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    2 週間前

2010年9月24日金曜日

竹山ひとり旅('77)        新藤兼人


<「目明きは、汚ねえ!」 ―― ラスト20分の爆轟の突破力>



1  「目明きは、汚ねえ!」 ―― ラスト20分の爆轟(ばくごう)の突破力



〈生〉を絶対肯定するエピソード繋ぎだけの前半の冗長さから、ラスト20分で爆発する「反差別」へのシフトが劇的であっただけに、映像構成の些か不安定な流れ方が気になったが、〈生〉と〈性〉を包括する定蔵(後の高橋竹山)の青春の日々の彷徨に決定力を与える映像構築力には、相当の力動感があり、感銘も深かった。

「目明きは、汚ねえ!」

定蔵に、この一言を叫ばせるための映像だったのか。

そう思わせるに足る、ラスト20分の爆轟(ばくごう)だった。

その辺りのエピソードを再現しよう。

鍼灸師の資格の取得のために入学した盲唖学校の教師から、定蔵は妊娠した教え子のみち子の胎児を認知してくれという信じ難き相談を受け、悩みつつも引き受けた。

教師の自分勝手な行動を「個人主義」と批判しながら、その人柄の良さを信じ切っていたからである。

映像の中で、定蔵の、他人を見る視線の児戯性が最も顕在化したシーンであった。

教師を信じ切った定蔵は、ものの見事に裏切られるに至った。

盲唖学校の教師の話の詳細は、単に自分がみち子に孕ませた子を認知させるために、人の良い定蔵を巧妙に説得する嘘話だったのだ。

盲唖学校の校長から、その話を聞き知った定蔵が、「目明きは、汚ねえ!」という叫びを刻んだのはその直後である。

この叫びに集約されるラスト20分の爆発が、映像を根柢において支配していると言っていい。

津軽の雪景色(イメージ画像・日々是電脳写真より)
そこでは、命とも言える三味線を捨てて、白一色の厳冬の自然の世界の中に、敢えて甚振られる如き、文字通り、「一人旅」の彷徨を繋ぐ絶望的な時間が冷厳に記録されるのだ。

「お母さん、うちの人ば、探しに行きてえ」

これは、定蔵の妻であるフジが、その不自由な身体のハンディを鞭打ってまで、義母(定蔵の母のトヨ)に放った、覚悟を括った言葉である。

「ほっとけ。野垂れ死にばさせろ」

これは、定蔵の父の一言。

一貫して彼は、息子を包括するストロークを発しない。

涙を浮かべるだけで、嫁の思いを受容する母。

一方、三味線を捨てた定蔵は、今や尺八の門付けとなって、冬の陸奥路を彷徨している。

みち子の実家の前で、尺八を吹く男が立ち止まった。

定蔵である。

盲目のみち子には、意図的に言葉を発しない定蔵を特定できないのだ。

その定蔵を追って、盲目のフジを紐に繋いで、トヨが誘導する困難な旅路を、母と嫁が匍匐していくのだ。

そして二人は、みち子の実家を訪れた。

そこで、みち子から尺八の門付けが訪問したことを聞き知って、定蔵を特定したのである。

まもなく二人は、地面に倒れている定蔵を発見した。

下手な尺八の門付けによって、地元の男から殴られたことなどで、定蔵は殆ど生命の律動感を喪失していたのだ。

「定蔵、おめえ、ここで何ばしてらあ。死ぬ気だか。俺たちゃ、おめえを探しだすまでは、この世の果てまでも、歩き続けるべと思うたぞ!」

トヨは息子を叱咤した。

その時だった。

盲目のフジは這って、這って、定蔵の元に行き、必死に抱きしめた。

「おめえば、やっぱり三味線ば弾く人だ」

困難な旅路を繋いできたフジの言葉は、それ以外にない決定力を持つ叫びとして刻まれたのである。

「定蔵!三味線ば、持て!」

このフジの叫びを、トヨの一言が強力に補完した。

ラストシーンの映像は、三味線を手にした定蔵が門付けの旅を繋ぐ姿形を捕捉するものだが、男の内側に凛として根を張る〈生〉への意志が、後の竹山の表現宇宙への架橋を充分に想像させるに足るものだった。



2  「目明きの汚なさ」と「盲目者の善良さ」の類型的な括り



本作を評価する私としては、些か気になる点があるので、それについて書く。

「目明きの汚なさ」と「盲目者の善良さ」が、類型的に描かれていた点が看過し難かったということだ。

前者の例では、物語の前半の中で執拗に紹介されていた。

例えば、「泥棒」、「詐欺師」、「祈祷師」や「道楽の旅回り芸人」、更に、定蔵を捨てる「カフェの女給」などの連中は根っからの悪人ではないが、「盲目者の善良さ」と比較すれば、相対的に「目明きの汚なさ」、「目明きの狡猾さ」とか、「目明きの脳天気さ」を印象付ける人物像でもあった。

そして、何と言っても極め付けは、善良な定蔵に三味線を捨てさせるほどの狡猾さを見せた、盲唖学校の教師の殆ど犯罪的な裏切り行為だが、これについて前述した通りである。

それに対して、「盲目者の善良さ」の典型例は、前述したように、盲唖学校の教師の子を分娩する心優しき「教え子」である、みち子の純粋無垢な人物像に止めを刺すと言えるだろう。

更に、彼女を助ける定蔵の妻のフジの、献身的で愛情深い振舞いは、〈生〉と〈性〉の能動性を映像化した本作の生命線を成していた。

ところが、そんな本作の中で、「目明きの善良さ」を、新藤兼人特有の暑苦しい台詞の連射によって象徴する人物がいた。

定蔵の母トヨである。

竹山のピンチの際にいつも都合良く出現する、彼女の「善良さ」の本質とは、単なる母性一直線の「無限抱擁」の人格像であるというよりも、実父の存在感の希薄さを補って余りある「父性」をも包摂した、言ってみれば、「有限抱擁擬(もど)きの包括的人格像」それ自身のイメージに近いだろう。

一貫して、定蔵の生活的自立を優先的にサポートするトヨの包括的人格像は、「定蔵!三味線ば、持て!」という叱咤のエピソードに収斂される強さにおいて抜きん出ていたと言える。

3歳の時に麻疹をこじらせ、強度の弱視になった定蔵の生活的自立を考えた挙句、隣家のボサマ(盲目の門付け芸人)から三味線を習わせた行為は、現代では簡単に発想し得ない普通の親心の範疇を超えた「見事なる父性」の具現であるに違いない。

「盲目でも自立して生きろ!」というトヨの思いがあればこそ、「定蔵!三味線ば、持て!」という叱咤を刻んだのだ。

些か暑苦しい振舞いであったと同時に、類型的に描かれていた点も大いに気になるところであったが、「盲目者の善良さ」を強力に補完するトヨの「目明きの善良さ」が、後の「高橋竹山」の誕生に繋がったと思える一連のエピソードだったということである。

高橋竹山
―― 本稿の最後に一言。

本作が「反差別」という、言葉だけの青臭い感傷を希釈化させている印象を観る者に与えるのは、高橋竹山の青春期の〈生〉と〈性〉を、様々なエピソードで綴っていく骨太の物語のうちに、「ボサマはボサマだよ。人並みの暮らしはできねえんだよ」(注)と言い切る定蔵の若き日々の自我が、不安や絶望を内包しながらも、「閉塞状況」下の「屈折」や怨念とは無縁な人生のナチュラルな振れ方において、匍匐(ほふく)走行の「門付けの旅」を支え切っていたからであろう。

即ち、〈生〉の固執を起動点にした肯定的人生観が、竹山の魂の中枢に張り付いていたことである。


(注)母から、2度目の嫁取りの話を持ちかけられたとき、定蔵はこのように反応した。


(2010年9月)

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