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2009年12月11日金曜日

レイジング・ブル('80)      マーティン・スコセッシ


<技巧を欠損させた男の損益分岐点>



1  決してダウンしない男 ―― ブルファイターの矜持



「俺は自分でやる」

この言葉を信条にするほどに、人に頼るのを最も嫌う男。

パウンド・フォー・パウンド(ハンディなしに全階級の格闘家が闘ったと仮定したときの最強チャンプ)の栄誉を讃えられ、史上最強のボクサーと称された、シュガー・レイ・ロビンソンを唯一倒したその男の名は、ジェイク・ラモッタ。

本作の主人公であり、伝説的な実在のボクサーの名である。

「ただ、一度こうと思うと強情で脇目も振らない。キリストが十字架から降りても、彼は知らん顔で自分の決めた道をまっしぐらだ」

これは、八百長を持ちかけられたとき、弟のジョーイが組織のボスに、兄について語った言葉。

そんな男が、ごく普通のレベルの損得計算ができて、マネージャー兼セコンド、スパーリングパートナーを務めるジョーイの介在によって、嫌々ながら八百長試合を受諾し、当時から有名なスポーツアリーナであるマジソン・スクエア・ガーデンでそれを実行したのは、世界戦へのチャンスを得るため。

1947年のことだった。

ところが、八百長のリングに上がっても、ジェイク・ラモッタは決してダウンしない男だった。

ダウンしない男は、相手を合法的に殴り、且つ、殴られることによってのみ、自己の存在証明を確保できかのようなのだ。

「何でだ。何であんなことを・・・」

八百長試合なのに自らでダウンできずに、クリンチしなければ倒れてしまうほど弱い相手に負けた後、控室で弟の胸に顔を埋めて泣き崩れる男。

ジェイク・ラモッタは、そんな男だった。

この男は、ヒット・アンド・アウェイを基本とするアウトボクシングとは無縁な、パンチをもらっても臆することなく前に出る典型的なブルファイターなのである。

それが、技巧に頼ることを最も嫌う男の戦闘スタイルだったのだ。

これまでの紆余曲折の人生を通して、自力で克服してきたことを誇りとする男の帰結点が、ブルファイターの世界だったのである。

八百長試合に至るまでのそんな男の前半生について、「ウィキペディア」は伝えている。

「1921年、イタリア人の父とユダヤ人の母の元に生まれる。幼少期からブロンクスでストリートファイトに明け暮れていたラモッタは、彼を補導した警察官にジムへ連れて行かれボクシングを始める

1941年プロデビュー、類稀なタフネスとスタミナと恐れを知らぬブルファイトで徐々に実力と知名度を上げていく。相手は打っても打ってもラモッタは全く効かず、旺盛な体力とパワーで決して引く事なく前進し、乱戦に持ち込んで打ちまくるというのが彼の戦法であった」

ジェイク・ラモッタ
「強烈でアグレッシブな試合ぶりからBronx BullやRaging Bullとのニックネームを持ち、多くの識者により史上最もタフな選手と評されている」という一文が、ニューヨークのスラム出身で、「殴り合う」行為に馴れ親しんだ思春期を過ごした、この男のボクシングスタイルの本質を言い当てているだろう。



2  ギリギリのところで折り合いを得た、技巧性を排除する特性的な感情形成の損益分岐点



そんな男の人生だからこそ、損得原理で動く技巧性よりも、難局を突き抜けていく腕力への幻想が常に勝ち過ぎてきた。

しかし、男のその抜きん出た腕力は、男を輝かせる最高のステージであるリングにあって、試合を重ねる度に、「ブロンクスの“レイジング・ブル(怒れる牡牛)”」の異名を轟かせることに成就したが、男が愛する妻、ビッキーとの生活の共存性の中では、技巧を駆使できない男の致命的な瑕疵だけが暴走してしまうのである。

男好きのする印象の強い、妻のビッキーに対する嫉妬心の過剰さは、弟のジョーイから「病気だ」と言われる始末。

「こと、女房に関しては誰も信用しない。嘘をついたら、必ず誰かを殺す」

そんなことを言ってのけるジェイクに、ほとほとジョーイも愛想が尽きていく。

あろうことか、ジェイク・ラモッタは、妻のビッキーへの監視をも依頼して、それを実行した弟のジョーイを疑った挙句、家族の団欒の中枢にいたその弟に襲いかかって、散々、殴る蹴るの傍若無人ぶり。

マルセル・セルダン
その蛮行は、彼がフランスの世界チャンプのマルセル・セルダン(「愛の讃歌」のモデルで、エディット・ピアフのの恋人として有名)をKOして、初の世界チャンピオンになった栄光を勝ち得た直後だったのである。

技巧に頼ることを最も嫌うブルファイターは、その日常性と地続きだったという訳だ。

要するにこの男は、人の愛し方を知らないか、またはあまりに欠如しているのである。関係の適正距離を形成する感覚が不足し過ぎているのだろう。

愛の本質は援助感情にあると私は考えるが、男の場合、それが一貫して自己中心的過ぎていて、いつも空回りしてしまうのだ。

愛するパートナーに対する想像力よりも、独占感情という、愛情を構成する一つの尖った感情傾向のみが、この男の場合、常に突き抜けていて、これが、愛する妻を失う最も重大なキャラクター因子になってしまったということである。

男の人間関係もまた、最低限の成人男子の損得計算すら欠如して、独占欲に起因する嫉妬心によってブルファイターぶりを延長させる男だった。

或いは、彼の独立心の顕著な性格傾向(依存心の不足)は、簡単に他人を信頼しない心理傾向の裏返しであり、思春期に定着したと思えるその過剰さが、自我形成基盤であったスラム生活と無縁でなかったとは言えないだろう。

従って、彼の独占欲に起因する嫉妬心もまた、他人を信頼しない心理傾向を定着化させた思春期自我のうちに、損得原理で動く技巧性を排除する感情特性を形成することで、殆ど「快・不快の原理」で流されていく児童期の自我を延長させてしまったとも考えられるのだ。

損得原理で動く技巧性を排除する感情特性の形成によって、生来の攻撃性・突進性・頑健性・依存拒否性等を合法的にリンクさせる職業と出会うことで、一人の放埓な男は、唯一、その恵まれた能力、即ち、自分がどれほど殴られても倒れない自信を起動力に、相手を存分に殴り倒す抜きん出た腕力を、思春期以降、自覚的に磨き上げていった結果、「ブロンクスの“レイジング・ブル”」と呼ばれる成功したプロボクサーに化けていったのである。

それこそまさに、技巧性を排除する特性的な感情形成の流れ方が、利益と費用の均衡性が保持される損益分岐点において、ギリギリのところで折り合いを得たということなのだろうか。



3  自己を客観化・相対化させつつも、「不倒者」の人生を堂々と生き抜く男



映像のラストシーンに繋がる重要な描写があった。

本人には預かり知らないことだったが、未成年の少女を、自分の店のホステスに雇用した罪で独房に入れられたのである。


牢獄の闇に、一筋の光が指す小さなスポットで、ジェイク・ラモッタは呻吟するのだ。

「バカ、バカ…なぜ!なぜ!なぜ!何でだ、このバカ!お前はバカだ・・・救い難いバカだ・・・何がケダモノだ・・・そんなに悪くないぞ・・・なぜ、こんな目に遭わされる。悪くないのに・・・ダメな男さ・・・」

牢獄で、男は自分の頭を壁に何度もぶつけ、嗚咽しながら繰り返し嘆くシーンが意味するものは、或いは、少しは自分を客観化・相対化できた男の人生の技巧性をレベルアップさせたということだろう。

そしてラストシーン。ファーストシーンに戻ったのである。

1964年。ニューヨーク。

バルビゾン・プラザ・シアターの楽屋で、引退後の肥満体型を持て余すかのように、かつてのブルファイターは、一人鏡に向かって、映画「波止場」の台詞の一節を口誦していた。

「人間はツキさ。映画“波止場”のブランド役がいい例だ。有望な若者が落ちぶれて、確か車の中で、兄のチャーリーにこう言った。

“悪いのは兄貴なんだ。あの夜、控室で言っただろう。稼がせな、ウィルソンに勝たせて。それで、わざと負けた。本当は勝とうと思えば勝てたのに。結局、ウィルソンが挑戦者。その後の俺は、芽が出ずじまい。あの夜でツキが変わったのさ。坂から転げ落ちるようにダメになった。ひどいぜ、チャーリー。兄貴のくせに。弟のことを考えなかった。面倒を見るどころか、八百長ばかりやらせて、泡銭稼ぎに夢中になってた。分ってるのか。あのとき俺が、挑戦者になってりゃ、道も開け、こんなクズにならずに済んだ。そうだろう?悪いのは兄貴だ。兄貴なんだ”」

エリア・カザンの代表作として著名なこの作品は、日雇い労働者である元ボクサーが、ボスの命令で、殺人に関与して懊悩し、「裏切り者」のレッテルを貼られながらもボスの不正を告発し、立ち向かう物語である。

チャーリーとは、「波止場」の主人公の元ボクサーの兄のこと。

「波止場」の主人公
ジェイク・ラモッタは、この独白を通して、「波止場」の主人公である元ボクサーのテリーに自分を重ねている。

と言うより、彼にはあの屈辱的な八百長試合の一件が生涯の不覚となっていて、兄弟の関係を逆転させながら、その八百長試合を引き受けた弟の行為に対して、今でもどこかで恨めしく思っているのだ。

それほどにこの男は、「勝とうと思えば勝てた」試合を、八百長故に負けた一戦の悔しさが忘れられないのである。

しかも、クリンチしなければ倒れてしまうほど弱い相手に負けたことで、自分の本来的なブルファイターぶりを封印させられた現実の記憶が何より赦し難いのだ。

その後、ファイングポーズを取って、この男は、「俺がボスだぞ、ボス、ボス」と吐き捨てながら、鏡の前で、激しいボディーブロー攻撃によるシャドーボクシングを繰り返す「位置決め動作」を止めなかった。

この男は決して、「ダウンしないボクサー」という矜持を捨てていなかったのである。

“私は盲であったが、今は見えるということです”という聖書の言葉でも判然とするが、映像の最後のキャプションに引用される一文に集約されるように、彼流の反省を経て、少しは自分を客観化・相対化させつつも、しかし今なお、この男は、「ブロンクスの“レイジング・ブル(怒れる牡牛)”」と呼称された、「ジェイク・ラモッタ」という「不倒者」の人生を生きようとしているのだ。

「ジェイク・ラモッタ」という固有名詞によって、これからも主観的には、その味付けを「正のフィードバック」のラインのうちに調節させながら、堂々と生き抜く男の人生には、決してダウンしない未来像のイメージ以外にないということだろう。

以下、映像の最後のキャプションに引用された聖書の言葉を添えておく。

「そこでパリサイ人たちは、盲人であった人を、もう一度呼んで言った。“神に栄光を帰するがよい。あの人が罪人であることは、私たちには分っている”すると彼は言った。“あの方が罪人であるかどうか、私は知りません。ただ、一つのことだけ知っています。私は盲(めしい)であったが、今は見えるということです”」(新約聖書 ヨハネ福音書第9章24-26より)

「今は見える」と放って自分を客観化・相対化させつつも、「不倒者」の人生を堂々と生き抜く男がそこにいた。



4  危険を顧みない技巧の導入が支えたリアリズム



映像に登場する人物の何某に感情移入できなければアウトという鑑賞者には、一貫して湿潤性が不足するマーティン・スコセッシのザラザラした表現世界は苦手であるか、それとも厭悪して避けてしまうかも知れないが、一切の欺瞞性を排し、彼の映画作家としての人生を賭けたかのような一連の実験的映像群に、私は最大級の評価を惜しまない者である。

本作こそ、その中の代表的な映像であり、見事というより他にない天晴れな表現宇宙が、全篇に漲(みなぎ)る躍動感の中で踊っていた。

ここに、本作の表現宇宙の極め付けのような描写がある。

観る者の度肝を抜くほどのファイティング・シーンのリアリズムが、映像の後半の流れを支配したその描写は、本作の圧巻と言える決定力を充分に表現していた。

当時、世界ウェルター級のチャンピオンであったシュガー・レイ・ロビンソンと、世界ミドル級の王座であるジェイク・ラモッタの、その防衛戦におけるファイティング・シーンがそれである

何とこの試合で、ジェイクはシュガーとの6度目の因縁の対戦となるが、その決着をつける最後の決戦として、両者ともに、後々語り継がれるファイトを繰り広げたのだった。

その最後の決戦のリングで、終盤に至るまで、挑戦者のシュガーをコーナーに追い込みながらも攻めあぐんでいたジェイクは、シュガーの堅固なブロックに阻まれ、決定的なポイントを奪えないでいた。

そして、魔の13ラウンド。

2分30秒に及ぶこのラウンドのシーンの壮絶さは、シュガーによる一方的な攻撃に対して、ロープを背後に打たれる一方のジェイクの鬼気迫る表情がアップで映されることで、超ド級の臨場感を生むリアリズムの決定的な描写となったのである。

「来い、何してるんだ!」

ロープで身を支える男は、両腕を下げて、相手のパンチを挑発して止まないのだ。

打ち疲れたシュガーは、数秒間の間を取った後、決定的なストレートを相手の顔面に連射し続けたのである。

「しかし、倒れません。驚くべき執念。息詰まる熱戦。場内は騒然」

実況のアナウンサーも、信じ難い光景を目の当たりにして興奮気味だった。

レフェリー・ストップがコールされても、ジェイク・ラモッタは「不倒の男」として、リングの中枢に、その血だらけの顔を歪めながら、なお試合の続行を求め続けていた。

「沈まなかったぜ。ダウンしなかった。そうだろう?倒れなかった・・・」

「不倒の男」は、そう呟き続けた。

事態の収拾に手間取るレフェリーは、一瞬、前人未到のファイトを誇示する男に向かって、小さな笑みを漏らした。しかしそれだけだった。

ジェイク・ラモッタが3度目の防衛に失敗して、チャンピオンベルトを譲り渡した壮絶な試合が、こうして終焉したのである。

シュガー・レイ・ロビンソン
後に、シュガー・レイ・ロビンソンとのリングを血飛沫で染めたジェイク・ラモッタの壮絶な闘いは、「セントバレンタインデーの虐殺」と呼ばれることになるが、ここに、そのリアルなファイティング・シーンの映像を保証した内実を明かす興味深い一文がある。

「特筆すべきはそのファイティング・シーン撮影方法だ。普通数台のカメラがリングの周囲に設置され、さまざまなアングルからファイターたちの動きを捕らえるという方法が取られるが、『レイジング・ブル』では使われたカメラはハンディな機種1台だけ。それをリングの中に持ち込み、終始ファイターの動きに焦点が合うように撮影された」(文・塚田浩 ワーナー・ホーム・ビデオ解説書より)

ハンディカメラをリングの中に持ち込んで撮影した手法が、超ド級の迫力あるファイティング・シーンの臨場感を生み出したのである。

それは、徹底したリアリズムによって貫徹された映像が、危険を顧みない技巧の導入によって支えられていた事実を検証するものだった。

ともあれ、この壮絶なファイティング・シーンが、「不倒の男」が映像で見せた最後の描写となって、以降、映像は変転する男の人生の起伏に富んだ流れ方をフォローしていくが、自らの前半生を回顧するラストシーンに収斂される物語の閉じ方は、どこまでも安直な自己完結を拒む作り手の固有の表現宇宙を象徴するものだったと言えるだろう。



5  「人生の敗北」を認知せずに、「不倒の精神」を継続させる男の強靭さ


総括的に書けば、この映画は、一貫して自己基準で生きてきた男が、愛する妻から三下り半を突きつけられたり、信頼する弟から愛想を尽かされたり、また反省の時間を持つことで、「私は盲であったが、今は見える」という聖書の言葉の引用に見られるように、見えなかった自分の過去の誤謬に気付いたりしても、結局、この男の自我の中枢に張り付く、「不倒の精神」への拘りだけは全く変質しなかったのである。

ラストシーンで見せた、シャドーボクシングの切れのいい動きに集約される男の人生は、「困難な局面に遭遇しても、決してダウンしない」ことを身上とするメッセージ以外の何ものでもなかった。

この男の主観世界には、「局面での失敗」という心地悪い事態が繰り返されても、決してそれは、「人生の敗北」を意味しないし、男の人生の前線が根柢から崩壊することをも意味しないだろう。なぜなら、男の観念の内側には、「ダウンする」という概念が全く含まれていないからである。

「人生の敗北」を認知せずに、「不倒の精神」を継続させる男の強靭さ ―― 本作は私にとって、そのような文脈で了解し得る映像であったということだ。


(2009年12月)

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