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    4 か月前

2011年11月19日土曜日

ロード・トゥ・パーディション('02)         サム・メンデス


<「復讐」と「救済」という、困難な二重課題を負った男の宿命の軌跡>



1  絵画的空間とも思しき映像が構築した完璧な様式美



闇の世界の内側で生きる者たちの、その内側のドロドロとした情感系の奥深くまで描き切った、フランシス・フォード・コッポラ監督による「ゴッド・ファーザー」(1972年製作)と比べて、本作が映画的インパクトが相対的に不足しているように見えるのは、派手なアクションを惜しげもなく供給するハリウッドの「殆ど全身エンタメ系」の、賞味期限限定の映画に馴れ過ぎてしまっているという理由もあるが、それ以上に、この映画が「ゴッド・ファーザー」という極北的映像が内包した、「普遍的な家族の有りよう」というテーマ性と重なる部分がありながらも、そのテーマ性の掘り下げが、ヒューマンドラマのそれに近い映像構成をとっているからである。

感傷的なBGMの連射や、準ヒーローとなっている子供の命だけは必ず救済するなど、ストーリーの先読み可能なハンデを、構図の全てが絵になる程の、美し過ぎる映像が構築した様式美によって強力に補完しつつも、毒気含みの前作(「アメリカン・ビューティー」)の表現世界を、更に突き抜けていくという冒険を回避したかの如く、なおハリウッド的な甘さから解き放たれない印象を残した本作の基幹メッセージを読み取るとすれば、ラストシークエンスに集約される、父と子のロードムービー的な物語の、ほぼ予約された「半身軟着点」が包含する描写のうちに収斂されるだろう。

決して粗悪な作品ではなかったが、絵画的空間とも思しき映像が構築した完璧な様式美の、相当に強力な補完に救われたという印象が拭えなかったのも事実だった(注)。

以下、この把握をベースにした批評を繋いでいきたい。


サム・メンデス監督①
(注)以下、サム・メンデス監督と見事なタッグを見せ、前作と共にアカデミー撮影賞を受賞した、本作の撮影監督(コンラッド・ホール)との仕事が成し得た絵画的空間の成就を証明するトム・ハンクスの言葉。

「これほど美しいギャング映画は、初めて観ました」というインタビューアーに対して、「それは同感だね。サム・メンデス監督と撮影監督のコンラッド・ホールは絶対的な信頼関係にあって、ほとんど夫婦のようで(笑)」とトム・ハンクスはジョーク含みで答えていた。(映画.com トム・ハンクス インタビュー2002年10月2日)



2  秘密性を帯びた立ち居振る舞いを必然化した男と、「枷」という意識を延長させていた男



早くして父を喪ったために、闇の世界でしか〈生〉を繋げなかった一人の男が、その世界で得た収入によって、一見、普通の家庭と思しき日常生活を送ってきた。

マイケル・サリヴァン
その男の名は、マイケル・サリヴァン。

サリヴァンには二人の息子がいたが、未だ幼い次男の心優しき幼児的な性格と切れて、既に、思春期前期に踏み込みつつあった12歳のマイケルの性格は、父親の中で内包された防衛的自己像(=暗黒街で生きる者の虚しさ故に、それを相対化し得る「幸福家族」を繋いでいくというイメージ)に最近接する不安を長男に感じ取ったとき、父親は難しい年頃にあるマイケルとの関係構築を閉ざすしかなかった。

それは、決して自分と同じ道を歩ませてはならないという、父親としてのサリヴァンの決意でもあった。

この決意が、家庭での閉鎖系を特徴づけたサリヴァンの立ち居振る舞いを必然化していくが、いつしか、父から疎外されたという意識を有するマイケルの疑心暗鬼が沸点に達する時期と相俟(あいま)って、殆ど約束された物語の展開をなぞるように、父子の関係は決定的な破綻を露呈するに至る。

殺し屋である父の裸形の人格像を、息子であるマイケルが目撃してしまったからである。

あってはならない顛末の心理的推進力が、父親の秘密性を帯びた立ち居振る舞いへの、年来からの疑心暗鬼の感情に伏在していた必然性を身体化させたのだ。

具体的に言えば、父親の「仕事」の内実を知りたいという好奇心が、「仕事」の現場に行く父親の車内の後部シートの下に潜み、その結果、あってはならない凄惨な現場を目視してしまったのである。

その直後の、アイランド系マフィアのボスであるルーニーと、件のサリヴァンとの短い会話が、既にこの映画の核心とも言えるテーマを顕在化させていた。

以下、そのときの会話。

「マイケルの様子は?」とルーニー。
「話をしました。分ったようです」とサリヴァン。

この事件の経緯は、実父であるルーニーとの父子関係との形成過程において、屈折した自我を晒すことで、脆弱で情緒不安定な性格を露呈させていたコナーが、ルーニーに不満を抱く組織の幹部を殺したことで、サリヴァンが敵側の連中にマシンガンを乱射するに至り、この凄惨な現場をマイケルが目撃したという由々しきもの。

「初めて見たのだからショックだったろう。お前は乗り越えた・・・子供を守りたくとも、いつかは知られてしまうのだ。自然の掟だ。息子は父親の枷となるために生まれてくるのだ」

これが、ルーニーの実感的な反応だった。

その直後のシーンが映し出したのは、教室で喧嘩し、相手を力いっぱい殴っているマイケルの自暴自棄の行為。

それは、明らかに自己の情動系を抑制し切れない、思春期前期に踏み込みつつある12歳の少年の、通過儀礼と呼ぶには、あまりにその許容域を逸脱している迷路に搦(から)め捕られたかの如く、行方の見えない内部氾濫を露わにするものだった。

コナー
一方、組織の幹部会議で、父から小っ酷く怒鳴られ、謝罪を求められて、それに服従するコナーは、会議が終わっても、一人、父と対面する位置に座る椅子から離れられず、屈辱の極みを全身で露わにしていた。

暗黒街のボスもまた、自分と同じ道を歩んでもなお、自分の支配下にあって、敬意の念を含む畏怖心より、遥かに危害感情を乗せた恐怖心に近い意識を内在させた脆弱さを晒す息子に対して、「枷」という意識を延長させていたのである。

ボスのルーニーにとって、血縁のないサリヴァンの方が、より親愛感情をベースにした親子関係のそれに近い関係を構築していたが、これは、アイランド系の葬式の場で、ルーニーとサリヴァンとのピアノの連弾のシーンの中に象徴的に拾われていた。

しかし、この義理の親子の睦みのピークは、この連弾のシーンを機に決定的に暗転していくに至る。



3  非日常下の狭隘なスポットで溶融した、父と子の特別な時間の中で



ルーニーの息子のコナーがサリヴァンに抱いた嫉妬が、累加された憎悪感情に転じていて、それが凄惨な現場をマイケルに目撃されたことで、闇の世界のイメージを意図的に希釈させ、静謐な雰囲気を繋いできた物語が加速的に変容していく。

マシンガンを乱射する父の姿を目撃したマイケルの情感系は、多感な少年の許容の範疇を遥かに超えて、パニックの恐怖に竦み、完全に凍てついてしまうのである。

前述したように、翌日、学校での殴り合いの喧嘩を惹起させ、自己をコントロールできないマイケルは、喧嘩の反省のため学校に残されたことで、遅い帰宅の途に就いた。

帰宅したマイケルが自宅で目撃したものは、あろうことか、母と弟のピーターが殺害されている最悪の現実の凄惨さ。

二度に及ぶ、常軌を逸する事態の視認によって、児童期後期の自我は完全に凍てついてしまったのだ。

コナーによる犯罪だった。

例の乱射事件に関わったサリヴァンと、それを目撃したマイケルの殺害を図ったのだが、運悪く、次男のピーターが誤殺されてしまったのである。

孤高の男の復讐劇が開かれて
そして、コナーによる妻子殺害事件を機に、孤高の男の復讐劇が開かれていく。

コナーの抹殺を決意したサリヴァンは、ボスによる2万5000ドルの金銭による条件的和解の提示を拒絶し、アイルランドに逃げろというメッセンジャーの申し出に対して、コナーの隠れ場所を秘匿する相手を射殺するに至る。


それが、「枷」の極点を晒したコナーを庇うルーニーへの答えだった。


復讐の鬼と化したサリヴァンは、せめて、運良く生き残った長男のマイケルを助けるために、息子を連れ立ってのシカゴへの逃避行に打って出ていくのだ。


しかし、イタリア系マフィアのカポネが支配する、シカゴの街に身を寄せようとしたサリヴァンは、彼の元のボスに身を寄せようとしたが、叶わなかった。

元のボスは、既にコナーを保護していたからだ。

マグワイア
逆に、元のボスは、サリヴァン父子の殺害を、殺しのプロで、死体の写真を撮ることで〈生〉を実感するという偏執狂のマグワイアに依頼したのである。

銀行強盗を働きながらの危険な逃避行の中で、そのマグワイアとの死闘の挙句、サリヴァンは重傷を負った。

マグワイアに左腕を撃たれて、親切な農場で休ませてもらって、自ら銃弾を抜き取る手当をした夜に、父と子は初めて語り合った。

「ピーターの方が好きだった?」
「いや、そんなことはない。同時に愛してた」
「でも、何だか接し方が違っていた」
「そう思う?」
「・・・」
「それは多分、ピーターが素直な子だったからだ」

父の眼を、じっと見詰めるマイケル。

「・・・それに比べると、お前は俺似だった。だが、俺に似て欲しくなかった・・・差別するなんて、そんな気は・・・」

ゆっくりと噛み締めるように放たれた拙い言葉の中に、情感を込めた父の思いが伝わってきて、それまでの閉鎖系の関係を穿つ力が、非日常下の不安な時間を溶かし、それを浄化していった。

「分った」

狭隘なスポットで溶融した、父と子の特別な時間を内化した児童期後期の自我が、それを求めて止まない安寧の境地に達した実感は、この一言のうちに閉じていった。


父の体に身を預けたマイケルは、この日ばかりは、深い眠りに潜り込んでいったに違いない。



4  「ロード・トゥ・パーディション」の散り方を具現した悲哀の極点



覚悟を決めて、ルーニーに会いに行ったサリヴァンは、コナーが死人名義で口座を作って、ルーニーの金を盗んでいた事実を突き付けた。

教会の地下での、ルーニーとサリヴァンの会話である。

「息子に制裁を下せと?」とルーニー。
「裏切り者だ」とサリヴァン。
「知ってるよ。よく聞け。お前が国を出ないので、仕方なく必要な手を打った。お前は、私には息子同然だ。もう一度頼む。命ある間に国を出ろ」

何もかも認知していたルーニーには、不肖の息子を守るしか術ががないと括っているのだ。

シチリア系の「オメルタ」(沈黙の掟)とは切れて、深い情愛で契りを結んできたサリヴァンとの義理の父子関係よりも、血縁で結ばれた父子関係を選択したルーニーにとって、なお引き摺る情愛の対象人格の命を奪うことの辛さが、このような物言いになって顕在化したのである。

「だが、今はともかく、あんたが死んだ後は?どっちみち、コナーは厄介者として消される」

情愛の対象人格であるサリヴァンの覚悟には、微塵の揺らぎもなかった。

「かも知れん。だが、私にはできない。お前に息子の部屋の鍵を渡し、“息子を殺せ”と言うことはな」
「妻子は殺された」
「お前も私も人を殺してきた。マイク、分らんのか!これが、我々が選んだ道だ。私がお前に約束できることは一つ。天国へは行けない」
「マイケルは行ける」
「じゃあ、あの子が行けるように、できる限りのことをしろ。頼む。今すぐ発つんだ」
「その後は?」
「その後は、喪った息子のことを想い、悲しみに浸ろう」

そう言い捨てて、去って行くルーニー。

「天国へは行けない」

この言葉は、本作の基幹メッセージであると言っていい。

闇の世界で生きる者たちが、どれほど教会に身を運ぼうとも、その運命は「ロード・トゥ・パーディション」(地獄への道)しかないという重いメッセージである。

しかし、マイケルだけは違う。


この少年だけは、「ロード・トゥ・パーディション」の世界に引き摺り込んではいけないのだ。

その思いを、サリヴァンもルーニーも共有する。

だからルーニーは、サリヴァンに対して、彼らの自我のルーツであるアイルランドへの逃亡を求めた。

サリヴァンがアイルランドでの人生の再生に頓挫し、地獄に堕ちてもいいが、そんな父親を持ったマイケルの不幸を浄化させる手立てだけは怠るな。

そう言っているのだ。

この辺りに、裏切った肉親をも殺害する、「ゴッドファーザーPART II」(1974年製作)の物語の文脈と切れる分岐点になっていると言っていい。

相当に大甘な印象を免れ得ない本作は、どこまでも、「ロード・トゥ・パーディション」の危うさから、12歳への少年を解放させるための物語なのだ。

そのために、我が子の致命的な不始末を一身に負ったルーニーは、殆ど覚悟した者の生き方を認知しつつ、自爆するようにして地獄に堕ちていくに至る。

それは、我が子を、闇の世界に引き摺り込んだ愚行への、贖罪の如き死であったと言えるだろう。

ルーニー
だからルーニーは、同様に「天国へは行けない」と括っている、その情愛の対象人格からマシンガンを乱射されて果てていった。

ルーニーにとって、それ以外にない「ロード・トゥ・パーディション」の散り方だったのだ。

そのシーンだけは、マシンガンの音を激しく炸裂させた映像効果が、何より、その究極の悲哀を物語っている。

ルーニーを殺害した男の人生の閉じ方もまた、この一つのシーンの中で決定付けられたのである。



5  「ロード・トゥ・パーディション」の運命を自己完結した男と、その男の〈生〉の軌跡を相対化し切った少年



サリヴァン父子を追うマグワイアとの、苛烈な死闘が延長されていた。

この辺りのシークエンスが、鮮烈なラストシーンにまで繋がっていく。

闇の世界から、義姉が住んでいた湖畔の家に辿り着いたサリヴァン父子。

陰翳深き映像が開いて見せた陽光眩き世界の構図は、そこで手に入れるだろう、父子の睦みによる新しき世界への希望に満ちていた。

しかし、「美しいギャング映画」という、カテゴリー破壊とも思しき信じ難き絵画的空間を繋いできた映像は、至福のイメージに酔っていたサリヴァン父子の、そんな過分な思いを一瞬にして打ち砕くものだった。

陽光眩き世界の最終到達点である湖畔の家の中枢で、マグワイアの銃弾に崩れ落ちるサリヴァン。

またしても、あってはならない光景を目撃したマイケルは、例によって、鮮血を染め抜いた床に倒れているサリヴァンの「死体」の撮影を始めている。

マイケルが、醜悪なまでに偏執狂のマグワイアに銃を向けたのは、そのときだった。

その銃を奪うために、マイケルに近づくマグワイア。

銃丸を放てないマイケル。

その瞬間、マグワイアが大きく崩れ落ちた。

後方から、虫の息の中で放ったサリヴァンの銃撃だった。

「撃てなかった」

床に倒れている父に走り寄ったマイケルが、小さく洩らした言葉である。

「分ってる・・・」

それは、そのため故に、最後の「仕事」を遂行した父にとって、自らが屠ったルーニーと同様に、「ロード・トゥ・パーディション」の運命を自己完結したことの、それ以外にない簡潔な表現だった。

「父さん・・・」
「許してくれ・・・許してくれ・・・」

絶命する、ほんの一瞬の間に、我が子が自分と同じ道を辿る恐怖を、その父が絶ち切ったのである。

かつて世話になった農場に赴く少年の、雄々しき姿を映し出した後、ファーストシーンのモノローグが、ここで繋がっていく。

「父が何より恐れていたのは、僕が同じ道に入ること。銃に触れたのは、あれが最後だ」

これが、本作の基幹ラインとなって、厳しい時代の制約下にあって、マフィアの世界でしか呼吸を繋げなかった、父の〈生〉の軌跡を相対化し切っているのだ。

それでも、マイケルの思いの中に復元したのは、「父と子だ」というラストカットのモノローグ。


「僕は6週間、彼と旅をした。これは、僕と彼の物語だ」というオープニングのモノローグによって開かれた映像は、以下のモノローグのうちに閉じられたのである。

「マイク・サリヴァンは“いい男”だったか、“根っからの悪” だったか、僕の答えは決まっている。簡単な答えだ。“彼は僕の父でした”」

このラストカットのモノローグで語られているように、カテゴリー破壊とも思しき「美しいギャング映画」を、その手法の狡猾さを指弾される覚悟に対して、サム・メンデス監督が顕著なまでに鈍感であったか否かについては一切不分明だが、本作を最後まで観る限り、どうやら本気で作ってしまったようなのだ。



6  「復讐」と「救済」という、困難な二重課題を負った男の宿命の軌跡



繰り返し言及しているように、そんな本作の基幹メッセージは、以下の把握に尽きるだろう。

妻子を殺害されたことで、サリヴァンの防衛的自己像は決定的に破綻するに至ったが、それでも、難を逃れた長男のマイケルだけは救ってやらなければならなかった。

自分のDNAをそっくり受け継ぐと信じるマイケルを救うことなしに、妻子の復讐を含めた、自分の最後の「仕事」は完遂し得ないのだ。

従って、「復讐」と「救済」という、困難な二重課題を負ったサリヴァンの逃避行は、マイケルに武器を握らせないための旅でもあったが故に、「復讐」に向かう彼は、「極道」の情感体系に生きてきた者の、「力の論理」による「男の観念」の遂行者であると同時に、それを履行する過程で惹起される、生命の危機を共有させてしまったマイケルの人格の、父としての根源的な救済者でなければならなかったのである。


かくて、困難な二重課題を果たし得たという安堵を手に入れたサリヴァンが、物語の最終ステージで破壊されるに至ったのは、ルーニーと同様に、それ以外にない「ロード・トゥ・パーディション」の散り方をなぞるものだった。

「天国へは行けない」

一切がこの言葉に収斂されるように、「ロード・トゥ・パーディション」の散り方こそ、闇の世界で生きてきた者の宿命だったのである。

そんな散り方をなぞったサリヴァンにとって、困難な二重課題の遂行だけが、マイケルの人生を、「ロード・トゥ・パーディション」の危険な航跡を断ち切る「仕事」だった。

困難な二重課題の遂行は、ルーニー父子の自壊的な人生の対極をイメージする文脈であるように見えるが、しかしコナーの姦計によって、不毛なる闇の仕事を送ってきたサリヴァンの人生もまた、自壊的な本質性を抱えるものであった。

それは、闇の世界で生きる者の人生には、所詮、自壊していく運命を免れ得ないというメッセージであると言えるだろう。

それ故にこそと言うべきか、過剰で、刺激的な暴力シーンが極力省かれていた本作は、単に、闇の世界で生きる者たちの、絶望的な不毛さを提示した映画であったと考えられなくもない。

サム・メンデス監督②
その手法が合理性を持つか否かは別にして、サム・メンデス監督は、暴力の世界の不毛さを、「美しいギャング映画」というカテゴリー破壊とも思しき、スタイリッシュな表現技巧を際立たせた映像のうちに、まさに、その不法なる暴力の世界に身を置く者の悲劇を通して描きたかったのか。

だから絶対に、マイケルに銃を使用させてはならなかった。

子供に銃を持たせてはならないのだ。

「ぼくの俳優としての仕事は、脚本に書かれている父と息子との関係を、いかにスクリーンに投影するかということだけだった」(前掲インタビュー)というコメントを直截に斟酌すれば、その辺りに、本作に込めた作り手の、身も蓋もないようなメッセージが貫徹していると思われなくもないからだ。

虫の息の中で、息子に銃丸を放つことを阻止することによって、もう一つの人生の可能性を提示させた男の物語は、その男によって「救済」されたと信じる辺りにまで、心理的に最近接し得なかったが、それでも、“彼は僕の父でした”というラストカットの括りのうちに、絶望的に隔たっていた父子の再生をテーマに包含することで、限りなくヒューマンドラマに近い、「美しいギャング映画」の物語を構築した映像構成には、観る者に与えた映画的インパクトの不足の問題を含むにせよ、特段の破綻が見られなかったと言えるだろう。

(2011年12月)

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