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2011年5月14日土曜日

旅の重さ('72)      斎藤耕一


<「定着からの戦略的離脱」としての「青春の一人旅」>



1  「定着からの戦略的離脱」としての「青春の一人旅」



「青春の一人旅」には、様々な「形」があるが、少なくとも、「自己を内視する知的過程」に関わる旅の本質を、「移動を繋ぐ非日常」による「定着からの戦略的離脱」であると、私は把握している。

そして、「青春の一人旅」の目的は、「異文化との交叉」によって自己の相対化し切って、「自己の存在確認と再構築」を果たすことである

しかし、「青春の一人旅」を発動させる契機もまた様々であるだろう。

「自己の肥大化」に振れていかざるを得ない、「恐怖突入ゼロ」のポジティブな旅も多いに違いない。

本作のヒロインのケースは、当然、「恐怖突入ゼロ」のポジティブな旅ではない。

意外に楽天的なモノローグで物語を開いて見せたが、その内実は、現在の自己のアイデンティティを十全に満たせない思春期の自我の不具合感を内包するものだった。

〈生〉の「不安」と「恐怖」をひしと感受する文学少女の、「現実逃避」が契機になっていたということだ。

実際、この文学少女のように、そのような発動契機によって、「青春の一人旅」が開かれることが多いだろう。

それ故、「青春の一人旅」は重くなる。

それは、「青春」それ自身の重さであり、「移動を繋ぐ非日常」の時間の重さであり、そして、その時間を背負う自我の液状化を喰い止めるために集合する、全ての自給熱量の重さである。

この「旅の重さ」に耐え切ったとき、未知のゾーンをほんの少し突き抜けて、何かが開かれ、更新されていく。


ここで開かれ、更新されていく何かを手に入れるために、青春は、その青春の根元を強化する過程を繋いでいくのだ。

本作のヒロインの少女は、母への手紙で記していた。

「ママ、私が書いた詩、覚えてる?“ある日、私は自分の骸骨と向かい合った。骸骨は終始黙ったまま、洞穴のような暗い眼の奥から、絶えず私に微笑みかけた。白い骨の関節が軋(きし)んで、私の手を撫でた”私は、自分自身を悩ますこの幻影から逃れるためにも、旅に出たかったの。清々しい空気。見知らぬ土地。旅にさえ出てしまえば、一切が解決するような気がして」

このような文学的な説明以外、ヒロインの少女の「青春の一人旅」の背景説明を描かないが、その心理的風景には、男出入りの多い母との関係のみならず、学校生活を中心にした人間関係の齟齬(そご)の問題が関与しているだろうと想像できる。

少女は、「定着からの戦略的離脱」を必要とせざるを得ないほどに追い詰められていたのだ。

旅で出会った少女
彼女にとって、既に周囲の環境との折り合いのつかない「日常性」に搦(から)め捕られていて、それが加速的に劣化していく現在の〈生〉の有りようを凝視したとき、そこに生まれた厖大な「不安」と「恐怖」が彼女を根柢から駆り立て、「お遍路の旅」という名目のもとに、「移動を繋ぐ非日常」による「定着からの戦略的離脱」を開くに至ったのである。



2  「旅の重さ」で絶え絶えの少女の、延長された「青春の自立行」



「ママ、びっくりしないで。泣かないで、落着いてね。そう、私は旅に出たの。ただの家出じやないの。お遍路さんのように、歩きながら四国を旅しようと出て来たの・・・本当は、あの朝、ママに手紙を置いてくれば良かったんだけど、何だかそれも面倒だったの。だって、ママがそれを見て、追い駆けて来ないとも限らないでしょう。でも、私には分っていたわ。あの朝早く、ママは男の所に行ってたっていうこと。怒らないで。私、皮肉なんか言っているんじゃないのよ。だって、私、ママが大好きなんだもん。ママ、知ってる?布団の上に寝ないで、大地の上に寝るってことが、どんなに素晴らしいか。私は今まで、ロウソクの炎が美しいってことは知ってたわ。でも、あの炎を吹き消したあとの、匂いも素晴らしいってことを初めて知ったの。ママ、お休みなさい。また、手紙書きます」

これが、「母への手紙」という形態を被せた、映像冒頭でのモノローグ。

私は今日まで生きてみました
時には誰かの力を借りて
時には誰かにしがみついて
私は今日まで生きてみました
そして今 私は思っています
明日からも
こうして生きていくだろうと


「今日まで、そして明日から」という吉田拓郎の主題歌が、天真爛漫な表情で旅するヒロインの律動感にぴったり嵌って、軽快な映像の後押しをするのだ。

主題歌の内実の一切は、彼女の「定着からの戦略的離脱」の旅の内実であり、その苦闘の記録でもあった。

「私たちって、面白い親子ね。敵のような味方のような、恋人のような友達のような。でもママ、もし私がママの所に二度と帰って来なかったら?有り得ることよ。私はこのまま、どこまでも歩き続けて行くの」


「ママ、この生活に私は満足しているの。この生活こそ私の理想だと思っているの。この生活には何はともあれ愛があり、孤独があり、詩があるのよ」

「ママ、こうやっていると、私はだんだん、太陽と土と水の中に溶けていくみたい。そして、真っ直ぐに太く、強く成長していくのが分るの」

このように、眩い輝きを放っていた彼女の旅は、いつしかその「移動を繋ぐ非日常」の重さに耐えられず、色褪せ、変容していく。

その契機は、「全身世俗者」である旅芸人一座との、身の丈を遥かに越えた出会いと、彼らとの肉感的な交叉にあった。

少女に色目を使って近付く一座の「すけこまし」の女房に、散々、暴力的折檻を受け、少女の未成熟な自我は甚振(いたぶ)られたのだ。


レズの「洗礼」をも受け、慰撫された少女の「青春の一人旅」が、再び開かれていったのである。

「ママ、私は旅に疲れてきたわ・・・でも、私は帰りません。このまま帰ったりしたら、旅の失敗と絶望がいつまでも私を苦しめることになるわ」

生々しい〈生〉と〈性〉が氾濫する「大人の世界」と感覚的にクロスした少女は、もう、絶え絶えになっていた。

路傍に倒れ、土地の老婆にリュックを盗まれる始末。

「私は、まだ死んでませんよ」

匍匐(ほふく)しながら老婆に近づく少女が、放った一言だ。

「ママ、とうとう本格的な病気になってきたわ。家を出るとき履いてきた運動靴は、底がすっかり擦り減ってしまって、何かが肩の上にドサッとのしかかっているみたいで・・・重い。重いの・・・これは、そう、旅の重さなんだわ。でも、この重さを嫌っている訳ではない。これを感じなくなったら、お終いだとさえ思っているの。だけど重いわ。辛いわ・・・」

「旅の重さ」を実感し、精神的に追い詰められた彼女にはもう、未知のゾーンを開くに足る自給熱量は枯渇し切っていた。

そこで救われた一つの命。

延長された「青春の自立行」。


その眩い輝き。

それは、「旅の重さ」を存分に実感し得た自我が、漸く辿り着いた新しい人生の彩りを放つ何かだった。

寡黙だが、誠実な一人の中年男が、年の倍ほど異なる少女の精神が蘇生し得るだけの潤いを与えたことで、枯渇し切っていた少女の自給熱量は、少なくとも、〈明日の生〉に繋がる辺りまで復元されていた。



3  「『定着のための旅』からの帰還」という安直な自己完結を拒むメンタリティ



「ママ、私は今働いてるの。何の仕事をしていると思う?行商よ。私と男との奇妙な夫婦生活はいつまで続くか分りません。私は男と夫婦になろうと言った訳ではありません。仲良くしていこうと言った訳でもありません。それなのに、いつの間にか仲の良い夫婦になってしまったんです。ママ、怒らないで。今しばらく、私をこのままにしておいて欲しいの。だから、住所も教えません。私は、これまでママの我儘をよく辛抱してきたわ。今度は、ママが少し辛抱する番なのよ。少しの辛抱よ、ママ。そしたら、やがてお相子(あいこ)になるじゃないの」

これが、少女の最後のモノローグ。

一貫して、「母への手紙」という形で語られる少女のモノローグは、最も相性が合うと信じる中年男との共存の可能性を示唆するものだった。

少女の「青春の一人旅」は、「移動を繋ぐ非日常」による「定着からの戦略的離脱」を放棄するものと言えるのか。

「今しばらく、私をこのままにしておいて欲しいの」という言葉を読む限り、少女の旅が簡単に終焉することはないだろうが、それでも彼女の思いの中には、「母性」の一方的抱擁力のうちに抱かれる甘えを求めて、「『定着のための旅』からの帰還」という安直な自己完結を拒むメンタリティが息づいているように見える。

しかし、彼女と中年男との「夫婦生活」は、未だ「お伽話」の範疇を越えていないのだ。

それ故、「定着からの戦略的離脱」という彼女の旅の本質は、根柢から自壊していないである。

或いは、この「お伽話」が、それを内側から支える二人の精神的紐帯の強化の中で継続力を持ったとき、そこで最近接した、男と女の新しい人生が開かれないとも限らないだろう。

そのとき、彼女の「定着からの戦略的離脱」は、人生を更新させた男と女の、近未来の時間のうちに昇華されていったと考えるべきなのか。

少女の「青春の一人旅」は、一人の「主婦」の立ち上げによる定着の中に昇華され、果たして、それ以外にない〈生〉と〈性〉を自己完結していくのだろうか。

本作は、「母娘再生」の物語であると同時に、「父親捜し」の物語でもあり、そして、その障壁を一気に越えて、「幸福夫婦の立ち上げ」の物語にまで駆け上げる物語でもあったのか。

斎藤耕一監督
最後に一言。

叙情に満ちた映像は、この国の美しい季節の輝きを印象的に映し出して、観る者に「映像美」という表現技巧の素晴らしさを刻みつけていった。

しかし、少女の旅の振幅の激しさを、逐一説明する過剰なモノローグには、正直閉口した。

何もかも語り過ぎることによって失われるものが、映像表現の中に存在することに対して、もっと敏感であっていい。

「映像美」と「語り過ぎない物語」が溶融することで、保持される均衡感。

その危うさが、本作で最も気になった点である。

(2011年5月)

1 件のコメント:

yocsho2 さんのコメント...

主役の演技力不足。もっとシリアスに演技できる役者を使っていれば、いい作品になっていたと思われて、残念です。秋吉久美子は初々しくて可愛い。私は秋吉の大フアンです。y