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2010年7月20日火曜日

太陽に灼かれて('94)   ニキータ・ミハルコフ


<「風景の変容」 ―― 3部構成によって成る特徴的な映像構成の劇的効果>



1  「朱に染まった波の間から、偽りの太陽が昇り始める」



「“最近、モスクワ近郊で奇妙な現象がしきり(しばしば)と見られると、通告(報告)されている。火の球が出来(出現)したかと思うと、消え去る。作物は被害を受け、農者(農民)たちの健康を脅かし、深刻な影響を与えている。この火の球の移動する方向と速度は、それぞれの地域の地形と建造体(建造物)による。この現象は、最近の甚だしい環境の変化による結論(結果)と考えられている”」

これは、新聞を読む男の言葉。

男は、ロシア語が堪能ではない執事。

その男が読む、拙い言葉の誤りを訂正するのは(丸括弧内の言葉)、男の雇い主であるドミトリ(ミーチャ)。

彼は一仕事を終えた後、拳銃を手に持ち、ロシアンルーレットの恐怖の世界に侵入した。

しかし、銃丸は発射されなかった。

リボルバー式拳銃の6発の装弾が抜き取られていたからだ。

映像は一転して、冬の季節に、コトフ大佐の自宅テラスでの小楽隊の演奏を映し出した。

季節を感じさせないタンゴの歌声が、自然の中で軽やかに踊っている。

「朱に染まった波の間から、偽りの太陽が昇り始める。その光の中で、お前は言う。もう愛はないと。でも私は絶望しない。痛みも悲しみもない。朝の光の中で、お前が言う。明るく言う。“旅に出ましょう”と。それでいいのだ。お前と私・・・二人が悪かったんだ・・・」

その小楽隊の前のテラスで、一組の男女がダンスを興じている。

コトフと、年の離れた若いマルシャの夫婦である。

その傍には、男女の愛児が楽しそうにベンチに座っている。

ナージャである。

ここで、本作のメイン・タイトルが大きく映し出された。

「太陽に灼かれて」のイメージが、既に、このファーストシーンで提示されているのは言うまでもないだろう。

「偽りの太陽」とは、新聞記事の中の「火の玉」と同義であり、「革命」、「スターリン」、「全体主義国家」を象徴する負のイメージであるに違いない。

このイメージの持つ恐怖は、ラストシーンにおいてその全貌を現す、気球に引っ張られて昇ってくるスターリンの肖像に象徴される圧倒的支配力の内に集約されるだろう。

本作は、「スターリン気球記念日」という「特別な一日」を描いた映画なのである。。



2  「人間ドラマ」という方法論の有効性 ―― 真っ向勝負の「社会派映画」の困難さ


キリング・フィールド」より
キリング・フィールド」(ローランド・ジョフィー監督/画像))や、「さらば、わが愛 覇王別姫」(チェン・カイコー監督)のケースがそうだったように、歴史上の大きなテーマを扱う場合、真っ向勝負の「社会派映画」として映像を構築するのが困難である場合があまりに多い。

なぜなら、「社会派映画」として扱うには、「時代」が分娩した〈状況〉が、人間の心の奥深くまで侵蝕する恐怖の広がりを延長させてしまっているのである。

人間の心の奥深くまで侵蝕する広がりを延長させた恐怖を、限りなく相対化する知的営為の作業は可能でも、その全貌を映像化するのが困難であるのは、内包する問題があまりに複雑過ぎているばかりか、「人間の現実」が複層化し、重なり合っているため、そこに多くの人間学的テーマを継続的に抱え込んでしまっているからである。

恐怖の広がりの延長が「現代的課題」を引き摺ったまま、容易な軟着点を手に入れられないのだ。

従って本作を、その類の「社会派映画」として決め付けた上で、そこに不足する問題点を、狭隘なイデオロギーを梃子に指弾するような批評は多分自壊するだろう。

恐らく作り手は、その類の「社会派映画」の困難さを自覚した上で、本作を「人間ドラマ」として描いているのだ。

「人間ドラマ」という方法論の有効性を把握できない愚かさ ―― それが、狭隘なイデオロギーを梃子に指弾する批評に多々見られるのである。

かの御仁は、作り手が映像に仮託した主旨やライトモチーフを、客観的に把握した上で批評することなく、「こうあるべき」という自分のドグマチックなイメージを勝手に決め付けた挙句、そのラインに沿って、「この映画には・・・が決定的に不足している」などと畳み掛けていくから厄介なのだ。

さらば、わが愛 覇王別姫」より
それはどこまでも、自分の「こうあるべき」というドグマチックなイメージの枠内でしか批評できない狭隘さが、しばしば、決定的瑕疵になることを認知し得ない厚顔さと共存するから始末に負えないのである。

多くの場合、批評のメンタリティに過分な程のモラリズムが挿入されているので、イデオロギーは表現作品を批評する視座を決定的に曇らせてしまうのだ。



3  「風景の変容」 ―― 3部構成によって成る特徴的な映像構成の劇的効果



一級の「人間ドラマ」として評価する本作は特徴的な映像構成によって形成されていると、私は考えている。

以下、それを簡潔に説明したい。

物語の中枢に位置する人物、コトフ大佐の描写を基幹にして、本作は3部構成に分れていると見た方がいいと思うのだ。

その映像構成は、以下の通り。

①「革命英雄」の支配力、②「革命英雄」の相対化、③「革命英雄」の否定である。

本作を以上の3部構成によって分けると、非常に優れた映像構築に成功した作品であることが検証されるだろう。

思うに、本作を3部構成にしたのは、映像構成に関わる作り手のセンスと訴求力の大きさを狙ったものだろう。

加えて、リアリズムの加速的な強化によって主題提起力を強く印象付けるものと言えようか。

要するに本作は、3部構成によって成る「風景の変容」の、その特徴的な映像構成が放つ劇的効果を狙った典型的作品であるということである。

「革命英雄」の「風景の変容」を劇的に描き出した特徴的な物語の中で、一貫して変らないのはナージャの笑み。

そして、「ザゴリアンカ」という村を探し求めるトラック運転手の行動。

件のトラック運転手は、どこへ行っても、「そんな村なんて知らない。勝手にどこでも行け!このバカ!」などと言われる始末。

コトフとナージャ
しかし後者は、3部の終わりで、コトフを視認したために呆気なく殺害されるに至ったので、ナージャの笑みだけが物語を貫流し、そこだけは「未来」に繋がる作り手のメッセージとして眩いまでに輝いていた。

その輝きを奪った者への糾弾の意志が、より強調される映像効果を担ったのである。

そういう物語だった。

以下、①「革命英雄」の支配力、②「革命英雄」の相対化、③「革命英雄」の否定という、特徴的な映像構成を形成する本作を検証していこう。



4  饒舌とユーモアたっぷりな筆致で描かれた「革命英雄」の支配力



場所は、コトフ大佐の別荘。


季節は夏。

戦車の演習が小麦畑を荒らして、長閑な村をパニックに陥れた。

村人からの強い要請で重い腰を上げたコトフ大佐の命令一下、若い中尉が指揮する戦車の演習を引き返させた。

「革命英雄」であるコトフ大佐の権力・権威は、演習を指揮する若い青年将校を支配する力を持っていたのである。

このエピソードを、諧謔含みで描く作り手の創作意図は明瞭である。

「革命英雄」の支配力のシンボリックな集中的効果を、些か誇張気味に狙ったことと、③によって炸裂する厳しいリアリズムとの落差を強調したいためだ。

それ以外ではないだろう。

村人たちの饒舌が、コトフ大佐の別荘の内外で弾けているのだ。

映像は一貫して、饒舌とユーモアたっぷりな筆致で描かれていく。

30分ほど続く①の基調は、饒舌とユーモア、そして家族共同体と地域コミュニティとの調和と融合。

作り手は、映像前半を牧歌的でユーモアたっぷりの筆致で描いている。

その象徴が、戦車騒動であったという訳だ。

従って、このシークエンスをリアリズムの狭隘な視座の内に、正直に受容して批評するのは的外れであると言わざるを得ないだろう。

作り手は、この①を、長閑で牧歌的な空気感の中で描き出したかったのだ。

ナージャの笑み
そういう特徴的な映像構成を成す、「人間ドラマ」という方法論の有効性を把握すべきなのである。



5  饒舌を希釈化され、寡黙になる「革命英雄」 ―― その風景の変容



しかし、②に入って映像は徐々に変容していく。

ここから、丁寧にフォローしていきたい。

ミーチャの訪問が変装老人として描かれていたのは、①の延長線上に物語を繋げたかったからだ。

「皆、変りない」


ミーチャと、陸軍大佐コトフの一族との会話は昔を懐かしむものだったが、マルシャの心の動揺を伝えるカットも挿入されていて、ミーチャの訪問は、牧歌的オンリーのコミュニティにリアリズムの重量感を徐々に持たせていく。

川へのピクニックと、毒ガス攻撃からの避難訓練のシークエンスを諧謔的に描いたのは、①からの牧歌的風景との共存を意味しているが、且つ、そこに込められた作り手の風刺精神の表れであるだろう。

なぜなら風刺精神とは、「肯定的批判」を含意するからである。

それでも、映像は「革命英雄」から饒舌を希釈化し、少しずつ寡黙にしていく。

寡黙にしていった分、ユーモアが剥ぎ取られていくのだ。

そして、ミーチャとマルシャの二人だけの会話。

殆ど、ミーチャの語りである。

川に飛び込んだミーチャと、それを見て微笑むマルシャ。

いつまでも沈み込んだままのミーチャを心配し、自らも川に飛び込むマルシャ。

いきなり川から顔を出し、マルシャを驚かせるミーチャ。

藪の中での会話。

「二人はボート小屋で一夜を過ごし、僕らの初夜だ」

ミーチャはかつての恋人に、更に語りを続ける。

「忘れられないのは、君のお腹についたゴム紐の跡だ。それは奇麗なピンク色だった」

「何でそんなことを話すの?」

そう言って、マルシャは、過去に拘るミーチャの話を躱(かわ)していく。

彼女はなお、武装を解除しないのだ。

ミーチャ(左)
その後、帰宅し、毒ガスマスクを被ったままのミーチャと、ピアノの連弾をするマルシャの表情からは溢れる笑顔が漏れていた。

まもなく、ナージャに好かれ、その相手をするミーチャは、お伽話の寓話に寄せて、ナージャの理解できない10年前の過去を告白するのである。

貴族階級出身のミーチャとの恋愛の過去を持つマルシャは、その話を聞くや否や、夫に真相を求めて迫っていく。

妻を求める誠実な態度が受容され、夫婦はベッドの中で睦み合った。

その睦みの中で、コトフは、かつてミーチャが村から追い出されたのは、「革命英雄」である自分の口利きがあった事実を認めるが、「ミーチャは、恐怖から国外行きを承諾したが、私は国の義務で国外に行く」と、そこだけはきっぱり言い切った。

この時点で、物語のトーンはリアリズムの濃度を決定的に深めていく。

因みに、ナージャへの話の最中、「火の球」が何度も出現する。

やがて、「火の球」は収斂火災を起こして、村の森に火がついた。

これは、ミーチャの帰宅のファーストシーンで、執事が読む新聞の記事の中に出てきた「火の球」のイメージと重なるものである。

その「火の球」が、③に入ってデトネーションを惹起するに至るのだ。



6  「『革命英雄』の否定」の世界の凄惨さ



映像は、③の「『革命英雄』の否定」の世界に踏み込んでいく。

コトフとミーチャとの直接対決が、その端緒となった。

恐らく、ナージャへのドミトリ(ミーチャ)の寓話の語りの中で、ミーチャの訪問目的を察知していたコトフは、あと2時間で、迎えの車が来るまでサッカーを興じることの許可を確認して、森に出た。

コトフとミーチャとの直接対決
その森の奥での、決定的な2人の会話。

直接対決である。

「君は何しに来たんだ?命令で来たのか?君の本当の正体を・・・君は1923年以前から防諜機関員だった。反体制幹部を8人密告した。それによって、彼らは反革命、人民の敵として銃殺された。裁判もなしにだ」
「それを誤りだと?」
「そうは言わん。私は4年間彼らと闘い、君はその中に潜り込んだ」
「強制されてやったことだ」
「誰に?誰に強制されたと?1923年には君のことなど聞いたこともない。どうせ、金で買われたんだろう」
「そんな言い方、止めてくれ。この家に帰ることだけが希望だった。だから、“帰す”という話を信じた。バカな話だ。俺は裏切られ、全てを奪われた。人生も仕事も祖国も。愛するマーシャまで、あんたが奪った」
「そのために帰って来たのか。苦痛を楽しむために。“コトフよ、逮捕する”という訳か」
「そうだ。だが、事前に本人に知られたのは失敗だった」

ここで、コトフの感情が炸裂する。

「嘘つき!卑劣な奴め。何から何までデッチあげだ。身に覚えはない。私を一体どうするつもりだ!『革命の英雄』コトフを、誰が逮捕できるというのだ!」
「余計な心配はいらん。数日後の貴様を見るのが楽しみだ。血の反吐を吐いているだろうさ。貴様は1920年から ドイツに情報を送った。23年からは日本のスパイとしても暗躍し、同志スターリンの暗殺計画にも加わった。妻子の運命を思うなら、その告白書に署名することだ」

激越な直接対決で憤怒を抑えられないコトフは、思わずミーチャを殴った。

その直後の映像は、「レーニン少年団・コトフ分隊」の少年少女から顕彰されるコトフ。

辛辣なアイロニーを挿入する映像は、もうリアリズムの濃度を希薄にできなくなっていた。

まもなく、何か明瞭な意志を持つかのような、不気味な一台の黒い高級車がやって来た。

コトフの家を聞く車内の男と、「ここよ」と元気に答えるナージャ。


父だけが知る、ナージャとの最後の悲しい別れが近づいてきたのだ。。

別荘の部屋には、スターリンと共に並ぶコトフの写真が飾られていた。

しかしもう、その構図は辛辣なアイロニーの内に収まらなくなっていた。

コトフを迎えに来た車を歓迎する、コトフの親類縁者たち。

彼らは事情を全く知らないのだ。

それこそが、スターリン粛清の恐怖の本質だった。

最後まで、ナージャや愛妻と戯れるコトフ。

彼にとって、それだけが家族を悲しませない唯一の手段だったのである。

コトフの別荘の前で待つ黒い高級車の近くでは、ギターを奏でるミーチャがいる。

彼は演奏家でもあった。

父が同乗する高級車に乗り込んだナージャ。

幼気(いたいけ)な少女が、途中まで黒い高級車を運転し、それを秘密警察員の男がサポートする。

車が止まった。

「早くお帰り。ママが待ってる」とミーチャ。

「じゃ、パパ」と言って、大好きなパパと別れるナージャ。

車は、「ザゴリアンカ」という村を探し求めるトラック運転手と遭遇し、コトフを視認した。

その瞬間だった。

コトフは、トラック運転手に何か語りかけた。

コトフは「ナゴリエに?」と発問し、それを抑えにかかった諜報員を殴ったのだ。

その直後、コトフは車内で諜報員らに一方的に殴られて、後ろ手に手錠を掛けられた。

「私はただ、人に頼まれて荷物を。相手は朝から待って。証明書は本物です」

これは、「見てはならない場面」を見てしまったトラック運転手の、ミーチャへの弁明。

運転手が、「コトフ大佐ですか?」と口走ってしまったのが命取りになったのである。

そのときミーチャは、スターリンの肖像が気球に引っ張られて昇ってきたとき、思わず、煙草を持つ手を掲げて敬礼した。

この日は、「スターリン気球記念日」だったのだ。

ミーチャと同様に、天にも昇らんばかりの巨大なスターリンの肖像を視認するトラック運転手は、車内から出て来た諜報員に呆気なく射殺された。

スターリンの肖像を視認したからではなく、コトフを視認したばかりか、車内でのコトフの様子の異様さを目撃してしまったからである。

ところで、映像の中に度々登場するトラック運転手の存在は、ここでシンボリックに描かれているように思われる。

トラック運転手が「ザゴリアンカ」という村を尋ねても、誰も答えられないばかりか、迷惑そうに反応されるばかりなのだ。

それは、「どこにもない場所」という意味のギリシア語の造語であり、もっと言えば、「どこにも存在しない理想郷」としての「ユートピア」のイメージではないのか。

即ち、「非人間的な管理社会」であり、「絶対的独裁者に疑われただけで抹殺されてしまう全体主義国家」を支える、顔の見えない無数の諜報員にとって、「決して存在させてはならない場所」を探し求める者は「国家の害毒」であるという含意が、そこにシンボライズされているのではないか。

そう考えられなくもないだろう。

ともあれ、殴られて、顔面血だらけになったコトフは、助手席に座るミーチャを凝視し慟哭するのだ。

くぐもった叫びで、その声も呻きに近い何かだった。

口笛を吹いて、平静を装うミーチャ。「偽りの太陽」のメロディだ。

そのミーチャは、「仕事」を終えてモスクワの自宅に帰宅した。

映像のラストシーン。

ミーチャは口笛を吹きながら、モスクワの自宅の浴室で、手首を切って自殺を遂げた。

そのメロディも「偽りの太陽」。

映像が最後に提示したキャプションは、以下の通り。

「陸軍大佐コトフ 36年8月12日銃殺 56年11月名誉回復。

マリア・コトヴァ 禁固10年 40年死亡 56年名誉回復。

ナージャ・コトヴァ 36年6月逮捕 56年名誉回復 現在カザフスタン在住。



7  メリハリの効いた映像構成の妙 ―― まとめとして①



起承転結の「起」の部分に当たる①では、約30分要して、コトフとその一族、更に、地域コミュニティとの調和と融合の日常性を描き出すことに主眼を置いていた。

ここでの「『革命英雄』の支配力」の基調は、「饒舌」と「ユーモア」、「調和と融合」であったと言える。

それが②によって、コトフ家の日常性に亀裂を生じさせ、日常性と非日常性がパラレルに、危うい均衡感を内包して共存的に進行していく。

作り手は、物語構成の起承転結の、「承」と「転」の部分に当たるこの描写に、約1時間の時間を割いている。

ここでの「『革命英雄』の相対化」の基調は、「饒舌」と「ユーモア」、「調和と融合」の空気が相対化されていく点にある。

「革命英雄」の人格から「ユーモア」が希釈化され、代って「寡黙」と「不調和」への情感変容が目立っていくのである。

その流れの中で、「お伽話」に寄せたミーチャの「告白」=「指弾」が媒介され、「革命英雄」はミーチャの訪問意図をほぼ察知するが、未だ「藪の中」の状況が続く。

そして遂に、「革命英雄」はミーチャと直接対決するに至る。

③は、コトフを特定的に襲う非日常の炸裂があり、そこで置き去りにされた日常性の暗雲がイメージされる。

この辺りのメリハリの効いた映像構成の妙は、③の炸裂の内に、作り手の強烈なメッセージによる訴求力を決定付けていくのである。

およそ30分を要した、起承転結の「結」の部分に当たる、ここでの「『革命英雄』の否定」の基調は、「饒舌」と「ユーモア」、「調和と融合」の空気の払拭である。

とりわけ、殴打され顔面が変形した「革命英雄」の人格から洩れ出す呻きは、一瞬にして、平穏な日常性が瓦解していく恐怖が刻む慟哭の凄惨さを映し出して、それまでの物語構成の逢着点を意味する決定的な構図となったと言っていい。

本作は、この凄惨な構図に辿り着くまでの映像だったのだ。

作り手はこの凄惨な構図の内に、理不尽なスターリン粛清によって、平穏な日常性が壊されていった者たちの無念を象徴的に描き出したのである。



8  「革命英雄」と秘密諜報員 ―― それぞれの〈生〉の流れ方 ―― まとめとして②



以上の把握を踏まえるまでもなく、この映画で最も重要な人物はコトフとミーチャである。

両者のエピソードについては、本稿で前述した通りである。


繰り返すが、コトフの場合、ある日突然、非日常の不安が侵入し、それが、たった一日の僅かな時間の中で、一気に、彼の日常性は壊されていく。

たった一日の限られた時間の中で、彼はそれを察知し、それに対して、悔いのない対応を迫られた。

彼に負わされた罪は、「ドイツ・日本のスパイ」と「スターリンの暗殺計画への加担」。

当然、身に覚えのない罪による指弾を断固として拒絶するが、彼はそれが空虚であることをも察知している。

理不尽なスターリン粛清に関する情報が、彼なりに感知されていたからであろう。

それでも彼は、その絶対状況で、如何に家族への衝撃を和らげるかという方策について考えた。

逃亡が不可能だからだ。

彼がせめて、その絶対状況で可能なことは限定的なのである。

その彼の精神状況が極点に達したのは、前述したように、黒い車内での呻きの場面。

それが何の意味も持たない現実を了解していながら、彼の呻きが、このようにして突然召喚され、抹殺されていった、多くの「革命英雄」たちの無念を集約させたものであったのは既に言及した通りである。

スターリン粛清の恐怖をここまで映像化した本作の決定力に、慄然とするばかりだ。


次にミーチャのケース。

彼が単に、10年前のリベンジをモチーフにして、「芸術村」を訪問したのでないことは明瞭である。

マルシャとの再会は、大いなる希望であったかも知れないが、しかし彼は二人だけの対話の場を急拵えし、そこで一方的に語り尽くしたことで、或る程度浄化されたように思われる。

それで充分だったとは思えないが、彼には残り時間が限られていたのだ。

その残り時間の中での、コトフとの直接対決。

彼を自殺させないように監視し、完璧に捕捉すること。

「史上初のプロレタリアート主導国家」の特殊世界において、貴族階級出身のミーチャは、秘密警察の上司から、彼のこの「致命的弱み」に付け込まれた、「革命英雄」の捕捉劇を担わされたのだ。

寧ろ、彼こそ最大の被害者であったと言えるだろう。

政敵を倒した秘密諜報員は、その功によって階級を上り詰めた結果、自らの権力欲を推進力にして、権力機関の中枢を一気に掌握していく。

そこまで上り詰めた男は、無論、本人の人格障害的挙動も大きく媒介しているものの(と言うより、権力機関の中枢にまで上り詰めていくと人格変容する面もある)、国家の最も重要な情報を握っているというメリットが、逆に彼を利用する最大権力者によって疑心暗鬼の対象人格と化し、一転し徹底的に監視され、そして何某かの理由を張り付けられ、抹殺されていくに至るのだ。


これは、スターリン粛清の執行者として有名な人事の連鎖である、ヤーゴダ(初代NKVD=内務人民委員部=秘密警察)→ エジョフ→ ベリヤ(画像)らの振舞いと、その末路(いずれも反逆罪等で処刑)に集中的に表れていた。

しかし、貴族階級出身のミーチャの屈折→ 秘密諜報員への同化→ コトフの捕捉→ 自殺という曲折的流れ方は、なお彼の中に、深々と人間的感情が渦巻いていたことの証左であった事実を物語るものだったであろう。

そのことの典型的な事例として、最も印象深い描写があった。

それはコトフを捕捉した車内で、騒いだ彼を諜報員たちが顔が変形するまで暴行するシーンである。

それに耐えられず車外に出たミーチャが、再び戻って車が走り始めたとき、後ろ手に手錠を掛けられ、瞼が腫れ上がって眼が開けられない状態のコトフに睨みつけられたのだ。

ミーチャは、必死に心の動揺をに見透かされないようにして、車外に顔を向け口笛を吹く。

コトフを正視できないのだ。

自らが逮捕し、処刑台に連れていくであろう、かつての恋人の夫が放つ糾弾の視線を受容できない男が、10年以上も長きに亘って秘密諜報員の仕事を担わされてきたのである。


「さすがだ、ミーチャ。正体を見破った。観察力が鋭いんだな。将来の敵を見つけて、しっかり始末した」


 秘密諜報員の一人が、ミーチャの「手柄」を称賛した言葉だ。



「将来の敵」と決めつけたコトフを粛清する「小さな事態」に対して、充分に馴致し切っている秘密諜報員の痛烈な一言の中に、スターリニズムの恐怖が集約されているのだ。


しかしコトフ逮捕によって、彼の心は、もうその「仕事」を継続できない脆弱さを露呈してしまうのだ。

彼の自殺は、コトフ自身への個人的感情以上に、その家族の表情から微笑みを奪い取った罪責感に苛まれた感情が揺動していると見るべきであろう。

彼はヤーゴダ→ エジョフ→ ベリヤが辿った、「大粛清の旗振り人」という役割を担う程には冷血漢になれなかったのだ。


このような超一級の人間ドラマを、ニキータ・ミハルコフ(画像)は映像構築したのである。

脱帽と言うしかない。

最後に一言。

ホセ・ルイス・クエルダ監督の「蝶の舌」(1999年製作)や、ヤン・カダール監督とエルマール・クロス監督の共作である「大通りの店」(1965年製作)がそうであったように、「風景の劇的変容」の物語構成によって成功した秀作が放つ訴求力は忘れ難いが、本作における「風景の劇的変容」の物語構成の決定力は、殆ど筆舌し難い程の切れ味だった。

そこが何より凄い。

いずれも、歴史の難しい問題をテーマ(スペイン内乱、ホロコースト)に据えた人間ドラマであることにおいては変わりがなく、結局、この種の映画の生命線は、「風景の劇的変容」の物語を如何に構成し、そこで如何に訴求力を持たせて表現し切っていくかということなのだろう。

(2010年7月)

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