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2011年12月15日木曜日

Shall we ダンス?('96)       周防正行


<「喪失したアイデンティティの奪回」=「アイデンティティの再構築」についての物語>



1  「喪失したアイデンティティの奪回」=「アイデンティティの再構築」についての物語 ①



本作は、「豊かな社会」で呼吸を繋ぐ者の、「生き甲斐」探しの旅の行程が内包する困難さの様態を基本骨格にしたヒューマンドラマである。

そして、「生き甲斐」探しの旅の行程である、「道修行」の退屈さをコメディラインで補完することで、娯楽映画としては長尺な物語になったが、どこまでも基幹テーマは、「豊かな社会」で呼吸を繋ぐ者の、些か厄介な「生き甲斐」探しの旅の行程の、微毒だが、決して粗略にできない、「非日常」の旅程相応の危うさに満ちた様態を射程に収めていることだけは間違いないだろう。

ここで、私は改めて考える。

果たして、「豊かな社会」で呼吸を繋ぐ者にとって、その固有の旅の、固有の行程を必要とするに足る「生き甲斐」とは何だろうか。

狭義の意味で考えると、こういう風に言えないか。


即ち、「生き甲斐」とは、「生理」→「安全」→「愛情」→「尊敬」→「自己実現」という、欲求の5段階層説を説いたアブラハム・マズロー(画像)的に言えば、「生理」→「安全」→「愛情」→「尊敬」という段階に至るまで、人間の基本的欲求に決定的な欠如感が見られない日常性を、取り立てて問題なく遣り過ごしてきたにも関わらず、それでもなお充足し得ない心境下にあって、特段に目立たないが、どこかでいつも看過し難い何かが伏在する事態を認知した上で、そこで感受した心の空洞感を継続的に埋めるに足る相応の物語を確保する心的現象であり、そのプロセスを包括的に受容し得るという自己像を確保する心的現象でもある。

従って、「生き甲斐」探しの旅とは、この種のプロセスの総体であるが故に、そのプロセスの総体が、自分にとって高次の自己実現欲求に結ばれるとき、その心的現象が「道修行」の様態を具現化するのは、様々に個人差があれども殆ど必至であるだろう。

まして、一般論的に言えば、「飢え」と「安全」と、幸福家族の「愛情」を具現し得た、私たちの近代社会が達成した「豊かな社会」の内実は、上記の基本的欲求を充足させやすい社会なので、マズローの言うところの、高次の欲求への希求が発現しやすいが故に、その「不足感」を埋めねばならないという実感の切迫性によって、「生き甲斐」の問題は、時として深刻な状況を露わにする。

これが、思春期、中年期及び、老年期に発現しやすいのは、その時期が「人生の転換点」になりやすいからだ。


例えば、E.H.エリクソン(画像)の「老年期 生き生きしたかかわりあい」(E.H.エリクソン他著、朝長正徳・梨枝子訳 みすず書房刊)によれば、混乱期にあって、「アイデンティティの獲得」を基本課題とする思春期、そして、「統合」と「絶望」という二つの内面世界の葛藤があり、その葛藤をバランス良く上手に克服して到達した、「総括的展望」としての「英知」の獲得が、「老年期」での重要な人生学的テーマになるという把握を提示していた。

更に、本作に引き寄せて言えば、40歳を過ぎた主人公である杉山は、中年期の只中にあって、乗り越えるべき基本課題に直面していた。

結論を性急に言えば、そこだけはE.H.エリクソンの仮説と離れて、この中年期こそ、混乱期の渦中でがむしゃらに手に入れたと信じる青年期のアイデンティティが剥離することで、自我に襲いかかって来る「アイデンティティの再構築」という、人生の至要たるテーマの渦中で立ち竦み、そこで内面的に揉み合い、せめぎ合うに至るのである。

要するに、「喪失したアイデンティティの奪回」こそ、「飢え」と「安全」と、「幸福家族」という名の「愛情」を具現し得た、「豊かな社会」で呼吸を繋ぐ中年期を迎えた者の、中枢の人生論的テーマであるということ。

従って、それは、「喪失したアイデンティティの奪回」=「アイデンティティの再構築」という、人生の由々しきテーマの問題に尽きると私は思う。

まさに中年期こそ、「人生の転換点」の第2ステージなのである。

その「人生の転換点」の第2ステージを上手に乗り越えるには、自らのサイズに見合った、徒(いたずら)に時間が累加されていくだけの退屈な日常性から、そこで発現した心の空洞感を継続的に埋めるに足る、相応の物語を確保する「非日常」への跳躍が求められるだろう。

しかし、それは大袈裟に言えば、時として、未知のゾーンへの果敢なる跳躍力を要するが故に、それによって失うリスクも随伴する。

なぜなら、自らのサイズに見合った「非日常」への跳躍という人間学的現象それ自身が、存分に未知のゾーンのカテゴリーに内包されるからだ。

以下、その問題意識によってのみ、本作を簡潔に考えてみたい。



2  「喪失したアイデンティティの奪回」=「アイデンティティの再構築」についての物語②




電車の中から見た「物憂げの美人」への関心を契機に、ダンス教室に通う杉山の世俗的な振舞いは、何より彼自身が、中年期のステージにあって、「生き甲斐」探しの旅を必要とするに足る、未知なる「人生の転換点」の迷妄に搦(から)め捕られていて、この迷妄を浄化し、それを上手に乗り越えるための契機を求めていたことの心的現象の顕在化であり、それは「助平心」という情動に隠し込んだ、退屈な日常性から「非日常」へのステップへの入り口に過ぎないと考える方が自然である。

そして、舞という名の「物憂げの美人」もまた、「生き甲斐」探しの旅というカテゴリーに収斂し切れないほどの「危機」にあった。

トラウマと言っていい。

因みに、「物憂げの美人」のトラウマの根源には、ブラックプール(英北西部の海岸保養都市)での頓挫の問題が横臥(おうが)していた。

ブラックプールダンスフェスティバル
毎年、初夏に、このブラックプールで開催される世界最高峰の社交ダンス競技会のステージで、他の競技者と接触して転倒するアクシデントに見舞われてから、パートナーに対する信頼感を喪失してしまった舞にとって、何より看過し難かったのは、相手の男性パートナーが自分を守り切ってくれなかったこと。

この由々しき体験が、若い彼女の自我を決定的に傷つけるに至ったことで、そこだけを目指して厳しい「道修行」を繋いできた彼女の繊細な自我から、「最高の夢のステージ」での「最高のパフォーマンス」という、それ以外にない、拠って立つアイデンティティの絶対的基盤を根柢から崩されてしまったのである。

明るい未来に溢れているはずの才能が、彼女の実父から、血を分けた者の大人の配慮もあって、世俗感情丸出しの素人相手の、望みもしないダンス教室の教師を、半強制的に委託させられていた現実の不快感が、彼女の表情から笑みを奪っていた。

これが、「物憂げの美人」の誕生の顛末。

杉山(右)と、会社の同僚・青木
その「物憂げの美人」の、鋭角的に停滞した人生の時間のうちに入り込んで来たのが、本作の主人公の杉山だったという訳だ。

そんな男の邪心に対して、レベルの違う世界に棲んでいると信じる舞の内側で、激しい拒絶反応を抱くのは必至だったと言える。

レベルの違う世界に棲んでいると信じるが故にか、ストレスコーピング(ストレスへの適切な対処法)を確保し得ない苛立ちが、いつまでも、ソフトランディングに向かえない内的時間を延長させているばかりだったのだろう。

充分に膨らみ切ったディストレス状態による拒絶反応が、いつの日か炸裂するのもまた、彼女の感情文脈において回避できなかったに違いない。

ここに、本作の物語の分岐点となった、「物憂げの美人」の辛辣極まる拒絶宣言がある。

その拒絶宣言の哀れなる対象人格は、締まりなき野放図とは無縁に、常に理性的に振舞う、堅物の真面目人間の杉山であったのは言うまでもない。

以下、「物憂げさ」故に、より累加されていった、美人教師の危うげな魅力に惹かれる一方の堅物の真面目人間が、遂に意を決して、直截にデートを誘った不相応な行為に対する、「物憂げの美人」による単刀直入な拒絶宣言。

「こんな言い方失礼かも知れませんが、もし私のことが目的で、この教室にいらしているんでしたら、ちょっと困るんですけど・・・私は真剣にダンスを踊っています。教室はダンスホールじゃありません。不純な気持ちでダンスを踊って欲しくないんです」

粘り込んで待ち伏せし、食事を誘った杉山への物言いは、殆ど袈裟斬りの切れ味を見せていた。

ところが、この袈裟斬りの切れ味を受けた男が、この一件を契機にして能動的に変容していくのである。

その後、駅のプラットホームでも、家庭でも、街路でも、ダンスのステップをする杉山が、溌剌な身体表現を駆動させていくのだ。


杉山の真剣さを認知した「物憂げの美人」は、トラウマとなっていたダンスの世界への復元を果たしていく

ここで由々しきことは、「物憂げの美人」の辛辣極まる拒絶宣言を受けても、そのことで致命的な受傷の後遺症を晒すことなく、なおダンス教室に通い続けたという杉山の行動である。

その答えが、物語の終盤に待っていた。

既に、相互の感情の縺れが浄化されていた関係を紡ぎ始めた頃の、「物憂げの美人」と杉山との、本音の思いを吐露する言語交通のシーンがそれである。

「良い年して、こんな言い方恥ずかしいですが、毎日毎日、生きているなって感じがして。何だか疲れるのも、却って気持ちいいんです」

杉山の正直な思いに、今や、「物憂げの美人」のくすんだ相貌を脱却した舞も、誠実なる男の思いに重なるように反応した。

「私も。こんなにダンスに打ち込むのも久しぶり。とても気分がいいの」

その後、舞は、自分の心を重く捕捉してきたブラックプールの一件を、杉山に告白するに至る。

そんな舞の告白を受けて、杉山もまた、ダンス教室に通うようになった経緯を吐露していく。


「28歳で結婚、30歳で子供が生まれて、40を過ぎたところで、念願の家も買った。結婚、出産、マイホーム。そのために全力で働いた。正直言って、幸せな人生だと思っていた。ところが、家を買った途端に何かが変ってしまった。妻に不満がある訳ではない。子供が可愛くない訳ではない。でも、何かが変わった。今度はローンを返すために頑張ればいいのに、気持はそう思っているのに、何かが違う。そんなときに、あなたに出会った。毎日見ているうちに、あなたと一度でいいから、ダンスを踊って見たいと思うようになった」
「でも、あたしがあんなひどいことを言ったのに、あなたはダンスを続けたわ」

ここでも直截な舞の発問は、同時に、本作を観る者からの発問でもあった。

その発問に、それまでの彼のイメージを突き抜けたかのような態度によって、杉山は凛として答えていくのだ。

「随分、迷いました。だけど、ここで辞めたら、あなたの言ったことを認めることになる。・・・あんな風に言われたことはショックだった。あなたに、思い知らせてやろうと思ったんです。あなたが目的じゃない、ダンスをするために、ここに来ているんだって。でも、そうやってしゃにむに踊ってたら、本当にダンスが好きになっていた」

本作を通して、最も重要な会話である。

これは同時に、「人生の転換点」の第1ステージの大きな課題に頓挫し、それを一貫して引き摺っている者と、恐らく、「人生の転換点」の第1ステージを無難に通過してきた自我が、人間の基本的欲求を満たした直後から襲いかかってきた第2ステージのテーマを、内深く抱えた者との直接的な会話である。

前者が、「物憂げの美人」であった舞であり、後者が、「何かが違う」という心境下で動かざるを得なかった杉山であるのは言うまでもない。

要するに、杉山にとって、「人生の転換点」の第2ステージへの特別な関心の発現の現象は、「人生の転換点」の第2ステージの厄介だが、真摯に己が固有の人生を繋いでいこうとする者が、決して粗略にできない意識の顕在化であったと言えるだろう。

その意味で、杉山が「物憂げの美人」との出会いを開いた基本モチーフは、「人生の転換点」の第2ステージの沸騰点を感受した心的現象の泡立ちの中で、その未知のゾーンに意を決して踏み込んだ彼の、極めて可視的で、分りやすい外気導入口であったという風に考えるべきだろう。


私は、この二人の、このときの会話こそが、この映画のエッセンスであると把握しているので、物語の、その後の二人の展開は、殆ど予定調和のラインをなぞるものであったとしても、映画が内包したテーマ性を脱色させる、比較的上出来のスラップコメディの文脈とは全く無縁な、殆ど盤石なる娯楽映画として率直に受容している次第である。(画像は周防正行監督)

要するに、本作は、「喪失したアイデンティティの奪回」=「アイデンティティの再構築」についての物語であったという風に考えているからだ。

それが、本作に対する私の基本解釈である。

(2012年1月)

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