅が広すぎるが故に決定的な説得力を持たない言葉の氾濫的連射によって、何となく分ったような気分にさせるこのファジーさこそ、まさに「カオス的状況」の検証を裏付ける何ものでもないだろう。

そんな中で、この国で未だに多用される「ナイーブさ」という言葉の度し難き「快走」は、そこに込められた意味を都合よく切り取る狡猾さにおいて、充分に欺瞞的ですらあるであろう。

その言葉が内包する本質は、過剰なまでに「情感的」であり、「感傷的」であり、「観念的」であり、「非理性的」な意味合いを持つに違いない。それは今や、この国が目指すべきであるに違いない「リアリズム」という価値の対極にある言葉であるが故に、一貫して現実を直視せず、気分の良い言葉で空気を作り、その空気乗って騒いで見せるだけの、大いなる児戯性の象徴であるとも言える。

それは、大人に成り切れない子供の感性を、不必要なまでに褒め称える大人の愚昧さの裏返しであり、まさに、そんなキダルト化した大人の代名詞ですらあるだろう。

いつまでも、今や絶え絶えとした様態を露わにする「大いなる母性」への原点回帰を求め、本作の映像のように、ナイーブな男たちを束ねて、そのストレスを吸収してくれる大甘な時代の稜線は、もう目一杯に伸び切ってしまって、恐らく、「累加された心の負債」を返済し得るゆとりを見つけ出す手品のタネは尽きてしまったはずである。

青山真治監督
数多の情感系作家と切れて、例えば、漂流してもなお辿り着けない困難な時代状況を描いた「ユリシーズの瞳」(テオ・アンゲロプロス監督)のように、状況に対する特定の問題意識を持って切り込んでいく映像作家にあっては、不透明で困難な時代を漂流し、それでもなお逢着できない混迷の中を、なお漂流し抜いていく覚悟を、そのまま映像に鏤刻(るこく)すること、それこそが、時代を鋭利に切り取る表現作家の力量の有りようではないのか。そう思うのだ。

「ナイーブさ」を一つの固有の価値とする欺瞞を、もうこれ以上連射するのは止めた方がいい。「ナイーブさ」が商品価値となるような時代の幕が、今や、本当に下りてきてしまっているように見えるのだ。

時代によって「安楽死宣言」を受けてしまったものに、特段の価値を見つけて、それを「延命治療」させる営為は、時代状況を切っ先鋭く描いていく映像作家のスタイルとは馴染まないであろう。


(2009年9月)

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