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    4 か月前

2010年6月23日水曜日

愛と喝采の日々('77)   ハーバート・ロス


<激しい炸裂の「直接対決」が生んだ和解の凄味 ―― 或いは、「人生の選択」の持つ固有の重量感>



 1  ディーディー



 ディーディーが住むオクラホマ・シティに、アメリカン・バレエ団が公演のためやって来た。

 ディーディーは、元アメリカン・バレエ団のダンサーであったが、恋人のウェイン・ロジャースとの結婚を選択することで、バレエ団を退団するという経緯を持っていた。

 ウェインとの子を妊娠していたからである。

 そんなロジャース一家は、オクラホマ・シティでのアメリカン・バレエ団の公演を観に行った。

 とりわけ、ディーディーは、今なおバレエを続けるエマのステージに感激するが、心中は穏やかな気分ではなかった。

 「無理に楽屋に行くことはない」

 そう言って、ウェインは妻に配慮するが、ディーディーは楽屋を訪れた。

 そこで昔馴染みのアデレイド(バレエ団の現オーナーで、かつてのダンサー)、マイケル(振付師)らと再会した後、かつてのライバルであり、今も現役を続けるエマと20年ぶりの再会を果たす。

 二人の再会時の会話。

 「教えて。今のあなたの人生」とディーディー。
 「踊るだけ。稽古して、リハーサルして、舞台に出て、ホテルに帰るの」とエマ。

 
20年という時間の空白を物語る、呆気ない内実だった。

 ディーディーの自宅でのパーティーでの、二度目の会話。。

 「踊り子の足の醜いこと」とディーディー。
 「男なら、足を地に着けられるのよ。子供と踊りと、両方望めるの」とエマ。
 「何人欲しい?」
 「あなたと同じ3人」
 「ウェインのような主人と」
 「あなたは運がいいわ」
 「入れ替わりたい?あなたにはできないわ。鈍い子たちを教えて。バレエ団も滅多に来ない町に住むなんて。望み通りの人生を選んだのよ」
 「あなたもね」
 「私は違う。あなたがいたからよ」
 「どうして?」
 「自信があるから、そういう言い方ができるのよ」
 「何が言いたいの?」
 「マイケルがアンナ・カレーニナを振り付けたとき・・・」
 「ええ、覚えてるわ」
 「アンナの候補は?」
 「あなたと私」
 「それで?」
 「あなたは身籠った」
 「あなたは19回のカーテンコール」
 「だから、恨んでるの?私と入れ替わりたいの?19回のカーテンコールなんて、もうないのよ。私にはもうないの」

オクラホマ・シティ(ウィキ)
二人の長い会話の中に、本音を漏らす隙が生まれていたが、ディーディーの尖りはまだ封印されていた。



 2  エミリア



 「ディーディーとウェインが生んだ傑作ね」

 エミリアのバレエの入団テストを見て、エマが思わず漏らした一言。

 両親の才能を受け継ぐエミリアの心中には、バレリーナへの夢が膨らんでいたのである。

 以下、本作の重要な伏線になる、親子の会話が拾われていた。

 「二つ質問していい?競争は怖くないけど、私、どこまでやれる?」とエミリア。
 「お前の才能次第だ」と、父のウェイン。
 「才能ある?」
 「あるよ。それから?」
 「続けるべきか、今、決めるべき?」
 「どうして?」と、母のディーディー。
 「切り捨てるものもあるから」
 「そのとき考えればいい。今、一番したいことをしろ」と父。
 「それが分ればね」と母。
 「よく分ってるわ」
 「何だ?」と父。
 「踊ること」
 「じゃ、踊れ」と父。

 
笑みを返す娘。

 その直後のシーンは、映画の主要舞台となるニューヨークに拠点を置く、アメリカン・バレエ団での練習風景。

 エミリアの素質に注目したエマの勧めもあって、エミリアは意を決して、アメリカン・バレエ団への入団を果たしたのである。

 「体に鞭打ってきたわ。体も遂に反抗を始めたの。思う通りに動いてくれない。動けないのよ。でも、まだ気持ちは酔えるの・・・」

 若いエミリアの可能性を想像したのか、エマはディーディーに自分が置かれた現実の厳しさを吐露した。

 彼女は既に、若い振付師に、「作品は、スターへの贈り物ではない」と言われていたのだ。

ユーリとエミリア
一方、アメリカン・バレエ団付属バレエスクールでレッスンに励むエミリアは、、程なく、プレイボーイのロシア人ダンサーのユーリと恋愛関係に陥り、呆気なく一線を越えていくが、他の踊り子に眼を移すユーリとの関係破綻によって、失恋の憂き目に遭うのも早かった。

 若い振付師との確執や、失恋の鬱憤をアルコールで癒すエミリアは、酩酊の状態で「ジゼル」を踊るのだ。

 それを視認したエマは、エミリアの将来を思い、個人指導や激励による手厚いサポートを施していく。

 「25周年ギャラ公演」の主催が開かれ、エマは「アンナ・カレーニナ」を熱演し、エミリアもまた役を貰うに至った。

 その際、衣裳を娘に贈るエマを見て、娘エミリアに対してエマが急接近している現実を知り、母親としての保護意識で、NYに付き添いで来ていたディーディーの心中は穏やかでいられなかった。

 まもなく、ディーディーの内側で封印されていた感情が、エマに対して噴き上げていくのである。



 3  ディーディーとエマ



 
ディーディーのそんな思いとは無縁に、エマは、アデレイドとマイケルから「引退勧告」を受け、動揺の色を隠せず、ホテルのバーで気分を落ち着かせようとした。

 そこに、同様の気分で鬱屈するディーディーがいた。

 二人の感情が炸裂するのは、ほぼ必然的だったのである。

 厄介な事態は、憤怒の対象人格が眼の前に現れた、ディーディーの感情炸裂によって開かれたのである。

 「どうして親友に夫を疑わせたりしたの?仲を裂こうとしたの?『子供を産まなきゃ、ウェインを失う』なんて、どうして言ったの?」

 20年前に遡及する話題の、唐突なディーディーの異議に対して、エマはまだ理性的に反応していた。

 「あなたの思い違いよ。『子供を堕ろしたら』って言った筈よ」

 しかし、ディーディーの感情は抑性が効かないのだ。

 「いいえ、間違いないわ。一言一句、忘れずにいたのよ。あれからずっと。そのうち思い当たったのよ。こうも言ったわね。『アンナは忘れなさい。次があるわ』汚い人ね。一生に一度のチャンスと知ってて、自分のものにするために、嘘をついたのよ」
 「嘘つく必要なかったわ。実力があったから・・・自分が選んだ道よ。後悔しても遅いわ」
 「あなたもよ」
 「後悔してないわ」

 話題は、娘エミリアへのエマの行為に及んだ。

 「エミリアに手を貸したのは、あなたの夢を叶えてあげたかったからよ」とエマ。
 「あなた、そんなに偉いの?」とディーディー。
 「あなたはそう思ってるわ」とエマ。
 「エミリアはママになれないわ。才能も努力もあなたと同じだけど、一つだけ真似できないところがあるの」とディーディー。
 「何なの?言って」とエマ。

 ディーディーは遂に、くぐもった声で、感情を炸裂させていく。

 「人を殺すこと。人を踏みにじって安眠すること。そうやって、あなたはプリマドンナになったのよ」

 ここまで言われたエマは、手に持ったグラスのシャンパンを、ディーディーの顔に浴びせたのだ。

 「それじゃ」

 そう言って、平然と立ち去ろうとするディーディー。

 言いたいことを言い切ったから、彼女にはもう、エマには用がないと言わんばかりだった。

 後を追い駆けるエマ。エマはまだ、我慢し切れないのだ。

 「あなたの嫉妬には、もううんざりよ!自分で選んだ道でしょ!」とエマ。
 「実力を試すチャンスを奪われたからよ!」とディーディー。
 「なかったくせに!だから、結婚したのよ」とエマ。
 「愛してたからよ」とディーディー。

 二人は走りながら、喚き合うのだ。

 「バレエを捨てるほど?その証に身籠ったの?」とエマ。
 「そうよ」とディーディー。
 「嘘よ。本当はこうよ。自分は二流。ウェインはダンサー。と言うことはホモだ。否定するには妊娠するしかない」
 「嘘よ!」とディーディー。

ディーディー(左)とエマ
二人はここで、屋上に出た。言い争いは続いている。

 「本当よ。分ってるくせに。子供で彼を縛り、成長した子供の才能に嫉妬してるのよ」
 「あなたの言い訳よ!」とディーディー。
 「何の言い訳?」とエマ。
 「私の子供を取るための」とディーディー。
 「嘘つき!」とエマ。
 「利己主義!いつでも人を利用するのよ!最初は私、次はマイケル。恋仲の振りして!次はアデレード、今度はエミリア!」
 「どうして?」とエマ。
 「どうして?さっきのお芝居、何よ!お辞儀して、抱き締めれば、拍手喝采。『エマは素晴らしい』って皆が言うわ。確かに、あなたは素晴らしい。立派よ。ひたすら頂上目指して、前進でも頂上は過ぎたわ!」

 最も気にしていることを言われたエマは、激昂するディーディーに体を突かれて、思い切り突き返した。

 二人は叩き合い、突き合った。

 この激しい感情の交叉の中で、相互の醜悪な格好を見合って、思わず吹き出してしまうのだ。

 「嫉妬って・・・毒薬ね。人を怪物にするわ。心を歪めるわ・・・」とエマ。

 一転して、静かな口調になった。

 「あのとき、何と言ったか覚えてないけど、役を取るためなら、何とでも言ったわ。どうしても欲しかった。あんたが上手かった。怖かったわ」

このエマの言葉に、ディーディーは深い感情を込めて反応した。

 「この気持ち分る?その一言がどんなに聞きたかったか・・・」

 交す言葉もなくなった二人は、抱き合った。

 ホテルの屋上での直接対決が終焉した瞬間だった。



 4  「世代交代」の中で舞う者、降りる者



 
 まもなく、娘の舞台を観るために、ウェインがNYにやって来た。

 両親の関係の強さを確認したエミリアは、謝罪するユーリにレッスンのパートナーを求めるだけ。


ユーリ
ユーリとエミリアが躍る公演は、成功裡に終わった。

 エミリアの舞台の成功を見届けたディーディーが、そこにいた。

 ラストシーン。

 楽屋でエミリアから花束を贈られ、ディーディーはひと際、感激に打ち震える。

 そのディーディーの視界には、観客のいない舞台の中枢に立つエマが捉えられた。

 彼女はエマに近づき、肩を抱き合った。

 「どんな気持ち?」とディーディー。
 「羨ましい。彼女の人生は、今始まるわ。でも、人生は長くないわ」とエマ。
 「自分の望む者を掴んで欲しい」とディーディー。
 「掴むわ。必ず。私たち2人の人生を知り尽くしたらね」とエマ。
 「知らなくてもいいのよ」とディーディー。

映像の括りは、「人生の選択」を不可避とする「世代交代」を印象付けて、そこだけは如何にもアメリカ映画のハッピーエンドの内に閉じていった。



 5  「人生の選択」の持つ固有の重量感 ―― まとめとして①



 人生は選択の連続である。

 選択の累積の結果が、人生であると言っていい。

 選択の累積の結果が人生でありながら、ごく普通の日常性の中で出来する選択の多くは交換可能であり、常に再選択の余地を残している。

 従って、明瞭な理性的判断の媒介を不足する状態下で、仮にその選択を誤ったとしても、特段に悔いを残すような選択にはならないだろう。

 問題なのは、一定の自己ルールに基づいて構築された、特定的仕様の日常性を大きく変換させるような、「人生の選択」の持つ固有の重量感である。

 「人生の選択」が重量感を持つのは、それが、「コロッケか、メンチか」という類の交換可能な簡便な行動感覚に収斂されることなく、その選択の誤りが、選択主体の人生の総体を客観視する上で、そこでの損益分岐点をネガティブに壊すに足る、決定的な誤謬になるような重大な選択であるからだ。

 職業的選択、結婚、分娩や離婚、更に、己が生命を賭けた危険な選択というのも、この世には稀に存在するだろう。

 由々しきことは、そのような選択場裡において、そこでの選択心理の内実が、必ずしも、寸分の迷いなき確信的な信条や堅固な信念によって固められていないようなケースである。

 多かれ少なかれ、「迷った末の選択」。

 その類の心理の振幅の果ての、重大な事柄に対する選択行動が著しくリスクを高めるのは、その選択が結果的に誤りだったと考えるような気分を、心中深くに澱みを停留させていたり、或いは、その選択の果てに出来した事態のリバウンド、即ち、顕在化した内部矛盾の突沸によって、迷いの心理が逆照射されてしまったりするような、極めて厄介な心理状況に捕捉されるときである。

 人生の重大な時期の決定的な選択の内実が、その不可避な行為の代償の必然的帰結として、捨てられていくものへの未練を全く残さずに、クリアカットな選択心理に結ばれることなく、得てして、「迷った末の選択」は、選択したものの満足感よりも、捨てられたものへの感情の重量感の方に目眩(めくら)ましの如く捕縛されやすいのである。

 とりわけ、人生の重大な岐路における選択が、内的・外的必然性を随伴した場合、そこで捨てられていくものへの感情は看過し難い澱みとなって、その主体自我の底層深くに長く停留するに違いない。

 それを選択せざるを得なかった有無を言わせぬ状況が、心理的圧迫感をじわじわと累積させて、その主体自我の内側で、強引に封印された感情が、そこで捨てられていくものへの未練を容易に断ち切れないのである。

 それが、偽らざる人間の普通の心理であると言えるだろう。



 6  「直接対決」の伏線を敷いて ―― まとめとして②



 
本作におけるディーディーの場合、20年間に亘って、潜在裡に澱のように張り付いていた感情は、若き日の己が「人生の選択」が、当時、プリマドンナを争うエマの尖ったエゴイズムによって、心理的に強要されたのではないかという不安感を抱懐していたことだった。

 映画の冒頭で、そのディーディーが、オクラホマ・シティ公演を主催するアメリカン・バレエ団の楽屋に入ることに躊躇する思いを、「無理に楽屋に行くことはない」と夫に指摘されたワンシーンの持つ意味は、蓋(けだ)し重要である。

 このワンシーンによって、既に、本作の基本モチーフが提示されていたからである。

 前述したように、そこで再会したディーディーとエマとの会話が、少しずつ、その核心部分に近づく様態を見せていく映像構成は巧みだったが、初めて観る者はこの辺りで、本作が単なるバレエ映画でないことを感受していくだろう。

 徐々に、二人の間に一定の緊張感が生まれつつも、単に形式的な再会に終始していたなら、映像は、物語の深部に抱懐する本質的テーマを開くことをしなかったが、巧みな映像構成を見せる本作は幾つかの重要な伏線を敷くことで、緊張感含みの二人の関係を適宜に露呈するプロセスを開いていく。

 ディーディーの自我に封印された澱みの感情が、俄(にわか)に炙り出されていく媒介項となった決定的な事態は、娘エミリアがバレリーナへの強い思いを語ったときである。

 父子三人のこの会話の重要性は、映像全体を貫流する重要な伏線になっていく。

 「切り捨てるものもあるから」

 エミリアは、そう言ったのだ。

 そこには、バレリーナへの夢を追うことの歓びと怖さが同居しているのである。

 それは、「切り捨てるもの」への未練を断ち切れなかった、母ディーディーの内側の複雑な感情を炙り出していくのだ。

ユーリとエミリア
映像はその後、NYを拠点にするアメリカン・バレエ団に意を決して入団した、エミリアの熱心な練習風景を映し出し、そして、かつての母の軌跡をなぞるように、花形ダンサーであるロシア人ユーリとの炎の恋を描いていくが、しかし、そこからは母と違う流れ方を見せていく。

 「早過ぎる肉体関係」と母に揶揄されながらも、エミリアはピルを常用することで、妊娠というバレリーナの危難を回避するのだ。

 物語の、この辺りのエピソード挿入は、明らかに、「妊娠による退団=『アンナ・カレーニナ』の断念」を経験した、母ディーディーとの決定的違いを強調する効果を狙ったものであろう。

 その後のエミリアのエピソードの流れ方は、プレイボーイのユーリに失恋し、そのストレスによって酩酊状態で舞台に上がり、「ジゼル」(注)を踊るものの、それを目の当たりにしたエマが不安視することで、以降、エミリアとの特別な関係を築いていくという、青春期特有の波乱に富んだもの。


(注)フランス革命後に勃興した反伝統的なロマン主義の影響下で生まれた、「ロマンティック・バレエ」の代表的作品。村娘ジゼルはの恋が破れ、狂乱の内に病死する。幻想的な舞台構成を含み、今でも息長く上演されている。


 そんなエミリアが身体化した、「バレリーナの青春物語」の一つの帰結点は、彼女との関係の復元を求めるユーリのアプローチを恋愛ドラマ気分で受容することなく、彼女は、より本気の思いでプリマドンナを志向する意志を立ち上げていくのである。

 そこに、エマの励ましや強力なサポートが介在していたからである。

 
エミリア
然るに、エミリアに衣裳を贈るほどのエマとの関係の進展は、ディーディーには面白くなかった。

 と言うより、自分の娘をもエマに横取りされたという不安意識が、彼女の自我を捕縛してしまったのだ。
 
 「エミリアには、あなたに一つだけ真似出来ないところがあるの。人を殺すこと。人を踏みにじって安眠すること。そうやって、プリマドンナになったよ」

 そんな内容の悪口を、ディーディーはエマに吐き出したのだ。

 そして遂に、二人の中で長く封印されていた澱んだ感情が吐き出されてしまったのである。

 この激しい応酬は、無論、唐突に現出したのではない。

  バーで出会って、屋上での二人の感情への炸裂に至るには、幾つかのステップが必要だった。


 オクラホマ・シティでのディーディーの自宅における二人の会話には、未だ感情の中枢に触れるような直接性を剥き出しにするものはなかったが、エミリアのNY移住を重要な契機にして、ディーディーは否が応でも、若き日の「人生の選択」において、捨てられたものへの根深い拘泥感と向き合わざるを得なくなっていくのだ。

彼女の平穏な日常性に風穴を開ける「非日常の事態」の侵入によって、外的な状況変化にインボルブされていく彼女の自我は、その変化の速度に合わせるかのようにダッチロールし、不安心理を駆り立てていく。

 エミリアとエマとの関係の進展を目の当たりにしたとき、彼女の自我は、もう堪え切れない辺りにまで抑制を失っていったのである。

 NYでの彼女の浮気は、そんな不安心理の表れであったと言える。

 そして、封印してきた感情の堰が切って落とされた。

 ここに、昔馴染みの振付師との短い会話がある。

 アンナを演じるエマのステージを観ないディーディーに、マイケルは尋ねたのである。

 「どうして観ない?」とマイケル。

 ディーディーは、この問いに合わせて、最も知りたい事実を確認しようとしたのだ。

 「辛いの。エマと役を競ったときを見る思いで。聞いたら、正直に答えてくれる?20年間、思い続けてきたのよ・・・もし身重にならなければ、私をアンナに使った?」
 「忘れてしまったよ」
 「聞かなきゃよかった」

 それだけだった。

 しかしディーディーは、遂に自分を捕縛している意識と感情を言語化したのである。

 当然、要領の得ない答えが返ってきた。
 
 当時から有能な振付師だったマイケルにとっても、その繊細な発問への答えだけは封印すべきものだったに違いない。

 だから彼女はもう、本人に向かって、その思いを吐き出す以外になくなっていたのである。



 7  激しい炸裂の「直接対決」が生んだ和解の凄味 ―― まとめとして③



 ディーディーの心理の大きな振幅が、二人の感情炸裂に繋がった。

 その内容は前述した通りだが、ここで何より重要なのは、叩き合いの喧嘩の末、エマが放った一言に対する、ディーディーの率直な反応である。

 「あのとき、何と言ったか覚えてないけど、役を取るためなら、何とでも言ったわ。どうしても欲しかった。あんたが上手かった。怖かったわ」

 ディーディーは、結局、この一言を求めたに過ぎないのだ。

 しかし、この一言に含まれる複雑な心理の内には、20年間、彼女が封印しようとしても容易に為し得なかった様々な感情、即ち、嫉妬、卑屈、後悔、疑念、反発、憎悪、矜持などの思いが集約されていたのである。

 それ故、ホテルの屋上における炸裂を噴き上げたディーディーの自我には、かつて己が開いた「人生の選択」の是非をも、内的に問いかける尖りをも含んでしまっていたのである。

 前述したように、その辺の心理の根柢にあるのは、それを選択せざるを得なかった有無を言わせぬ状況が、心理的圧迫感をじわじわと累積させて、その主体自我の内側で強引に封印された感情が、そこで捨てられていくものへの未練を容易に断ち切れないからだろう。

 激しい炸裂と和解。

その辺りの描写は極めて説得力があり、見事という外はなかった。

 二人の炸裂は、それなしに済まない直接対決の要素を充分に抱え込んでいて、殆ど必然的な現象であった。

 これ以上、もう吐き出すものがなくなることで、自我に張り付く厄介な感情は、一時(いっとき)クリアになる。

 クリアになった裸形の人格が、なお真摯に向き合うことを捨てなかったからこそ、あの決定的な一言が生まれ、それによって〈状況心理〉を支配するに足る「和解」に逢着するのである。

 ディーディーの中で澱んでいた厄介な感情が、そこで相対化されたのだ。
 
 裸形の自我が不必要な抑制を振り払うことで、剥き出しになる感情の交叉は、常に和解に導くという保証はない。

 しかしこの二人の場合、「人生の選択」に関わる記憶をほぼ正確に表現することで、逆に相互に封印してきた過去の相対化という作業を検証できたと言っていい。

 エマもまた、世代交代のリアリズムの中で、華やかな舞台を降りる選択を迫られていたのだ。

 彼女のこの思いが、20年前に決定的な「人生の選択」を余儀なくされた、ライバルへの感情導入を可能にしたと言えるだろう。

 このように、状況の大きな変化が人の心を揺れ動かし、変化させていく。

 まさに、自らもまた、同じような状況に置かれることで形成される想像力が程良い融和点に達したとき、二人の女の和解が成立したのである。

その辺りの描写を精緻に描いた映像の完成度は相当に高いだろう。

 説明過剰な描写も垣間見えたが、それを難しい心理の綾を巧みに拾い上げていく映像構成によって、ほぼ完璧に埋め切ったのである。



 8  「前線離脱」というダメコン戦略に潜り込まない能動的態度



 それにしても、テーマ性を持ったアメリカ映画は凄い、としばしば思う。

 自分の内側に拘泥している厄介な感情を自我の奥深くに封印し切れないとき、その感情のストレッサーとなる対象人格にダイレクトに吐き出し、直接対決していく能動的態度こそ、物事の本質を奇麗事の格言で糊塗(こと)して、それを希釈化されたつもりの方法論を得意にする者たちの、「前線離脱」というダメコン戦略に潜り込む人生の軌道よりも遥かに生産的であるだろう。

 それを、躊躇なく遂行し切ってしまうアメリカ人は凄い。

 そう思わせる一篇だった。

 自己に内在する問題を自前で引き受け、自力で解決していく態度は学ぶべき何かであるに違いない。

なぜなら、ディーディーがエマに「宣戦布告」しなかったら、最後の和解は起こり得なかったのだ。

 ディーディーの内側で、ストレスを上手に処理できないディストレス状態となり、次第に抑制困難な心理状況を常態化し、それがバレリーナを目指す娘との深刻な対立を招来し、更に、夫婦の関係に亀裂を生むリスクもまた高まったとも考えられなくもない。

 然るに、この映画で描かれたディーディーの性格を考えてみるに、「人生の選択」に対して満足すべき総括を為し得ないまま、漫然と歳月を累加させるだけの人生の振れ方に妥協する余地が少なかったと思えるからである。

 その意味で、20年という歳月は、二人の女にとって、程良い時間のスパンであったと思われるのだ。

 人間には自己を総括するに相応しい、一定の歳月の累積が必要であるという教訓が生まれるのだろうか。

(2010年6月)

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