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2011年5月16日月曜日

オール・アバウト・マイ・マザー('98)      ペドロ・アルモドバル 


<「自己解放の旅」に収斂させた「グリーフワークの旅」の内実>

 

  1  グリーフワークの軟着点を予約させる風景の中へ



 「B・デイビス(注1)、G・ローランズ、R・シュナイダー 女優を演じた女優たち。全ての演じた女優たち。女になった男たち。母になりたい人々。そして、私の母に捧げる」

 これが、エンドロールで重なったペドロ・アルモドバル監督の献辞。

 本作の基幹メッセージとも言える、冒頭の献辞で語られているように、本作のテーマが大いなる「女性賛歌」であることは言うまでもないだろう。

 ただ私は、「人生論的映画評論」という視座に立って本作を考えたとき、本作の主人公であるヒロインの生き方の中に、作り手の人間観が集約されていると考えるので、その点についてのみ言及していく。


 「母の昔の写真を見た。半分だけの写真。僕の人生もその半分が欠けている。今朝、母のタンスから写真の束を見つけた。どれも、半分だけ。多分、父だ。父に会いたい。たとえ、どんな人であろうと、母にどんな仕打ちをした人でも、僕にとっては父だ」

 これは、本作の主人公であるマヌエラが、バルセロナに旅立つ決定的モチーフとなったものだ。

 彼女は、交通事故で喪った、息子エステバンの存在すらも知らない、元夫であるバイセクシュアルのロラに、その事実を知らせるべく旅立ったのである。

 「17年前にも、同じ列車で旅をした。あのときは、バルセロナからマドリッドへ。逃げるように・・・でも、あのときは一人じゃなかった。お腹にエステバンがいた。彼の父親から逃げる旅。でも、今回はその父親を捜しにバルセロナへ」

 

サグラダ・ファミリア教会(ウィキ)
このモノローグにあるように、マヌエラは一度は逃亡するようにして捨ててきたバルセロナに、闇が続くトンネルを抜けるようにして戻っていく。


 それは、「過去への旅」のイメージに満ちたものだったが、トンネルを抜けた先に堂々と聳(そび)え立つのは、2026年に完成すると予定されるサグラダ・ファミリア教会」。
  

 完成までに300年を要すると言われた大聖堂の凛とした姿形は、未来世界に繋がる「希望」の象徴とも言える。

 唐突に明るく開けたその風景は、彼女にとって、グリーフワークの重要な心理的作業の軟着点をも予約させるものでもあった。


(注1)ベティ・デイヴィスのこと。ジョセフ・L・マンキウィッツ監督の「イヴの総て」(1950年製作)で、女優志望のイヴを付き人にしたために、大女優の座を脅かされる主役のマーゴ・チャニングを演じた。本作では、ヒロインのマヌエラが、息子の交通事故死の原因となった大女優のウマ・ロッホの付き人となり、更に、かつて素人劇団で「欲望という名の電車」のステラを演じた経験から、大劇場でのステラの代役を務めるというエピソードが挿入されていた。また、G・ローランズとはジーナ・ローランズ、R・シュナイダーとはロミー・シュナイダーのこと。



 2  「自己解放の旅」に収斂させた「グリーフワークの旅」の内実



マヌエラのバルセロナ行きは、その動機自体極めて能動的だが、その心情は了解可能である。



 「半分が欠けた息子の人生」を天国で自己完結させるために、彼女はマドリッドを後にしたのだが、当然そこには、愛する息子との共存の記憶が張り付いた町を捨てることで、人生最大の不幸の経験を希釈化させるという心理が存在するだろう。

 
映像は、移植コーディネーターとして勤務していたマヌエラ自身が、臓器提供者の母親になるシーンのあとに、息子エステバンの移植先を確認し、心臓提供のレシピエントを視認するという悲哀のカットを挿入させている。

 

それは、「命の継承の崇高さ」という、本作を貫流するテーマと重なる重要なシーンであると言っていい。


 しかし、「対象喪失」の懊悩から解放されるには、彼女には「グリーフワークの旅」が必要だったのだ。

 この映像は、深甚なる「グリーフワークの旅」を、寂寥感漂う特定的スポットでの「自己閉塞の旅」にすることなく、寧ろ、〈性〉の境界ラインに呼吸を繋ぐ者たちや、〈母性〉で苦労する者たちとの濃密な交流を軸にする、「自己解放の旅」の内実を描き出したのである。

 その辺りが、懊悩する自我を浄化するに足る環境として、静謐な空気感を希求する私たち日本人の感性とピタリと嵌らない原因かも知れない。

 シリコンで外形を固めても、ペニス切除を拒む娼婦。

 息子の交通事故死の原因となったレズビアンの大女優。

 そして、件の大女優の娘である、薬物依存症の女優。


 エイズに罹患しながら妊娠した尼僧(画像左)。
 
 更に、バイセクシュアルの境界を越え女性化する男。

 等々、マイナーな人々への、マイナーな人生を積極的に包括する映像構成にシンボライズされているように、それが恐らく、本作を厭悪する人たちの心理的背景にあるだろう。

 しかし、本作の主人公は、このような人々と積極的に交叉し、その人生をサポートするという、極めて能動的な生き方を繋いでいくのだ。

 律動感溢れる映像は、いつしか、「元夫捜し」という当初のモチーフから逸脱して、マヌエラ自身の新しい人生のポジティブな反転の軌道を開いていく。

 まさにその展開こそが、彼女にとってグリーフワークの最も中枢的な「仕事」であることを、印象深い映像は検証してみせるのである。

 「対象喪失」の懊悩からの解放には、このような、「恐怖突入」とも言える方略の可能性をも包含することを示した点に、この映像の抜きん出た強さがあると言い切っていい。

 観る者に、瑣末な事態では容易に動かし難いと思わせる映像構成のパワーこそ、「対象喪失」の悲哀を、新しい人生の再構築への契機のうちに収斂させていく本作の訴求力の熱源でもあった。

 但し、以下の点に関しても触れておく。

 マドリッドに住む主人公のヒロインであるマヌエラが、交通事故で喪った息子の実父を訪ねて、一度は捨てたはずのバルセロナに17年ぶりに戻って来た。

そこでマヌエラは、昔のバルセロナ時代のアグラードを介して、“野原”(私娼街)に出入りするシスター・ロサと知り合った挙句、同居する。

 ここまでは問題ない。

 問題は、アグラードを介して知り合ったシスター・ロサが抱える私的事情。

 要するに、そのロサが妊娠した相手が、息子の実父であったという偶然性に依拠する物語構成である。

 スモール・ワールド現象を地で行くような、この安直な設定に対して、「映画の嘘」の範疇で処理し切れるからと言って、些か苛立ちを覚えたのは事実だった。

 それにも拘らず、本作が内包する映像構築力の高さが、以上の事情を希釈化させたのもまた、紛う方ない事実である。

(2011年5月)

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