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2011年4月29日金曜日

イン・ザ・ベッドルーム('01)     トッド・フィールド


<映像の根柢的変容を顕在化させる私的・暴力的制裁の冥闇の風景>



1  「対象喪失」よって穿たれた自我の空洞感という根源的問題



刑事事件によって惹起された「対象喪失」の懊悩と、それによって穿(うが)たれた自我の空洞感という根源的問題を、刑事事件を惹起した対象人格への私的・暴力的制裁によって、果たして浄化し、解決に導き得るのか。

これが、本作の基本テーマである。

サンダンス映画祭に代表される、アメリカのインディー系の作家が構築した映像の闇は限りなく深く、そこで提示された問題の根源性はどこまでも人間的であるが故に、観る者に容赦なく映像世界に引き摺り込んで止まない把握力が、映像のリアリズムを完膚無きまでに支配し切っていた。

「対象喪失」の問題を、そこに関与した人格の感情が極点まで突き進んでいく様態のうちに描き切った本作のラジカリズムには、そこにサスペンスタッチの衣裳を被せつつ、どこまでも人の心の奥深い辺りにまで届き得ることで、映画のカテゴリー分けの無意味さを検証する力技が備わっていた。

そこが凄い。



2  夫婦の感情爆発が開いた私的・暴力的制裁の風景の闇



物語のプロットを紹介しながら、批評を加えていきたい。

米国で最古のエリアであるニューイングランド6州の中で、大西洋に面した最東北部に位置するメイン州の小さな町で、開業医を営むマット・ファウラー(以下、マット)と、その妻である合唱隊の教師のルース夫妻の元に、夏期休暇を利用して、学生であるフランクが帰って来た。

ルースとナタリー(右)

一人息子のフランクは、近所に住む年上の人妻ナタリーと「禁断の恋」の関係にあったが、二児の母でもあるナタリー自身、夫のリチャードのDVと不倫に嫌気が差し、実質的に離婚状態を延長させていたから、「禁断の恋」の行方は、リチャードが彼女との離婚に応じるか否かにかかっていた。

しかし、ナタリーに未練を持つリチャードには、離婚に応じる気配がない。

人妻に横恋慕するフランクへの憎悪が、リチャードの内側に張り付いていて、それが遂に事件を惹起させるに至った。

閉め切ったナタリーの家の扉を強引に抉(こ)じ開けたリチャードの侵入を、体を張って阻止しようとしたフランクを、リチャードが射殺したのである。

信じ難き突然の悲劇に襲われたマットとルースの夫妻は、衝撃の甚大さに茫然自失するばかり。

目撃者なき事件の故、弁護側は激情による殺人であって、計画的殺人ではなく、喧嘩の延長で出来した「故殺」(第三級殺人)を主張することで、リチャードの刑期が5年から10年相当の事件になるという事態に、夫妻はやり場のない憤怒を封印し得る術もなかった。

葬儀後、フェードアウト、フェードインを繰り返しながら、日常性を復元できない夫婦の心象風景を繋いでいく。

「哀しみが波のように襲っては引くの。音楽の休止符みたい。音がないのにやかましい。どうしたらいいか・・・感じるのは怒りだけ・・・」

これは、牧師に語ったルースの言葉。

そんなルースだからこそ、謝罪のために訪ねて来たナタリーの頬を打ったのだろう。

「私、心からお詫びしたいと思ってたんです・・・」

ナタリーの言葉には、深い悔悛の情が滲み出ていたが、一人息子をナタリーに奪われたという嫉妬心を感じていたルースにとって、もう、理屈では説明し難い感情を抑制し得なかったに違いない。

一方、理性的な振舞いを崩さないマットもまた、人知れず懊悩を深めていた。

賭けのポーカーで、自分の番が来ても賭けられないで、他の3人が無言でいる空気に居たたまれず、声を荒げてしまうのだ。

「誰か何か言えよ。私に気を使うな。一晩中、賭けないぞ」

そんな心理的状況下で出来した、夫婦の感情爆発。

それは、保釈で町に戻って来たリチャードを、あろうことか、ルースがスーパーで目撃した直後の夫婦の会話から開かれた。

普段の様子と違う妻を、夫が気遣った。

マット(左)とルース
以下、再現してみる。

「何があったんだ?力になりたい」
「いいのよ。放っておいて」
「私に何をしろと?」
「“何も変わっていない”って振りを止めて欲しいのよ」
「もっと、取り乱せと?」
「それには感情が必要よ。無理しないでちょうだい」
「“悲嘆コンテスト”なら、別の相手を見つけてくれ」
「ビールを飲むのが、あなたの哀しみ方?」
「そりゃ、どういう意味だ。私の気持ちを何も分っていない」
「あなたの気持?何か感じていた訳?」
「そう。私は大声で喚かない。我々のどっちかに理性が必要だ」
「理性ですって?私はあの子の死が哀しい」
「こう言いたいのか、全ては私のせいだと?私も言いたいことがある。それは、全く逆だ!君は思っている。私があの子に甘くて・・・」
「そう、止めなかった!」

そう叫ぶや、ルースは、洗っていた皿を床に叩きつけた。

怒号し合う二人。

「なぜ、あの子は君より私の所へ?」と夫。
「彼に、私に信頼するなって態度を!あなたは、いつもあの子に目配せして、“あの子をモノに”と」
「何てことを言うんだ!」
「自分はモノにできないから、代りに息子をけしかけた。父親の汚らわしい夢が、あの子を殺したのよ!」
「あの子がなぜ死んだか、本当の訳を?あいつを彼女の所に追いやったのは、私ではなく、君だ。君が常にあれこれ指図して、息苦しい程、抑えつけていた。彼しか息子がいないことに腹を立てていたんだ」
「違うわ!」
「そうなんだよ!」

いつの日か、回避できなかったに違いない夫婦の感情爆発は、思いの丈を吐き出すことで、少しは楽になったのだろう。

チャリティの女の子の訪問があって、そこに「間」が生まれた。

そこにしか辿り着かないように、夫婦のいがみ合いは緩和されていく。

妻は夫に、リチャードと遭遇した事実を話したのである。

一切は、この一件から開かれていく。

映像が、そのあと描き出したのは、逃亡させると見せかけて、旅行仕度をさせたリチャードを、マットの親友であるグリネルの山荘にまで、車で連れて行くシークエンス。

リチャードに運転させた車の後部座席から、銃を突きつけるマットは、グリネルの山荘に到着するや否や、森の中で殺害すると決めていたにも拘らず、リチャードが降りた途端に撃ち殺してしまったのだ。

「我慢ができなくって」

このマットの吐露は、あまりに痛切過ぎるものだった。

グリネルの「迎え」を見て、安堵したようなリチャードの態度の変容に、遂に抑えていたマットの感情が噴き上げてしまったのである。

しかし、そこから、夫婦の感情爆発が開いた私的・暴力的制裁の風景の闇が、深い広がりをみせていくのだ。



3  映像の根柢的変容を顕在化させる私的・暴力的制裁の冥闇の風景



メロドラマと思しきファーストシーンの導入から、ホームドラマにシフトしていく物語の前半の緩やかな基調が、映像中盤に、その風景を顕著に変容させていくプロット構成は、作り手の表現技巧の冴えを多いに窺わせるものであった。

言うまでもなく、何気ない日常性を繋ぐ、前半のホームドラマの基調の意味は、本作の主人公である夫婦の喪失したものの甚大さを説明する重要な伏線になっていた。

この伏線の延長上に惹起した、私的・暴力的制裁の冥闇(めいあん)の風景は、映像の根柢的変容を顕在化させて、風景の冥闇を更に深めていく決定的なラストシーンに流れ込んでいったのである。

ここからは、ラストシーンに全てを賭けたと思われる、この映画の主題について考えてみたい。

そこで提示された映像を、詳細に再現してみよう。


ベッドで煙草を吹かして、夫を待つルース。

「殺ったの?」

ルースが、夫の犯行を認知していたことを証明する一言である。

その妻の問いに、マットは何も答えない。


上半身裸になった彼は、ダブルベッドに潜り込むが、無反応のままだ。

「大丈夫なの、マット?」

この妻の問いに、夫は一言洩らした。

「壁に、奴とナタリーの写真があった」
「それが何か?」


ここからも、流暢に会話が繋がっていかない。

「奴とナタリーの写真」とは、リチャードの家で見た、かつての睦まじいリチャードとナタリーのツーショットのこと。

「彼女のあの笑顔・・・」と夫。
「何なの?」と妻。
「分らない」と夫。

これだけだった。


「マット・・・私ったら。お腹がすいたでしょ」


妻はそう言って、ベッドを離れた。

声のトーンが明らかに違うのだ。


それは、一人息子の無念の死への、私的・暴力的制裁を遂行した事実を認知し得た者(妻)の安堵感と、私的・暴力的制裁を遂行した者(夫)が手に入れたはずの達成感とは、どこかで切れていた複雑な感情との落差と言っていい何かだった。


まんじりともせずに、ベッドで考え込むマット。

「マット、マット。コーヒーが飲みたい?」

妻の明るい声が、夫に届いた。

爽やかな心地良い風が、部屋のカーテンを揺らした。

いつもと違う新しい朝が来て、小さな町の一角を眩い光線が差し込んできた。

しかし、安寧とは縁遠い、不安心理を代弁するかのようなBGMが流れて、そこにエンドロールが重なっていく。



4  対象人格への私的・暴力的制裁によって手に入れたものの価値が崩されるとき



明らかに、本作の作り手は、本稿の冒頭で言及したテーマについての映像を、一刀両断の裁きを下す者のように描き切っていない印象を持つ。

観る者に一切を委ねるというお馴染のパターンだが、少なくとも、ラストシーンで描かれた夫婦の絡みを詳細に分析していけば、自ずから、作り手の思いがひしと伝わってくるだろう。

そこには、温度差があるのだ。

夫婦の温度差である。

このような、私的・暴力的制裁によってしか浄化し得ない辺りにまで、心理的に追い詰められていた妻と、その私的・暴力的制裁を遂行した夫の、その深い沈黙との温度差である。

夫は明らかに、自らが犯した私的・暴力的制裁の内包する、様々に累加された情報によって、既に自己を相対化せざるを得ない感情を露わにしているのだ。

それは、未だ深い悔悛の念には届いていない。

しかし、「あれで良かったのか」と内省しているのだ。

それは、事件を遂行した後、未明の帰宅を果たし、ベッドに潜り込むまでの短い時間の中で、どうしてもそこだけは消えにくい鮮明な記憶として、彼の自我に張り付いて止まない何かだった。

もしかしたら、息子の無念の死は、リチャードが言い張るように「故殺」ではなかったのか、

それとも、確信犯的な殺人であったのか。

未だ、そこまでを疑うに足る感情の劇的な振幅は見られないが、しかし、理性的な行動に終始した男の冷静な知性の中で、消したくとも消えない何かが、不必要なまでに騒いでいるのだ。

自己を常に相対化し得る冷厳な視線が、「私的自己意識」(自己を見る内的視線)となって、内側で騒いで止まないのである。

そんな男だからこそ、彼は妻とダイレクトに衝突した、あの日の「小爆発」を除けば、自分の中で封印していた遣り切れない感情を、過剰に露呈させずに処理し得る能力を、ギリギリのところで必死に保持し得ていたのである。

その男が今、ベッドの中で固まっているのだ。

それに反して、明朗に振舞う妻の心理の振れ方はあまりに対照的であり、そこにもう、この日以降の夫婦の共存関係の困難さが暗示されていると言っていい。

恐らく、この夫婦は、それぞれのグリーフワークの自己完結の微妙な落差感によって、看過し難い関係の亀裂を生むに至るだろう。

時には、それぞれの性格の相違が補完し合うことなく、封印し切れない感情を炸裂させることで、決定的な危機を招来させるかも知れない。

トッド・フィールド監督
爽やかな心地良い風が部屋のカーテンを揺らし、いつもと違うクリアな朝を迎えるラストカットを無化し得るような、あの暗鬱なBGMのうちに、この夫婦がなお負うに違いない、グリーフワークの自己完結の艱難(かんなん)さと、それによって拗(こじ)れた夫婦関係の復元力の劣化が能弁に語られていたのである。

そこにこそ、観る者に重々しく突き付けてきた、映像の作り手の問題提起の濃密な内実が詰まっていたと言えるだろう。

即ち、冒頭で言及したように、刑事事件によって惹起された「対象喪失」の懊悩と、それによって穿(うが)たれた自我の空洞感という根源的問題を、刑事事件を惹起した対象人格への私的・暴力的制裁によって、果たして浄化し、解決に導き得るのか、と。

そして、対象人格への私的・暴力的制裁によって手に入れたものの価値が、一時(いっとき)、封印し切れない辺りにまで噴き上がってきた情感系を癒し、自我の空洞感を埋めたとしても、対象人格を破壊した現実が惹起する、理性系の氾濫によって分娩された別の感情との折り合いの困難さを、新たに顕在化させるに違いないという含みが、基幹メッセージとして提示されていたのではないか。

少なくとも、私はそのように読解した次第である。

(2011年5月)

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