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  • アジサイはアートである 「我が町・清瀬」2017初夏 - アジサイを接写していると、色相のグラデーションの鮮やかに驚かされること頻りである。 だから、毎年、初夏になったら「我が町・清瀬」で写真を撮る。 この一期一会の思いでアジサイを観賞していると、アジサイが一つのアートであることを実感する。 アジサイはアートなのだ。 時々刻々に変色していくアジサイは...
    3 か月前

2008年12月13日土曜日

こうのとり、たちずさんで('91)   テオ・アンゲロプロス


 <“家に着くまでに、何度国境を越えることか”――「確信的越境者」の呻き>




1  「人は去る。なぜ去るのか?」



「国境の取材に向う間、ずっとビレウス港の事件を考えていた。海に浮かんだアジア難民の死体。ギリシャ政府は、彼らの上陸を拒否した。太平洋でギリシャ船に拾われた彼らは、結局、海に身を投げて死んだ。なぜそういう決心をしたか分らない。人は去る。なぜ去るのか?どこへ?まるで、あの古い歌の通りだ。“旅たちのときは来る。それを忘れるな。風が吹いて、お前が遠くを見る”」

これは、テレビレポーターのアレクサンドロスの冒頭のナレーション。

彼はアジアの難民が上陸をギリシャ政府から拒否されたため、海に身を投げて死んだ事件に触発されて、国境の問題に関心を持った。

彼は北ギリシャの国境の辺りの村にやって来て、そこで知り合った大佐から案内を受けて、国境の現場に立ち入った。

そこには一本の白い線が引かれているだけで、橋の向こうには異国の兵士が銃を構えて立っている。

その一本の白い線に、大佐は冗談めかして右足を上げて、そこで一瞬立止まるポーズをしてみた。

そのポーズは、恰も国境を平気で越えていく「こうのとり」の格好に見えた。

まさに「こうのとり、たちずさんで」という図柄が、そこに映し出されていた。

それは、作り手の実際の経験から、映像のタイトルにイメージされたものであった。

「国境とは何なのか・・・この線でギリシャは終る。一歩踏み出せば、異国か、死か」

その大佐は、傍らのレポーターに明瞭に言い切ったのである。

レポーターは国境の村に敷設されている難民収容所の取材に向った。そのレポーターに、大佐は監視所の上から説明した。

「この町の外れの無人の一角に、隣国や遠い国々からの難民が住みついた。男、女、子供、トルコ人、クルド人、ポーランド人、アルバニア人。保護を求めて越境してきた人々を、ギリシャ政府は一区画に住まわせたが、人数が増えて、町まで溢れ出した“待合室”で正式に異国に住みつく許可を待ち、異国には神話的な意味さえ生じた」

まもなくアレクサンドロスは、撮影スタッフを伴って、難民の村を精力的に取材していった。

そこで拾った彼らの声。

「クルドの村は、化学兵器でもう住めない。ギリシャとトルコの国境のエヴロス河まで逃れて来たが、そこから先には、もうどうしても進めなかった」(クルド難民)

「アルバニアから国境を越えた。俺は死の世界を後にして、自由に向って躓きながら必死に走った。手や足は傷だらけ」(アルバニア難民)

「人の声がするたびに、後を追って来た兵士かと、いつも怯えた。イランでは、月が死ねばいいなんて思ったことはなかったけれど、越境の後、月が死んでくれたらと願った。月の光が、逃げる俺を照らす。捕まるかと思った。捕まれば、死は確実。背後の道はそのまま、俺の死を意味した。何とかして国境を越えない限り、死が背後で待っている。そう思って逃げた」(イラン難民)

やがてアレクサンドロスは、この取材の中で、見覚えがある一人の男の顔を確認することになる。

彼を写した撮影テープを繰り返し見て、アレクサンドロスは、彼こそ10年ほど前に疾走した一人の政治家であることを特定した。

彼は政治家の元妻に会いに行った。ギリシャ語が話せないという妻に、彼は英語で語りかける。

「失踪について、どんなことでも知りたい」
「今更、意味のないこと」
「政治家の失踪は重大な事件です。それも、理由も分らないまま、あんな風に唐突に議事堂から歩いて出て行って、消えた」
「でもなぜ?何年も経った今になって。今の生活が大事。何がお望みなの」
「全てが謎です。40日後に一度戻って、何も覚えていないと言ったとか?」
「知っていることは、全部警察に言いました」、
「ご協力がなくても、調査を続けます」

その言葉に反応せず、婦人はレポーターの前から離れていく。その婦人に、レポーターは声をかけた。

「賞を取った後でしたね。『世紀末の憂鬱』という著書で・・・」
「ごめんなさい。主人が私を探しているわ」

婦人はその言葉にも反応しないで、離れ去って行った。


その後、アレクサンドロスは自宅で、「世紀末の憂鬱」という本の、結びの言葉を読んでいた。

「“どんなキーワードなら、新しい共同体の夢を現実とすることができるか?”」

そのとき、婦人がアレクサンドロスを訪ねて来た。

婦人はアレクサンドロスに、二度目に失踪してから3日目に、婦人の留守電に入っていたテープを差し出したのである。

「“君の健康と幸福を私は願うが、君の旅には行けない。私は訪問者だ。触れるもの全てが私を傷つける。私のものでさえない。いつも誰かが、それは自分のだと言う。私のものは何もないと、昔は言っていた。今こそ分った。無は無でしかいないのだと”」

これが、失踪した政治家の最後のメッセージだった。

「最初の失踪の後、戻って来たとき、元通りの暮らしに戻った。でも別人のよう。心は空っぽ。私は絶望して、失踪中の足取りを辿り直そうと提案した。スタートは議事堂。彼は思い出そうとした。嫌とも言わず、協力的だった」

婦人はそれだけを話して、アレクサンドロスの自宅を立ち去って行った。

彼女をアレクサンドロスは追い駆けた。ショーウィンドウの前で婦人に追いついたレポーターは、再び彼女の話を拾っていく。

「あのときもクリスマスだった。彼は飾り付けた窓の前で、立止まったわ。何を見ていたのかしら。東方の三博士?それとも神聖な星?」

そう言った後、婦人は場所を移動していく。婦人の視線の先には、かつて夫が立っていた場所が捉えられていた。

「あの道の方を歩いて行った。あそこに立って待った・・・町を出るバスに二人で乗った。彼はずっと、バスの窓から外を見ていた。彼が別人になっていくのが分った。少しずつ、少しずつ・・・」

婦人は更に場所を移動して、語り続ける。

撮影スタッフがそれを追い駆けていく。

彼女はしばしば、スタッフが無造作に投げ入れてくる照明に神経を尖らせるが、アレクサンドロスのフォローもあって、彼女の語りは続けられた。

「彼はホテルに入った。7号室。その部屋に行って、ドアを開けた。同じ光、同じ日の同じ時間、ランプの傘の柔らかい影だけが違う。二人で愛し合った。激しく、声もなく、まるで他人同士のように。初めて会った男と女のようだった。映画館の闇の中で出会った男女のようだった。朝、眼が覚めたら、彼はもういなかった。二度と戻って来なかった。彼と一緒に暮らしている間は、本当に辛かった。息もできなかった。迷子のよう。彼は自分の傷を隠して、私に言わなかった。それが一番辛かった。気が狂いそうだった。彼が死ぬ夢を何度も見た・・・」

場所を国道に移動したとき、婦人は吐き捨てるように言った。

「こんなこと無意味。彼は死んだのよ。場所も日時も分らないけど、彼は死んだの」

そう言って、婦人はまたしても足早に立ち去って行った。

その前に、アレクサンドロスは婦人の言葉を聞き書きしていた。

「いなくなってから数ヶ月の間、ギリシャ各地から、知らない人が彼を見たと電話してきた。どこかの駅で見かけたとか、墓地の前で花を売っていたとか、建築現場で働いていたというのもあった。ブトレマイダの工場の一介の労働者とか、どこかの広場に座ってタバコを吸っていたとか、雨乞いの儀式の行列の中にいたという連絡もあった。どの話でも、どの男も、北に向かって動いていた・・・」

婦人の話を聞き終わった後の、アレクサンドロスのモノローグ。

「自分に何度も問うた。目的はあの町か、彼か。彼の顔が、闇の中から何度も何度も現われた。人は去る。なぜ去るのか?」



2  「時には雨音の背後に、音楽を聴くために人は沈黙します」



撮影スタッフは、再び難民の村に入って行った。

今度は、失踪した政治家の行方を捜すためである。

まもなく、道に迷ったアレクサンドロスは、一軒の小屋に入った。

彼はそこで失踪政治家と出会ったが、映像はそこでは、テレビマンの驚く表情を特段に映し出さなかった。

右端がアレクサンドロス
その夜、ホテルのバーで、アレクサンドロスは一人の娘と出会った。

いつまでも彼を見続ける娘に、男は運命的な出会いを感じたのである。

二人はそのままホテルの一室に消えていき、その電撃的な愛を確かめ合った。

部屋から出た二人は、灯りの消えたバーで、別れの挨拶とも思えない小さな会話をそこに捨てた。

「誰かの名を呼んだね?誰だい?」
「また呼んだの?行かなくちゃ、行かなくちゃ・・・」

娘はそれに答えず、静かに立ち去った。

アレクサンドロスはカフェで、再び娘と出会い、彼女の後を追った。共同住宅の一室に入った娘を、男は唐突に訪問した。娘は驚く様子がなく、男に自分の事情の一端を語った。

「母は国境を越えたとき、死んだの。父は遅いわね」

そのとき、娘の父が戻って来た。驚くアレクサンドロス。

彼こそ、小屋にいた謎の男であり、テレビマンが失踪政治家と特定した男だったのである。

彼は電線工事に従事していて、丁度戻った所だった。

「一日中、電柱の上で鳥の真似だ。暴風で国境地帯の電線がみんな切れた。仲間は夜を徹して、修理を続けている・・・わしらの家は、あんたの家。これが家ならな。国境は越えたが、まだここにいる。家に着くまでに、何度国境を越えることか・・・」

食事を誘われたアレクサンドロスは、丁重に断ってホテルに戻った。


その日の事件は衝撃的だった。

アレクサンドロスが娘と会ったカフェで喧嘩をしていたクルド人がリンチにあって、クレーンでその首を寒空に高く吊るされるという事件の現場に立ち会ったのだ。

彼は大佐から説明を受けた。

「混沌だ。悪魔にだって分らん。自由になろうと国境を越えてきたのに、別な国境でがんじがらめだ。奴ら、喋らんのだ。沈黙の掟か。争うのが、クリスチャンとモスレムか、トルコ人とクルド人か、革命派か反動派か、何も分らん」

クルド人の死体が、大佐の命令によってクレーンから降ろされていく。その死体に、女たちの激しい嗚咽と叫びが捨てられた。

衝撃を受けたアレクサンドロスは、近づいて来る列車に向って走った。そこには、自分が呼び寄せた婦人が乗っていたのである。

アレクサンドロスと婦人
彼は婦人を、失踪政治家に会わせるつもりなのだ。婦人を降ろし、再び走り出した列車の傍らには、未だ嗚咽と叫びを止めない女たちの小さな輪が解けないでいた。

翌朝、婦人は元夫と再会した。

婦人の目から涙が滲むが、彼女は「違うわ。彼じゃないわ」と撮影カメラに向って言い放った。

彼女は元夫と言葉を交わすことなく、すぐにその場を立ち去って行った。

そこに残された男の複雑な表情が印象的だった。

しかし男は、かつての妻を追うことをしなかったのである。

ギリシャのテレビで、彼の失踪についてのニュースが流された。

「有名政治家の失踪は未だ話題になっています。フランス人の夫人と警察の捜索は続きます。失踪の理由は未だ確定されていません。文筆家としての名声は国際的、私生活は幸福そのもの。政治家としても大物。軍事政権崩壊後に閣僚をつとめ、ギリシャ政界にとっては希望の星でした。1980年には『世紀末の憂鬱』を出版。評判となりました。最近の国際状況を省みれば、予言的名著でした。一方、彼の批判は全政党の反発を買いました。ここでもう一度、最初の失踪に先立つ演説を見てみましょう。その夜、議事堂は満員でした。何日も前から彼が重大演説をするという噂があり、党首や党員が多く集まったのです・・・」

そこで彼が演説した内容は、あまりに素気ないものだった。

「時には雨音の背後に、音楽を聴くために人は沈黙します」

これだけスピーチして、突然彼は議場を去ったのである。議場は騒然となったが、その言葉の中に、彼の失踪のメッセージが仮託されているようでもあった。



3  「一歩踏み出せば・・・」



国境の村。

アレクサンドロスは失踪政治家に会いに行った。

「一体、何が望みかね?」と尋ねる男。

それに対して、アレクサンドロスは、男が婦人にかけた電話の録音テープを聴かせたのである。先述した男の声には続きがあったのだ。

「“名前さえないのだ。名が必要なら、借りる外ない。見るべき場所を私にくれ。私を海に忘れてくれ。君の健康を願い、幸福を願う。旅・・・触れるもの全てが私を傷つける。名前さえないのだ”」

明日、結婚式を予定している祝宴の中に、アレクサンドロスと大佐がいた。大佐は彼に興味深い話をした。

「信じ難いことだが、村民の半分がアルバニアからこっちに来た。国境を越えた村人は、年に一度、昔の隣人と対面する。死体が河に浮くこともある。あれが花嫁だ」

大佐は話の途中で、花嫁を彼に教えた。

その花嫁こそ、例の失踪政治家の娘だった。

驚くアレクサンドロス。

花嫁も彼を見ている、その花嫁の周りをアコーディオン弾きがメロディーを奏でていたが、突然娘はその場を去って行った。

大佐は彼に忠告する。

「連中は狂っている。もう一つ言ったぞ。ここでは、物事の様子が違う。国境が人を狂わせる。境界線が・・・」

その大佐に、アレクサンドロスは答えた。

「僕が知っているのは、他人を撮るだけ・・・心を無視して撮るだけ・・・」

最後の言葉は、彼の心の中の呟きである。


翌日、アレクサンドロスは撮影スタッフを伴って、結婚式の現場に立ち会うことになった。

国境を隔てた河のこちらの岸には、花嫁とその父、更に、司教と多くの村の仲間がいて、向こう岸には、花婿とそれを祝う者たちが集まっていた。

花嫁と花婿は河岸の前線に走り出て、いつまでも見つめ合っている。

国境によって裂かれたはずの一つの愛は、難民たちのこのような抵抗力を表現する象徴的な描写によって、あまりに鮮烈に映し出されたのである。

そこに一発の銃弾が放たれて、式に集まった人々の輪は崩れていった。

しかし、一度は岸から離れた若い男と女だけは、花婿と花嫁として再び前線に戻って来て、そしてお互いに手を振って、その思いを繋ごうとする。


撮影スタッフはその印象的な結婚式の風景を撮影した。

その先頭には、いつまでも離れない男女を見つめ続けるアレクサンドロスがいた。

まもなく花嫁は、岸から離れて近くで待っていた父の胸にその身を預けていく。

花嫁の表情からは、嗚咽にも似た哀切な思いが滲み出ていた。


その夜、花嫁はアレクサンドロスに、まだ話していなかった自分の事情について静かに語った。

「花婿と私とは、一緒に育ったの。同じ一族なの。彼の手が私を掴むのが分る。ある夜、彼は河を越えて私を連れに来る」
「こんな気持ち初めてだ」とアレクサンドロス。
「私も」
「とても辛い」
「私も辛いわ」

その一言を残して、花嫁はその場を離れて行った。

残されたアレクサンドロスは、花嫁の父に呟いた。

「知らなかった」
「河の音を聞け。聞け。夜毎轟(とどろ)いて、轟いて、呼んでいる」

花嫁の父は、再び詩人のように語った。そして彼の嗚咽も、そこに捨てられた。

「やっと分った」
「私は幸福だ。幸福だ」

アレクサンドロスはその言葉を聞いて、夜の国境の村を走り出した。

「この朝、全てが静かだった。他の日と同じよう。最初の日と。国境も、河も、静けさも・・・」


翌朝、アレクサンドロスは、自分が最初に案内された国境の橋にやって来た。

そのラインで彼は、大佐が自分に見せた「こうのとり」のポーズを真似て、右足をゆっくり上げてみた。

「一歩踏み出せば・・・」

彼は心の中でそう呟いたとき、自分を呼ぶ大佐の声で我に帰った。

「森林保安官が早朝、河の岸辺で彼を見かけた。手に鞄を提げていた。声をかけたが、答えなかった。保護官は心配になって、警察に連絡した。その直後、同じ人物をバス停で見たという報告が入った。やはり鞄を持っていた。難民仲間はいつものように、電柱工事に出かける姿を見たという。最後の目撃者は、彼が国境を越えていったと・・・どれもが未確認情報だ・・・本当に彼だったかどうか、もうどうでもいいだろう」

謎の男は、三度(みたび)失踪したのである。

しかし今度は、本物の国境を越えて行ったと言う。

アレクサンドロスは堤の上で、遠くを見つめる一人の婦人を見た。

例の失踪政治家の元妻である。彼女はまもなく車に乗って、国境の村を離れて行った。

「あの人を見たよ」

今度は、堤に座る一人の少年がそう言った。

「彼を見た?」
「パンを届けに行くときに、道で。鞄を手に河の水の上を歩いて行った。どんどん、どんどん遠くへ。国境を越えて見えなくなった・・・」

それを聞いたアレクサンドロスの、映像における最後のモノローグ。

「なぜ、仮定できないのか。今日のこの日が、1999年の12月31日だと・・・」

彼は心の中でそう呟いて、元の道をゆっくり戻っていく。

その道には、電線工事に着手する難民たちが、何人も空に向って突き昇っていく。

映像のラストシーンは、あまりに鮮烈であり過ぎた。


*       *       *       *



4  「国民国家」という物語



これはとてつもなく重く、根源的な問いかけを、観る者に放つ映画である。

これほどラジカルな問題を真っ向勝負で捉えて、しかもそれを、人間の生きざまの悲哀を絡めて描き切っていく映像世界は、アンゲロプロス監督の独壇場の感がある。

これは現代世界史の最も尖った問題の一つである、「国民国家」という物語の崩れ行く不安について、芸術表現のフィールドで観念的に考察した一篇だった。

「国民国家」という物語。

それは私たちが素朴に、その身体と自我を預けてきた絶対的な物語である。テオ・アンゲロプロスという先鋭な映像作家は、その物語の崩れ行くさまを、映像の中の様々な仕掛けの内に象徴的に描き出すことで、物語の不安な未来を厳粛なまでに映し出したのである。

彼は、「国境は不必要である」と断言して止まないかのようである。国境を解体することで、そこに訪れるであろう希望の未来を、過剰なほどオプチミスティックに把握しているようにも見える。

私たちの近代は国境を定めることで、そこに自らの拠って立つ政治的共同体を作り出し、それを「領土」として策定し、そこに「主権」を被せることで、その共同体に帰属する人々を「国民」と呼んできた。これが、「国民国家」という物語の中枢的体系である。

それが存在することによって、私たちは身の安全と財産の確保を保障し、且つ、自らもまたその共同体の一員としての義務を果たすことで、そこから義務に見合った権利や利益を享受するのである。「国民国家」という物語の絶対性によって、私たちはその日常性の恒常的安定感を確保してきたとも言える。その物語に破綻が生じたとき、私たちはどこに向かい、何に依拠して、私たちの生活と人生をどのように繋いでいったらいいのだろうか。映像はそれについて、当然の如く全く答えない。

然るに、アンゲロプロスは、カンヌで語っている。

「今世紀初頭に起ったものすべて、夢や理想といったものは崩壊してしまいました。わたしたちはいま、狂気じみた国粋主義がふたたび台頭し、宗教戦争がおこなわれる時代に立ち合っています。こうなった原因は、事実上、理想の欠如にあると考えるべきです。わたしたちはみんな、世紀末の憂鬱とも呼べるようなものの中で生きています。価値の喪失から来ている不在のなかで生きています。残念ながら、映画が真実を描いているというのは、現実が証明しているのです」(「アンゲロプロス 沈黙のパルチザン」ヴァルター・ルグレ著 奥村賢訳 フィルムアート社刊より)

この挑発的な発言から15年経って、今、世界現代史の複雑極まる展開の様相を俯瞰するとき、確かに、アンゲロプロスが予言した世界が不安含みで具現しているように見える。とりわけ、イスラムの世界で噴き上がっている尖った現実を日々に突きつけられて、今、私たちはこの沸騰した状況の行方を定められないで、まるで迷妄の森に拉致されてしまったかのようである。

加えて、英国のブレア労働党政権の「第三の道」の劇的な展開によって、サッチャーによる中央集権体制を修復し、スコットランド、ウエールズ、北アイルランドに地方議会を設立した事例を見ても分るように、民族の自立性を認知する分権化の流れは、「国民国家」という巨大な隔壁を稀薄化させる様相を呈してきたとも言えるだろう。

そして何より、旧来の「国民国家」の概念をを超克するかのようなEUの存在の持つ現代的な意味は、恐らく、21世紀の歴史的なステージの中で、そこに内包される政治、経済、文化の結合力のダイナミズムをより顕在化していくに違いない。

そして今、国境検問所、国境検査所の廃止を目指す「シェンゲン協定」(2008年12月現在、スイス、リヒテンシュタインまで、協定の実施状況が広がっている )の存在によって、まさに、アンゲロプロスがその創作世界でテーマにしてきた、「国境の絶対的な障壁」という問題への一つの歴史的解答が具現しつつあると言っていいのである。

それにも拘らず、私たちが「国民国家」という物語の継続に大きな不安を抱き、それを簡単に捨てようとしているとは思えないのだ。

「国民よりも民族」という形で稀薄化されつつありながらも、いや寧ろそれ故にこそ、なおこの「国民国家」という物語の未来を優しく繋いでくれる、より心地良い物語が、重量感のあるリアリティによって容易に止揚されていくとは、私には未だ信じ難いからである。

アンゲロプロス監督
アンゲロプロスは、物語の失踪政治家に、「国境は越えたが、まだここにいる。家に着くまでに、何度国境を越えることか」と語らせた。そのあまりに重い言葉は、物語の中で相当の説得力をもって語られているが、しかしそれはあくまでも、映像という虚構の世界のレトリックに過ぎないとも言えるのだ。

確かに、「国民国家」の内実が様々な課題を抱えている現実を無視できないであろう。その一つが、本作でも描かれた難民の問題である。

難民問題。

それは、「パラダイス鎖国」と揶揄される日本に住む者にとって、あまりに経験的実感の乏しい問題である。因みに、毎日新聞によると、2004年現在で、この国に難民申請した者の数は、僅かに430人。中でもトルコ人が最も多く、130人。これは日本とトルコとの関係の親密度から言えば、納得できない数字ではない。

その次がミャンマー。かつてビルマと呼ばれた国である。
「ビルマメロメロ」(会田雄次著「アーロン収容所再訪」/中公文庫より)という言葉に集約されているように、この国に対する一部の日本人の親近感はとても強く、且つ、ミャンマーの政治の不安定な現状を考えれば、この数字も納得できなくはない。

しかし日本という国に、インドシナ難民を約一万一千人を引き受けているものの(神奈川県大和市などの「定住促進センター」で受入れているが、「条約難民」とは異なる)、「難民問題」と呼ばれるほどの深刻な事態が起きていないことだけは事実である。まさか、この国の「圧政」を恐れて、この国を脱出しようと図る者たちが存在するとも思えない。

では、「難民問題」を世界史的レベルで見てみよう。

これも毎日新聞によると、2004年現在で、難民申請を起した者の総数は、約39万6000人。これを多いと見るか、少ないと見るかで見方が分かれるだろうが、実際の申請者数は、前年より22%少ないそうだ。

しかも21世紀に入って、年々減少の一途を辿っているという現実がある。これはUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のレポートによるもので、激減の理由は、アフガンとイラクからの申請者の数の低下にある。但し申請者数の低下は、難民が流入していく国家の難民管理体制の強化とも関係しているので、そこでは国境で難民を規制し、その難民たちに対する取り扱いの苛酷さという眼に見えない問題を抱えていて、申請したくても申請できにくい現実を無視することはできないであろう。

まさに現代ギリシャの問題が、それに当る。

アムネスティインターナショナル日本のブース
アムネスティ・インターナショナルの報告によると、21世紀を迎えて、ギリシャにアルバニア人、イラク人、パキスタン人などの難民が保護を求めてきたが、国境警備兵に捕捉され、中には国境ラインで射殺される者も多くいたらしい。

これは、「永遠と一日」というアンゲロプロスの傑作の中で象徴的に描かれていたが、紛れもなく、それは難民の現実の極相を示すものと言っていいだろう。

このような事情のためギリシャでは、庇護を求める人が急増する一方、庇護の申請率が低く、難民割合の最も低い国の一つとされているほどである。

要するに申請したくても簡単に受理されず(難民認定率は0.3%程度で、その保護率の0.9%の低さ)、申請することによって蒙るリスクの大きさを考えたとき、庇護を求める難民の立場がより難しくなるということだろうか。


ここに、アムネスティ(しばしば、その政治的な偏向性で批判されることが多いNGOだが)が指摘したギリシャの難民迫害の典型的な例証として、キオス島での虐待のケースがある。

キオス島(ヒオス島)・ブログより
「キオス島では、当局は人々を拘禁するために金属製のコンテナを用いている。その当局は妊娠中の女性や子どもを含む人々を繰り返し拘禁し、人身売買の犠牲となった女性や子どもを保護していない。何人かの移民は警察官から虐待を受けている」(アムネスティHP・アムネスティ発表国際ニュース〈2005年10月5日〉より)

これを読む限り、アンゲロプロスが危惧する問題の深層に近づくことができるだろう。

何しろギリシャという国は、北部に四つの国境を持っていて(西からアルバニア、マケドニア、ブルガリア、トルコ)、更に、トルコとは北キプロスの火種を抱えているばかりか、EUへの中継点として、難民のターゲットになっているという問題を抱えている。

ギリシャ政府が難民問題に神経を尖らせる背景が理解できなくもないのである。

そのような複雑な事情を把握した上で本作と付き合うとき、難民と国境の問題に拘る作り手の思いがストレートに伝わってくるものがあるが、やはり私の中では、それはまだまだ、特殊な事情を抱えたまま近代史の扉を開いた、ヨーロッパの痼疾(こしつ)の一つであるようにも思えてしまうのだ。

先述したように、今、そのヨーロッパが、何かが少しずつ変容しているように見えるのも事実である。

ヨーロッパは、国境によって防御バリアを構築してきた「国民国家」という物語の枠を、果たして本気で越えようとしているのか。

私の浅薄な知識ではとても手に負えるテーマではないが、それでも関税主権や農業政策の主権などに続いて、通貨主権もEUに譲渡させてしまったということになり、それが国民国家の解体の方向を目指すものなのかどうか、艱難(かんなん)な課題を抱えて、21世紀をリードする可能性がないとは言えないだろう。

ヨーロッパの衛星写真(ウイキ)
そこでは、人々の往来や国境検問は多くのところで廃止されていて、域内での労働許可証も必要なくなってきている。「国民国家」の主権が相対的に弱体化してきた現実と、そのリアクションについては、共に今後の世界史的なテーマになっていくに違いない。(社団法人行革国民会議HP・シリーズ討論「ヨーロッパにおける国民国家の行方」より部分的引用、参照)



5  空に向って突き昇っていく電線マン、その作業ラインが点景になって



さて、映画の話に戻す。


私は本稿を書くに際して、「アンゲロプロス 沈黙のパルチザン」(同上)という評判の高い本を参考にした。

正直言って、今の私には、この手の本は苦手である。

明らかに、左翼評論家の手によると思われる当著には、左翼的レトリックがふんだんに撒き散らされていて、結局、途方もない非合理的で、観念的な軟着点に辿り着くことによって安堵してしまうという、そのプチナルシズムが私には耐えられないからである。

本作の評論もまた、長々と書かれた割にはあまりに空疎で、左翼的な予定調和の言辞を弄(もてあそ)んだだけのように思えたのだ。

勿論、映像作品に対する評論の芸術性が、その表現のレトリックに多分に寄りかからざるを得ないファクターがあることは無視できないだろう。

しかし、表現された作品の解読の手法として、私は限りなく心理学的アプローチを重視している。どのような映像作品も、そこで描かれた媒体に、人間の問題が関わっていないことはあり得ないと思うからである。

それ故、私は一貫して人間ドラマとしての作品をフォローし続け、限定的にチョイスした秀作に対して様々な解釈を被せていくのである。

アンゲロプロスの作品は極めて抽象度が高く、社会性の濃度も深い。しばしば形而上学的ではあるが、そこで描かれている世界の基幹にあるのは、どこまでも人間の生や、そこに絡みつく、名状し難い思いや不安や孤独感などである。

「こうのとり、たちずさんで」という作品もまた、そのような人間学的な把握が充分に可能な作品であったと思われるのだ。

だからそこに、推測し得る限りの心理的合理性を求めるのは、あまりに当然なことである。


―― その観点で、本作に言及したい。


ラストシーン
まず第一に、観る者は、失踪政治家と難民の村の謎の男が同一人物であることを認知する必要がある。もしそれが認知できなければ、テレビレポーターが追い続けた者の不特定性によって、私たちはこのドラマを観念的に解釈する外なくなってしまうからである。

それは単に、「確信的越境者の苦悩を秘めた崇高な旅」のメッセージを伝えられることの内に、前半を占めた失踪政治家の正体を探る物語が、安直に収斂されてしまう以外ないからだ。

そんな映像作品があっても無論構わないが、しかしそれでは、映像の随所で見せた登場人物たちの感情含みの表情が、そこに全く物語の脈絡性を持つことなく霧消してしまうということである。

元夫の失踪に心を痛める婦人が、映像で唯一、元夫と思しき者と出会うとき、映像で見せた二人の思いを乗せた表情は、明らかに、相手を特定できた者だけが占有する表現以外ではなかったのである。

彼女はそこで涙を見せ、男は女に沈黙を破る者の感情の迷いを露呈させていた。

この男こそ、失踪政治家だったのである。

では、なぜ彼は失踪したのか。

それについては様々な推測が成り立つが、最も考えられる理由は、男を夫と考える異国の妻がいて、その女が幼い娘を連れて命がけの越境を果たしたということ。男はその事実を知って、自分がかつて捨てたかも知れない妻子に会うために、国境の村に旅立った。

しかしそこで、男と再会を果たしたか否かは分らないが、命がけで越境して来た女は幼い娘を残して不運にも命を落としてしまった。

男の最初の失踪は、命を賭けて越境した母娘からの連絡で、それまで自分が占有していた地位を一度空白にさせてまで、ある種の覚悟を括って、その越境者に会いに行こうと考えたからではないか。

しかし、男は女の死の現実に衝撃を受け、自分が拠って立っていた政治の現実の包容力の欠如を目の当りにしたのかも知れない。

男は自分の心が整理できないまま、一旦、フランス人の妻の元に戻った。

しかし彼の心の中には、もう文明の利器に囲まれた生活に、自らの身体性を乗せられないほどの空洞感が形成されていたに違いない。

彼がショーウィンドウの前で立止まり、そこで呆然としていたのは、越境してきた母娘のことを考えていたのだろうか。

その村には、まだ幼い娘がいる。

その娘は一緒に越境してきたアルバニア難民によって庇護されているだろうが、自分が責任を持って成人するまで娘を養育する義務感を持ったのではないだろうか。いや、義務感というレベルの感情を越えていたに違いない。彼は既に最初の失踪を括ったとき、自分の政治家としての誇りある履歴を自ら葬り去っていたのである。

そんな彼が元妻との豊穣なる近代生活に戻ったとしても、その自我は、そこには既に馴染めない、更なる変容を遂げていた。彼は自らを「訪問者」と規定してしまっているのだ。

彼の二度目の失踪は、殆ど確信的な越境者の思いのラインにまで届いたであろう、その括りによって断行されたように思われるのである。

二度目の彼の失踪は、その自我が拠って立つ安寧を求めての、永遠なる旅人のそれに近かったのではないか。

彼は国境の村で娘と生活し、そこで娘の旅立ちを確認するまで、「一人の父親」という役割を演じることを覚悟しただろうが、しかし彼の思いは、その先の未来に何が待つか分らない、永遠の旅に向う気持ちを崩そうとしなかった。

それは現実政治の矛盾の洗礼をズブズブに受けた人間が、ようやく手に入れた「生」のあるべき理念系であったのだろうか。これは、現実からあまりに乖離した世界に飛翔しようとする男の物語でもあったと言える。

一方、主人公のアレクサンドロスの場合を考えてみよう。

彼はどこまでも商業ベースのビジネスの枠内で、国境の村に這い入って行った。

しかし少しずつ、村の現実が与える生身の世界に恐々と触れつつも、彼はその世界が持つ圧倒的な人間たちの真実の息吹に呑み込まれていく。

国境の村が男を誘(いざな)う求心力の中枢に、失踪政治家とその娘の存在があったのだ。二人の人間のその存在自身が、テレビマンの、その存在論的な欺瞞性をしばしば撃ち抜いて止まなかったのである。そのことで彼は国境の村を、まさに自分の人生を根源的に省察する「迷妄の村」に変貌させしめてしまったかのようだった。

彼は一人の美しい娘と電撃的に出会い、その日のうちに関係を持ってしまった。明らかに娘が誘(いざな)った行為であったが、彼の中にその行為を素朴に受容する精神世界が形成されていたのである。

しかし彼は、娘の一言が最後まで気になってならなかった。

なぜあの夜、娘は知らない者の名を呼んだのか。

彼はそのことに拘り続け、やがて娘の結婚の事実を知り、奇妙だが、しかし、鮮烈なセレモニーの現場を撮影スタッフと共に見届けたことによって、一定の了解点に達することができたのである。

このとき彼はスタッフの一員でありながら、明らかに、その職業的枠組みを逸脱していた。しかし彼はまだ、決定的な把握を手に入れていないのだ。

彼は娘を待ち、彼女にダンスを求めた。花嫁はそれに応じた後、その睦みの継続に躊躇(ためら)いを見せた。花嫁は、男に語ったのである。

「花婿と私とは、一緒に育ったの。同じ一族なの。彼の手が私を掴むのが分る。ある夜、彼は河を越えて私を連れに来る」

男はこの言葉によって、全て了解できたのである。

なぜあのとき、娘が自分を誘ったのか、そして自分を誘っておきながら、知らない男の名を呼んだ理由について。結婚式を挙げても、恐らく許婚(いいなずけ)の男と一緒に生活できない寂しさが、娘をして自分を誘う行為に走らせたのではないかと。

或いは、娘の相手が自分の相貌と酷似しているのではないか、とも考えたのだろうか。

いずれにせよ、娘にとって、自分の存在は花婿の代用的役割でしかないことを思い知ったのだろう。

考えてみれば、娘は10年も前に、母と命懸けの越境を果たしたのである。

そのとき娘は幼女か、少女の年齢でしかなかったはずだ。

花婿との国境沿いの結婚式が既にアルバニア時代に約束されていたならば、それは村の共同体的慣習の枠組みの中で成立していたものであろう。

即ち、幼い少女の中に、相手の少年に対する強い異性的感情が形成されていたとは考えられないという予測も可能である。

或いは、娘はギリシャにいる父を求めて、母が越境を決断したとき、そのことのリアリティを感じ取ることなく危険な旅に踏み込んだのだろうか。

一切が不分明である。

不分明だからこそ、私なりのストーリーラインを組み立てた次第である。本作において、作り手がそのストーリーラインを敢えて不分明にしたのは、失踪政治家が立ち上げた、「観念の旅」の効果を強調したからではないかとも考えられるが、無論、それもまた不分明である。

そもそも、娘とその母が越境を果たしたのが10年ほど前であると私は書いたが、本作では、それについて全く触れられていないのである。

私が「10年前」という表現に拘った理由は一つ。難民の母娘と失踪政治家との関係を重視したからである。

しかし、もしかすれば、この娘は失踪政治家の娘でない可能性もないとは言えないし、更に前述したように、国境の村の謎の男の正体が失踪政治家と特定できた訳ではないのである。しかし後者の問題については、私は同一人物であるという前提に立つことで、以上のストーリーラインを組み立てて見た次第である.

だからこのラインに沿って、更に言及を続けていこう。

もし難民の母娘の越境が、ここ数年間以内の出来事とするならば、政治家の失踪の事情にも異なった推論が可能になるが、少なくとも、政治家が難民の母娘と強い親愛の情で結ばれている限り、ストーリーラインの幅は幾重にも拡大的に解釈できるであろう。

明らかに、河辺の結婚式で父は娘を祝福し、それを確認した後、男は再び旅人の人生を選択した。

謎の男は、娘の結婚式の完了によって、新しい旅立ちを決断したかのようである。

また難民の母娘の越境が数年以内に断行したとするならば、娘はアルバニア時代に、育ちを共有した若者との異性的関係を形成させていたと考えられなくもないのだ。

彼女はアレクサンドロスに、「ある夜、彼は河を越えて私を連れに来る」と語ったのである。

しかしそう言いながら、「そんな気持ち初めてだ」と発したアレクサンドロスに対して、娘は「私も」と答え、共に「とても辛い」という思いを静かに寄せ合っていた。

これをどう読み解くか。

この男女に、異性的感情の形成が見られた事実を否定できないのである。二人の出会いは電撃的だったが、しかも運命的でもあったのだ。

それにも拘らず、二人は結ばれることはない。

それは娘が既に花嫁になっているからではなく、もっと根源的な問題であるだろう。

即ち、娘が越境を果たしたこうのとりであるとするならば、肝心のアレクサンドロスは、恐らく未だ越境を選択できない、テレビマンという記号的役割を演じ続けていくということである。

それもまた、彼にとって、しごく当然な人生の営為である。彼は国境の村に這い入って、極相的な別の人生の流れ方を目撃したが、彼にはなお、目撃者としての役割を越える存在性を手に入れていないからである。

それはそれで、充分に意義のある人生の繋ぎ方であるとも言えるのだ。

一方、娘はアルバニアの青年を待ち続けることになる。

それは、花婿の越境を前提にする繋がり方なのである。

花婿が越境し、自らを難民生活者と規定したとき、娘は真の花嫁になり、そこから二人の未知なる艱難(かんなん)な人生が開かれていくであろう。

それを恐れるな、と作り手は言いたいのだろうか。

そこまで彷徨しなければ、真の確信的越境者にはなれない、とも言いたいかのようだ。

心の傷を内側に一杯抱えても、なお走り切っていく、かの失踪政治家のように。

この映画の中枢的メッセージは、謎の男の、ラストシーンでの失踪の描写にあるだろう。

彼は失踪政治家であるという自己についての物語を捨てて、「永久なる確信的越境者」の人生を繋いでいくはずだ。

何のために?

「雨音の背後に音楽を聴くために」である。

作り手は、男にそのような世界の決定的な求心力について詩的に語らせた。男の彷徨は、作り手自身の彷徨でもある。

正直、私には、そのようなイメージの世界に、極めてシンボリックな描写の繋がりの中で表現して見せた作り手の熱い思いに、それ相応の想像が及ぶものの、とうてい共感できるイメージラインではない。

それでも私は、テオ・アンゲロプロスという男の圧倒的な映像表現力に魅了されて止まないのだ。それは、彼の表現世界が人の心を掴んで放さない力強さを持つからである。

そしてそれ以上に、絵画の世界にも似た極めつけの象徴的描写が、そこに散りばめられていて、それを優しい旋律がいつも静かに追い駆けていく。

それがたまらなく、魂を揺さぶる荘厳なる響きに聞こえてしまうのだ。

それにしても、本作のあの見事なラストシーンはどうだ。

国境を生命線にする国民国家の危うさをテーマにしたこの映像のラストに、黄色い作業着を着た電線マンたちが登場する。

直線的に配列されてある電柱に電気工事の作業員が攀(よ)じ登って、電線を架けていく。


作業のラインが点景になって、空の青を覆い尽くすような淡い紅を、ほんの少し染めたミルク色の雲に映し出されていく。

静謐を湛えた音楽が画面に溶け合って、それ以上ないメッセージを運んで、結ばれた。


国境を繋いでいくことの困難さと、それを繋ぐ者たちの必死の思いが、この直列のラインで象徴的に表現されていて、映像によるイメージが喚起する力に圧倒された。凄い映像だった。

テオ・アンゲロプロス。

依然として、圧倒的に個性的な映像作家であった。

(2006年8月)

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