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2009年12月25日金曜日

ブロードウェイと銃弾('94)   ウディ・アレン


  <人間理解の致命的な浅はかさという虚構の戯れ>



 1  自分の才能を見つけるという枢要な能力



 人間は厄介で、滑稽な生き物である。

 社会的適応を果たす上で最低限必要な情報を手に入れ、その情報を駆使する相応の能力を持つことで、一定の「地位」と「収入」を得ることに成就したとき、その成就のインセンティブの内に「自己有能感」がべったりと張り付いていて、それがいつしか、自分の能力の範疇に収納し得ないフィールドにまで有能感覚の稜線が広がってしまうことが、それを可能にする条件が用意されている限り充分に起こり得ることである。

 それが単に、社会的適応をより有利に果たす上で必要な知識の集積でしかないにも拘らず、不確実なジャンク情報も含めて、それによって政治や社会を語り、人間の複雑な問題や世界の行方を語り、勢い余って、宇宙の原理について確信する者のように語っていく誘惑を、どうやら私たちは簡単に抑制できないようである。

 フラットな知識の集積の延長上に、見識・卓見が形成されるとは限らない現実を合理的に認知できず、「見識ある何者か」として自らを立ち上げ、湧泉の如く内蔵すると信じて止まない才能によって、実際は複雑で、容易に解答が見つからないような問題について、驚くほどしたり顔で、且つ、堂々と語り尽くして止まないのだ。

 困ったことに、そこに流行の思想や、一見、革新的・前衛的なジャンク情報群が新たに収納されることによって、それを得意げに駆使し、特定部門の才能の実践的表現者になることを簡単に決意させるモチーフが、現実原則の命題で社会に関与する自我の抑制系を突き抜けて、その内側で加速的に形成されてしまうことがしばしば出来するのである。

 フラットな知識の集積を、特定部門の才能の完成形に繋いでいくことの難しさをリスクテイクする厄介さと滑稽さ ―― それが、人間がしばしば犯す過誤、失態や、決定的な蹉跌の一つの裸形の様態でもあるだろう。

 同様の文脈で言えば、特定部門の専門知識が、その部門の実践的表現者としての才能を必ずしも発現しないことが多々あるという事実も、私たちの経験則の教えるところでもある。

 音楽の知識を持つ者が優れた作曲家になったり、美術の知識を持つ者が優れた画家になったりすることが、必ずしもストレートに具現しないように、自分の才能を見つけることはかくも難しいのだ。

 自分の才能を見つけること自体、人間にとって、最も枢要な能力であると言っていい。
 
 
夜のタイムズスクウェア(イメージ画像・ウィキ)
まさに本作の主人公は、自分の能力を過大評価し、その評価の延長上に職業選択したことで、決定的な蹉跌を来すという典型例を私たちに開示してくれたのである。



 2  「君を愛していて、僕はアーティストじゃない」という究極の自己認知



 本作の面白さの殆どは、ウディ・アレンの表現世界の基幹テーマとも言える、コミカルなオブラートに包ませた、理想と現実の乖離の悲哀と、その倒錯に関わる映像構築性の完成度の高さに因っているが、アレン映像の中で一つの到達点でもある本作は、一貫して無駄のないコメディタッチの律動感の中で、より人間ドラマの味付けを濃厚にさせることで、表現フィールドの広いコメディラインの枠組みからも解放するに至ったと言えるだろう。

 以下、本作の簡単なプロットを、ビデオジャケットの解説から引用する。

 「若き劇作家デビッドが遂にブロードウェイでデビュー。ギャングのボスの情婦で大根役者のオリーブを出す条件にデビッドは怒るが、落ち目の大女優ヘレンを主役に迎え何とかリハーサルに入る。

 ところがオリーブのボディガード、チーチが脚本に口をはさんできて、彼が直したセリフが好評を博し始める。苛立つデビッド、才能が花開くチーチ、新しい脚本に惚れ込むヘレン。

 下手なオリーブが邪魔になったチーチは彼女を消そうと目論み、それがボスにバレてしまう。いよいよ初日、ギャングたちの銃撃戦が繰り広げられる中で部隊の幕が上がるが・・・」(株式会社アスミック、『ブロードウェイと銃弾』ビデオジャケット解説より/筆者段落構成)

これだけの物語である。しかし内容は明瞭なテーマ性を持っていた。


 ―― 以下、その要旨を簡単に拾っていく。


 「神様、僕は芸術を裏切った。成功の誘惑に勝てず?そう誘惑に負けた。ギャングの金と知ってて、承知した。悪魔と取り引をしてしまった」

 これは、恋人のエレンと寝ていたデビッドが、午前3時にベッドから飛び出して、突然、大声で喚き出したときの言葉。

 理由は言わずもがな、ギャングのボスの資金提供を条件に演出を引き受けた自己嫌悪以外ではない。

 そんな状況下でリハーサルが始まるが、大人の愛の縺(もつ)れをテーマにしたデビッドの観念的な初稿に、女優陣が異を唱えたが、ここでは精神科医役のオリーブのケースを紹介する。

 ギャングのボスの情婦であるオリーブは女優志願だが、学力不足に加えて大根役者ぶりが酷いから、“心には、心のルールがあるのよ”という台詞が全く理解不能の状態。

 更に、彼女は「医者は、なぜ“フィアンセを捨てろ”と?」

 「中尉に恋を」

 これがデビッドの答え。

 「だからって、フィアンセをさっさか捨てる?」とオリーブ。
 「衝動だよ」とデビッド。

 このデビッドの反応の中に、彼の観念的な台詞の独善性が露呈されていた。

 観客席の後方でリハーサルを見ていた、オリーブの用心棒のチーチが、ここで矢庭に立ち上がって、デビッドの台詞の硬直した内容に反発し、具体例を挙げて批判したのである。

 「女はフィアンセと別れない。中尉は家を出てから彼女に興味を持つ。その方がドラマティックだ」

 ここでデビッドは、その場にいたエレン(デビッドの恋人)やプロデューサーも、チーチの意見に同意したことで完全に孤立状態になった。

 「中尉は彼女を意識して、追い始める。現実もそうだ・・・」

 強面(こわもて)の殺し屋のチーチは、更に畳みかけるように台詞についての不満を指摘していった。

 演劇の流れを変えるチーチの最初の提言に不満を募らせたデビッドは、「降りる」と言って帰ってしまう始末。

 「アーティストは作品を弄(いじ)られるのを嫌う。貶(けな)されると、すぐカッとなる」

 これは、このチャンスに女優生命を賭けたヘレンの相手役となった、名優ワーナー・パーセルの言葉。

 結局、そのヘレンの忠告で、デビッドは台本のリライトを決めるに至った。

 「シルビアは大尉は愛しちゃいない。意のままに動かしているだけだ。筋を変えて、彼女が亭主を捨てることにする。それが罪の意識となって、神経がイカれる・・・医者がシルビアの感情を分ってりゃ・・・嫉妬するのも納得できる。そうなると、医者と中尉の対決が必要だ」

今や、演劇の影の主役になりつつあったチーチによる台本のリライトは、ブロードウェイでの成功を願うデビッドにとって不可避な事態となっていったのである。

 「リアルな台詞で、客は芝居にのめり込むんだ」

 チーチのこの一言が、映像展開の流れを決定づけていったのだ。

 この後の映像展開は、殆ど観る者に予想し得る流れをフォローしていくが、演劇の才能に目覚めたチーチの暴走が、演劇の成功に大きな支障となっていた大根女優のオリーブの殺害にまで至るという過激性は、観る者の想像の範疇を明らかに超えていたが、このエピソードは「芸術至上主義」というアイロニーの文脈とは切れているだろうチーチという男の、その突沸の如き「才能爆発」の表現の極致と見ることができる。

 このオリーブ殺しの一件によって、チーチがギャングのボスに屠られるという展開は、「たった一本の名作」をこの世に遺して、地獄に墜ちたこの男の覚悟を身体表現するに相応しい括りだったと言える。

 「君を愛していて、僕はアーティストじゃない。結婚しよう」
 「いいわ」

 映像のラストは、自分の才能の限界を知ったデビッドのエレンに対するプロポーズと、その受容によって閉じられていくという、半ば予定調和のラインの内に収斂されていった。

 思えば、この映像の中で、最後までプロフェッショナルな戦略と行動によって自我を貫いた人物は、かつての大女優のヘレンであったと言えるかも知れない。

 往年の大女優だが、今は冴えない役しかオファーが来ないヘレンは、神経症(「不感症」)のマダムという自分の役柄に色気が加えるために、「あなたは未来のチェーホフよ」などと持ち上げながら、演出家のデビッドへのハニートラップによって復活を目指すプロ女優の精神の持ち主。

 こんなハニートラップが功を奏して、デビッドはヘレンの役に色気を加えるシナリオの修正をするが、デビッドのブロードウェイでの成功を予想して、今度は本気で彼を愛人の一人に加える強(したた)かさを持っていた。

 惨めなのは、自分の台本がチーチなしに完成しない状況を日常化させたデビッドの、そのアーティスト精神の崩れ方である。

 このアーティストは、恋人のエレンに、「あなたは女が分っていない。インテリの理屈っぽい分析じゃないとダメ?」と酷評される始末なのだ。

 既にこの描写の内に、「君を愛していて、僕はアーティストじゃない」という究極の自己認知の布石が打たれていたのである。

 最後に、演劇とは全く無縁な大根だが、ボスの肝煎りで精神科医の役を演じるオリーブは、外見的には愚昧な印象を受けるが、盗み食いをするワーナー・パーセルが自分に気があることを鋭く見抜く「女」としての観察力を持っていた。

 これが、ボスの「女」に居座ることができたプロ根性の表れであると把握できなくもないだろう。

デビッド(左)とチーチ
要するに、肝心のアーティストであったデビッドだけが、何事につけても、プロフェッショナルな戦略と行動の一貫性を欠如させていたということなのだ。



 3  人間理解の致命的な浅はかさという虚構の戯れ



 アーティストの虚構のシナリオを、ギャングの用心棒のリアルな脚本のリライトが、箸にも棒にもかからない類の演劇の虚構性を逆転させていくという本作の物語展開の中で、一番興味深いのは、以下の点に尽きるだろう。

 一端(いっぱし)のアーティスト気取りのデビッドが、既に2作も商業演劇の興行に失敗していながら、「観客の魂を変える芝居も必要だ」などと喚いて、「そういう話はグリニッジ・ヴィレッジのカフェで“素晴らしい芝居だ”と言うんだな」とプロデューサーに一蹴されても、それに対する反省が全くなく、一切は観劇者の教養の低さと考えてしまう愚かさを持っていること。

 このデビッドは大学で演劇を教科学習し、研究してきたことで、彼なりの芸術論の構築に対して特段の価値を矜持(きょうじ)しているらしく、それが単に知識のフラットな集積でしかないにも拘らず、それを自らの研鑽(けんさん)によって習得された形成的な「知」に加えて、その「知」を補強するに足る、本来的に備わった特別の「才能」の結実と考えてしまう愚かさでもあった。

 そんな男が、三度、類似の過誤を繰り返そうとしていた。

 案の定、蓋を開けてみると、彼のシナリオは相変わらず、興行性を無視した重苦しい芝居であるばかりか、過剰なまでに観念的な台詞の氾濫だった。

 その観念的な演劇の中で起用される俳優も、既に全盛期を過ぎた女優や、ダイエットに失敗した男優であったり、挙句の果ては、スポンサーとなった条件によって、場違いの演劇に参画したボスの愛人だったりする始末。

 そんな何でもありの連中と芝居のリハーサルに入っても、当然の如く、観念的な演出家の虚構の産物である、超観念的な作品の世界の内にスムースに侵入していける訳がなかった。

 様々に問題を抱えた俳優たちから不満の表出を受けても、演出家のデビッドは自分のスタイルを変えられない。

 それが短いスパンの産物であったとしても、形成的に仮構された観念体系のスタイルを簡単に反古にする訳がないからだ。

 そんな気勢に欠ける低調な空気を裂いたのは、ボスの女であるオリーブのボディーガードを務めていた一人のギャング。

 デビッドが提供した堅苦しいスクリプトに対して、「リアルな台詞で、客は芝居にのめり込むんだ」という風な真っ当な異議を唱え、人生のリアリズムを映し出すようなスクリプトの再現を求めるチーチの鋭い指摘に、当初、反発したデビッドだったが、スクリプトの内容変更の要求を最終的に受容せざるを得なかったのは、デビッド以外の全ての演劇関係者が、チーチの具体的な台詞の提示に賛同したからに他ならなかった。

 この映画の最も重要なテーマは、そこに集約されていると言える。

 結局、グリニッジ・ヴィレッジのカフェで非現実的な演劇論を放射するだけの男には、過剰な観念系を脱色しているという意味において、日常と非日常の巧みな均衡を保持して生きている普通の人間の、普通の生活のリアリズムの本質に肉感的に迫れないということ、それに尽きるだろう。


狂騒の20年代・クライスラービル(ウィキ)
複雑極まる人間に関わる根源的な問題を、常に空理空論的な形而上学の内に濾過せずにいられない、そのイデオロギー濃度の過剰さに対して無自覚なデビッドの能力限界と欺瞞性を、ギャングの血を引きながらも、内在する表現フィールドの才気を豊富に持つチーチは切っ先鋭く抉ったばかりか、そこに本来的な人間の有りようを再現するスクリプトの改正の提示によって、完膚無きまでに粉砕し切ってしまったのである。

 要するに、この映画は、実用性に欠けるフラットな知識の集積の上に成り立った、人間理解の致命的な浅はかさという虚構の戯れを、如何にもローリング・トゥエンティーズ(「狂騒の20年代」)の時代に相応しい、世俗の臭気をたっぷり放つリアルな世界に依拠した一人のギャングが包含する、その圧倒的な重量感によって解体されてしまうところにあったと言えようか。

 チーチという男は、人殺しを「専門職」とするギャングであるという以上に、本来的な芸術表現の才能に溢れた男であったというキャラ設定の愉快さには、丸ごと個性的なコメディラインの枠組みに収納される発想であったが、それでもなお、才能ある者はそれを表現するに相応しいチャンスに遭遇したとき、紛う方なく件の才能を全面開示し、限りなくそのエキスを身体化し得るという作り手の基幹メッセージが、そのラインの内に読み取れるだろう。

 逆に情報量の多さには事欠かないが、才気なきアーティスト、デビッドもまた、肥大する一方の冷厳な現実に気づかされ、それと真っ向から対峙し、受容することによって初めて、過剰なまでに余分な観念武装を解いた裸形の人格によって、「狂騒の20年代」を呼吸するに足る、等身大の自我を持ち得たという括りの意味には、件の二人の男の人生の、その表裏一体の造形性をクロスさせた流れ方において、決してハリウッド的な予定調和に収斂しない作り手が提示した、要所要所で変化球を多投しない直裁なメッセージが読み取れるに違いない。

 これが、観る者への問いかけの含みを持った、ラストシーンの逆転劇の本質であった。



 4  一端のアーティストの如く振舞う欺瞞性への、痛烈なアイロニー精神の小爆発




ウディ・アレン・2009年(ウィキ)
最後に本作に言及して、作り手のウディ・アレンは、才能は生まれつきのものであると言い切っている言葉を紹介して、本稿を閉じていこう。

 「―― 普通の人に比べて、そういう人間は直感や直接的な行動を信じ、ものごとを知的に考えすぎないものなのですか

 『チャズ・バルミンテリが演じた【ブロードウェイと銃弾】のギャングは正にそういう人間だ。あの映画で描こうとしたのは、自分を芸術家として考え、芸術家になりたいと思い、外見も芸術家のような人間[が必ずしも芸術家ではないということだ。

 そして芸術家であるということは、持って生まれた才能があるかないかということなんだ。映画のジョン・キューザックには才能がない。彼はいろいろがんばるけど、それはすべて外側の努力だ。

 チャズ・パルミンテリはまったく違う世界に住んでいるけど、あるきっかけで彼には本物の才能があることがわかる。彼こそ本当の芸術家なんだ。かれはギャングだけど、自分の心や人間らしい感情についてよく知っている。

 これは面白いアイディアであると同時に、真実を表していると思う。芸術の才能というのは完全に生まれつきのものであって、学びとれるものなどなにもないからだ。技術的なことは多少学ぶことができる。技術に関する形式的なことは多少はね。でも本物の才能というのは生まれつき持っているか、持っていないかだ。

 ギャングを本物の芸術家にするのは面白いアイディアだった。観客の期待とは正反対だからね。

 彼は自然のままの人間だ。感情に従って生きている。映画の中では女優が気に入らないので、彼女を殺してしまう。話し合いも何もない。落ち着いて、人を殺すことのモラルについて話そうともしない。言うなれば自分の感情に忠実なんだ。だから面白いと思ったし、おかしいアイディアだと思った』」(「ウディ・アレン 映画の中の人生 リチャード・シッケル著 都筑はじめ訳 エスクァイア・マガジン・ジャパン刊 2007年/筆者段落構成)

 どうやら、「芸術の才能というのは完全に生まれつきのものであって、学びとれるものなどなにもないから」という把握が、本作におけるウディ・アレンの中枢テーマであると言えるだろう。

 このことは詰まる所、その認識なしに一端のアーティストの如く振舞う欺瞞性への、ウディ・アレンの痛烈なアイロニー精神の小爆発だったということである。

(2009年12月)

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