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2011年5月5日木曜日

サード('78)      東陽一


<「陰翳」が削り取られた「純度の高い内面的表現力」の決定的瑕疵>



1  「素人」の「鮮度」の「魅力」という範疇を逸脱するお粗末さ



初見時から数十年を経て鑑賞した印象が、これほど失望の念を禁じ得なかった映画も珍しい。

私にとって、それは、初見時の印象深い感銘が、単に青臭い感傷でしかなかったことを能弁に物語るものだ。

一見、「この映画は甘くないぞ」とイメージさせるに充分な、「ATG 幻燈社提携作品」⇒「関東朝日少年院」⇒「サード」、そして、件の架空の少年院の早朝を、「起床!」、「整列!」、「左へならえ」という少年たちの声が刻まれていく暗鬱な映像の導入は悪くない。

このイメージを的確に表現する短調の音楽のフォローも、決して悪くない。

物語の中で特定的に切り取られた「主題関与の風景」も、特段に問題がある訳ではない。

そして、希望を繋げにくい、「活力の欠乏した大人社会の世俗的な風景イメージ」と、そこに我が身を預けていくときの、「モチーフの劣化した青春の閉塞的な風景イメージ」との対極の構図を提示した主題も、よくある類型的で定番的パターンながらも、それを限りなくドキュメンタリー タッチで拾い上げていくリアルな視座も了解可能である。

しかし本作が、「モチーフの劣化した青春の閉塞的な風景」を表現するのに、「少年院」(注)という特殊矯正施設の閉鎖系の空間と、その空間を突き抜けた先に待つ、「9月の町」の熱気に満ちた幻想との落差の中で描き出す物語であればこそ、そこで語られる、「青春の危うさと、不安感、焦燥感」に関わる描写の中枢が、それを演じる者の、極めて「純度の高い内面的表現力」に依拠せざるを得ないことが必至となるだろう。

ただ残念ながら、この「純度の高い内面的表現力」が、元高校野球の三塁手に由来する、「サード」と呼ばれる主人公の少年のモノローグと、「ホームベースのない、エンドレスなランニング」に象徴される観念的文脈のうちに、殆ど丸投げされている印象が拭えないのだ。

例えば、冒頭の「サード」のモノローグ。

「時々、嫌な夢をみる。俺は野球部のサード。別に上手くはないが、そう下手という訳じゃない。守っている俺の傍を三塁ランナーが、次々とホームへ走っていく。やがて、俺が打つ番になる。ロングヒットを打って走り出すと、いつのまにか、グラウンドには誰もいなくなる。たった一人でホームインしようとすると、ホームベースがない。俺はまた走り出す。帰るべきホームのないランナーは、ただ走るだけだ。走り回って、とうとう俺はへたばってしまう。ホームベースとは、一体何だ」

これは、吹っかけられた挙句の院内の喧嘩で、有無を言わせず、権力的に放り込まれた「静思寮」(「単独室」という名の「独房」)でのモノローグ。

その直後、「サード」の実母が面会に訪れるが、「あんた」呼ばわりする主人公。

「友人が悪い」と決め付ける母の、過保護ぶりを強調するシーンだが、濃密に睦み合えない母子の交叉も悪くなかった。

ただ、睨みつける一方の「サード」の表情の中に、「活力の欠乏した大人社会の世俗的な風景イメージ」との断裂を拾い上げることも可能だが、肝心の「サード」の睥睨(へいげい)に象徴される外的表現を含めて、一本調子の彼の表現総体が学芸会並みの表現の域を全く越えられず、そこに「純度の高い内面的表現力」を感受することが最後までできないまま、ラストシーンに流れ込んでしまったのである。

それは、「素人」の「鮮度」の「魅力」という範疇を逸脱するお粗末さだったから、余計始末に悪かったのだ。

「純度の高い内面的表現力」の決定的欠落 ―― これが全てを駄目にしたとまでは言わないが、この欠落によって、観る者に伝わってくるはずの、主人公の人格総体から滲み出す「青春の危うさと、不安感、焦燥感」と、その〈状況性〉に振れる自我のうちに、べったりと張り付く相応の「陰翳」が殆ど感受されなかったこと。

これが最も大きかった。






2  「陰翳」が削り取られた「純度の高い内面的表現力」の決定的瑕疵



「この町は、あの死んだような俺の町とは、どこかが違っている。来年9月、少年院を出たら、この町に走って来よう。ここは9月の町だ」

これは、「少年院」への護送途中で見た、「祭」の熱気に感銘した「サード」のモノローグ。

随所に散見される文学的で、ペダンチックな「哲学問答」を含めて、冒頭の「サード」のモノローグに集中的に見られるように、執拗に繰り返されるノスタルジックなモノローグの氾濫に、食傷気味を通り過ぎて、生理的に受容し得ない厭悪感すら覚えてしまった。

なぜ、これほど主人公の心情を垂れ流すのか。

説明的過ぎる映像の致命的瑕疵ではないのか。

そしてラストシーンの、「サード」のモノローグ。

脱走に失敗したIIBを殴り倒したサードが、彼と共に並走するときの会話であう。

「もっとゆっくり走ってくれよ」とIIB。
「走れよ。自分の速さで」とサード。

このスクリプトこそ、この映画の基幹メッセージであるのは言うまでもないが、ここまで語り過ぎる映像の過剰さに、正直、お手上げだった。

即ち、そこに閉鎖系の空間内での、ドキュメンタリー的な筆致によるリアリズムを挿入させてもなお、主人公のモノローグと観念的表現が濃密に絡み合って、提示された主題を語り切るという表現技法は、主人公を演じた俳優の、「純度の高い内面的表現力」の決定的瑕疵によって、「青春の危うさと、不安感、焦燥感」に張り付く微妙な心理の振幅から垣間見える、「陰翳」が削り取られてしまったのである。

だからこれは、文学に丸投げしただけの、単なる観念系のゲームと化した。

伝えたいことを、抽象的言語やモノローグに依存することなく表現し切る映像のパワーが、ここには決定的に欠落していたのである。

寺山修司の文学的で、ノスタルジックなシナリオにも、いつまでたっても馴染めないし、そこで表現されたフラットな映像の演出にはもっと馴染めなかった。

私にとって、「言いたい表現を、何もかも映像化する」というATG系の、ある種過剰な印象しか持ち得ない映画だったという訳だ。


(注)筆者自身、塾生の面会で幾度も面会し、行事も見学した経験があるが、現在、短期処遇者を収容する施設では、「少年院」という名称を使用せず、「○○農工学院」などという名称の配慮がなされている。

(2011年5月)





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