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2011年6月5日日曜日

フライド・グリーン・トマト('91)     ジョン・アヴネット


<「善き関係の構築が、人間を変容させる」という基幹テーマのお座成りな張り付け>



  1  「善き関係の構築が、人間を変容させる」という基幹テーマのお座成りな張り付け



 何となく観て、何となく気に入った映画を、批評の視座を加えて観るとき、初頭効果的に過ぎない、「何となく気に入った映画」への印象が全く変わってしまうケースが多い。

 それは、何となく観ているが故の、殆ど必然的な結果である。

 本作は、その代表的な例だった。


 何より本作は、更年期というお手軽な手品を利用して、老人ホームで元気に暮らす老女の、自己基準に則した「お伽話」を聞くだけで、いとも容易に「人格変容」を遂げていくという物語のお座成りな張り付けのうちに、アメリカ映画の最も粗悪な部分が集中的に表現された作品ではなかったか。

 そこでは、人間の情感体系が劇的に変容していくときの複雑な心理の振幅が、ユーモア含みのリスナーの振舞いのうちに完全に蹴飛ばされてしまっているから、ヒロインの人物造形がフラットな外的表現力を越えられなかったという瑕疵を必然化してしまったのである。

 加えて、「人種、世代、文化、貧富等々の垣根を越えて、人は助け合って生きている」=「善き関係の構築が、人間を変容させる」という基幹テーマが、初めから見え見えなのに、「現在」と1930年代の南部の文化の「回想」を、強引に交錯させる手法のあざとさだけが目立ってしまったのだ。

 その結果、回想という自在な「物語」の「語り」を駆使して、「あれもこれも」描かざるを得ない、抑制の効かない過剰な色気が全開し、物語展開を広げ過ぎた瑕疵が、ダラダラとした130分の長尺なヒューマン・ドラマと付き合わさせるに至ったのである。

 以下、それを検証するエピソードを再現してみる。



 2  「トゥワンダ!」と叫ぶ女の「人格変容」の奇跡譚



 夫にも相手にされず、スーパーの買い物では車にぶつけられ、「豚」扱いのエブリンは、泣きながら、溌剌たる老女の二ニーに吐露した。

 「自分が情けなくて、役立たずの女。だらしなく食べて、毎日我慢しようとして、我慢できないの。家中あちこちにチョコバーが。1つならともかく、10も11も。ワギナも見られない女よ。限りなく食べて、超デブになる勇気もない。どうしたらいいの?もう若くなく、でも、まだ年寄りではない。頭が変になりそう」

二ニー
笑みを浮かべながらの二ニーの反応は、以下の一言。

 「心配ないわ。更年期の症状よ」

 ここで突然、エブリンは泣き出すのだ。

 「突然、泣き出すのも症状よ」


 笑い出す二ニー。

 全て吸収してくれるのである。

 「ホルモン不足よ。家にいないで、何か仕事をするのよ」



 この二ニーの一言は、効果覿面(てきめん)だった。


二ニーとの会話の後、ソウルフードとも思しき「フライド・グリーン・トマト」を売りにする、「ホイッスル・ストップ・カフェ」という独立カフェを立ち上げる話を聞くや、途端に元気が漲(みなぎ)るエブリン。

 そして、フランクに象徴されるKKKとの「戦争」の話を聞いたときには、エブリンはスーパーでの屈辱を晴らすのだ。

 それは、自分の車を駐車場に入れようとしたとき、若い女の二人連れに先を越され、嘲笑されたことが契機だった。

 「トゥワンダ!」(イジーの常套句)という呪いをかけ、二人連れの女の車に、繰り返し自分の車を衝突させて、飽和点まで貯留されていた憂さを晴らすという顛末だった。

 遂には、夫の前で、「光と空気を入れる」という理由によって、ここでも「トゥワンダ!」と叫び、大型ハンマーで家の壁を壊してしまうのだ。

 そして、二ニーからルースの病死の話を聞いた際には、深く反省したのか、今度は部屋に仕切りを作るという具合。

 「変ったの」

 夫に理由を聞かれたときの、エブリンの反応だ。

 「俺がバカかな。前と同じじゃないか」と夫。
 「空気と光が違うわ」とエブリン。

 
エブリンと二ニー
実は、その真相は、二ニー=イジーと同居するためだったというオチがついて、予定調和のラストシーンに流れ着くのである。


 要するに本作は、「トゥワンダ!」と叫ぶ女の「人格変容」の奇跡譚だった訳だ。

 それだけの映画だった。




 3  ブラックな「エピソード繋ぎ」のフラットさ


 

繰り返すが、黒人差別に象徴される旧来の陋習(ろうしゅう)に毅然と立ち向かう、勇気ある「自立した女」二ニー=イジーの「お伽話」を、エブリンの「人格変容」に安直にリンクさせる物語それ自身が強引過ぎるのだ。

 原作者であるファニー・フラッグがシナリオにも参画したことが、シナリオの冗長さを回避できなかったのか。

 シナリオの評価の高さが信じられないほどに、本作は、小説で要求される能力と、それを映像化する際に、特定的に切り取る勇気を要求されるシナリオライターの能力とは、完全に峻別されるべきものであることを、今更のように認知させてくれた映画だった。

 そこで結論。

 物語の中でテーマを設定し、その解答を、物語の中で誰にも分るような形で用意する。

 その簡潔な軟着点によって、観る者に、「読み切り感動譚」のカタルシスを保証する。

 本作は、そのカタルシスの保証の薄っぺらさが徒(あだ)となって、5分も経てば忘れられるという、アメリカ映画の最も粗悪な部分が集約された映画であった。

 当然、何年も経てば、私がそうであったように、エピソードに関わる中枢の記憶は失われるだろう。


 この種のハートウォーミング・ムービーの特性なのだ。

 残念ながら、それ以上のウエルメイドの完成度とは程遠く、また、それ以下の愚作の類でもなかった。

 この中途半端さが、130分の長尺の物語のうちに、映像が内包するオリジナリティーを最後まで発現させることなく、「思えば、あんな小さな店が、大勢の人の心を繋げたのね」という、屋上屋を架したような、二ニー=イジーのボイスオーバーに重なるエンドロールに流れていくだけの映画だった。

 ついでに書けば、夫の反対を押し切って、二ニーを引き取ることを意を決して臨んだエブリンが、老人ホームを訪ねた折、既に、二ニーが急逝していたことでショックを受けたが、実はそれは別人だったという、如何にもアメリカ映画的な「驚かしの技巧」はうんざりという気分。


 本作と比較するとき、日常性に侵蝕した小さな亀裂が、母の家出という非日常の事態を惹起するが、心配する息子の介在によって、嫁姑の関係が修復されていくプロセスを丁寧に描いた、「バウンティフルへの旅」(1985年製作)の完成度の高さには到底及ばないだろう。(画像)

 「バウンティフルへの旅」のような、関係の中で生じた亀裂を、精緻な心理描写で描き出した地味な作品こそが、サスペンスあり、殺人事件あり、おまけに「カニバリズム」ありの、ブラックな「エピソード繋ぎ」が不必要に詰まった、本作のような過剰な作品を周回遅れにさせる、ヒューマンドラマの王道と確信して止まないのである。

(2011年6月)

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