1 欲望の稜線を無限に伸ばして疲弊するだけの人間の、限りなく本質的な脆弱性
アルカーイダのテロネットワークの存在を見ても分るように、いつの時代でも、テロの連鎖はやがてテロそのものが自己目的化し、肥大化し、過激化していく。
本作の中で描かれたテロの連鎖もまた、見る見るうちに肥大化し、過激化していった。
それは、10代の美女に憑かれた初老の男を翻弄していく、女の振舞いに呼応するようでもあった。
テロそのものが自己目的化していくように、初老の男を翻弄する10代の美女もまた、金満家の男を翻弄することを自己目的化していったのだ。
初老の男からの金銭の獲得が目的であったと思わせる、女の当初のモチーフは、いつしか男を翻弄するゲームと化していくのである。
哀れを極めるのは初老の金満家だが、男自身もまた、その欲望の対象が「セックス」にあったはずのモチーフが曖昧化し、ただ単に、「逃げる女を追い駆ける男」という自己像を作り上げていく。
貞操帯という名の、最後のバリアに弾かれた男は、最も肝心な場面で欲望を満たすことができないが故に、却って欲望が肥大化し、その肥大化した欲望の対象を限りなく曖昧化させていくプロセスを自己目的化していくようだった。
対象人格への追走それ自身が、既に男の行為の全てとなっていくのだ。

男もまた、〈性〉の奴隷と化すという、女が仕掛けた究極のゲームのうちに自己の存在証明を果たしているように見える。
或いは、本作は、金銭などの手段をほんの少し駆使すれば、手に届く範囲に欲望の対象が存在するとき、その欲望の対象への最近接によってもなお、欲望の達成を得られない状況を常態化することで、欲望の稜線を無限に伸ばして疲弊するだけの人間の、限りなく本質的な脆弱性に肉薄する意図を持った作品であるように思えるのである。
ルイス・ブニュエル監督は、湯水の如く蕩尽するだけの金満家のブルジョアにシンボライズされているように、このような人間の愚かさを、残酷な筆致で描き切る気分を愉悦しているようなのだ。
だから本作は、二人一役という「ルール破壊」の表現技巧によって、単に、「女性の二面性」を抉(えぐ)り出すことや、「ゲームを捨てられない男の性(さが)の悲哀」の問題にのみ収斂される映像ではないのだ。
テロの連鎖が自己目的化していく現象も、「セックス」目当ての初老の男の、「欲望の稜線伸ばし」という行為も、そして、そのような男の脆さを操作して愉悦する女の「魔性性」も、何もかも、根っ子において通底している人間存在の悲哀の様態を描き切りたいのである。
2 「自己完結点」を持ち得ない、無秩序なカオスの世界に捕捉されて
既に言及してきたように、人間の愚かさの様態の一つは、単に手段であったものが自己目的化してしまうという、ハードルの驚くべき低さにあった。
このことは、「寅さん」の「失恋譚」を想起すれば分るだろう。
「寅さん」の場合は、得恋するという目的の成就よりも、どこかで失恋することを感受していても、それでも、マドンナを追い求めるという行為のプロセスそれ自身を止められないのだ。
それは、「逃げる女を追い駆ける男」という自己像確保と言っていいのか。
そうではあるまい。
少なくとも、本人には、そのような意識は存在しないだろう。
言葉を換えれば、「寅さん」の場合は、失恋することによって、初めて彼の「失恋道」=「片思いの美学」が自己完結するのである。
そこまで行かないと納得できない自我を作ってしまったということだ。
しかし、本作の金満家のブルジョアの男の場合は少し違う。

件の男は、「逃げる女」への虚しい追走を止められないのだ。
「止められない男」の欲望を操ることに、一服の快感を見い出しているかのような女もまた、男の「追走劇」をゲームとして愉悦しながら、そのつど、追走可能な辺りまで逃げて行く。
年齢の差が数倍にも離れた男と女は、手段を自己目的化するゲームの中で疲弊しながらも、常に心のどこかで、そのプロセスそれ自身を愉悦しているのだ。
欲望の未達成という心的現象それ自身が、充分に「欲望のあいまいな対象」そのものなのである。
一度(ひとたび)開かれてしまった、このような人間の、邪道とも思える欲望の稜線は、充足すべき軟着点を見つけることなく際限なく進んでいくのだが、その行程を無化しないためにこそ、手段が自己目的化されていくという心的構造の中で漂流していくのである。
ラストシーンにおいて、一見、予定調和とも思しき軟着点を用意して見せたが、それなしに済まない物語の究極の構造を、単に打ち止めにさせたに過ぎないとも言えるだろう。
しかし、「寅さん」の場合は、「失恋道」=「片思いの美学」による「失恋の自己確認」という、それ以外にない極め付けの「自己完結点」を保持しているが故に、一回完結で、「読み切りコミック」とも言うべき「救い」の余地があるのだ。
失恋することで旅に出て、また再び同じような恋をして、失恋する。
それでも「自己完結点」を保持しているが故に、そこで、自分の人生の一定の区切りになるラインを引くことができるのだ。
その点が、本作の金満家のブルジョアと決定的に違うところである。
件の男の場合には、「自己完結点」を永遠に持ち得ないと思わせる、無秩序なカオスの世界に捕捉されてしまっているようだった。
だから、疲弊したものを容易に浄化する手立てを持てないのだ。
浄化する手立てを持ち得ない男は、厄介な女に対して、遂に殺意を抱くに至った。
しかし殺せない。
殺してしまったら、男は全てを失ってしまうのだ。
それ故、殺意を抱いても、それを遂行できないのだ。

悲哀なる男は、いつまでも幻影を追い求め、逃げられて、捨てられながらも求めていくのである。
3 朽ち果てるまで続く、「追走のゲーム」という「大狂気」
悲哀なる男は、女からの蠱惑(こわく)的な言葉を被浴することで、再び活力を取り戻していく。
こんな会話があった。
「もう、こんな生活は続けられん。正直に言ってくれ。これで、お別れになったとしてもだ」
「私を一度だって、分ってくれようとしなかった。私が、あなたと避けようとしているとでも思って?あなたを愛しているのは私。一生、傍にいたいわ。あなたは美しい人。瞳は優しく輝いている。私の求める幸福を与えてくれるのは、あなただけ」
「全て君にあげよう。頼んでくれさえすればいい」
「多くは要らないわ。私の小さな家。それに、少しのお金だけ」
「分った。いつでもあげよう」
「私にできることは、あなたを狂うほど愛し、あなたのために完璧でいること」

どうやら、このような二人の会話が、本作の男と女の関係様態の全てであるようだ。
いい加減、女に愛想を尽かした男は、このときばかりは自分の憤怒を吐き出した。
しかし、男の憤怒を忽ちのうちに吸収する女が、そこにいる。
女は男にとって、一種のファムファタールであると言っていい。
何しろ、この関係が際限なく続くのだ。
ラストカットにおいて、折角、よりの戻った男と女の関係の破綻をイメージさせるような、無差別テロの爆破を映し出したように、男の人生も、二つの異なった人格を持つ、一人の女への「追走のゲーム」を止められず、朽ち果てるまで続いていくしかないのである。

77歳にして、そんな遺作を残したルイス・ブニュエル監督(画像)の、偏執狂とも思える〈性〉への拘泥は、遂にシュールを極めた「大狂気」にまで至るのだ。
破けた血染めのレースの布地を繕っているシーンの意味は、捨てられながらも、なお求めていく男の心理をイメージしているように見える。
そこだけが、男の「心の安寧」を、唯一象徴させるシーンだっただけに、本作の中で、束の間、印象深い軟着点のイメージを包含させていたようにも思えるのだ。
一貫して、ブルジョアを怨嗟し、欺瞞を厭悪するルイス・ブニュエル監督らしい、毒気満点の遺作であった。
(2011年5月)
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