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2011年1月30日日曜日

ディア・ドクター('09)      西川美和


<微妙に揺れていく男の脱出願望 ―― 「ディア・ドクター」の眩い残影>



  1  男の脱出願望と、感謝の被浴による快楽との危うい均衡



 必ずしも、本作の主人公である「『善人性』を身体化するニセ医者」のバックボーンが明瞭に表現されていないが、私なりにイメージする、件の「ニセ医者」の心理の振れ具合に焦点を当てて書いてみよう。

 今や認知症となっているが、かつて医師であった父を持つ男がいた。

 「医師」の象徴としてのペンライトで繋がる、認知症の父との情感交叉を持ち得ない、その男の名は伊野。

 
 恐らく、父の影響で医師を目指した伊野(以下、「男」とする)は、自分の描くサクセスストーリーを構築できず、それでも医療関係の仕事への未練を捨てがたく、医療機器メーカーの営業マンとなった。


 自前で繋いだ学習等の努力の甲斐もあってか、そこで習得した医療情報を知的ベースにして、男はいつしか「ニセ医者」に変容していた。

 医師免許の偽造までしていたのだ。

 当然、歴とした犯罪行為である。

 本来の憧憬の対象であった医師を立ち上げるに足る、充分な契機があったはずだ。

 その契機は判然としないが、想像はつく。

 それは、無医村での医師を特定的に選択することと脈絡を持つだろう。

 無医村では、風邪や腹痛レベルの病気を治癒してくれる医師が存在することで、安寧を手に入れることができるのだ。

 医師の存在それ自身こそ、重大事であるからだ。

 「罰あたりかも知んないけど、神様や仏様より、先生が一番頼りなんですから」

 これは、男の犯罪行為が白日の下に晒された際に、男をスカウトした村長が、刑事に語った言葉。

 村にとっては、代わりがいれば誰でも良かったのだ。

自前で繋いだ男の学習努力
そんな過疎で無医村の村に、男が潜入したとしても可笑しくない。

 これまでもそうであったように、恐らく男は、初めのうちは軽い気持ちで入村し、頃合いを見つけて脱出することを考えていたに違いない。

 しかし、男の欲望の稜線は、いつしか見えない広がりを持っていく。

 そこには、求められたら拒めない男の、主体性乏しき性癖も関与していただろう。

 そんな中で、緑の水田に囲まれた僻地の村の高齢者たちから、過分なまでに有難がられ、男は次第に「『絶対存在』という何者か」に変容していくことで、男の自我のうちに、この上ない快楽が分娩された。

 金にもなった。

 しかし、相次ぐ村人たちの受診によって、次第に男の診療はオーバーワークになっていく。

 男の脱出願望は、いよいよ遠ざかっていくのだ。

 と言うより、脱出不能の〈状況〉を、主体性乏しき男は、手ずから作り出してしまったのである。

 
脱出願望を閉ざしてしまうに足る、感謝の被浴による快楽の確保は、次第に危ういラインに踏み込んでいく。

 男の脱出願望と、感謝の被浴による快楽との均衡が、なお保持されていたが、その危うい均衡が破綻するのは時間の問題だった。



 2  リアリズムを壊す、スーパーウーマンの立ち上げによる奇蹟譚 ―― 「映画の嘘」の陥穽



 「事件」が起こった。

 男のスキルによっては治療できない救急患者が、僻地の村の唯一の診療所に舞い込んで来たのだ。


 男はそのとき、大竹という名の女性看護師(以下、「看護師」とする)の、プロ級の腕前のサポートを受けて難を切り抜けた。

 然るに、このシーンには相当無理がある。

 リアリズムを壊してしまうからだ。

 何のことはない。

 この看護師は、「緊張性気胸」(注)の発作の際に、胸腔穿刺(きょうくうせんし・体腔内に注射針を刺すこと)の注射を的確に打つスキルを持ったスーパーウーマンだったのだ。

 ドクターヘリでの搬送を指示する男の判断ミスを察知した看護師の、機転が利く咄嗟の判断による対応によって、胸に貯留した空気を抜く救急処置の実施が、脂汗を垂らしながら遂行されるのである。

 目配せして指示する看護師のシグナルに従って、胸腔穿刺を恐々と遂行する男。

 このシーンは、男の「『善人性』を身体化するニセ医者」の狼狽ぶりを露わにする惨めさの印象よりも、そんな男を技術的に指導する、看護師の際立った医療技術の描写を見せることで、男の「ニセ医者」ぶりを確信的に認知する最近接者の、そのスーパーウーマンの立ち上げによって、リアリズムを支える一つの堅固な幹の崩壊を告げるものだった。

 無論、「映画の嘘」があっていい。

 しかし、この〈状況〉は、それまで大きく振れることのない、リアリズムの体裁をガードすべきシーンであったはずだ。

 そのシーンにおいて、極端な偶然性に依拠する「映画の嘘」が、「お伽話」の挿入によって補完されることで、ギリギリに保持されてきたリアリズムの体裁を反故にしてしまったのである。

 私にとって、これだけは看過し難い「映画の嘘」であった。

まもなく、更に奇蹟譚が加わって、安堵する男のベタな心象風景を見せることなく、総合病院の片隅で、震え慄く男の狼狽を映し出す精緻な表現力が垣間見られただけに、スーパーウーマンの立ち上げによる奇蹟譚を受容できないのである。


(注)胸腔に漏れ出した空気が対側の肺や心臓を圧迫している状態のこと。(ウィキ)



 3  微妙に揺れていく男の脱出願望 ―― 「ディア・ドクター」の眩い残影



 ともあれ、「緊張性気胸」における胸腔穿刺の奇蹟譚によって、村人たちの男への評価はピークアウトに達した。

 
 赤いスポーツカーを運転して、男の診療所に派遣されて来た青年研修医は、男の生き方こそ「理想のドクター」像であることを確信し、心酔する。

 都会育ちで経営オンリーの病院長の息子ある、件の青年研修医の名は相馬(以下、「青年」とする)。

青年研修医(右)
男を慕って「現代の赤ひげ」を目指す青年に、男は自虐的に言い放った。

 「あんた、随分入れ込んだなあ・・・俺は違うんや。この村、好きで居てんのと違う。ただ、ズルズル居残ってしまっただけや。金は稼げるし、面倒なことは何もないと思ってきてたら、絶えず弾飛んで来る。飛んで来るから撃つ。撃つからまた飛ん来る。その繰り返しや。けど、撃ち始めたら自然とその気になってのめり込んで、撃ちまくっていたら、その間、何もかも忘れてな。俺をこうてくれるの嬉しいが、俺は偽物や、ニセ医者・・・先生、俺、資格がないんや」

 男の本音の吐露であるが、最後は告白にまで至る。

 「緊張性気胸」における胸腔穿刺の奇蹟譚以来、男の脱出願望は、感謝の被浴による快楽を上回っていたに違いない。

 無論、青年には、男の心理の振れ具合など理解できようがない。

 だから、男の吐露・告白を「自虐ネタ」としか思えないのだ。

 「ウチの親父なんて、先生から見たら、大笑いですよ。経営のことしか頭にないんだから。医者の資格ゼロですよ、はっきり言って」
 「鬱陶しいなあ・・・本当に春から来るんですか?」

 
男の力ない言葉に、青年は力強く肯いた。

 ここに、男の本音が、余すところなく吐露されていた。

 しかし、人生経験の不足な青年には、男の吐露が謙遜であるとしか思えなかった。

 男は、そこでまた一つ、診察所という「前線」で最近接した青年から、心理的プレッシャーを付加されてしまったのだ。

 そこが、欲望の稜線を広げてきた男の臨界点だった。

 その直接の契機は、男が足繁く通う老婦人に対する診療によってである。

 自らの医療学習のサポートもあって、男は、老婦人が胃癌であることを半ば確信する。

 老婦人も、それを疑っていた。

老婦人と娘の女医
そんな折り、男は老婦人から、疾病の真実を娘に知らせないで欲しいと頼まれた。

 以下、そのときの会話。

 「じゃあ先生。一緒に嘘ついて下さいよ・・・」
 「子供に嘘ついて、楽させるんですか?」
 「そうです。私、主人の時と同じことしたくない・・・」

 そこに「間」ができる。

 男は、亡夫と一緒に写っている写真を見た後、笑みを小さく洩らして、一言放つ。

 「よし。引き受けました」

 「ニセ医者」と「ペーシェント」の二人が、「友情」の重要な構成要件である「秘密の共有」を結んだ瞬間だった。

 それは、「ペーシェント」である老婦人にとって、「ニセ医者」である事実を知らない男が「ディア・ドクター」、即ち、「親愛なる医師」になった瞬間でもあった。

 しかし、その瞬間こそが、「ディア・ドクター」の眩い残影だった。

 男の脱出願望もまた、微妙に揺れていくのだ。



 4  男を突き動かしていく「贖罪感」という名の心理圧 ―― 〈状況脱出〉の心理的風景



 事態は急転していく。

女医に説明する男
女医である老婦人の娘(以下、「女医」とする)は、男の機転によって、母の出血が単なる痔の疾病であるものと知らされ、自らも検証することで、男への感謝の念を言葉に変えた。

 老婦人との約束は守られたのである。

 しかし、女医が、次に帰郷するのが一年後であるという言葉を聞いて、男は激しく動揺する。

 老婦人の娘である女医を欺くという心理圧に、男はもう耐え切れなくなったのだ。

 思いも寄らない贖罪感が、男を突き動かしていくのだ。


 男は、老婦人に別れのシグナルを送るや、そのまま失踪したのである。

 それは、〈状況脱出〉と言っていい。

 まもなく、男が「ニセ医者」であるということが発覚するに至る。

 男の素性を唯一知っていた、薬品メーカーの営業マンである齋門(以下、「営業マン」とする)を介して、男が提示した本物の画像を、女医が眼にすることによって発覚したのである。

 女医もまた、父の死への責任意識があり、母の疾病に深く関与せねばならないという強い思いがあった。

 そんな思いが滲み出る女医の心象世界を目の当たりにした男には、脆弱な自我のうちに際どく封印されていた脱出願望を、もう身体化する以外に選択肢がなかったのだろう。

男の〈状況脱出〉
その辺りが、男の〈状況脱出〉の心理的風景ではなかったのか。

 当然、置き去りにされた青年は衝撃を受ける。

 刑事からの質問にも、動揺を隠せない。

 「伊野を本物に仕立てようとしたのは、あんたらの方じゃないのか」

 青年は答えられない。

 青年の脳裡には、「『善人性』を身体化するニセ医者」である男に対して、「善人性」を信じる心と、それを信じた思いへの裏切りの感情が混淆していて、その混迷の中で、恐らく初めて、「医療とは何か」という根源的問題への人格的対峙が、湧昇流(ゆうしょうりゅう)の如く巻き上がってきたに違いない。

 青年にとって、この長い沈黙は、彼の人生の中で、恐らく最大の理性的到達点だったのだ。

 それは、失踪事件=〈状況脱出〉の後、青年が老人を診察する明朗な姿が映されることで検証されたと言えるだろう。

 この印象深い映像は、「『善人性』を身体化するニセ医者」の、限りなく「善人性」に近い人物像を表現するものだったが、しかし、その「善人性」の多寡については最後まで曖昧にされていて、そこに本作の主題性と、そこに関わるテーマ性のレベルのリアリティを保証したのである。

 
以上、これまでの映像構成は、前述したように、スーパーウーマンの立ち上げによる奇蹟譚という、些か腑に落ちないシーンが挿入されていたにせよ、「間」の心理を巧みに表現する、殆ど完璧に近い精緻な内面描写によって、説得力のある構築的映像性は充分に評価し得る何かであった。



 5  「愛」という干涸びた概念に張り付く欺瞞性が捕捉されて



 この印象深い映像の中に、「『善人性』を身体化するニセ医者」のモチーフを端的に証明する重要なシーンがあったので、ここでは、それについて触れてみる。

 事情聴取を受ける営業マンと、刑事の遣り取りである。

 前述したように、この営業マンは、男の正体を最初から知る唯一の人物だが、当然の如く、彼はその事実を吐露することはない。

男の正体を知る営業マン(左)
営業マンもまた、男を利用して過剰営業していたからだ。

 そんな営業マンに、刑事は存分の厭味を込めて、男の失踪事件=〈状況脱出〉の動機を探っていく。

 「つまり、よいよいのお年寄りが、そういうオナニーの道具にされたってことですか。・・・先生呼ばわりされて、拝み倒されるのが、そんなにいいもんか。それとも、結局金にいったかな」
 「いやあ、それはどちらも・・・多分・・・」と営業マン。
 「じゃあ、何ですか?やっば、愛ですか?」と刑事。

 その瞬間だった。

 営業マンは、刑事の顔を見た後、椅子ごと後ろに倒れたのだ。

 「どうしたんですか?!」

 慌てた刑事は、咄嗟に営業マンの体を受け止めようとする。

 「刑事さん。今の、愛ですか?」

 営業マンは起き上がりながら、そう答えたのだ。

 「え?」と刑事。

 以下、営業マンの放つ言葉の決定力が極まった瞬間だった。

 「愛している訳ないですよね、私のことなんか。それでも今、この手が出たでしょう。何か、だから、そういう感じじゃないですか、多分・・・」

 映像構成的に不満も残るものの、見事という外はない。

 この作り手は、最も根源的な問題の答えを、主体性の曖昧な男と情感的に乖離している営業マンに、そこだけは同質の〈身体性〉を介して表現させたのである。

 どうやら、この作り手の視野には、私たちの多くが「愛」という呼んでいる、干涸びた概念に張り付く欺瞞性が捕捉されているようなのだ。

 営業マンが指摘する、刑事の「反射的行為」を、「愛」という概念のうちに包摂していないからである。

「事件」を担当した刑事たち
私たちの社会では、刑事の「反射的行為」もまた、「親切行為」という枠組みのうちに包摂している現実がある。

 一切の「親切行為」をも、「愛」と呼ぶ私たちの社会での、偽善性・欺瞞性をも剥ぎ取りたい意識があるようなのだ。

 後述するが、それなら尚更のこと。

 私には、ラストシーンの男の行為の意味が全く腑に落ちないのだ。

 無論、私はそう思わないが、少なくとも私たちの社会では、その行為こそ、「愛」という概念のうちに包摂されているからだ。

 以下、私にとって最も看過し難い、ラストシーンの意味を中心に言及したい。



 6  「言外の情趣」を削り取ったラストシーンの崩壊感覚



 男が〈状況脱出〉した後、本作の主要な登場人物は、本来の日常性に戻っていった。

 「反復」→「継続」→「馴致」→「安定」という循環を持つ、一般的な「日常性のサイクル」のうちに、淡々とした時間を繋いでいくシークエンスが挿入されることで、深々と余情を残す映像が閉じられていく。

 ところが、この印象深い映像は、そこで閉じることを拒絶し、なお信じ難いシーンを挿入してきたのだ。

 女医である娘の勤務する総合病院に入院する母のベッドに、食事前の定時のお茶を運ぶ看護助手がいた。

 その看護助手こそが、「『善人性』を身体化するニセ医者」であった男の、〈状況脱出〉した果ての姿だった。

 笑みを送る男。

笑みを送り返す老婦人
それを求めていた者のように、男の笑みを受容し、情感深い笑みを送り返す老婦人。

 この信じ難いラストカットが張り付くことで、観る者の自我の奥深くに、永く記憶され得るに足る充分な余情を残していた本作は、単なる気晴らしとして消費されるだけの、一篇のエンターテインメントのカテゴリーのうちに、丸ごと囲繞されるフラットなファンタジー・ムービーと化してしまったのである。

 無駄のない物語展開の流暢な流れの中で、精緻を極める人物造形を果たしながら、ラストシーンで用意された決定的なカットが持つ意味は、それまで単に、「『善人性』を身体化するニセ医者」であったに過ぎない男の「善人性」を、より昇華させる人物像、即ち、「本物の善人」に化けさせてしまったという、とうてい許容できない括りを張り付けてしまった瑕疵以外の何ものでもないのだ。

 それは、単純な二分法による人物造形を擯斥(ひんせき)することで、「善悪」の境界を明瞭にし得ない曖昧さというテーマ性が、このラストカットによって自壊した瞬間だった。

 「善悪」の境界を明瞭にしなければ収まらないと印象付ける、龍頭蛇尾(りゅうとうだび)の映像構成力の瑕疵は、私としては看過し難い何かだった。

 謂れのある件の男が、余命僅かな老婦人の病床に立ったのが、どのような経緯であるか、映像は一切明かさないが、女医の口利きであったり、身元が特定されれば逮捕されるという、本人の「恐怖突入」に因るものであったり、或いは、かつて「秘密の共有」を結んだ対象人格への「愛」や、求められたら拒絶できないという性格的な「責任感」であったり、等々、様々に想定できるだろう。

 
主要登場人物
いずれにせよ、その行為によって、いつもどこかで自我の脆弱さを晒していたはずの男が、「本物の善人」に変容してしまったと思わせたことだけは確かである。

 そんなラストカットを張り付けてしまった作り手の、「多様性の共存」、「境界性の見えにくさ」という主題提起に関わる決意や覚悟の剝落が垣間見えて、私には衝撃的なまでに愕然とさせられる閉じ方だったということだ。

 それは、「人間の不可解さ」の検証描写の範疇を超えるものと言っていい。

 敢えて付言すれば、「闇の夜」を日常化させる過疎化の村を、微かに照射する象徴としてのペンライトの喪失を告げる、認知症の父への電話の「感動譚」も不要である。

 既に刑事の電話によって、認知症の父を、ロングショットのうちに収めていたカットが挿入されていたので、認知症の父への電話という説明描写は、単に「感動譚」狙いであるとしか思えないのだ。

 要するに、〈状況脱出〉した男の、「後日譚」自体が不要なのだ。

 一切を、観る者に委ねるべきだったのだ。

 一応の体裁を構築したリアリズムが、安直なファンタジーに雪崩れ込んでいくのは、作家主義の快走による、それ以外にない達成点の収斂化というよりも、カタルシスなしに物語を閉じられない、この国の映像文化の殆ど宿痾(しゅくあ)のような病態を露呈する何ものでもなかった。

 なぜ、提示されたテーマを観る者が引き受けて、それを考えようとする知的過程を反故にしてしまうのか。

 「言外の情趣」を醸し出す余情のうちにこそ、知的過程が媒介されるのだ。

 誇張して言えば、忘れ難い映像のインパクトが継続力を持ち得て、この国の映像文化の土壌を豊饒にするのである。

 繰り返しても言いたい。

西川美和監督
社会派映画の格好の題材になり得る、僻地医療や過疎化、高齢化の問題を物語構成の借景にしただけで、その内実は、人間の〈生〉を彩る具象の世界が内包する、虚実の混淆や真贋の溶融による見えにくい境界と、その曖昧さ、そのラインの攻防のうちに揺れ続ける人間心理という、多くの映像作家が好んで止まない定番的なテーマを物語構成の基点に据えることで、精緻な内面描写を含む構築力の高い映像を引っ張ってきたにも関わらず、なぜ、覚悟を括った作家精神によって映像を貫徹できなかったのか。

 なぜ、このラストカットの前で閉じなかったのか。

 少なくとも、本作に限って言えば、そこで閉じることによって得られる余情こそが、構築的な映像の勝利とも言える何かであると信じる私は、最後の場面で見事なまでに裏切られてしまった。

 「言外の情趣」を削り取った、ラストシーンの崩壊感覚。

 予定調和の軟着点なしに閉じられない邦画の病理は、なお延長されてしまったのである。

 不必要なまでのカタルシスを排除する覚悟を持てない、邦画界の「巨匠」、「俊才」たちの文化の現在こそが、作家主義を貫徹し切れないこの国の映画監督たちの、あられもない姿であることを認知するばかりである。

 ハリウッド的な「驚かしの技巧」は、もう飽き飽きだ。



 7  「『善人性』を身体化するニセ医者」の「善人性」という記号が張り付いて



 以下、本作と相応の脈絡を持つ点を拾い上げて、問題意識を拡大させつつ、論理的言及を加えて脱稿したい。

「善人」か否かという、見方によってはどのようにでも評価が分れる倫理的問題と、「ニセ医者」であることの法的な犯罪性の問題は、本来、全く次元の異なる問題であるにも関わらず、その両者を安直に重ね合わせることによって形成される問題の怖さは、とりわけ、法的的強制力を随伴する「法体系の論理」よりも、法的的強制力を随伴しない「個人の倫理」に重きをおくようなこの国にあっては、多くの場合、その結果がどうあれ、「善人」か否かという倫理的問題によって、問題の根源を希釈化させ、曖昧化させるというところにある。

 或いは、「何をしたかによってではなく、何をしようとしたか」という問題こそ重要であるとする、所謂、「純粋動機論」に振れていく心理的傾向が根強い現実を否定できないであろう。

 「道徳」とは、社会的に支持された規範であり、その道徳の高さを「善」と呼ぶ。

 その「善」を体現する人格を、私たちは「善人」と呼んでいる。

 ところが、この国の対人評価の基準が、道徳の高さとしての「善」を体現する人格である「善人」=「何をしたかによってではなく、何をしようとしたか」という「純粋動機論」に収斂されるから厄介なのだ。

 本作の最大の問題点もまた、以上の文脈に搦め捕られているところにある。

 本作の主人公である伊野は、必ずしも「善人」として人物造形されている訳ではないが、少なくとも、「『善人性』を身体化するニセ医者」の「善人性」を否定すべくもないであろう。

 彼は何をしたか。

 無医村での医療行為である。

 彼は何をしようとしたか。


 無医村で困っている老人たちへの「医療」的行為や、自ら訪問診療する行為に象徴される、彼らへの心理的ケアである。

 まさに、「何をしたかによってではなく、何をしようとしたか」という「純粋動機論」に収斂される行為を身体化することで、彼は限りなく、「善人性」に近い人物像を表現するものだった。

 その結果、彼の人格像には、「『善人性』を身体化するニセ医者」の「善人性」という記号が張り付いてしまったのである。

 この記号が、観る者に主人公への感情移入の効果を持たせ、初めから、「『善人性』を身体化するニセ医者」の崩壊と、その予定調和の軟着点の行方のみに誘導されていくが、前述したように、ラストシーンにおいて、男は「本物の善人」に変容してしまったというオチまで付く始末だった。

 確かに、ここで描かれた人物と、その行為の評価を観る者に委ねている体裁をとっているものの、その内実は訝(いぶか)しい限りである。

 なぜなら、本作は最初から、殆ど想定の範囲内の一定の解答が用意されてあって、且つ、映像の中で殆どそれを提示していたにも関わらず、それを隠し込んだかのように、観る者に、「人間はだれでも、何かになりすまして生きている」と銘打った後、「これは罪ですか?」という問題を提起する狡猾さが、ひしと伝わってきてしまったのだ。

 それは、丁寧な人物描写の折角の長所を半減させかねない、自壊の危うさを印象付ける映像だった。

(2011年2月)

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